プロトタイプのジャパニーズ・ヘヴィ・メタル

引用

前回、ジャパニーズ、スゴイヘヴィ・メタルの女王は、浜田麻里と言いましたが、男性のバンドは、Vow Wowです。

バンド名は、当初は、Bow Wowとして1975年に芸能プロダクション小沢音楽事務所系列のアルト企画のプロデューサー上野義美が自身の売れるロック・バンド構想に合うメンバーを集めて作ったロック・バンドです。最初にアイドル・バンド、ドゥー・T・ドールのメンバーだった斉藤光浩新美俊宏が選ばれました。上野の構想は斎藤をリード・ボーカルに据えたBCR系のアイドル・ロック・バンドだったが、リード・ギタリストに実力者を1人だけ入れてバンドの支柱とするアイデアもありました。

その役割を担うべく選ばれたのが島根出身で当時プロギタリストを目指して東京の音楽専門学校に通っていた山本恭司です。山本の参加で、上野が期待した以上に本格派志向が強まり、未定のベーシストは山本の推薦を上野が吟味する形で選考が進められます。山本が推薦したベーシストには同じ音楽専門学校に通う渡辺建(ex. プリズム)も居たが、上野は「本格派過ぎてもいけない」と却下しています。山本が故郷でセッションしたことのある佐野賢二が最終的に選ばれました。

1976年、デビューアルバム『吼えろ!BOWWOW』リリース。

1977年1月、エアロスミスの初来日公演の前座を務め、3月にはキッスの前座も務めます。1977年7月、2nd『SIGNAL FIRE』リリース。

1977年12月、3rd『CHARGE』リリース。

1978年3月、キッスの2度目の来日公演の前座を務めました。

1978年12月、全曲日本語歌詞の4th『GUARANTEE』リリース。ここから歌謡ロック路線になる。ビクターからトリオレコード傘下のSMSに移籍。

1980年2月、5th『GLORIOUS ROAD』リリース。

1980年9月、アリス(当時)の矢沢透をプロデューサーに迎えた6th『TELEPHONE』リリース。

1980年11月、スーパーマリオラマ(特撮人形劇)『Xボンバー』のサントラ『組曲Xボンバー』リリース。

1981年4月、NWOBHMの煽りを受け、7th『HARD DOG』リリース(アートワークを担当したのはSMSレコードデザイン室勤務時代の安斎肇、後のソラミミスト)。Vapに移籍。

1982年4月、8th『ASIAN VOLCANO』リリース。この頃から海外でもバンドの名が知れ渡れます。

1982年7月、スイスの音楽フェス『モントルー・ジャズ・フェスティバル』に日本代表として出演。

1983年11月21日、中野サンプラザ公演を最後に斎藤が脱退、BOW WOWの歴史に一旦幕が下ります。(斎藤は田中一郎の後任としてARBに加入、田中一郎甲斐バンドへ)。

残された3人は1984年初頭、元NOIZ人見元基(ボーカル)と、BOW WOWのシングル盤「絆FOREVER」や、ツアーにサポート・メンバーとして参加していた厚見玲衣(キーボード)を正式メンバーとして迎えます。5人編成になってからバンド名の頭文字がBからVに変更されているが、厚見によれば当時のメンバーが野末陳平の書籍にハマっていた事で姓名判断で「15画が良い」と書かれていたことから、山本の提案で12画の「バウワウ」から15画の「ヴァウワウ」に変え、更に「BOW WOW」という単語がイギリスでは可愛い鳴き声のニュアンスで伝わっている事がロックっぽくないという理由でBからVに変更した事も明かしており、更にメンバーが5人(Ⅴ)である事と「Victory」いう意味も含まれています。画してここに『Vow Wow』が誕生、世界を視野に入れた活動を開始しました。しかし山本は、遠慮なく自己主張をするメンバーを迎えてそれまでになかったバンド運営の苦労を味わうことにもなります。「B」から「V」への変化は、山本が率いる4人のツインギターを押し出したハードロックバンドから、圧倒的な歌唱力と英語力を誇るヴォーカルとシンフォニックなキーボードを加えた正統派のハードロックを奏でる5人のミュージシャン集団への変貌でもありました。また、VOW WOWになってからは、BOW WOW時代の曲は一切演奏しないことを徹底しています。1984年6月、『V』としてのデビュー・アルバム『BEAT OF METAL MOTION』をリリース。人見の歌唱力と「B」時代とは違う楽曲が注目されるようになります。

