元祖カナダのジンガーソングライター

引用

前回、『ブライアン・アダムス』を紹介しましたが、カナダには先にブレイクしたジンガーがいます。『ニール・ヤング』です。

1945年、カナダ、オンタリオ州のトロントで生まれました。父はジャーナリストでスポーツ・ライターであり、母はドーターズ・オブ・ジ・アメリカン・レボリューションの会員だった。彼は、ロックンロール、ロカビリー、ドゥーワップ、カントリーなどの影響を受けます?さらに、エルヴィス・プレスリーを筆頭に、チャック・ベリー、ハンク・マーヴィン、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、シャンテルズ、モノトーンズ、ロニー・セルフ、フリートウッズ、ジョニー・キャッシュ、ロイ・オービソンらから音楽的影響を受けました。やがてヤングはカナダのマニトバ大学に進学し、「4次元フォーク・クラブ」に入る。そのクラブにはジョニ・ミッチェルがいました。二人は「シュガー・マウンテン」などをいっしょに歌った。同曲に対するミッチェルのアンサー・ソングが「サークル・ゲーム」であります。ゲス・フーのランディ・バックマンとも知り合いました。ニールはマイナー・バーズというグループを組んだが、同バンドには後に大成功するリック・ジェームズも在籍していました。

1966年、スティーヴン・スティルスらとともにバッファロー・スプリングフィールドを結成しました。このグループは、同年に『クランシーは歌わない』でデビューし、成功を収めたが1968年5月に解散しましま。

1969年1月、ヤングはファースト・ソロ・アルバム『ニール・ヤング』を発表しました。同年、セカンド・アルバムのレコーディングのためにバックバンド結成を構想したヤングは、6人編成のバンドのザ・ロケッツからダニー・ウィットン(ギター)、ラルフ・モリーナ(ドラムス)、ビリー・タルボット(ベース)の3人を彼のバックバンドとして雇い入れ、クレイジー・ホースが結成されました。同年、クレイジー・ホースと共にセカンド・アルバム『ニール・ヤング・ウィズ・クレイジー・ホース(Everybody Knows This Is Nowhere)』(34位)を発表。

同年、クロスビー、スティルス&ナッシュに加入しまし、同グループはクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングへと発展しました。

1972年発売の4枚目のアルバム『ハーヴェスト』がアメリカ、イギリス、カナダで1位を記録した。同年、ダニー・ウィットンがヘロイン中毒のため死亡。クレイジー・ホースには新メンバーとしてギタリストのフランク・サンペドロが加入しました(なお、ニールとの活動とは別に、クレイジー・ホースとしてのアルバムも発表している)。

ゲフィン・レコードに移籍してからは、シンセサイザーやヴォコーダーを多用した『トランス』(1982年)、ロカビリーに特化した『エヴリバディズ・ロッキン』(1983年)といった異色作のリリースが続き、1983年にはゲフィン側が「ニール・ヤングらしくないアルバムばかり作っている」という理由でヤングを訴える事態となりました。それに対してヤングは、アーティストの自由を主張し、最終的にはゲフィン側がヤングに謝罪しました。そして、1987年の『ライフ』でゲフィンとの契約を満了し、古巣のリプリーズ・レコードに復帰しました。

ヤングはフォークやカントリー、ロカビリー、テクノ、グランジなど、発表作品ごとにバラエティに富んだアプローチをとることがありました。

ボーカルも個性的で、その鼻にかかったような弱々しい印象のハイトーンの声は、バラードには無垢な繊細さ、グランジ風の曲の際にはアナーキーな雰囲気をかもしています。ギタープレイは、テクニカルな側面は強くないが、歪ませた爆音を含むそのプレイは個性的なものです。また、武骨かつ繊細なアコースティック・ギターのプレイも「孤独な旅路」「ロッタ・ラヴ」などでお馴染みとなっています。

1995年にソロとして、1997年にはバッファロー・スプリングフィールドとして『ロックの殿堂』入りを果たしました。ただし、ヤングは1997年の授賞式に関しては、テレビと連動した手法に異議を唱えて出演拒否しました。

1990年の湾岸戦争の際には、コンサート会場でボブ・ディランの「風に吹かれて」を歌い、また2001年のアメリカ同時多発テロ直後には、放送が自粛されていたジョン・レノンの「イマジン」を敢えて歌いました。そしてイラク戦争後は、ブッシュ政権反対の姿勢を鮮明にします。

ミュージシャン達の交友範囲は、同世代から若手まで幅広い。ロックの殿堂の授賞式では、これまでジミ・ヘンドリックス、ポール・マッカートニー、プリテンダーズ、トム・ウェイツの4組のプレゼンターを務め、逆にニールのプレゼンターをパール・ジャムのエディ・ヴェダーが務めました。また、ニルヴァーナのカート・コバーンの自殺に深く心を痛めました(コバーンの遺書には、ニールの歌詞の一節が引用されていた)。

2021年には、クレイジーホース名義で『バーン』というアルバムを発表しています。



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90年代にグラム・ロック‼️‼️‼️

引用

『グラム・ロック』は、70年代にイギリスを中心かな発展した、ロックのジャンルです。70年代後半は廃れ、ブームはさりました。しかし、90年代に再び華を咲かせたバンドがいます。『スウェード』です。

