全てを手にした男

1960年代は、やはり『ザ・ビートルズ』が1番成功したロックバントですが、中でもメンバーの中で最大の功労者は『ポール・マッカートニー』でしょう。

1942年、リヴァプールで誕生します。労働者階級出身で、父のジェイムスはセールスマンや工場勤務で働く一方、アマチュアのジャス・ミュージシャンで腕はセミプロ級でした。父方の曽祖父がアイルランド系で、さらに母方の祖父もアイルランド系でした。

母メアリーが乳癌のため1956年に死去。この年、彼の処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲します。同曲は、後に1991年発売のライブ・アルバム『公式海賊盤』(全英7位、全米14位)に収録されます。リヴァプール・インスティチュート在学中の1957年、共通の友人の紹介でジョン・レノンと出会います。その後ザ・ビートルズの前身となる『ザ・クオリーメン』に加入。真面目に勉学に励んでいましたが,バンドにのめり込んでいくと、成績は下降していきました。

西ドイツのハンブルグなどのクラブでの演奏で多数のライブを経験します。歓楽街のハンブルグではアルコール、ロックンロール、女性、ドラッグなどを嗜む日々で、スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの脱退など何度かのメンバチェンジを経て、ジョン・ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターとの4人で1962年に『ザ・ビートルズ』としてパーロフォンより「ラブ・ミー・ドゥ」(全英17位、全米1位)でレコードデビューします。

その後成功を収め,『日本武道館ライブ』、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のグラミー賞受賞などの栄光に輝きますが、メンバー間での方向性の違いから1970年にバンドを脱退します。

同年にソロデビューアルバム『マッカートニー』(全英2位、全米1位)をリリース。ジョンからは「バンドの解散をアルバムの宣伝に利用した」と非難され、当時の音楽評論家やファンからは酷評されました。1971年、シングル「アナザー・デイ」(全英2位、全米5位)及びアルバム『ラム』(全英1位、全米2位)に引き継がれます(ラムは、妻リンダとの連名共作品)。『ラム』からは、「アンクルアルバート〜ハルセイ提督」がリリースされ、全米1位を記録します。

同年、リンダ、デニー・レインらと共に『ウィングス』を結成。デビューアルバム『ワイルド・ライフ』をリリース。全英11位,全米10位を記録しますが、わずか2週間、その内レコーディングに費やした時間が3日という短期間で完成させた為、評論家から批判を受けます。

1972年、新たにヘンリー・マッカロクを迎え、『ワイルド・ライフ』から2ヶ月後、ツアーを行います。同年、「アイルランドに平和を」(全英16位、全米21位)「メアリーの子羊」(全英9位、全米28位)「ハイ・ハイ・ハイ」(全英5位、全米10位)をリリース。スマッシュヒットしました。

1973年には、『レッド・ローズ・スピードウェイ』(全英5位、全米1位)をリリース。シングル「マイ・ラブ」(全英9位、全米1位)が大ヒットとなり、アルバムも前作を大きく上回るセールスを上げました。この頃からバンド名を『ポール・マッカートニー&ウィングス』に改めてます。映画『007/死ぬのは奴らだ』の主題歌が全英9位、全米2位と大ヒットを記録。ツアーも大成功を収め、バンドはさらなる新作作成を始めます。

同年、『バンド・オン・ザ・ラン』(英米1位)をリリース。同タイトル曲(全英3位、全米1位)、「ジェット」(英米7位)「愛しのヘレン」(全英12位、全米10位)がヒット。アルバムも、600万枚を超えるヒットとなり、グラミー賞を受賞します。

1974年、シングル「ジュニアズ・ファーム」(全英16位、全米3位)がヒット。翌75年には『ヴィーナス・アンド・マース』(英米1位)をリリース。予約枚数だけで、200万枚を記録。シングル「あの娘におせっかい」(全英6位、全米1位)が大ヒット。また、このアルバムからバンド名は『ウィングス』に戻ります。

1975年、12ヶ国64公演のツアーを行い、その中作成されたのが、アルバム『スピード・オブ・サウンド』(全英2位、全米1位)。バンドにとって1番1位を連続で獲得したアルバムとなり、シングル「幸せのノック」(全英2位、全米3位)、「心のラブソング」(全英2位、全米1位)が大ヒット。

