『カントリー』といえば、『ジョン・デンバー』という感じでですが、アウトローなカントリーといえば、『ジョニー・キャッシュ』が有名です。
1954年、キャッシュとリベルトはテネシー州メンフィスに移り住み、ラジオのアナウンサーになる勉強をしながら電化製品の販売で生計を立てて、夜はルーサー・パーキンス(ギター)、マーシャル・グラント(ダブルベースのちエレキベース)と共に演奏していました。パーキンスとグラントはテネシー・トゥとして知られていました。キャッシュはレコード契約を得るために、徐々にサン・レコードを訪れる勇気が湧いてきていきます。同年末にメンフィスのローカル・レーベル「サン・レコード」の「メンフィス・レコーディング・サーヴィス」でレコード作りを依頼、「製作料は4ドル」と聞かされた金欠のジョニーは驚くが当時エルヴィス・プレスリー(1954年デビュー)のプロデュースに忙しかったサン社長でプロデューサーのサム・フィリップスのオーディションを受けます。
サム・フィリップによるオーディションで主にゴスペル曲を歌ったが、フィリップスはもうゴスペル曲は採用していないと語っています。この時フィリップスは「家に帰って犯罪でもしろ。それで曲を作って持ってきたら採用してやる」と語ったという噂があったが、2002年のインタビューでキャッシュはフィリップスはそのようなことは言っていないと否定しました。キャッシュは以前のロカビリーのスタイルで新曲を披露し、契約に漕ぎ着けた。因みにカントリー歌手になった後もキャッシュはゴスペルをしばしばライブなどで歌っている。サン・レコードは他にも後にジョニーの紹介で契約するロイ・オービソンやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスといった多くの初期のロックスターを輩出していきます。
1955年6月下旬、サン・レコードからシングル「ヘイ・ポーター」をリリースし「ジョニー・キャッシュとテネシー2」としてデビュー。全米カントリーチャート14位を記録するヒットになります。同年、シングル「フォーサム・プリズン・ブルース」をリリースカントリー・チャート4位の大ヒットとなりました。エルヴィス・プレスリーはインディーのサン・レコードから、メジャーのRCAレコードに移籍した。キャッシュは低音で「やあ、私はジョニー・キャッシュです。」という舞台上の挨拶も開始します。
1956年4月、シングル「アイ・ウォーク・ザ・ライン」をリリース。初の6週連続1位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名をほしいままにします。1960年、”フルーク”の愛称で親しまれるドラマーのW.S.ホランドがバンドに加入し、バンド名は「ジョニー・キャッシュとテネシー3」になった。ホランドはカントリー界で最初期のドラマーの1人です。キャッシュの熱い創作意欲によりヒット作を連発していた。1963年、「リング・オブ・ファイア」がカントリー・チャート7週連続1位に、ポップ・チャートでトップ20以内にランクインし、クロスオーバーでヒットしました。この曲はジューン・カーターとマール・キルゴアが作曲します。この曲は元々ジューンの姉妹が演奏していたのだが、キャッシュが自分が見た夢の通りにマリアッチ・スタイルの管楽器を加えました。ヴィヴィアン・リベルトは彼女の著書『I Walked the Line: My Life with Johnny 』で異論を唱え、経済的事情により作曲者名をキャッシュがカーターに変更したのだと語っています。
キャッシュは囚人に対して大きな慈悲を感じていました。1950年代終盤から刑務所でのコンサート活動を始めます。1958年、サン・クエンティン州立刑務所でのコンサートが最初でした。これらのコンサートによりライヴ・アルバム『アット・フォーサム・プリズン 』(1968年)、『アット・サン・クエンティン』(1969年)が大ヒットしました。『アット・フォーサム・プリズン』はカントリー・チャートに92週、ポップ・チャートに122週もランクしつづける大ヒットとなります。
コロムビアとの契約が終了した後、1987年から1991年、マーキュリー・レコードと短期間契約したが、ヒットしなかった。
1990年代、伝統的なカントリーのファン以外からも注目されるようになり、再び脚光を浴びるようになった。1991年、クリスチャン・パンクバンドのワン・バッド・ピンクのアルバム『I Scream Sunday』で『メン・イン・ブラック』を歌いました。1993年、アイルランド出身のロック・バンドU2アルバム『ズーロッパ』中の『ワンダラー』にゲスト参加。これ以上メジャーなレコード会社を探すことはせず、ラップやハード・ロックで有名な気鋭プロデューサー、リック・ルービンのアメリカン・レコーディングスからオファーを受け本格的にソロ活動を再開。ちなみにルービンは元はラップのプロデューサーで『RUN-D.M.C.』のプロデュースによりエアロスミス復活にも貢献した人物だが自身のレーベル「アメリカン」を創始後はトム・ペティーらと契約するのを革きりにドノヴァンらルーツ・ミュージックのアーティストの復活に貢献しました。リック・ルービンは、その後も2007年度グラミー賞でベスト・プロデューサー・オブ・イヤーを受賞しています。
1997年、神経変性疾患による多系統萎縮症と診断されます。この診断は後に糖尿病と関連する自律神経失調症と変更されます。これによりコンサート・ツアーは中止となった。1998年、重度の肺炎で入院。2000年、アルバム『アメリカンIII』、2002年、アルバム『アメリカンIV 』を発表します。病気の影響で、アメリカン・レコーディングスでの最初の2枚に比べて暗いイメージになっています。。『American IV 』から、キャッシュの過去の視点や後悔を表すナイン・インチ・ネイルズのカヴァー曲『ハーツ』を発表。この曲のプロモーションビデオは高評価を得ており、一般的に墓碑銘と考えられています。2003年に、MTV・ビデオ・ミュージック・アウォードの最優秀撮影賞を獲得。ナイン・インチ・ネイルズのフロントマンであるトレント・レズナーは、このPVについて「涙が出た。背中を押された気持ちになった」とコメントし、当時のスランプからの脱出の契機の1つになったとしています。
2003年5月15日、妻ジューン・カーター・キャッシュが73歳で死去。ジューンは生前、キャッシュに仕事を続けるよう語ったため、キャッシュはレコーディングを続けてその後の4か月間で60曲以上を完成させ、バージニア州ブリストル郊外にあるカーター・ファミリー・フォールドに2回サプライズ出演した。2003年7月5日、彼の最後のコンサートで『Ring of Fire 』の前に、舞台に上がる直前に書いた亡き妻への思いを読み上げます。
その後、ナッシュビルのバプティスト病院に入院中、妻が亡くなってから4か月に満たない2003年、糖尿病による合併症で亡くなりました。享年71歳。2006年7月4日、ルービンとの最後のコラボレート・アルバム『アメリカンV 』がキャッシュの没後に発表された、全米のアルバム・チャートで初登場第1位を獲得しました。2010年2月23日、キャッシュの78歳の誕生日の3日前、キャッシュ家、ルービン、ロスト・ハイウェイ・レコードはキャッシュ没後2枚目のアルバム『アメリカンVI 』を発表しました。
アウトロー・カントリーの帝王。世界的な人気は今尚も続いています。

にほんブログ村</p</p</p</p</p</p