1989年にイギリスの田舎町ヘイワーズ・ヒースからロンドンの大学に進学してきたブレット・アンダーソンとマット・オズマンは、当時ブレットのガールフレンドだったジャスティーン・フリッシュマンとともに、バンドを結成します。バンド名はジャスティーンの提案により「スウェード」と命名されました。その後NMEに出したギタリスト募集の広告をきっかけに、バーナード・バトラーが加入。ドラムは当初ドラムマシーンで代用したり、元ザ・スミスのマイク・ジョイスや後にエラスティカのメンバーとなるジャスティン・ウェルチが一時参加するなど、なかなか定着しなかったが、1990年にようやくサイモン・ギルバートが加入。1991年にジャスティーンがバンドを脱退するも、その頃からライヴ活動で徐々にプレスから注目を浴び始めたスウェードは、1992年に無名のインディーレーベルだったヌード・レコーズと契約を結びます。

1992年、デビューシングル「ザ・ドラウナーズ」のリリースを控えたバンドを、音楽誌メロディー・メイカーが「イギリス最高のニュー・バンド」と賞賛したことから、一躍注目を浴びます。同年発表の2ndシングル「メタル・ミッキー」は全英トップ20入り、1993年発表の「アニマル・ナイトレイト」(アミル・ナイトレイトをもじったタイトル)は全英トップテン入りしたことから、インディーバンドとしては当時異例ながら、全英にテレビ中継されるブリット・アワーズに出演が決定。バンドは「アニマル・ナイトレイト」を演奏したが、ブレットはマイクのコードで自らのお尻を繰り返し叩くなど、刺激的なパフォーマンスを披露。それまでスウェードを知らなかった人々にも衝撃を与えました。

1993年3月、1stアルバム『スウェード』をリリース。発売一週目で10万枚を売り上げ、全英1位を獲得。当時のイギリスでのデビュー作最速売り上げを記録し、その年のマーキュリー・プライズのベスト・アルバム・オブ・ザ・イヤーにも選出されました。ブレットの中性的な歌声とバーナードの唸るようなギターのコンビネーションは、ザ・スミスのモリッシーとジョニー・マーの関係にも例えられた。また同性愛・近親姦・獣姦などを扱った刺激的な歌詞や、「大衆を墜落させたい」「僕は男性経験のないバイセクシャルだ」といったブレットの発言、この発言を受けてサイモンが「僕は異性経験のないバイセクシャルだ」と、自らが本物のゲイであることをカミングアウトするなど、スウェード現象はマスコミの報道を通じてますます大きくなっていきました。

しかしバーナードは音楽以外の面でも話題になるバンドに対して、とりわけブレットに対して嫌気が差しつつありました。しかしそんな中にあってもセカンドアルバムのレコーディングは進められ、8分にも及ぶ大作シングル「ステイ・トゥゲザー」は、全英3位と最大のヒットになりました。しかしセカンドアルバム完成直前に、メンバー間の不和は頂点に達し、1994年にバーナードがバンドを脱退することが発表されます。

残されたメンバーは活動続行を決意し、バンドは音楽雑誌に匿名で「名の知られたバンドがギタリストを探しています。コクトー・ツインズ、スウェード、ビートルズの影響を受けています」というメンバー募集広告を打ち、600通の応募の中から当時17歳のリチャード・オークスを加えて活動を再開。

1994年10月に発表された2ndアルバム『ドッグ・マン・スター』は、オーケストラの大々的な導入や退廃的な雰囲気を強めた内容が高く評価されたものの、当時はバーナード脱退騒動の影響もあって全英3位までしか上らず、チャートからはすぐに姿を消しました。またその直後、オアシスやブラーなどによるブリットポップ・ムーブメントが勃発し、プレスの関心はそういった新人バンド群に集中したことから、スウェードはこの時期「終わったバンド」として見られるようになります。

1996年、キーボードにサイモンの従兄弟であるニール・コドリングが加入。この5人編成でレコーディングされた3rdアルバム『カミング・アップ』は、これまでよりも「明るくポップになった」とも評され、先行シングル「トラッシュ」の大ヒットもあって全英1位を獲得。デビューアルバムの倍近いセールスを挙げ、スウェード最大のヒット作となった。またアルバムからは「ビューティフル・ワンズ」や「サタデイ・ナイト」など計5曲がシングルカットされ、その全てがトップテン入りしました。

1997年にシングルのB面曲を集めた『サイ・ファイ・ララバイズ』を発表(全英9位)。この時ロンドンのみでB面曲のみのスペシャル・ライブもファンクラブで披露されました。

1999年、4thアルバム『ヘッド・ミュージック』を発表。ダンス・ミュージックの要素を取り入れるなどの新たな試みが見られたが、前作の爆発的なヒットには及ばず、アルバムの内容も賛否両論となった。『ヘッド・ミュージック』収録時の問題は、以前からのブレットの薬物中毒が悪化したことにあり、後にこの頃の薬物漬けの日々を後悔しているとメンバーはコメントしています。

2000年には5枚目のアルバムのレコーディングセッションがスタートしたが、2001年にはキーボードのニールが慢性疲労症候群という難病によりバンドを脱退することが発表され、後任に元ストレンジラヴのアレックス・リーが加入。またプロデューサーのトニー・ホッファーとのレコーディングも全てボツにして、新たにスティーヴン・ストリートを起用してレコーディングを再開。このようにアルバム制作が長引くにつれて費用がかさんだことも一因となってか、彼らがデビューから所属していたヌード・レコーズが倒産してしまいます。