同年に行われたライブ音源を収録した、ライブ・アルバム『ウィングス・オーヴァー・アメリカ』(全英8位、全米1位)をリリース。ここから、ライブ・シングル「恋することのもどかしさ」が全英28位、全米10位とヒットします。

長期のツアーを終えた後、メンバーはそれぞれソロ活動を開始。1977年になると再びバンドのアルバム作成を開始します。その間にシングル「夢の旅人」が全英1位を獲得し、当時のイギリスでのシングル売り上げ記録を更新します。しかし、アメリカでは、カップリング曲「ガールズ・スクール」が全米33位と振るいませんでした。1978年、「夢の旅人」と同時期にレコーディングされたアルバム『ロンドン・タウン』(全英4位、全米2位)をリリース。シングル「しあわせの予感」(全英5位、全米1位)が大ヒットします。

その後、メンバーチェンジを終えたバンドは、1979年『バック・トゥ・ジ・エッグ』(全英6位、全米8位)をリリース。しかし、アルパムからはシングルヒットは出ませんでした。その後、単体でのシングル「グッドナイト・トゥナイト」(英米5位)をリリース。ポール自身は、ソロシングル「ワンダフル・クリスマスタイム」(全英6位)をリリースします。

1980年に、日本公演のために来日。しかし、成田空港の税関で大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕されるという事件が起こります。これにより、デニーがバンドを脱退。バンドは呆気なく解散してしまいます。

ボールは、久々のそのシングル「カミング・アップ」(全英2位、全米1位)とソロアルバム『マッカートニーII』(全英1位、全米3位)をリリース。1982年には、『タッグ・オブ・ザ・ウォー』(英米1位)リリース。シングル「エボニー&アイボリー」でスティーヴィ・ワンダーと共演し、英米で1位を記録。グラミー賞を受賞。

しかし、後続となる1983年『パイプス・オブ・ピース』(全英4位、全米15位: 同タイトル曲(全英1位、全米23位(カップリング曲「ソー・バット」)、マイケル・ジャクソンとの共演曲「セイ・セイ・セイ」(全英2位、全米1位))、1984年のサウンドトラック『ヤァ!ブロードストリート』(全英1位、全米21位:シングル「ひとりぼっちのロンリー・ナイト」(全英2位、全米六位)、1986年野『プレス・トゥ・プレイ』(全英8位、全米30位)とそれまでのポールとは思えないほど、平凡的な作品が続きました。

低迷期を抜け出すため、1988年頃からエルヴィス・コステロを招いて、翌89年『フラワー・インザ・ダート』(全英1位、全米21位)をリリースし、シングル「マイ・ブレイブ・フェイス」(全英18位、全米25位」がヒット。なんとか、低迷期を脱します。

1993年、『オフ・ザ・グラウンド』(全英5位、全米17位)をリリース。シングル「明日への近い」(全英13位、全米83位)がヒット。

1997年、『ブレイミング・パイ』(英米2位)から、シングル「ヤング・ボーイ」(全英19位)がヒットし、グラミー賞にもノミネートされます。

その後は、1999年『ラン・デヴィル・ラン』(全英12位、全米27位)、2001年『ドライヴィング・レイン』(全英46位、全米26位)、2005年『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード〜裏庭の混沌と創造』(全英10位、全米6位)、2007年『追憶の彼方に〜メモリー・オーロモスト・フル』(全英5位、全米3位)、2012年『キッス・オン・ザ・ボトム』(全英3位、全米5位)、2013年『NEW』(英米3位)とコンスタンスにアルバムをリリースしていきます。

そして、2018年『エジプト・ステーション』が、全英3位、全米では1982年の『タッグ・オブ・ザ・ウォー』以来、実に36年ぶりの1位を獲得します。

2020年には、現在の最新アルバム『マッカートニーIII』が、全英で1989年の『フラワー・イン・ザ・ダート』以来の1位を獲得。全米でも2位に輝きます。翌21年リミックス・アルパム『マッカートニーIII Imagined』(全英13位、全米18位)をリリース。

現在、御歳78歳。老いでなお盛んといった感じで、活動しています。



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