1985年6月、東芝EMIレーベルであるEASTWORLDに移籍と同時に、2nd『CYCLONE』をリリース。

1986年初頭には3rdアルバム『III』をリリース。このアルバムは、音楽雑誌『BURRN!』誌上、音楽評論家の酒井康から94点という評価を得ます。。6月にはアメリカでベスト盤『SHOCK WAVES』をリリースし7月にはライブアルバム『HARD ROCK NIGHT』をリリース。秋には拠点を日本から英国に移し、本格的に世界規模の活動展開をしていきます。

1987年5月には「B」時代から支えてきた佐野が脱退、音楽業界から引退してしまう。後任にはホワイトスネイクゲイリー・ムーアニール・マーレイ(b)を迎え、新作のレコーディングに入りました。

同年8月には『レディング・フェスティバル』に出演。出始めこそブーイングを受けたものの、最終的には拍手喝采を浴びます。9月には4th『V』をリリース。収録曲「DON’T LEAVE ME NOW」には元キング・クリムゾンエイジアジョン・ウェットンが参加。同曲は全英シングルチャートで3週間トップ100圏内に入って、最高83位に達しました。

同年10月1日、ニールを迎えてのバンド初の日本武道館公演を行います。1988年には英国での活動が認められ、『ミュージシャン・ユニオン』に加入。11月には5th『VIBe』をリリース。1989年2月には『VIBe』の英国版『HELTER SKELTER』をリリース、3月には同アルバムが全英アルバムチャートで75位に達します。同年、VOW WOWでやれることはやり尽くしたと感じていたことと、当時ブラック・サバスのメンバーだった盟友コージー・パウエルから誘われたことで、ニール・マーレイが脱退、ブラック・サバスに加入の運びとなった。ニールの後任には元LIONS&GHOSTSのマーク・D・グールドが加入。

1990年4月に(事実上ラストとなる)6thアルバム『MOUNTAIN TOP』をリリースするも、米国進出用に制作した自信作にもかかわらず米国のレコード会社との契約に結びつかず、同年末に解散を発表。この年の5月28日に行われた日本武道館でのコンサートが、事実上のラスト・コンサートになりました。

その後は、山本恭二を中心に新生Bow Wowを再結成。現在でも息の長いバンドとして活動しています。



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日本で人気のHR/HMバンドといえば^_^

引用

イギリスで、1966年ごろエリック・クラプトンが在籍していた『クリーム』、”ジミヘン”こと、ジミ・ヘンドリクスの『ザ・ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』が、ブルース・ロックとサイケデリック・ロックを掛け合わせた、ハードロックを産みました。

その後、幾多のバンドが誕生しました。

中でも、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルは代表的な70年代のバンドです。

特に,ディープ・パープルの人気は日本では凄まじいものがありました。

本バンドの前身となったのは、元サーチャーズのクリス・カーティスが結成を企図したラウンドアバウトというバンドでした。

クリス・カーティスが最初にメンバーとして考えたのは、当時同じアパートに住んでいたジョン・ロードでした。また、この時期の前後に、クリス・カーティスはトニー・エドワーズにマネージャーの就任を打診しました。この当時、トニー・エドワーズはファッション関係の仕事をしていたが、同時にエイシアという女性シンガーのマネージャーも手がけており、その関係でクリス・カーティスと知己があった。更にトニー・エドワーズの誘いによって、広告関係の仕事に携わっていたジョン・コレッタもマネージャーに加わり、ビジネス面での態勢は早くから整いつつありました(この当時、2人は5,000ポンドをバンドに投資しており、以後もビジネス面で様々な貢献を遂げている。今日に至るまで、この2人のマネージャーがバンドに果たした役割は非常に大きいと評価されている)。

