1980年代、ロックは日本では低迷期に入っていた。松田聖子や中森明菜もいったアイドルの登場により、マーケットは確実に変化していた。そんな中、再びロックを世の中へと現れた4人かいました。そのバンドの名は『BOØWY』です。
1980年、当時ヴォーカルをしていたバンド『スピニッジ・パワー』を脱退して故郷の群馬に帰郷を考えていた氷室京介が、日比谷野外公会堂での『RCサクセション』のライブを見て新たなバンド結成を考えます。後日、布袋寅泰に連絡を取り六本木アマンドの前で再開します。この後、松井恒松,深沢和明、諸星アツシが加入。
1981年、サポートメンバーとして木村マモルを迎え、メンバーが揃います。所属事務所ビーイングの副社長でサウンドプロデューサーの月光恵亮により、当時イギリスに『ガール』というハードロック・バンド(メンバーは全員男子)がいた事を話し、これに対して、自分達は男だけという事から、バンド名をそのまま『ボーイ』で良いだろと、当て字で『暴威』と命名。それを聞いた社長の長戸大幸からは、当時人気だった『横浜銀蝿』をマネて『群馬暴威』というバンド名を提案されますが、却下されます。
最初のアルバム『MORAL』(1989年再発時2位)をレコーディング開始。新宿ロフトで、『暴威 LOFT FIRST LIVE』を行います。因みに、このギクの13人の中には、後のメンバーである黒田まこともいました。後日、セッションに参加した髙橋が加入。その後のスタイルが出来上がります。
1982年、バンド名を『BOØWY』に改名。ビクター音楽産業よりデビュー・アルバム『MORAL』(1989年再発時2位)をリリース。プロデューサーは『マライア』の渡辺モリオ。『渋谷 PARCO PARTIII』のライブで『CHENGE COSTUME』と題し、それまでのパンキッシュな楽曲からニュー・ウェーヴ系のメロディアスな楽曲にシフトチェンジします。その後、深沢、諸星が脱退し、氷室、布袋,松井、髙橋の4人編成となります。
1983年、プライベートオフィス『Ø-con’ nection』設立。新宿LOFTを皮切りとして、『AFROCKABILY LIVE』と題したシリーズGIGを展開。徳間ジャパンより2作目『INSTANT LOVE』(3位)リリース。プロデューサーは脱退した木村マモル。サンプル盤の『OH!MY JULLY』のB面、「FUNNY-BOY」が有線放送で3週連続1位を獲得します。内田裕也主催のイベント『NEW YEAR ROCK FESTIVAL』に出演。
1984年、新宿LOFTで2DAYSライブを敢行。ホール展開も視野に入れた飛躍に向けた「けじめ」のライブでした。その後、拠点を『渋谷LIVE INN』に移し、『BEAT EMOTION』と題してシリーズギクを行います。夏からは同名のタイトルで全国ツアーを敢行。その後、ユイ音楽工房と契約し、レコード会社を東芝EMIに移籍する事に決定。当時にライブの半年間休止も発表されます。この頃から、氷室は「狂介」から「京介」に改名。
1985年、ベルリンのハンザ・スタジオで『BOØWY』のレコーディングを開始。ロンドンの『マーキー・クラブ』でGIGを行います。日本にも取ると、『赤坂ラフォーミュージアム』でマスコミに招待状を送ったコンベンションライブを行います。この後、ファースト・シングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」(再発時61位)リリース。3作目『BOØWY』(48位)リリース。プロデューサーは、佐久間正英。渋谷公会堂で大ホール・ワンマンライブを行います。シングル「BAD FEELING」(再発時46位)リリース。名古屋技術創造センターで『BOØWY’s BE AMBITIOUS』ツアー開始。渋谷公会堂で同ツアー終了。このライブのステージ上で布袋、山下久美子との結婚を発表します。
1986年、「わがままジュリエット」(39位)リリース。4作目『JUST A HERO』(5位)リリース。青山スパイラルホールで、『JUST A HERO TOUR』開始。日本武道館で同ツアー終了。終了後の音源を収録した、ライブ・アルバム『”GIG”JUST A HERO TOUR 1986』(1位)を限定盤(後に通常盤も再リリース)をリリース。南こうせつの野外ライブ『第6回サマーピクニック』にゲスト出演。シングル『B・BLUE』(7位)リリース。5作目『BEAT EMOTION』(1位)リリース。石川厚生記念開館より『ROCK ‘N ROLL CIRCUS』開始。
1987年、日本武道館で『ROCK ‘N ROLL CIRCUS』ツアー終了。シングル「ONLY YOU」(4位)、「MARIONETTE-マリオネット-」(1位)リリース。神戸でライブ『CASE OF BOØWY』を開催。しばらく演奏されていなかった楽曲もセットリストに含めた、総括的なライブを敢行。これは、横浜でも開始されます。宮城県にて行われたライブ・イベント『ロックンロールオリンピック』に出演します。グリーンピア南阿蘇アスペクタにてライブ・イベント『BEAT CHILD』に出演。6作目『PSYCHOPATH』(1位)リリース。宇都宮市文化会館で『ROCK’N ROLL REVIEW DR.FEELIN’S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』開始。シングル「季節が君だけを変える」(4位)リリース。同ツアー最終日渋谷公会堂でのライブ中に解散宣言。新聞各紙の広告スペースに解散メッセージが掲載されます。
1988年、未収録曲3曲を追加した『MORAL+ 3』(1位)リリース。シングル「DAKARA」(2位)リリース。東京ドームにて『LAST GIGS』を行います。解散コンサートではなく、少し早い同窓会だとメンバーは語っています。終了後の移動車両の中でメンバーは号泣したと言われています。ライブ・アルバム『”LAST GIGS” LIVE AT TOKYO DOME “BIG EGG” APRIL 4,51988』(1位)リリース。そして、ラストとなるシングル・ベスト盤『”SINGLES”』(1位)をリリースしてバンド派の活動は終了しました。
その後は、ご存知のように,氷室京介は90年代はじめに、シングル「KISS ME」(1位)で大ブレイク。布袋は、吉川晃司と『COMPLEX』を結成。シングル「BE MY BABY」(1位)含め、ソロでも大ブレイク。松井、髙橋らもセッションミュージシャンとして活躍。バンドはでんせつとして、今尚も語り継がれています。

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