日本の『フォークの神様』は、『岡林信康』でしたね。では、『世界的』にはとなると、やはり『ボブ・ディラン』がいます。
出生名、ロバート・アレン・ジマーマン。1941年、ミネソタ州ダルースに生まれます。ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマ。ジスルはイスラエルの愛称。祖父母はロシアのオデッサやリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーンは小規模だが絆の固いミネソタのアシュケムジム・ユダヤ人の一員でした。1946年、弟デイヴィッド誕生。1947年頃、一家はヒビングに転居します。
幼少時より家にあったピアノを独習。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」て育います。初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ボブもまたエルヴィス・プレスリーらにあこがれバンドを組んで演奏活動を始めます。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしています。1959年、ノースダコタ州ファーゴでエルストン・ガンという名でボビー・ウィーのバンドにピアノ弾きとして入り、彼のバックでステージを数回経験します。
1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなります。持っていたエレキ・ギターをアコースティック・ギターに交換。ミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時に『ボブ・ディラン』と名乗っています。ボブはロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取ったもので、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べています。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受けます。
1961年、大学を中退してニューヨークに出てきた彼は、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていたが、やがてハリー・ベラフォンテのバックで初めてプロのレコーディングを経験。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや、タイムズ紙で好意的に論評されたことをきっかけに、コロンビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され、1962年19にアルバム『ボブ・ディラン』(全英13位)でレコードデビューします。しかしその年の売上は5,000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスでした。
当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達、絵画、ミュージカル、レコード、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの新しい歌を書くようになります。「オンリー・アンディ・ホーボー〜トーキン・デビル」「ジョン・ブラウン」「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)のオムニバスに収録、ブラインド・ボーイ・グランドなる変名でクレジットされています。
アルバート・グロスマンがマネージメントに乗り出すと、幅広い活動が可能になり、ボブの楽曲を他のアーティストに提供することが考え出されます。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立。2枚目のアルバムのレコーディング途中で、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代します。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたため早々に回収されます。
1962年から1963年初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート 」に出演し、ロンドンのクラブで演奏。タウンホールでソロ・コンサート。初の全米中継であるテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演が決まるが、リハーサル後、極右政治団体のジョン・バーチ・ソサイエティを揶揄した曲「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」を省くよう指示されると、検閲的行為に怒ってスタジオを出てしまいます。同年、モンタレー・フォーク・フェスティバルに出演。タイム誌は「新たなるヒーロー」と紹介しれます。共演したジョーン・バエズは、以後積極的にディランの楽曲を歌い行動を共にすることが多くなります。
1963年、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(全米22位、全英1位)リリース。ミシシッピ州グリーンウッド選挙人登録集会で演奏。7月、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」が全米2位のヒットを記録します。同月、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演。ワシントン大行進で演奏。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてボブは次第に「フォークの貴公子」として多大な支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていきます。カーネギー・ホールでソロ・コンサート。1964年、アルバム『時代は変る』(全米20位、全英4位)リリース。しかし、急進化する運動や世間が抱いている大げさな自分のイメージに違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』(全米43位、全英8位、1964年)では、プロテストソングと呼べる曲はなくなっていました。フィルハーモニック・ホール「ハロウィーン・コンサート開催。