一方、メンバーの人選は難航した。ジョン・ロードに続いて、当時ハンブルクで主にセッション活動をしていたギタリストのリッチー・ブラックモアにグループ加入を要請したものの、なかなか他のメンバーは定まらず、それでも特にマネージャーの2人が熱心にメンバー探しに奔走したが、ボビー・‘ウッドマン’・クラークがドラマーに選ばれた以外は進展せず、結局4人で活動を開始することになりました。しかし、この陣容の人間関係は非常に不安定だったといわれており、更にバンドの発起人であるクリス・カーティスが失踪したことが重なり、ラウンドアバウトは一旦消滅します。しかし数ヵ月後、マネージャーの2人とロード、ブラックモアが再び集結し、ニック・シンパー(ペース)に、シンガーをオーディションによって選出した結果、ロッド・エヴァンスにそれぞれ採用。またロッド・エヴァンスのオーディションに同行していたのが同じメイズというバンドにいたイアン・ペイス(ドラムス)でした。

ブラックモアがハンブルクでペイスのプレイに接しており、その力量を十分に把握していたため、バンドは初代ドラマーのボビー・クラークを解雇し、ペイスを迎入れます。

1968年、バンド名をディープ・パープルに改名。同年5月、デビューアルバム『ハッシュ』リリース。

6月には、ジョー・サウスの曲『ハッシュ』をカバーすると、全米4位を記録するいきなりのを大ヒットを記録。

新人バンドとしては異例と言われるほどの順調なスタートを切りますが、この時期は、まだハード・ロック・サウンドには、なっていませんでした。

10月、セカンド・アルバムの『詩人タリエシンの世界』リリース。ここから、『ケンタッキー・ウーマン』が全米38位を記録するヒットとなります。アルバム自体も40位まで上昇します。なお、本国イギリスでは同アルバムは翌1969年6月にハーヴェスト・レコードからリリースされています。

バンド内で意見の対立が表面化したのは、1969年の前半からだと言われており、6月に『ディープ・パープルIII』リリースしますが、その直後にテトラグラマトン・レコードが倒産し、ディープ・パープルはアメリカでのレコードの発売元を失ってしまいます。ここに,第一期は終わりを迎えます。

1969年の中頃、リッチー・ブラックモアのジ・アウトローズ時代からの旧友であるミック・アンダーウッドの紹介によってエピソード・シックスのイアン・ギランをボーカル、ロジャー・グローバーをベースとして迎え入れ、第二期が始動。

1970年『ディープ・パープル・イン・ロック』をリリース。これが、全英アルバムチャートで4位を記録する大ヒットとなり、先行シングル『ブラック・ナイト』が全英シングルチャートで2位を獲得します。