結局バンドは新たにソニーと契約を結び、2002年に5thアルバム『ニュー・モーニング』を発表。アルバムはそれまでの耽美的な雰囲気は消えて、アコースティック主体で歌詞も前向きなものが増えた。この方向転換は従来のファンから猛烈な反発を受け、全英24位とセールス面でも大きく失敗しました。

2003年、ベストアルバム『シングルズ』を発表。これに合わせて、同年9月にこれまで発表した5枚のアルバムをまるごと1枚演奏していく、というユニークな企画での5夜連続のコンサートを行いました。『スウェード』と『ドッグ・マン・スター』の日が特に人気で、チケットには数十万円のプラチナ価格も付いたと言われています。

同年、バンドの公式サイトを通じて「当分の間、スウェードの名の下においていかなるプロジェクトも行われることはないだろう」と、活動停止を発表。同年、スウェード最後のライブでブレットは、1stアルバム収録曲をもじって「来世で会おう(See you in the next life)」と言い残して、スウェードの歴史はいったんここで幕を下ろしました。

スウェード活動休止すぐに、ボーカルのブレット・アンダーソンは、断絶状態といわれていたバーナード・バトラーとの復縁が伝えられ、2004年に『ザ・ティアーズ』を結成。2005年に1stアルバム『ヒア・カム・ザ・ティアーズ』を発表。その年の8月にはサマーソニックへの出演を果たしたが、アルバムの商業的不振により同年秋にはレーベルから解雇され、予定されていたツアーは全て中止。そしてブレットの自身のソロ活動を追求したいという意向により、ティアーズはスウェードと同じく活動休止となっていきます。

2007年、ブレットが初のソロアルバム『ブレット・アンダーソン』を発表(全英54位)。2008年には自主レーベルから『ウィルダネス』(全英161位)、2009年には『スロー・アタック』(全英174位)と、一年に一枚のハイペースでソロアルバムを発表したが商業的成功には恵まれませんでした。

ブレットは2007年のインタビューで「バンドの再結成ってのは、かなり哀れだと俺は思うよ。ちょっと絶望的っていうかさ。でも、この台詞に俺自身がしっぺ返しをくらう可能性もあるかもね」と、スウェードやザ・ティアーズの再結成を完全には否定しない発言をする一方で、今後しばらくはソロ活動を続けていく意思も表明していました。

しかし2010年には、チャリティ・コンサートのために『カミング・アップ』期のメンバーで一夜限りの再結成ライヴを行うことを発表。ちなみに、この再結成ライヴにはバーナードは誘われなかったため参加しませんでした。それにもかかわらず、ライヴは成功し大好評となったことから、「一夜限り」というのはなかったことにされ、ヨーロッパの各フェスティバルや2万人収容のO2アリーナでライヴを行った。ブレットによると、2011年以降も活動は継続されるであろうとのことでした。

2013年、約10年半ぶりにアルバム、『ブラッドスポーツ』(10位)を発表しました。

その後も、2016年に『Night Thoughts』(6位)、2018年『The Blue Hour』(5位)とヒット作を排出し、現在も現役で活動中です。



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売れないバンドが一躍世界的なバンドへ

引用

世の中には、売れないバンドやアーティストはたくさんいます。苦渋をを舐め耐えて、そのまま消えていくのがほとんどです。しかし、もし時代の変化と共にいきなりブレイクするケースは決して不思議なことではありません。『REOスピードワゴン』はその元の言って良いでしょう。

イリノイ州の同じ大学に通っていたニール・ドーティ、アラン・グラッツァーらが中心になり1967年に発足。

1971年、ファースト・アルバム『REOスピードワゴン・デビュー』でデビュー。しかし、その直後、ボーカルのテリー・ルトゥレルを強制解雇。ロック史上稀に見る、とうもろこし畑に置き去りにするという解雇方法が取られました。

1972年、2代目のボーカルとしてケヴィン・クローニンが加入しました。加入のいきさつについては次の様なエピソードがあります。もともとはバンドのメンバーを斡旋する仲介業者としての仕事をシカゴでしていたケヴィン。そんな中、テリーが抜けて困っていたゲイリーが「新しいボーカルを探してくれ」とケヴィンの勤める会社に依頼したのだが、ゲイリーは何故か自分達のバンド名を伏せたままでケヴィンに教えようとはしませんでした。困ったケヴィンは一計を案じ、ゲイリーに「オレのアパートに来れば、お探しのボーカリストに会わせてやる」と連絡しゲイリーを誘い出しました(もちろん、ゲイリーを誘い出すための連絡なのでケヴィンはボーカリストを見つけていない)。そしてケヴィンの部屋にゲイリーが入ってくるなり、ケヴィンはエルトン・ジョンの曲を熱唱し出しました。結果、その歌声を気に入ったゲイリーがケヴィンに「ボーカルになってくれ」と依頼し、ケヴィンはこれを快諾しました。

