ポップパンクからパンクオペラまで

引用

1960年代にアメリカデトロイトから始まり、70年代にイギリスロンドンで大成したバンクロックですが、今なおも強い人気を誇ってます。

アメリカでも、90年代に流行ったバンドが2つ存在しました。

『グリーン・デイ』『オフスプリング』です。

中でも、グリーン・デイは特出していました。

1987年に、カルフォルニア臭バークレーで結成。

メンバーは、ビリー・ジョー・アームストロング(ギター、ボーカル)、マイク・ダートン(ベース、バックボーカル)、トレ・クール(ドラムス)の3人です。

1989年にバンド名を、グリーン・デイとして、インディーズデビュー。

1990年、1stアルバム『1,039/スムーズド・アウト・スラッピー・アワーズ』でレコードデビューを果たします。

1992年、2ndアルバム『カープランク』を発表すします。

93年に,ついにメジャーデビュー。1994年、3rdアルバム『ドゥーキー』でメジャーデビューを果たします。『ドゥーキー』からの1stシングル「ロングヴュー」や3rdシングル「バスケット・ケース」などがモダン・ロックチャートで1位に輝き、これらはライヴでも定番の代表曲となりました。ウッドストック94にも出演。演奏中に観客に泥を投げ込まれたりステージに多くの観客が乱入、最後の曲は途中から観客との泥の投げ合いとなります。

1995年、『ドゥーキー』はロングヒットし(後に全米でダイヤモンドディスクを獲得)、日本などの外国でもその名を知られるようになり、さらに、グラミー賞でも数部門にノミネートされ、「最優秀オルタナティブ・グループ」を受賞します。。『ドゥーキー』の大ヒットの勢いに乗って4thアルバム『インソムニアック』を発表、前作と同じく全米2位。

1997年2000年、徐々に発表速度を落としながら、5thアルバム『ニムロッド』(1997年)、6thアルバム『ウォーニング』(2000年)を発表し、この頃からパンクからロックンロールへの曲調の変化が見られ、バンドはポップなロックを追求していきます。

2001年2002年、ベスト・アルバム『インターナショナル・スーパーヒッツ! 』(2001年)や、シングルのB面の曲などを集めた『シェナニガンズ〜スーパー・ウラ・ベスト!』(2002年)を発表し、活動に一段落をつけます。

2003年、完成直前だったアルバム『シガレット・アンド・ヴァレンタイン』のマスターテープがスタジオから何者かに盗まれ、バンドは同作の再録音は行なわず、『アメリカン・イディオット』の制作に着手します。犯人は不明のまま。

2005年、アルバム『アメリカン・イディオット』でグラミー賞の「最優秀ロック・アルバム賞」を受賞し、このアルバムから「アメリカン・イディオット 」や「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」、「ホリデイ」、「ウェイク・ミー・アップ・ホウェン・セプテンバー・エンズ」等の大ヒットシングルが生まれますが、これらの売上金をインド洋大津波の被災地に寄付することにします。また、ツアー中にも関わらず、ミュージシャン達による様々なボランティア活動に参加しています。ミニライヴ・アルバム「爆発ライヴ」シリーズ以外では初のフルライヴ・アルバム『ブレット・イン・ア・バイブル』を発表。

2006年、シングル「ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」でグラミー賞の「最優秀レコード賞」を受賞します。

2009年、8thアルバム『21世紀のブレイクダウン』が5月15日に全世界同時発売され、本作は、三部構成のコンセプト・アルバムで、その制作にはニルヴァーナの『ネヴァーマインド』を手がけたブッチ・ヴィグがプロデューサーとして迎えられています。

その後も,コンスタンスにアルバムを発表し、安定的な人気を保ち続けています。



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アシッドジャズの新星🎷

引用

ジャス、ジャス・ファンク,ハウスなどを取り入れて、誕生した『アシッドジャス』。

ジャイルス・ピーターソンやUs3などによって確立されたこのジャンルに新星が現れます。

バンド名は、『ジャミロクワイ』です。

ボーカルでリーダーの、ジェイ・ケイを中心にイギリスで結成(1992年)デビューしました。

バンド名は、アメリカのネイティブアメリカン”イコロイ族”から来てます。

1987年頃からドラムマシンのみのギミック曲で、最初期曲「Natural Energy」をほんの数枚プレスした1989年の時点で「バッファローマン(日本ではメディシンマンとも呼ばれた)」のロゴは存在し、既にジャミロクワイ構想があったことがうかがえます。

1991年、ケイがアシッドジャズ・レコーズに歌のテープを持ちこみ契約に至ります。

そして1993年に1作目のアルバム『ジャミロクワイ』(UKチャート1位)、続く1994年には2作目のアルバム『スペース・カウボーイの逆襲』(2位)をリリースします。

1996年に発売したサード・アルバム『トラベリング・ウィズアウト・ムービング〜ジャミロクワイと旅に出よう〜』(全英2位、全米24位)は全世界で700万枚、日本で140万枚を売り上げ、ジャズ・ファンク系バンドのアルバムとしては最大のヒット作となった。最も売れたファンクアルバムとしてのギネス記録、「ヴァーチャル・インサニティ」(全英3位)では米グラミー賞の最優秀ポップ・パフォーマンス賞デュオ/グループ賞を獲得しています。

1999年に4thアルバム『シンクロナイズド』(2位)が発売される。ハリウッド版ゴジラのサウンドトラックアルバムに含まれた『ディーパー・アンダーグラウンド』(シングルチャート1位)(1998年)の流れを汲み、ひずんだサウンドの打ち込みやシンセベースを用いる方向性を伺わせたアルバムとなった。また前作の大きな成功の後ゆえか、ベースのゼンダーが権利と立場の不満を表明しつつリリース直前で離脱してしまいます。

