1990年代に、日本で巻き起こったヴィジュアル系ブーム。それは、アメリカのあるバンドに起源があります。それが、『KISS』です。
1970、ニューヨーク、ミュージシャンとして契約を目指すジーン・シモンズの元に旧知のポール・スタンレーが加わって「ウィキッド・レスター」という5人組ロックバンドが誕生します。バンドはデビューを目指していたが、結局ウィキッド・レスター名義のライヴは2回しか行われませんでした。
1972年にアルバムを1枚製作するも、契約する予定だった「エピック・レコード」に拒否され、お蔵入りとなります。バンドを脱退するメンバーも現れ、そのままの形でウィキッド・レスターを継続することが困難となります。
新しいバンドでよりストレートなハードロックへの路線変更を決意したシモンズとスタンレーは自らバンドを脱退、ローリング・ストーン誌に告知を出していたドラマーのピーター・クリスに連絡し、クリスが加入。しばらく3人でひたすら練習していたが、この頃から他のバンドとの差別化を図るために顔にメイクをしてみたりするようになります。
シモンズとスタンレーの2人は、サウンド面を強化するためギタリスト募集のオーディションを行い、リードギタリストとしてエース・プレイリーが加入。1973年にスタンレーの発案によりバンド名を「Kiss」に改名。クリスが以前在籍していたバンド「リップス」からヒントを得たと言われています。現在に至る有名なバンドロゴはフレーリーがデザインし、スタンレーが手直しをして完成しました。
1974年、アルバム『キッス・ファースト 地獄からの使者』(全米87位)でレコードデビュー。強烈なインパクトを与えるメンバー写真のジャケットこそ注目を受けたが、当初の人気は奮わなかった。キッスとして初のツアーを開始し、初めていくつかのTVに出演、あるライヴ番組ではシモンズの火吹きの他に、クリスはドラムセットを破壊・投げ落とし、スタンレーは現在も行われているギターを地面に叩き付け破壊する強烈なパフォーマンスを披露します。しかし同年発表された2作目のアルバム『地獄のさけび』(全米100位)も、鳴かず飛ばずの結果でした。
レコードセールスは思ったように伸びず悩んだキッスであるが、ライヴでは徐々に力を付け始め、1975年発売のアルバム『地獄の接吻』(全米32位)発表に合わせて大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを行います。デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり当地での人気が爆発します。当時、小さな田舎町をツアーで回っていたメンバーは、デトロイトでの人気を知るや、それ以降のツアーを全てキャンセル、当地での単独コンサートを行うことを決定します。
そしてデトロイト・コボホールにおけるコンサートを収録したライヴアルバム『地獄の狂獣 キッス・ライブ』が、2枚組というハンディがありながら全米チャート9位に入るヒットを記録し、一躍人気バンドとなりまさす。日本では、これまでのオリジナルアルバムを一斉発売し、主要マーケットの一つとなりました。
翌1976年、ボブ・エズリンをプロデューサーに迎えて制作した『地獄の軍団』(全米11位)をリリース。同アルバムからのシングル『ベス』が大ヒット(全米7位)します。初の世界ツアーでもあるDESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録しました。
同年、アルバム『地獄のロックファイアー』(全米11位)発売。同アルバムからのシングル「ハード・ラック・ウーマン」がヒットします。かつて、ボブ・シーガーの前座を担当していたキッスが立場を逆転し、ボブ・シーガーがキッスの前座をするという現象まで発生しました。
1977年、アルバム『ラブ・ガン』(全米4位)、『アライブII』(全米7位:1977年のライヴと5曲のスタジオ新録曲を収録)発売。『ラヴ・ガン』は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品歴代最大の売上を記録。『アライヴII』からのシングルカットは、フレーリーが歌う「ロケット・ライド」がヒット。この頃になるとキッスは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行されたす。