新メンバーのケヴィンを迎え、2枚目のアルバム『輝く大地 (REO/T.W.O.)』をこの年の12月にリリース。

1973年、3枚目のアルバム『ライディング・ストーム』のレコーディング中、プロデューサーのビル・ハルヴァーソンの妻の真っ白なカーペットに新メンバーのケヴィンが赤ワインをこぼしてしまい、その妻が激怒。この問題を収拾するために他の4人のメンバーは数日間の話し合いを持ちます。結果、ケヴィンをクビにし、新しいボーカルを迎えるという結論に達しました。既に刷られていたアルバム・ジャケットからケヴィンの姿は綺麗に消されました。

1974年、様々なトラブルの末、3枚目のアルバム『ライディング・ストーム』リリース、全米第171位。

同年、4枚目のアルバム『ロスト・イン・ア・ドリーム』リリース、全米第98位。このアルバムの表題曲でもある「ロスト・イン・ア・ドリーム」はマイクと後に加入する、ブルース・ホールが共作しています。

1975年、5枚目のアルバム『こんどはホンキだぜ』リリース、全米第74位。

アルバムリリース後に3代目ボーカルのマイク・マーフィーが脱退。

バンドを離れていたケヴィン・クローニンが「キープ・プッシン」という曲のデモ・テープをバンドに送る。これがきっかけとなりケヴィンはバンドに復帰します。

1976年、この年の1月にロサンゼルスのレコード・プラント・スタジオでケヴィンと他のメンバー4人でレコーディングを行います。そして、このレコーディングで生まれたのが『キープ・プッシン (R.E.O.)』というアルバムで同年6月発売、全米第159位。この作品からケヴィンがバンドへ正式に復帰します。その後バンドは10ヶ月間のツアーを行ないました。

1977年、5月、初のライブ・アルバム『ライヴ〜嵐の中へ』リリース、全米第72位。このアルバムは2枚組ライブ・アルバムとして初のゴールドディスクを獲得します。

先に挙げたツアー終了と同時にベーシストのグレッグが脱退。

1978年、2代目ベーシスト、ブルース・ホールが加入。これによりニール、ゲイリー、アラン、ケヴィン、ブルースというバンド黄金時代の役者がすべて揃います。

4月、アルバム『ツナ・フィッシュ』リリース、全米第29位。この中の1曲「ロール・ウィズ・ザ・チェンジズ」と「出発の時」がシングルとしてもヒット。

1979年、8月、アルバム『ナイン・ライヴス』リリース、全米第33位。

1980年、初のベスト・アルバム『ディケイド・オブ・ロックンロール ’70〜’80』リリース、全米第55位。バンドとしての知名度は徐々に上昇していました。

次のアルバム『禁じられた夜』からの先行シングルとして「キープ・オン・ラヴィング・ユー」がリリースされる。

12月、アルバム『禁じられた夜』リリース。

1981年、アルバム『禁じられた夜』が、それまでビルボードのアルバムチャートで8週連続全米1位を獲得していたジョン・レノンの遺作、『ダブル・ファンタジー』にかわって1位になりました。その後、15週連続全米1位を獲得し、売り上げも最終的には1000万枚を突破した。そして、この年の年間アルバムチャートでは『ダブル・ファンタジー』を抑えて年間第1位を獲得しました。

アルバムからの先行シングルとなった「キープ・オン・ラヴィング・ユー」はの全米シングルチャートで全米1位を獲得しました。そして、この年の年間シングルチャート第10位にもなりました。売れない地味なハードロック・バンドのままなら、批判されることもなかったのだが、大ヒットを飛ばすに至り「産業ロック」との批判を受けることになってしまいます。

1982年、7月、アルバム『グッド・トラブル』リリース、全米第7位。

1983年12年ぶりに本格的なオフ期間を設けます。

1984年11月、アルバム『ホイールズ・アー・ターニン』で活動再開、全米第7位。

1985年、先に挙げたアルバムからシングルカットされた「涙のフィーリング」が全米シングルチャートで3週連続第1位を獲得。このミュージック・ビデオは「一人の男が生まれ、成長、そして結婚し子供が生まれ、さらにその子供が独立。そして夫婦は年老いていき、夫は最愛の妻に先立たれる」というストーリーになっている。このビデオでケヴィンは特殊メイクを用い、最後の老人役で出演しています。

同年に行なわれたライヴエイド(フィラデルフィア・JFKスタジアム)に出演。「涙のフィーリング」「ロール・ウィズ・ザ・チェンジス」を披露。「ロール・ウィズ・ザ・チェンジス」では同じく出演していたビーチ・ボーイズや他の出演者がコーラスを担当しています。

アルバム『ザ・ベスト・オブ・REOスピードワゴン』リリース。

1987年、2月、黄金期のメンバーでレコーディングされた最後のオリジナル・アルバム『人生はロックンロール』をリリース、全米第28位。

1988年、6月、ベスト・アルバム『ザ・ヒッツ』(通算16枚目)をリリース、全米第56位。その中の新曲「アイ・ドント・ウォント・トゥ・ルーズ・ユー(涙のルーズ・ユー)」と「ヒア・ウィズ・ミー」(全米第20位)がゲイリーとアランがバンドメンバーとしての最後のレコーディングとなります。

