『メタルと言えば、ドイツ』という方多いのでは、ないでしょうか。やはり、そうなのです。ドイツには、『スコーピオンズ』というメタル・バンドがいます。
1965年にルドルフ・シェンカーが、バンドを結成。メンバーは、ルドルフ・シェンカー(vo.g.)とカール・ハインツ・ヴォルマー(g.)、ウォルフガング・ズィオニー(ds.)、ヨアヒム・キルヒホッフ(b.)の4人組。1971年初頭に、解散したバンド、コペルニクスのマイケル・シェンカー(g.)とクラウス・マイネ(vo.)とアチィム(b.)を加え、第1期スコーピオンズは6人構成となります。その後、アチィム(b.)と交代したローザー・ハインベルグ(b.)でのラインナップで、ドイツのメトロノーム傘下のブレイン・レコードと契約。
1972年に、コニー・プランクのプロデュースで、デビュー・アルバム『恐怖の蠍団 – Lonesome Crow – 』を発売。十代のマイケル・シェンカーのギタープレイを大きくフィーチュアしていた。同年ユーライア・ヒープ、ロリー・ギャラガー、UFOなどのサポーティング・アクトとして、西ドイツ国内ツアーを行います。サーキット中に、UFOのミック・ボルトンが失踪し、急遽代役ギタリストを務めたマイケル・シェンカー(g.)がUFOに移籍。1973年、ハインベルグ(b.)とズィオニー(ds.)が脱退。一時活動停止を余儀なくされます。
1974年、オーディションにより、ウルリッヒ・ロート(g.)とフランシス・ブッフホルツ(b.)、ヨルゲン・ローゼンタル(ds.)がメンバーに決定。RCAレコードと新たに契約し、11月に、移籍第1弾となるアルバム『電撃の蠍団 – Fly To The Rainbow – 』を発表。セルフ・プロデュースの本作は、ロートのギターをフィーチャーしたハード・ロック色が濃く、以降のサウンドの基礎となる作品となります。1年半ぶりのツアーで、夏のドイツ国内をツアー中に、ローゼンタルが脱退。ルディ・レナーズ(ds.)を加えて、ベルギーとフランスで国外ツアーを行います。その後、スウィートのサポーティング・アクトで、北欧をツアー。この時、後に6人目のメンバーと呼ばれ、長年作品を手掛けることになるプロデューサー、ディーター・ダークスが自らプロデュースを申し出て、新作のレコーディングに着手します。
1975年、ルバム『復讐の蠍団 – In Trance – 』を発売。プロモーションの一環として、ロンドンのマーキー・クラブで、イギリスでのデビュー・コンサートを成功させる。キッスのサポーティング・アクトとして、西ドイツ国内ツアーを行います。。ドイツの音楽誌での人気投票で、グループ部門3位を獲得。
1976年に、『狂熱の蠍団~ヴァージン・キラー – Virgin Killer – 』を発売。メロディ・ラインに哀愁を帯び、ハード・ロック・サウンドを前面に出した作品で、バンドの代表作となりました。
1977年の全英ツアーは規模を拡大し、ホール・クラスでのバンドに昇格するが、レナーズが心臓病を患い脱退。後任のハーマン・ラレベルが加入し、5作目のアルバム『暴虐の蠍団 – Taken By Force – 』を発売。
1978年に来日。中野サンプラザでの2ステージをレコーディング、同年に、初のライヴ・アルバム『蠍団爆発 – Tokyo Tapes – 』として発売され先ず。この後、ウルリッヒは、バンドがコマーシャルな方向に向かっていることを理由にバンドを脱退。バンドは、イギリスの音楽誌「メロディ・メイカー」紙に募集告知を掲載し、約140名をオーディションするが、後任は見つかりませんでした。改めてドイツでメンバーを探し、地元のハノーファーで、マティアス・ヤプス(g.)を3代目ギタリストに迎えます。1979年、新ギタリスト披露のため、ドイツで開催の「サマータイム・オープン・エアー・フェスティバル」出演。ニューアルバムのレコーディング直前、アルコールとドラッグの併用で精神的な支障をきたし、UFOから失踪・脱退していたマイケル・シェンカー(g.)を、ルドルフ・シェンカーとクラウス・マイネが迎え、レコーディングに参加。
同年、6人編成で制作されたアルバム『ラヴドライヴ – Lovedrive – 』(全独11位、全英33位、全米55位)を発売。同編成で、3月23日のマルセイユからヨーロッパ・ツアーを開始し、マイケルの完全復帰を思わせたが、ケルン公演直前にマイケルが倒れ、バンドから離脱。日本で2度目の来日公演が決定していたが、マイケルの登場はありませんでした。その後、ジャパン・ツアー。テッド・ニュージェントのサポーティング・アクトとして初の全米ツアー。同8月にイギリスのレディング・フェスティバルにシン・リジィの代替でヘッドライナーとして出演。同12月、RCA時代4枚のアルバムの中から11曲をセレクトし、初のベスト・アルバム『蠍団伝説~スコーピオンズ・ベスト – BEST OF SCORPIONS – 』(全米180位)を発売。
1980年に、『電獣~アニマル・マグネティズム – Animal Magnetism – 』(全独12位、全英23位、全米52位)を発売。イギリスでのNWOBHMムーヴメントを契機とした、ヘヴィメタルシーン活性化を受け、レインボーやジューダス・プリーストなどと共に、第1回モンスターズ・オブ・ロックに参加。前年の続編となるベスト・アルバム『蠍団帝国~スコーピオンズ・ベストII – SCORPIONS BEST2 – 』(全米175位)を発売。