またこのころから、ボブの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってきた。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン」は全米で1位を獲得。「悲しきベイブ」「はげしい雨が降る」「くよくよするなよ」「イフ・ノット・フォー・ユー 」「いつまでも若く 」などもよくカバーされています。
1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響が、コンサートやレコーディングでも見られます。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期です。ただしビートルズのメンバーはハンブルク時代からドラッグ、セックス、ロックンロールを享受しており、ボブがビートルズにドラッグを教えたというのは謬説(あやまり)です。中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにしたサイケデリックな曲を多く残しました。中でも特に1960年代半ばのジョン・レノンはボブに傾倒し、作風から精神面、スタイルなどの面でボブに触発されました。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなります。
従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ、賛否両論を巻き起こしました。なかでも1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ボブはバック・バンドをしたがえて数曲演奏したが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けます。そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し、観客に「お前らなんて信じない」と言い放ち、過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を涙ながらに歌いあげた、という逸話が有名です。
一方、ボブ自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、1965年から1966年にかけて『ブリンキング・イット・オール・バック・ホーム』(全米6位、全英1位)、『追憶のハイウェイ61』(全米3位、全英4位)、『ブロンド・オン・ブランド』(全米9位、全英3位)とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表します。
このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでボブは従来以上に新しいファン層を多く獲得。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられています。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要でした。
中でもアル・クーパー、マイク・プルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、全米2位を記録。その他「寂しき4番街」が7位、「雨の日の女 」が最高2位、「アイ・ウォント・ユー」が20位、「女の如く」が33位を獲得するなど、次々チャートアクションを記録。しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいていわゆる「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに、さらに多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は遥かに大きいといえます。
1965年から1966年にかけて、後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスをしたがえてワールドツアーをこなす。既述のように、ここでも初期の弾き語りを求めるファンやメッセージ性の強いラディカルな曲を好む観客からのブーイング、リズムを乱すようにしむける不規則な手拍子、足踏みなどの妨害行為は収まらず、それに対し挑戦的にバンド演奏を繰り広げるボブの姿は『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレグ・シリーズ第4集』(全米31位、全英19位、1998年)、映画『イート・ザ・ドキュメント』などに収録されています。ロイヤル・アルバート・ホール』では、バンドが次曲の準備をしている最中に観客の一人が「ユダ(裏切り者)!」と叫ぶと、場内に賛同するような拍手やブーイング、さらには逆にそれを諌める声などが起こった場面が収められています。その中でディランは「I don’t believe you… You’re a liar!」と言い放つと、怒涛の迫力で「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏をはじめます。嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ボブはぶっきらぼうに「Thank you」と言い残し、そのままステージをあとにしました。
またこの頃にはLSDも使用するようになっており、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きな影響を受け、特にボブは声が大きく変化します。