このリリース直後、ドラムのアランが脱退。元サンタナのグラハム・リアー加入。

1989年、バンドの中心的存在だったギターのゲイリーが脱退。バンドは後任のギタリストとして、元プレイヤーのマイルス・ジョセフを迎えました。

1990年、グラハムとマイルスが脱退。元ワン・チャンのブライアン・ヒットと元テッド・ニュージェント・バンドのデイヴ・アマト、そしてフリーのキーボード奏者のジェシー・ハームスが加入。バンドは初めて6人編成となりました。

8月、アルバム『ジ・アース・ア・スモール・マン・ヒズ・ドッグ・アンド・ア・チキン』をリリース、全米第129位。16年ぶりに100位以下の順位を記録してしまいます。

1991年、10月、ベスト・アルバム『ディケイド:1981〜1991』をリリースしバンドは活動休止。

レコード会社の意向でベスト・アルバム『Keep on Loving You – Best』をリリース。

1992年この年の後半、ニール、ケヴィン、ブルース、デイヴ、ブライアンの5人で活動を再開。

1993年、アルバム『スター・ボックス』をリリース。

1995年アルバム『Believe in Rock and Roll』をリリース。

1996年、キャッスル・レコードへ移籍。

アルバム『Building the Bridge』をリリース。

1999年それまでの楽曲の中からバラード曲(新曲2曲を含む)のみを集めた、ベスト・アルバム『バラード・ベスト』をリリース。

2000年『ライヴ〜嵐の中へ』以来、23年ぶりのライブ・アルバム『アーチ・アライズ〜ライヴ・アット・リヴァーポート』リリース。このアルバムはスティクスと行なった合同ライブの模様が収録されています。

2001年、アルバム『Live-Plus』をリリース。

2004年、ケヴィン・クローニンが選曲し、未公開音源も収録されたベスト・アルバム『エッセンシャル・REOスピードワゴン』リリース。

2007年、アルバム『涙の道標 (みちしるべ)』をリリース。

2009年、アルバム『Not So Silent Night… Christmas with REO Speedwagon』をクリスマス・アルバムとしてリリース。

2015年デビューから全盛期時代まで在籍した元メンバー、ゲイリー・リッチラスが死去。

長い間活動同していますが、ボーカルのケビンの歌声は、全く変わりません。凄いバンドですね。



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平成時代の星②

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前回は、平成の星として「Mr.Children」を投稿しましたが、平成の偉大なバンドは他にもいます。特に『スピッツ』はその仲に入ります。

1986年の春に東京造形大学で草野マサムネと田村明浩が出会い、重音楽部に入部しました。先輩であり、後のFLYING KIDSとなったメンバーの演奏に刺激され、音楽ジャンルの異なるパンクをやることを決意します。ドラムにはサークル部員を迎えて『チーターズ』を結成。「365歩のマーチ」のパンク調や「『いちご白書』をもう一度」をブラック・サバス風にしてアレンジして演奏していました?途中からギターのメンバーを1人加え、バンド名を「ザ・スピッツ」と変更しました。ところが、このバンドは草野がTHE BLUE HEARTSの「人にやさしく」に打ちのめされて活動を休止しました。

1987年に草野が東京造形大学から武蔵野美術大学に再入学したことを期にバンド仲間と疎遠になり、ザ・スピッツは自然消滅となるが、草野と田村の仲は継続していました。ある日、草野がライブハウスで演奏することができる本格的なバンド活動の話を持ちかけます。すると、田村は上京していた幼馴染の三輪テツヤを誘い、三輪は文化服装学院で同じフォークソング部に所属していた﨑山龍男を誘います。こうしてバンド『スピッツ』を結成し、同年に文化服装学院の夏祭りで初ライブを行い、「子供おばけ」「恋のうた」「晴れの日はプカプカプー」「ワンツー!ワンツー!」「逆転ピース」「八王子」を演奏しました。その後、新宿ロフトを目標に、新宿JAM 、渋谷ラ・ママ、屋根裏などでのライブ活動を開始し、1988年5月からはホコ天でのライブを行いました。

音楽評論家の富澤一誠は「インディーズ時代のスピッツを形容する表現は〈ビートパンク〉」であると述べています。当時のバンドはTHE BLUE HEARTSの影響から抜け出せずにおり、渋谷ラ・ママの店長(ブッキング・マネージャー)からTHE BLUE HEARTSの二番煎じでは先は望めないと指摘されました。また、草野もハンドマイクで暴れたり、観客を煽ったりするスタイルが自分に似合わないと感じ始めており、ドノヴァンを意識してアコースティック・ギターを持つようになります。この時期にはすでに「恋のうた」や「ヒバリのこころ」などを制作している。1988年にはソノシート『鳥になって/UFOの見える丘』を自主制作しました。

1989年になると新宿ロフトのイベントに出演するようになり、7月12日には新宿ロフトでのワンマンライブを行って300人を動員しました。同年からは新宿ロフトでのマンスリーライブ『鳥になっちゃう日』を開催し、翌年には新宿ロフトのインディーズレーベル・ミストラルから初のCD『ヒバリのこころ』を発売したました。

新宿ロフトに出演するようになった頃、多くのレコード会社からメジャー・デビューの話が持ち掛けられています。その中には、後にスピッツのディレクターとなるポリドール(当時)の新入社員であった竹内修もいました。ところが、メジャー・デビューすることによって自分たちのビジョンが変えられてしまうことを恐れていたメンバーは、レコード会社の前に事務所を決めたいと提案し、当初は浜田省吾の個人事務所として設立していたロード&スカイを紹介してもらいます。約1年間の交渉の末、ロード&スカイやポリドールとの契約を交わしました。