日本においては1970年後半を代表するバンドとしてエアロスミス、クイーンと共に「ミュージック・ライフ」誌などで特集が組まれ、大人気であったが、このころからバンド内部の衝突も起こりはじめました。
1978年9月、各メンバーのソロアルバムが同時リリース。フレーリーのソロアルバムに収録された「ニューヨーク・グルーヴ」(ラヴ・バラードの曲のカヴァー)がヒット。ソロ・アルバムで自信をつけたフレーリーは、さらにグループからの独立を志向し始めます。
同年、リミックスを施した初のベストアルバムである、『ダブル・プラチナム』(全米22位)発売。
1979年、グループとしては2年ぶりのオリジナルアルバム『地獄からの脱出』(全米9位)発売。ソロアルバムの延長のような作品で、スタジオでメンバー全員が顔を合わせることは無かった。スタンレーがデズモンド・チャイルを見出し共作したシングル「ラヴィン・ユー・ベイビー」(全米11位)は、2人が当時のマシンミュージック全盛のディスコ・ブームに一石を投じようと意気投合して作ったディスコ調ロックで、同ナンバーは世界中で大ヒットを記録しました。しかし合わせて行われたDYNASTY TOURの観客動員は伸び悩み、やがてキッスは混乱と低迷の時代を迎える事となります。
1980年、薬物依存や人間関係・体力的な問題などにより、バンド継続が不可能であると判断したシモンズ・スタンレー・フレーリーの3人とマネージメントは、クリスの解雇を決定。その直後に、アルバム『仮面の正体』(全米35位)製作開始(同アルバム収録曲「シャンディ」のPVにはクリスは出演)。なお、このアルバムとDynastyでクリスの代わりにドラムを叩いたのはアントン・フィグでした。
翌81年、ニュー・アルバムの制作を開始。当初はこれまでよりもハードなロック・アルバムの予定であったが、制作途中からマネージャーの意向により路線を変更。シモンズが以前から温めていた構想を基に、グループの歴史上唯一のコンセプトアルバム『〜エルダー〜魔界大決戦』(全米75位)を完成しリリースするも、またしても不評をかいます。
1982年、ハード&ヘヴィへの原点回帰を打ち出したアルバム『暗黒の神話』(全米45位)発売。このアルバムのジャケット写真と収録曲の「勇士の叫び」のPV、同年発売の日本とオーストラリア限定ベスト盤『キッス・キラーズ』(全英42位)にはフレーリーの姿はあるが、バンドに興味が持てなくなった彼はレコーディングには一切関わっていません(飲酒と薬物の影響によるとも)。フレーリーはジャケット写真の撮影とTV出演の直後に脱退しています(契約の関係でしばらく伏せられていた)。
翌1983年、エース・フレーリーの脱退が公式に報じらます。だがツアー契約があったために急遽ギタリストが必要になり、ヴィニー・ヴィンセントが2代目リードギタリストとして加入。アメリカ本国や日本での人気が低迷していた中、反対に人気が最絶頂だったブラジルのリオ公演で過去最大の13万人を動員します。
ここでスタンレーとシモンズは、これまで秘密として隠し通してきた素顔を見せることを決心し、アルバム『地獄の回想』(全米24位)のジャケットで素顔を公開します。前作『暗黒の神話』のヘヴィな路線を継承しつつ、よりシャープな演奏を披露したアルバムの内容や、素顔公表による話題、当時爆発直前であった世界的なヘヴィ・メタルブーム(LAメタル含む)により、バンドは再び上昇気流に乗り始めました。
しかしシモンズとスタンレーは、協調性がなく自己顕示欲の強いヴィンセントを解雇することを決定(後任が決まらず、ツアーのキャンセルもできなかったため、ツアー終了まではグループに同行)。