この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ」のアル・クーパー、マイク・プルームフィールドによるセッションなどがあります。「イート・ザ・ドキュメント」の中でジョン・レノンと彼のリムジンの中で会話を収録しようとしたが、なぜか酔っていたボブはまともな会話が出来ず呆れ失望したジョンは酷いイヤミを言うようになってしまい、最後ボブはみっともない醜態を見せ、それまでボブに傾倒していたジョンに決別を決意させてしまう結果になります。その映像はカットされたがビートルズの海賊盤のCDやビデオやDVDに収録されています。
その後は、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』(全米2位、全英1位、1967年)、『ナッシュヴィル・スカイライン』(全米3位、全英1位)、『ジョン・ウィズリー〜』からは、「見張り塔からずっと」が、ジミ・ヘンドリックスのカバーがヒットします。1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男」に差し替えられるということがありました。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ 」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなります。ボブにとって、最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル〜』はまさにそれカントリーといっていいアルバムです。このアルバムでの澄んだ歌声についてボブは、煙草を止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声の多重録音一人二重唱をやっています。後に自身と同じくミュージシャンとなる息子、ジェイコブ・ディランを授かっています。
1970年6月、『セルフ・ポートレイト』(全米4位、全英1位)を発表。カントリー、MOR、インストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあったがセールスは好調でした。その直後、レコーディング拠点をナッシュビルからニューヨークに戻し、『新しい夜明け』(全米7位、全英1位)を発表。
その後、ボブはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、ジョージ・ハリスン、レオン・ラッセル、ハッピー・トラウム、アール・スクラッグス、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン、ダグ・サムらとセッションしたこと以外は沈黙を守ります。
1971年発表の『グレーテスト・ヒッツ第2集』(全米14位、全英12位)にはボブ自身のリリース条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となります。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン」(全米33位)を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグ・バンド・バージョン、B面にはアコースティック・バージョンを収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大でした。
1973年、ビリー・ザ・キッドを題材にした映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉」(全米12位)はボブの曲の中でもカバーするアーティストが多い一曲となりました。
1974年、かつてのバック・バンドだったザ・バンドを従えてレコーディングした『プラネット・ウェイヴス』を発表。初の全米1位アルバムとなるります。引き続き、ザ・バンドと共に全米ツアーを行った。彼らとの共演は1968年のウディ・ガスリー追悼コンサート、1969年ワイト島音楽祭、1971年大晦日のザ・バンドコンサートのゲスト以来、5回目でした。しかし、今やスターダムにのしあがったザ・バンドとの力関係は対等になり、バンドサウンドとしては完璧で非の打ち所のないものながら、ボブ自身は退屈さをも漏らしていたようである。このツアーの模様はライブ盤『偉大なる復活』(全米3位、全英8位)に収録されました。
翌1975年には、『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドと『ナッシュヴィル・スカイライン』の透明感を併せ持つコロムビア復帰作『血の轍』を発表。内省的で沈鬱な内容にも関わらず、これも全米1位(全英4位)を獲得。ボブは当時、マリー・トラヴァースのラジオ番組で「なぜ、このような暗いアルバムが好かれているのか理由がわからない」と述べています。この作品は、当初ニューヨークで録音されてプレス盤も出回ったが、ボブ本人がリリース直前にストップをかけ、ミネアポリスで半数を取り直しました。録音にはミック・ジャガーが立ち会います。ミックはオルガンも弾いたそうだが、採用されたかは不明。ニューヨーク音源からは「リリー、ローズマリーとハートのジャック」だけが日の目を見ていません。
また1975年と1976年の2つの時期にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と銘打ったツアーを行ないます。これは事前の宣伝を行わず、抜き打ち的にアメリカ各地の都市を訪れて小規模のホールでコンサートを行なうというもので、かつてのフーテナニーのリバイバルないし、巨大産業化したロック・ミュージックに対する原点回帰の姿勢を提示します。このツアーでは、ボブ自身が監督をつとめた映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われました。このツアーの模様は『ローリング・サンダー・レヴュー(ブートレッグ・シリーズ第5集』(全米56位、全英69位、2002年)、『激しい雨』(全米17位、全英3位、1976年)、映画『レナルド&クララ』、テレビ番組『Hard Rain』などに収録されている。このツアーメンバーを主として、ツアー開始直前に録音されたアルバム『欲望』が1976年初頭に発表され、全米1位(全英3位)を獲得するとともに自身最大のセールスを記録しました。