1991年、新宿シアターモリエールにて『”五千光年の夢” シアターコンサート Vol.1』を開催。ライブは東名阪のライブハウスで同年9月のVol.4まで全10公演を行いました。ポリドールよりシングル「ヒバリのこころ」と、アルバム『スピッツ』を同時発売でメジャー・デビュー。翌月アルバム収録曲の「ニノウデの世界」がFM802のヘビー・ローテーションに選ばれたほか、音楽雑誌『ROCKIN’ON JAPAN』では90年代型のニュー・ウェイヴとしてカラーで取り上げられる[54]などの注目を浴びるが、オリコンチャートにはランクインしませんでした。その後、2ndシングル「夏の魔物」、オーケストレーションに長谷川智樹を迎えた3rdシングル「魔女旅に出る」を発売し、2ndアルバム『名前をつけてやる』を発売。初のホールツアー『CONCERT TOUR 1991 名前のないツアー』を開催しました。

1992年、長谷川智樹を共同アレンジャーに迎えてオーケストラアレンジを施したミニ・アルバム『オーロラになれなかった人のために』を発売し、よみうりホールでは一夜限りで弦楽奏者と共演したライブ『オーロラになれなかった人のために “蜜柑色の満月のもとで、まぼろしの物語を語ろう〜一夜限りの絵空事〜”』を開催した。同年5月には公式のファンクラブ「スピッツベルゲン」(Spitzbergen)が発足しました。同年夏にはツアー『”夏のお星サマ” ツアー』を開催した。4thシングル「惑星のかけら」発売後、3rdアルバム『惑星のかけら』を発売し、ツアー『スピッツコンサートツアー’92 “惑星のかけら”』を開催。ツアー中に5thシングル「日なたの窓に憧れて」を発売しました。

1993年、3月から8月までの間に渋谷ON AIRでマンスリーライブ『スピッツの春夏夜会』を開催。また、初めて外部のプロデューサーとなる笹路正徳を迎えてのレコーディングを開始した。6thシングル「裸のままで」、4thアルバム『Crispy!』(27位)を発売したほか、収録曲「君が思い出になる前に」(33位)を7thシングルとしてリカットし、初のオリコンチャート入りを果たしました。その後、ツアー『Spitz Crispy! Amazing Tour』を開催します。

1994年、土方隆行をプロデューサーに迎えて8thシングル「空も飛べるはず』」(28位)を発売し、ツアー『Spitz live scramble ’94 “Spring Has Come!”』を開催しました。同年夏には9thシングル「青い車」27位)を発売しました。5thアルバム『空の飛び方』(4位)は笹路正徳を再びプロデューサーに迎えて制作しました。また、収録曲「スパイダー」(34位)を10thシングルとしてリカットしました。その後、ツアー『スピッツ “空飛び” JAMBOREE TOUR ’94』を開催します。

1995年、ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR ’95 “春”』を開催。11thシングル「ロビンソン」(4位)がスピッツ初のオリコンチャートTOP10入りをすると、続く12thシングル「涙がキラリ☆」もオリコンチャート初登場2位となり、ヒットしました。なお、「ロビンソン」はチャートに通算30週以上ランクインするロングセラーとなり、ミリオンセラーになりました。

同年夏にはファンクラブ会員限定ライブ『Spitzbergen presents “GO!GO!スカンジナビア vol.1”』を開催し、以後数年ごとに開催することが恒例となっている。レオマワールドでは野外ライブ『レオマサマーカーニバル スピッツ “LUNA LUNA”JAMBOREE』を開催した。6thアルバム『ハチミツ』はスピッツ初のオリコンチャート1位となり、ミリオンセラーとなりました。6thアルバム発売後は、翌年にかけて学園祭ライブを含むツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR “TONGARI ’95-’96″』を開催しました。

1996年、ドラマ『白線流し』主題歌に1994年発売の「空も飛べるはず」が起用され、再出荷したシングルがオリコンチャートで1位を獲得し、ミリオンセラーとなりました。また、13thシングル「チェリー」(1位)もミリオンセラーとなった。ライブは、篠崎正嗣ストリングスとの共演による『SPITZ JAMBOREE TOUR LIMITED ’96 “カゲロウの集い”』を開催したほか、奥田民生やウルフルズとともに野外ライブ『ガッツな息子がキラリ☆』を開催し、単独での野外ライブ『THE GREAT JAMBOREE ’96』も開催した。14thシングル「渚ではオリコンチャート初登場1位を獲得しました。7thアルバム『インディゴ地平線』(1位)発売後、翌年にかけてツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR ’96-’97』を開催しました。

1997年、前年から続いているツアー中に15thシングル「スカーレット」(1位)と4thアルバム『Crispy!』収録の「夢じゃない」(6位)をドラマ主題歌起用に伴って新たにリミックスし、16thシングルとして発売しました。

