日本で人気のHR/HMバンドといえば^_^

イギリスで、1966年ごろエリック・クラプトンが在籍していた『クリーム』、”ジミヘン”こと、ジミ・ヘンドリクスの『ザ・ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』が、ブルース・ロックとサイケデリック・ロックを掛け合わせた、ハードロックを産みました。

その後、幾多のバンドが誕生しました。

中でも、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルは代表的な70年代のバンドです。

特に,ディープ・パープルの人気は日本では凄まじいものがありました。

本バンドの前身となったのは、元サーチャーズのクリス・カーティスが結成を企図したラウンドアバウトというバンドでした。

クリス・カーティスが最初にメンバーとして考えたのは、当時同じアパートに住んでいたジョン・ロードでした。また、この時期の前後に、クリス・カーティスはトニー・エドワーズにマネージャーの就任を打診しました。この当時、トニー・エドワーズはファッション関係の仕事をしていたが、同時にエイシアという女性シンガーのマネージャーも手がけており、その関係でクリス・カーティスと知己があった。更にトニー・エドワーズの誘いによって、広告関係の仕事に携わっていたジョン・コレッタもマネージャーに加わり、ビジネス面での態勢は早くから整いつつありました(この当時、2人は5,000ポンドをバンドに投資しており、以後もビジネス面で様々な貢献を遂げている。今日に至るまで、この2人のマネージャーがバンドに果たした役割は非常に大きいと評価されている)。

一方、メンバーの人選は難航した。ジョン・ロードに続いて、当時ハンブルクで主にセッション活動をしていたギタリストのリッチー・ブラックモアにグループ加入を要請したものの、なかなか他のメンバーは定まらず、それでも特にマネージャーの2人が熱心にメンバー探しに奔走したが、ボビー・‘ウッドマン’・クラークがドラマーに選ばれた以外は進展せず、結局4人で活動を開始することになりました。しかし、この陣容の人間関係は非常に不安定だったといわれており、更にバンドの発起人であるクリス・カーティスが失踪したことが重なり、ラウンドアバウトは一旦消滅します。しかし数ヵ月後、マネージャーの2人とロード、ブラックモアが再び集結し、ニック・シンパー(ペース)に、シンガーをオーディションによって選出した結果、ロッド・エヴァンスにそれぞれ採用。またロッド・エヴァンスのオーディションに同行していたのが同じメイズというバンドにいたイアン・ペイス(ドラムス)でした。

ブラックモアがハンブルクでペイスのプレイに接しており、その力量を十分に把握していたため、バンドは初代ドラマーのボビー・クラークを解雇し、ペイスを迎入れます。

1968年、バンド名をディープ・パープルに改名。同年5月、デビューアルバム『ハッシュ』リリース。

6月には、ジョー・サウスの曲『ハッシュ』をカバーすると、全米4位を記録するいきなりのを大ヒットを記録。

新人バンドとしては異例と言われるほどの順調なスタートを切りますが、この時期は、まだハード・ロック・サウンドには、なっていませんでした。

10月、セカンド・アルバムの『詩人タリエシンの世界』リリース。ここから、『ケンタッキー・ウーマン』が全米38位を記録するヒットとなります。アルバム自体も40位まで上昇します。なお、本国イギリスでは同アルバムは翌1969年6月にハーヴェスト・レコードからリリースされています。

バンド内で意見の対立が表面化したのは、1969年の前半からだと言われており、6月に『ディープ・パープルIII』リリースしますが、その直後にテトラグラマトン・レコードが倒産し、ディープ・パープルはアメリカでのレコードの発売元を失ってしまいます。ここに,第一期は終わりを迎えます。

1969年の中頃、リッチー・ブラックモアのジ・アウトローズ時代からの旧友であるミック・アンダーウッドの紹介によってエピソード・シックスのイアン・ギランをボーカル、ロジャー・グローバーをベースとして迎え入れ、第二期が始動。

1970年『ディープ・パープル・イン・ロック』をリリース。これが、全英アルバムチャートで4位を記録する大ヒットとなり、先行シングル『ブラック・ナイト』が全英シングルチャートで2位を獲得します。

翌71年、アルバム『ファイアボール』リリース。これが、全英で初の1位を獲得する大ヒットとなり、同タイトル曲もヒットします。

翌72年には,バンドの最高傑作『マシンヘッド』リリース。これも、全英で1位となり、全米では7位と言うバンド最大のヒットとなりました。

また、シングル『スモーク・オン・ザ・ウォーター』は、73年に全米4位を記録する大ヒットとなり、『ハイウェイ・スター』もヒットしました。

同年に、日本公演を収録した『ライブ・イン・ジャパン』をリリースし、全英16位、全米6位と大ヒット。

しかし、ギランとリッチーとの音楽的確執が表面化。73年『紫の肖像』リリース後、ギランとロジャーを解雇。ここに黄金期と言われた第二期は終焉します。

リッチーは、その後無名のボーカルのデビット・カヴァーデイル、トラピーズのボーカル兼ペースのグラン・ヒューズを加入させた第三期がスタート。

74年2月に、『紫の炎』をリリース。全英3位、全米9位を記録する大ヒットとなり、シングル『紫の炎』もヒットします。

しかし、リッチーとファンク色を打ち出したいカヴァーデイルとグレンとの確執が表面化。8月『嵐の使者』リリース後、リッチーがバンドを脱退。

ジョンは、新たにアメリカ人のジェイムズ・ギャングのギタリスト、トミー・ボーリンを加入させ、第四期スタート。

75年に『カム・テイスト・ザ・バンド』をリリースしますが、毛色の違った曲調にファンは困惑。賛否両論となります。

その後、トミーがライブ中のホテルでアルコールによる大量摂取が原因で死亡。

ジョンは、バンドの解散を決意。ここに、7年の活動に一度終止符を打ちます。

リッチーは、レインボーというメタルバンドを結成し、成功。カヴァーデイルは、ソロ活動の末、ホワイトスネイクを結成し、80年代にブレイク。

84年には、第二期黄金期のメンバーで、再結成。

現在もメンバーチェンジを繰り返しながら活躍しています。



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