1979年発表の『スロー、トレイン・カミング』(全米3位、全英2位)はボブ流のゴスペルで占められていました。このアルバムはマッスルショウルズの専属スタジオミュージシャン達の手により制作された、ボブ初の“プロフェッショナル”なアルバムです。このアルバムは旧来のファン離れを招いたものの、売れに売れてグラミー賞も獲得。本作収録曲の「ガッタ・サーヴ・サンバディ」はボブ最後のトップ40シングルでした。シングルB面の “Trouble in Mind” はアルバム未収録。また、未発表の “Ain’t No Man Righteous, No Not One” もレゲエ・グループのJah Mallaにカバーされるなど、この時期の曲は比較的人気が高くトリビュート・アルバムも作られています。
前述の『スロー・トレイン・カミング』と1980年発表の『セイヴド』(全米24位、全英3位)、1981年発表の『ショット・オブ・ラブ』(全米33位、全英6位)は「ゴスペル三部作」と呼ばれています。この時期のコンサートでは当初、これらの作品群からの曲しか演奏せず、批判を浴び動員も伸び悩びました。その結果を考慮して後期のツアーでは、初期のヒット曲も織り交ぜた折衷版として妥協の姿勢も見せます。ボブはこの当時のサウンドにはかなり誇りを持っていたようで、ライブアルバムの発表を望んだが、コロムビアに拒絶されます。『ショット・オブ・ラブ』のアルバム未収録曲としては “Let It Be Me” 、「デッド・マン、デッド・マン (“Dead Man, Dead Man”, Live Version) 」があります。後者は1989年「ポリティカル・ワールド (“Political World”) 」のカップリングで発表された後、『Live 1961-2000』に再録。1981年にはそれまでの代表曲、未発表曲を網羅したコンピレーションアルバム『バイオグラフ』(全米33位)の企画が持ち上がる。発売には4年を要したため、1982年以降の曲は収録されていません。
ソニー・ミュージックとクリスチャン・トゥディ(2016/10月)が伝えたところによれば、ディランは83年の「インフィデル」からユダヤ教に回帰しています。確かにダイアー・スオレイツのマーク・ノップラーをプロデューサーに迎えて製作した『インフィデル』(全米20位、全英9位、1983年)はキリスト教色は薄れている。ボブが21世紀に入ってからも福音派(新興宗教的キリスト教)を信仰しているという誤りは、アル・カシャというキリスト教関係者による希望的憶測に過ぎませんでした。ノップラーは制作途中で自身のワールドツアーに出てしまい、残されたテープをボブ自身がミックスしたこのアルバムにはノップラーも含め、選曲、アレンジなどに不満の声もあります。このアルバムからのシングル「スウィートハート 」は全米55位でした。
1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のブリッジ部分でリード・ボーカルをとりました。また同年には大規模チャリティー・コンサートの「ライブエイド」に、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ、ロン・ウッドとともにトリで出演。1988年にはロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、トム・ペティと共に覆面インスタント・ユニット、『トラヴェリング・ウィルベリーズ』を結成し、アルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズVol.1』(全米3位、全英16位)をリリース。ツアーも予定されていたが、ロイ・オービソンが心臓発作で死去したため、ツアーは幻に終わります。その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行という噂があったが、デル・シャノンは1990年に拳銃自殺してしまいます。この時期のバンドに関しては未だに詳細不明です。結局、残された4人で2枚目のアルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズVol.3』(全米11位、全英14位、1990年)をリリースし、バンドは自然消滅しました。
1997年に再び訪日。5月に心臓発作で倒れ、一時は危ぶまれたものの快癒し、復帰。この時ボブは「もうすぐエルヴィスに会うのかと本気で思った。」と発言しています。その直後、三度ラノワと組み、7年ぶりにオリジナル・アルバムを発表することが明らかになり、新曲はもう聴けないと思っていたファンを狂喜させました。これに関し、自分のライブに若いファンが訪れているのを知ったボブが、彼らの為にアルバムを作ろうと思った、と述べています。このアルバム『タイム・アウト・オブ・マインド』は18年ぶりに全米トップ10に入り(英米10位)、グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞しました。同年には、息子であり、アメリカのロック・バンド、ザ・ウォールフラワーズのフロントマンでもあるジェイコブ・ディランもグラミー賞を受賞しており、親子揃っての受賞となりました。
1997年9月、イタリアのボローニャでおこなわれたカトリック教会のイベント、世界聖体大会で教皇ヨハネ・パウロ2世を前で演奏。教皇は2万人の会衆に対して「風に吹かれて」の歌詞をモチーフとした説教を行います。ホワイトハウスにてケネディ・センター名誉賞を受賞。当時のアメリカのビル・クリントン大統領は、「ボブほどの大きな衝撃を与えた同世代のクリエイティヴ・アーティストはおそらくほかにいない。」と献辞を贈りました1999年、ポール・サイモンとアメリカ国内ツアー。ビッグ・ネームふたりの共演に、チケットは高騰します。
現在も、現役で活躍中。2020年には、現在の最新作『ラフ&ロウディ・ウェイズ』(英米3位)をリリースしています。

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