それまでレコード会社によるプロデュースを突っぱね自分のバンドを固持してきたケイだが、続く5thアルバム『ファンク・オデッセイ』(1位)ではソロアーティストとしてのジャミロクワイが模索され、DJディジリドゥのパート、アルバムのインストゥルメンタル曲がなくなった。クラブやホールで親しまれた生のアシッド・ジャズ・バンドサウンドとは異なる新しい電子的な音は、より大きなアリーナやスタジアムで観客を躍らせ、フューチャー・ファンク・サウンドのさきがけとなるものであったが、従来からのファンの間では当時、物議をかもします。

盛況のワールドツアーで精力的にライブ活動を行う中、2001年9月11日にライブのため滞在していたニューヨークで同時多発テロに遭遇。それが影響したのかどうか、2002年に家族との時間を持つためとトビー・スミスが脱退することになり、2005年に発売された6作目のアルバム『ダイナマイト』(全英3位)ではファーストアルバム時とは全て置き換わったバンドメンバーとのアルバム制作となります。

2006年に初のベストアルバム『ハイ・タイムズ:シングルズ 1992-2006』(1位)を発売。オリジナルアルバム6作、ライブDVD1作、そしてこの新曲2曲を含むベスト盤1作の計8作を数え、ソニーBMGとの契約が満了した。その後、ライブ活動はしつつも、ケイがヘリコプター操縦免許を取るなどの充電期間に。

2009年に、ユニバーサルミュージック傘下のマーキュリー・レーベルと契約を結び、2010年11月に7作目のアルバム『ロック・ダスト・ライト・スター(Rock Dust Light Star)』(7位)を発売。長期に及んだRock Dust Light Starツアーの後、ヴィンテージ・ロックテイストを取り入れた前作とは反転してエレクトロ・ファンク色を強めた8作目『オートマトン』(4位)が、2017年に発売されます。

現在でも,活躍の幅を広げています。

また,ジェイのアーティストとしてのファッションや奇行も話題となっています。



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ジャパニーズメタルの女王‼️

引用

メタルは,アメリカとイギリスで生まれ、沢山のバンドがブレイクしました。

日本にも、『LOUDNESS』『E・Z・O』『Vow Wow』などが登場しました。メタル=男性という概念が根強く残る中、日本では『SHO-YO』『LIGHT BRINGER』『LIV MOON』と言ったバンドが80年代に隆盛を極めていました。 

しかし、日本のメタルの女王といえば、やはり浜田麻里でしょう。

1983年に、糸井重里プロデュースの中,「麻里ちゃんは、ヘヴィメタル」をキャッチフレーズと共に、LOUDNESSの樋口宗孝プロデュースによるアルバム『Lunatic Doll〜暗殺警告』でメジャーデビュー。

80年代の女性ロックヴォーカリストの旗手として注目を集め、当時のハードロックジャンルとしては異例とも言えるアルバム売り上げを誇っていました。

1985年、には初のシングル「Blue Revolution」を発表、この頃からすでにセルフ・プロデュースをするようになり、全国ライブツアーも精力的に行うようになります。

87年の『IN THE PRECIOUS AGE』からロサンゼルスでレコーディングするようになり、著名なプロデューサー、ミュージシャンを起用してアルバムを製作するようになる。この頃から、初期に見られたハードロック色の強い曲調からポップさも取り入れた幅広い音楽性を表現し、ファン層をさらに広げていきます。

88年、NHKのソウルオリンピックテーマ曲「Heart and Soul」がオリコンチャートで、10位を獲得。メジャー的な人気を得ます。

また、同年の紅白歌合戦にも出演しています。

89年には、『Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。』が、自身初のオリコンチャート1位を獲得した、人気を確実なものとします。

しかし、そのポップ過ぎる曲調は賛否を巻き起こします。

現在は,メタルアルバムを多数リリース。

特に、盟友でもあるLOUDNESSのギタリスト、高崎晃とのコラボがめだちます。

今でも,一線で活躍を続けています。



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日本のロックのパイオニア‼️

引用

前回『ザ・スパイダース』を日本語ロックの改組とお話ししました。

しかし,実際は”日本語ロック“と正確に認識されたのは、『キャロル』、『ダウンタウン・ブギウギ・バンド』、『サディステック・ミカ・バンド』などがいました。

中でも、『はっぴいえんど』はカリスマ的存在でした。

メンバーは、細野晴臣(ベース)、大瀧詠一(ギター)、松本隆(ドラム)、鈴木茂(ギター)の4人です。

まず、1969年に細野が『エイプリルフール』を結成。その後,1970年バンド名を『はっぴいえんど』と改名し、残りの3人と結成。

同年、デビューアルバム『はっぴいえんど』(通称:ゆでめん)発表。

大きなヒットとはなりませんでしたが,注目は集めます。

シングル『12月の雨の日』リリース。

翌71年には,高田渡のアルバムのレコーディングに参加。

同年に、2作目『風街ろまん』をリリースし、これが日本語アルバムの金字塔となります。

シングル『はいからくち』リリース。

1973年には、3作目『HAPPY END』をリリースします。

しかし,この時点でメンバー間の音楽の方向性の違いが露わとなり、解散。

細野はその後、坂本龍一、高橋幸宏と共に『イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)』を結成し、1980年代に大ブレイク。

大瀧詠一と松本隆は、ソングライターとして、松田聖子,森進一などの曲に関わりヒット。

鈴木茂は、1975年に海外アーティストを招きアルバム『BAND WAGON』を発表。

それぞれ、成功したそれ以降も日本の音楽界に影響を与えています。



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