1981年、クラウス(vo.)が声帯を痛め、医師に1年間の静養を言い渡されます。バンドは一部録り終えていたレコーディング作業を一時中止し、静養期間としました。休止期間には、ハーマン(ds.)がソロ・デビュー・アルバム『奇襲攻撃 – Nip In The Bud – 』を製作しています。
1982年に、『蠍魔宮~ブラックアウト – Blackout – 』を発売。2年振りのこのアルバムは全独10位、全英11位、全米10位の売り上げとなり、最強のライヴ・バンドと評されながら、セールスが反映されなかったアメリカ・マーケットで初のビッグ・ヒットを記録。同アルバムのプロモーション・ツアーをイギリスからスタート、アメリカや日本などをサーキットします。
1983年に、アメリカのサン・バーナディーノで開催されたUSフェスティバル、同年12月に、ドイツのロック・ポップ・ヘヴィ・メタル・スペシャルに出演。同年10月に、イギリスのロンドン・ハマースミスオデオン劇場で行われたM.S.Gのライヴに、ルドルフとクラウスが飛び入り参加し、ファンを沸かせました。(このライヴの模様を収めたライヴ・アルバムとライヴ・ビデオが、翌年にM.S.G側から発売されている)。
1984年に、『禁断の刺青 – Love at First Sting – 』(全独6位、全英17位、全米6位)を発売。シングル「ロック・ユー・ライク・ア・ハリケーン」はビルボード・ポップ・チャートでもヒットを記録し、アメリカ進出に成功しました。日本初のヘヴィ・メタルのビッグ・イベント「スーパー・ロック ’84 イン・ジャパン」に、ホワイトスネイクや・シェンカー・グループ、ボン・ジョヴィなどと共に出演。
1985年、初の日本武道館を公演を果たし、同年のジャパン・ツアーと6月のイギリスのネブワース公演後、2枚目のライヴ・アルバム『ワールド・ワイド・ライヴ – World Wide Live – 』(全独4位、全英18位、全米17位)を発売。若干の充電期間と発表し、しばらくの間表立った活動を停止します。
1988年に、4年ぶりのアルバム『サヴェイジ・アミューズメント – Savage Amusement – 』(全独4位、全英18位、全米5位)を発売。ペレストロイカ最中のソビエト・レニングラードでコンサートを行います。
1989年、前年のコンサートが契機となり、歴史的イベントとなった、モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバルが開催。ボン・ジョヴィをメイン・アクトに、スコーピオンズやオジー・オズボーン、モトリー・クルーなどが参加しました。付随したチャリティー企画で、アンチ・ドラッグ/アルコール・キャンペーンのオムニバス・アルバム『メイク・ア・ディファレンス – Make A Difference – 』が発売され、スコーピオンズは、ザ・フーのカヴァー「アイ・キャント・エクスプレイン」が収録されました。
1990年「ベルリンの壁崩壊」の年7月に、そのベルリンの壁の前で行なわれた、元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主宰による「ザ・ウォール・ライヴ」に参加。演奏は、『ザ・ウォール ライヴ・イン・ベルリン – The Wall Live In Berlin – 』として発売された。11月に、アルバム『クレイジー・ワールド – Crazy World – 』(全独1位、全英27位、全米21位)を発売。このアルバムは、長年のプロデューサーであるディーター・ダークスに代わり、キース・オールセンがプロデュースを務めている。「ウィンド・オブ・チェンジ」がシングル・カットされ、全米第4位、全英第2位を記録するビッグ・ヒットとなりまささた。その後、印税のトラブルから、ベーシストのフランシス・ブッホルツ(b.)が脱退する結果となります。
1992年の活動は無く、1993年にはラルフ・リーカーマン(b.)を迎え、9月にアルバム『フェイス・ザ・ヒート – Face the Heat – 』(全独4位、全英24位、全米51位)を発売。1994年の来日公演はM.S.G.に終止符を打ったマイケル・シェンカーがスペシャル・ゲストで参加し、アコースティックで夢の共演を実現させます。しかしこの時期に70年代からのメンバー、ハーマン・ラレベル(Ds.)が脱退。ライヴではカート・クレスやピティ・ヘチットがドラマーとして参加、ルーク・ヘルゾッグやコーエン・ヴァン・ベイルといったキーボード奏者も参加しています。1995年、ライヴ・アルバム『ライヴ・バイツ – Live Bites – 』(全独66位)を発売。
1996年、デビュー25年を迎えイースト・ウェスト・ジャーマニー・ファンドと契約。ジェイムス・コタックが正式ドラマーに就任。5月にレーベル移籍第1弾アルバム『ピュア・インスティンクト~蠍の本能 – Pure Instinct – 』(全独8位、全米99位)を発売し活動を再開。
1997年にベスト・アルバム『蠍の刻印~マーキュリー・イヤーズ:ベスト・オブ・スコーピオンズ – DEADLY STING:The Mercury Years – 』(全独28位)を発売。
その後も、アルバムを作成し続け、現在も現役で活動中です。

にほんブログ村</p</p</p</p</p</p