夏には野外ライブ『THE GREAT JAMBOREE ’97』を開催したほか、スピッツ主催の音楽イベント『ロックロックこんにちは!』を初めて開催し、恒例のイベントとなっていく。その後、セルフプロデュースとなってアレンジャーにカーネーション(当時)の棚谷祐一を迎え、17thシングル「運命の人」(3位)を発売しました。

1998年は18thシングル「冷たい頬/謝々」(5位)、8thアルバム『フェイクファー』(1位)を発売した。ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR ’98 “fake fur”』にはキーボーディストとしてクジヒロコが初参加した。ツアー中にはシングル「楓/スピカ」(10位)を発売しました。

1999年、元日に12cmCDでのEP盤『99ep』(8位)を発売(2004年のスペシャル・アルバム『色色衣』(1位)発売に伴い製造中止)。また、スペシャル・アルバム『花鳥風月』(3位)を発売し、「流れ星」(27位)をリカットしました。

ファンクラブ会員限定ツアー『Spitzbergen tour 1999 “GO!GO!スカンジナビア vol.2″』を開催した。その後、バンドのサウンドを追求するため、セルフプロデュースによるレコーディングを行い、マイアミのエンジニア、トム・ロード=アルジにミックスダウンを依頼するため、渡米。ロサンゼルスでは初の海外レコーディングを行い、マイアミでのミックスダウン後、再びロサンゼルスに戻ってマスタリングを行いました。この時にマスタリングを担当したスティーブン・マーカソンは、その後のスピッツに欠かせないエンジニアとなりました。

ところが、同時期にレコード会社がバンド側に無許可でベスト・アルバムの発売を決定しており、メンバーにはマイアミでのミックスダウン直後、現地に向かった所属事務所の社長高橋信彦から直接伝えられました。メンバーは『花鳥風月』の発売時、「ベストアルバムを出す時は解散する時」と公表していたため、公式ウェブサイトにお詫びの文章を掲載した。こうしてベスト・アルバム『RECYCLE Greatest Hits of SPITZ』(1位)は発売されたが、2006年1月に製造中止となるまでの間にチャートインを繰り返すロングセラーとなり、累計売上枚数は200万枚を超えています。

2000年、石田小吉をプロデューサーに迎え、シングル「ホタル」(6位)や「メモリーズ/放浪カモメはどこまでも」(3位)、9thアルバム『ハヤブサ』(3位)を発売しました。この年からは仙台でも『ロックロックこんにちは!』を開催しており、恒例のイベントとなっていく。ツアーは『SPITZ JAMBOREE TOUR “放浪2000”』や学園祭ライブ『SPITZ JAMBOREE TOUR “放浪2000学園祭CUSTOM”』に加えて、翌年には『SPITZ JAMBOREE TOUR “隼2001”』、『SPITZ HAYABUSA JAMBOREE TOUR “純情2001”』を開催しており、この間にシングル「遥か」(3位)や「夢追い虫」(3位)、亀田誠治をプロデューサー迎えた「さわって・変わって」(7位)を発売しました。

2002年にはシングル「ハネモノ」(4位)『水色の街』(5位)を同時発売し、10thアルバム『三日月ロック』(1位)を発売。翌年にかけてツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR “双六(スゴロク)2002-2003”』を開催しました。また、スピッツの曲をカバーしたトリビュート・アルバム『一期一会 Sweets for my SPITZ』(2位)が発売されました。

2004年、28thシングル「スターゲイザー」(1位)を発売し、ファンクラブ会員限定ツアー『Spitzbergen tour 2004 “GO!GO!スカンジナビア vol.3″』を開催しました。また、スペシャル・アルバム『色色衣』(1位)を発売しました。その後、29thシングル「正夢」(4位)を発売し、翌年には11thアルバム『スーベニア』(1位)を発売し、ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR “あまったれ2005”』を開催した。ツアー中には30thシングル『春の歌/テクテク』(5位)を発売しました。

2006年、メジャー・デビュー15周年を迎えてシングル・コレクション『CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection』(1位)、『CYCLE HIT 1997-2005 Spitz Complete Single Collection』(3位)を同時発売した。なお、この発売を以って『RECYCLE Greatest Hits of SPITZ』を製造中止・廃盤となりました。同年7月には31stシングル「魔法のコトバ」(5位)を発売した。また、スピッツの曲のイメージから製作された映画『海でのはなし。』がYahoo!動画で期間限定配信され、翌年には一部の劇場でも公開した。2007年、ファンクラブ会員限定ツアー『Spitzbergen tour 2007 “GO!GO!スカンジナビア vol.4″』を開催したほか、結成20周年を記念してZepp Tokyoで『SPITZ結成20周年祭り』を開催した[60]。また、シングル「ルキンフォー」(3位)「群青」(4位)、12thアルバム『さざなみCD』(1位)を発売したほか、メンバーが書き下ろした書籍『旅の途中』を発売しました。ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR 2007-2008 “さざなみOTR”』はインターバルを置いて翌年末まで開催しました。

2008年、34thシングル「若葉」(5位)を発売。2009年にはスピッツ初となるアリーナ会場での単独ライブ『SPITZ JAMBOREE TOUR 2009 “さざなみOTR カスタム”』をさいたまスーパーアリーナと大阪城ホールで開催しました。仙台でのロックロックこんにちは!は10周年を記念して『ロックロックこんにちは! in 仙台 〜10th Anniversary Special〜』として国営みちのく杜の湖畔公園で開催した。その後、35thシングル「君は太陽」『7位)を発売しました。