翌71年、アルバム『ファイアボール』リリース。これが、全英で初の1位を獲得する大ヒットとなり、同タイトル曲もヒットします。

翌72年には,バンドの最高傑作『マシンヘッド』リリース。これも、全英で1位となり、全米では7位と言うバンド最大のヒットとなりました。

また、シングル『スモーク・オン・ザ・ウォーター』は、73年に全米4位を記録する大ヒットとなり、『ハイウェイ・スター』もヒットしました。

同年に、日本公演を収録した『ライブ・イン・ジャパン』をリリースし、全英16位、全米6位と大ヒット。

しかし、ギランとリッチーとの音楽的確執が表面化。73年『紫の肖像』リリース後、ギランとロジャーを解雇。ここに黄金期と言われた第二期は終焉します。

リッチーは、その後無名のボーカルのデビット・カヴァーデイル、トラピーズのボーカル兼ペースのグラン・ヒューズを加入させた第三期がスタート。

74年2月に、『紫の炎』をリリース。全英3位、全米9位を記録する大ヒットとなり、シングル『紫の炎』もヒットします。

しかし、リッチーとファンク色を打ち出したいカヴァーデイルとグレンとの確執が表面化。8月『嵐の使者』リリース後、リッチーがバンドを脱退。

ジョンは、新たにアメリカ人のジェイムズ・ギャングのギタリスト、トミー・ボーリンを加入させ、第四期スタート。

75年に『カム・テイスト・ザ・バンド』をリリースしますが、毛色の違った曲調にファンは困惑。賛否両論となります。

その後、トミーがライブ中のホテルでアルコールによる大量摂取が原因で死亡。

ジョンは、バンドの解散を決意。ここに、7年の活動に一度終止符を打ちます。

リッチーは、レインボーというメタルバンドを結成し、成功。カヴァーデイルは、ソロ活動の末、ホワイトスネイクを結成し、80年代にブレイク。

84年には、第二期黄金期のメンバーで、再結成。

現在もメンバーチェンジを繰り返しながら活躍しています。



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アイドルから元祖バラドルへ

引用

アイドルとは,どの国で珍重されやすいものではあるが、ここ日本では『バラドル』と言われる人々がいます。

森口博子、山瀬まみ、井森美幸などです。

特に森口博子は、特にか歌唱力は抜群でした。

福岡出身の彼女は、レコードデビューを機に高校2年の2学期に堀越学園芸能コースへ入学。

NHK『勝ち抜き歌謡天国』で準優勝。1985年、『水の星より愛を込めて』がスマッシュヒット(オリコン16位)、『機動戦士Zガンダム』主題歌となり、一躍有眼アイドルとなります

しかし、次以降の曲にヒットが続かず、歌手としての認知度向上にはなりませんでした。

1988年に、アニメ『鎧伝サムライトゥルーパー』が当時のアニメ好きの女子高生に人気となり、主題歌『サムライハート』がヒットします。

その後は、クイズ番組やバラエティ番組に出たことで『バラドル(バラエティアイドル)』の地位を確実なものとします。

その後、『ものまね王座歌合戦』では優勝。その歌唱力が,話題を呼びます。

1991年には、劇場版アニメ『機動戦士ガンダムF91』のエンディングテーマ『ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中〜』が、オリコンチャートで9位にランクイン。その年の、紅白歌合戦にも登場し話題を呼びます。

その後は、2003年の連続ドラマ『てるてる家族』に出演し,再び話題に。

2017年には、BS番組『Anison Days』のMCを担当。

ここ最近では、過去のガンダムの曲をカバーしたり、パチンコ『機動戦士Zガンダム』の挿入歌『鳥籠の少年』も人気をはくしました。

2022年には,ガンダムソング第三弾カバーアルバム『GUNDAM SONG COVERS 3』をリリースしました。

これからも,重要なアイドルスターです。



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テクノのプロトタイプ

引用

1970年は、アメリカ、イギリスでロックやポップスが隆盛を極めました。

しかし、それ以外の国でも、新たなバンドが生まれています。

特に、ドイツの『クラフトワーク』は、特集すべきバンドです。

バンド名は、ドイツ語で『発電所』を意味します。

クラフトロックの代表格であり、テクノの生みの親でもあります,メディアでは『エレクトリック・ダンス・ミュージック界のビートルズ』としょうされました。

1960年代、西ドイツで芸術アカデミーでクラシック音楽ん教えていたラルフ・ヒッターとフローリアン・シュナイダーが即興音楽クラスで出会い、前身となる『オガナイゼーション』を1970年に結成。

バンド名変更後、71年『クラフトワーク』、72年『クラフトワーク2』、73年『ラルフ&フローリアン』をリリースしますが、成功しませんでした。

そんなバンド中転機が訪れます。

74年『アウトバーン』が全英4位、全米5位と大ヒット。シングル『アウトバーン』が全英11位、全米25位とヒットを記録。

75年『放射線』(全米140位),77年「ヨーロッパ超特急』(全英49位、119位)とコンスタンスにリリースを行います。

しかし、1978年の『人間解体』(全米130位)は失敗に終わると、人気が失速。

ところが、81年の『コンピュータ・ワールド』が全英15位、全米72位と久々のヒットとなりました。

86年には、『エレクトリック・カフェ』が全英58位、全米156位と再びふさくのしだいがつづきます。

しなし、リミットアルバム『ザ・ミックス』が全英15位を記録し、久々のヒットを記録します。

2003年には,『ツール・ド・フランス』が全英21位を記録。

今も、一戦で活躍しています。



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