1984年、かつて『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』をレコーディングしたデトロイト・コボ・ホールでライヴ撮影を行い、TVやラジオで放送した後、『アニマライズ・ライヴ』(全米というタイトルでライヴビデオをリリース。このライヴでもブルース・キューリックがプレイしており、ツアーの初日からステージに上がれなかったマーク・セント・ジョンは3公演のみ参加(うち1公演では、スタンレー、キューリック、ジョンのトリプルギター編成で演奏している)。結局、マーク・セント・ジョンは加入からわずか8カ月で脱退さします。(前述のライヴビデオの撮影日に、事実上脱退していた)。
1985年。ブルース・キューリックが正式加入し、アルバム『アサイラム』(全米20位)発売。そして、1980年代はこのメンバーで定着しました。
1987年、ハートなどを手掛けたロン・ネヴィソンをプロデュースに迎え、メタル色を若干薄めてシンセサイザーを導入した作品『クレイジー・ナイト』(全米18位)発売。大ヒットしてプラチナム・アルバムを記録、イギリスではチャート4位になったが、プリプロではもう少しハードな音だったらしく、メンバーはあまり音の仕上がりには満足していませんでした。
1986年、原点回帰を目標にしたストレートなロックンロール・アルバム『ホット・イン・ザ・ジェイド』(全米29位)発売。スタンレーがマイケル・ボルトンと共作した「Forever」は全米8位を記録する大ヒットバラードとなりました。(これは「ベス」以来初のTOP10シングル)。また、この頃から楽曲のキーが元に戻らります。
しかしツアー観客動員数は若干減り、盛り返した人気は一段落しますが、その一方、カーは心臓血管に悪性腫瘍が見つかり入院してしまい、そのまま死去します。
1996年、MTVアンプラグド・ライヴの模様を収めたライヴアルバムとライヴビデオ『停電(地獄の再会)〜Kiss アンプラグド』(全米15位)を発売。
6月、シモンズ、スタンレー、フレーリー、クリスのラインナップで13年振りにメイクを施して行う大規模なリユニオン・ワールド・ツアー「ALIVE/WORLD WIDE 96-97」がスタート。
オリジナルメンバーでのアルバム発売が望まれる中、1998年に『サイコ・サーカス』発売。全米初登場3位にランクインします。そして、同アルバム名を掲げたPSYCHO CIRCUS TOURは無事成功を収めました。(しかしスタンレーによるとオリジナルメンバーでのレコーディングは大変に困難な状況であり、その精神的苦痛から2009年になるまでKISSとして新作を作ることはなかった)。
2008年、結成35周年ツアー・ALIVE/35 WORLD TOUR開始。オーストラリアツアーではKISSTERIAというドキュメンタリー風ドラマを撮影します。
ツアー前半では、2代目“スペースマン”ことセイヤーが、初代であるフレーリーの持ち歌「ショック・ミー」で初めてリードボーカルをとる。
同年8月、現在のメンバー、シモンズ、スタンレー、シンガー、セイヤーによって新たに録音されたベスト盤『地獄烈伝』が日本限定発売。
2009年、ALIVE/35 WORLD TOURを続けながら、11年ぶりのスタジオ・アルバムである『ソニック・ブーム』を発売、バンド史上最高位となる全米初登場2位を記録しました。
初期のKISSコンセプトのように、メンバー全員がそれぞれリード・ボーカルをとる曲が含まれ、またスタンレーとシモンズの共作も復活。しかし日本ではレコード会社との契約がなされておらず、『ソニック・ブーム』の日本盤は未だ発売されていません
2018年、来年度からのワールドツアーをもっての活動停止を発表。2021年の地元ニューヨーク公演が最後になると伝えられます。
2019年ファイナルツアー「END OF THE ROAD WORLD TOUR」を開始。年末の来日ツアーが、日本では最後のパフォーマンスとなりました。
2020年、世界的に流行した新型コロナウイルス感染症拡大の余波を受けてツアーのスケジュールが変更され、最終公演は2022年以降に持ち越しとなりました。

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