2010年、レコーディングしている新しいオリジナル・アルバムの発売前にツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR 2010』を開催しました。公式のYouTubeチャンネルを開設しました。36thシングル「つぐみ」(4位)を発売しました。また、この年から新たな音楽イベント『Spitz×VINTAGE ROCK presents 新木場サンセット』が始まったほか、昨年に10周年を迎えた『ロックロックこんにちは! in 仙台』は『ロックのほそ道』とタイトルを変更して開催していくことになります。37thシングル「シロクマ/ビギナー」(4位)を発売後、13thアルバム『とげまる』(2位)を発売しました。

2011年、メジャー・デビュー20周年を記念したPV集『ソラトビデオCOMPLETE 1991-2011』、LP盤『とげまる』の発売が東日本大震災の影響により延期となりしま。ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR “とげまる2011″』は東日本大震災の影響やその影響による草野マサムネの病気、急性ストレス障害で中止になった公演の振替公演、それに加えて追加公演を行います。同年夏には2度目となるアリーナツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR 2011 “とげまリーナ”』を開催しました。

2012年にはスペシャル・アルバム『おるたな』(3位)を発売し、ファンクラブ会員限定ツアー『spitzbergen tour 2012 “GO!GO!スカンジナビアvol.5″』を開催した。また、結成25年を記念してこれまで公式にリリースしてきた曲の一斉配信がスタートしましま。

2013年、38thシングル「さらさら/僕はきっと旅に出る」(5位)を発売。また、14thアルバム『小さな生き物』(1位』を発売後、横浜赤レンガパークにて16年ぶりとなる野外単独ライブ『スピッツ 横浜サンセット2013』を開催しました。その後、翌年にかけてツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR 2013-2014 “小さな生き物”』を開催した。2014年、6thアルバム『ハチミツ』(1位)収録の「愛のことば」がドラマ主題歌に起用され、新たにミキシングした「愛のことば -2014mix-」として配信限定でリリースしました。同年夏にはアリーナツアー『SPITZ THE GREAT JAMBOREE 2014 “FESTIVARENA”』を開催し、バンド単独としては初の日本武道館公演を行いました。

2015年、横浜で2013年に開催した野外ライブを『スピッツ 横浜サンセット2013 -劇場版-』として劇場公開し、追加上映も行われました。また、ファンクラブ会員限定ツアー『spitzbergen tour 2015 “GO!GO!スカンジナビアvol.6″』を開催したほか、配信限定シングル『雪風』(16位)をリリースした[77]。同年末から翌年にかけては、1995年発売の6thアルバム『ハチミツ』をカバーしたトリビュート・アルバム『JUST LIKE HONEY 〜『ハチミツ』20th Anniversary Tribute〜』が発売されました。2016年には41stシングル「みなと」(6位)を発売。同年7月25日に15thアルバム『醒めない』(2位)を発売しました。また、同作を提げた全国ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR 2016 “醒 め な い”』を開催。

2017年、結成30周年を記念したアリーナツアー『SPITZ 30th ANNIVERSARY TOUR “THIRTY30FIFTY50″』を開催。シングル・コレクション『CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection』と『CYCLE HIT 1997-2006 Spitz Complete Single Collection』のリマスタリング盤、『CYCLE HIT 2006-2017 Spitz Complete Single Collection』(3位)や3枚すべてを収録した記念盤『CYCLE HIT 1991-2017 Spitz Complete Single Collection -30th Anniversary BOX-』(1位、期間限定)を発売しました。また、タワーレコードとコラボレーションしたカフェ(タワーレコードカフェ)「SPITZ 30th ANNIVERSARY CAFE」が期間限定でオープンしたほか、スピッツ初となるアートブック『スピッツのデザイン』(当初は2017年11月末の発売予定が2018年2月に延期)、ポータブルレコードプレーヤーを限定発売しました。

2018年、草野マサムネによるラジオレギュラー番組『SPITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記』が放送開始。同年夏からファンクラブ会員限定ツアー『spitzbergen tour 2018 “GO!GO!スカンジナビアvol.7″』を開催しました。

2019年、NHK連続テレビ小説『なつぞら』主題歌に「優しいあの子」(1位)が起用されました。2019年にYouTubeのスピッツ公式チャンネル「spitzclips」で2010年に公開された“ロビンソン”のミュージックビデオが、90年代にリリースされた邦楽アーティストの楽曲として初めて再生回数1億回を突破しました。同年に16thアルバム『見っけ』(2位)を発売し、同作を提げての全国ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR 2019-2020 “MIKKE”』を開催するが、新型コロナウイルス感染症の影響で、一部が延期されています。

2020年、配信限定シングル『猫ちぐら』(8位)をリリースしました。

2021年、TBS「NEWS23」のエンディングテーマに、番組のための書き下ろし曲「紫の夜を越えて」が決定し、同年の放送で一部が公開されました。同年に、デビュー30周年を記念し、配信で44thシングル「紫の夜を越えて」(2位)がリリースされましま。また、同年、映画『きのう何食べた?』とのタイアップ曲である45thシングル『大好物』(5位)が配信リリースされました。

こちらも、平成の星🌟今後の活動に注目ですね^_^



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