ビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロックバンドは、アメリカのロックンロールミュージシャンの影響を多大なまでに受けています。中でも『エルヴィス・プレスリー』はかなり影響をうけていたようです。
プレスリーは1935年、ミシシッピ州テュペロの小さな家で生まれます。父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー、母グラディス・ラブ・プレスリー、の3人家族でした。(プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している)。父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど非常に貧しい幼少時代であったが、両親はエルヴィスを大事に育てました。
熱心なキリスト教プロテスタント(新教)の信者であり、9歳の時に洗礼を受けます。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりに与えられたのがギターでした。。これを機に自宅の地下洗濯部屋で練習し音楽に傾倒していきます。
1948年、プレスリーが13歳の時にテネシー州メンフィスへと引っ越します。下宿生活を経て、1949年に一家はメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居。メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育ちます。エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていました。ある日、毎回欠かさず観に来ていたエルヴィスだったが、入場料を払えないとの理由で1度欠席します。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、エルヴィスは無料でショーを観ることができました。(1970年代のコンサートではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされています。プレスリーは高校卒業後、精密金型会社で働いた後にクラウン・エレクトリック社に転職しトラック運転手として働いていました。
1953年の夏にプレスリーはメンフィスのサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払います。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness” と “That’s When Your Heartaches Begin” でした。
サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年に行方不明の歌手の代理としてプレスリーを呼びます。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととします。プレスリーは最初「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」と呼ばれます。
1954年のリハーサル休憩中にプレスリーは“That’s All Right, Mama”をいじくり始め、サムはプレスリーが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押します。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となりました。B面に“Blue Moon of Kentucky”が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしています。
また、公演旅行はプレスリーの評判をテネシー中に広げることとなりました。しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っています。また、プレスリーがツアーをはじめた時、ツアー先の白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”のことを言ったものだが、実際にはもっとひどい差別的な言い方をされた)は連れてこないでくれ」と連絡を受けたことが度々ありました?プレスリーは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と言い張り、向こうが謝罪し多額のお金を積んだが、絶対に行きませんでした?
このエピソードの様に、公民権法が施行される前の1950年代のアメリカでは、音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っていました。当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲をパット・ブーンらの白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にありました。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識でした。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘されます。
サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルをリリースしました。
- “That’s All Right / Blue Moon Of Kentucky”
- “Good Rockin’ Tonight / I Don’t Care if the Sun Don’t Shine”
- “Milkcow Blues Boogie / You’re A Heartbreaker”
- “Baby Let’s Play House / I’m Left, You’re Right, She’s Gone”
- “Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget”
1955年8月18日にプレスリーの両親はプロデューサーのトム・パーカー(通称・パーカー大佐)との契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了しました。
プレスリーは1955年11月21日にRCAビクターと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、プレスリーのファンになっていった。
1956年1月27日に第6弾シングル “Heartbreak Hotel / I Was the One” がリリースされた。これは1956年4月にチャートの1位に達した。Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。
レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、プレスリーのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所で最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になると、RCAスタッフがプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行った。
後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジがプレスリーの意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調面など様々な理由があった。
プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式のレコーディング・スタイルにこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌い、現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘されており、その中には発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、レコーディングに関心がなくなった頃は、体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、ほとんどの場合、それは実現しなかった。
1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスがレコーディングしているサン・レコードに立ち寄り、彼らとジャム・セッションを行ないました。フィリップスにはもうプレスリーの演奏をリリースする権利はなかったが、このセッションを録音しました?ジョニー・キャッシュも共に演奏していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができません。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになります。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売り上げがトップであることを報じられました、また『ビルボード』誌で100位以内にランクインした曲数が史上最高となりました。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売り上げの半数がプレスリーのレコードでした。
当時のアメリカの国民的バラエティー番組『エド・サリヴァン・ショー』には、1956年、1957年と短期間に3回出演しました。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識して、ジャケットを着用し出演した上に、当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられています。
そのようなやり取りがあったものの、司会者のエド・サリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことから、プレスリーへの批判は少なくなった上に、アメリカ全土へのプロモーションに大きく役立ったと言われています。
1958年に、プレスリーはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間でした。プレスリーは特例措置を受けることなく、他と変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年に、満期除隊します。
徴兵命令が来た際、プレスリーは「闇に響く声」を撮影中で、徴兵を少し延期したことでも話題になります。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えます。翌日、プレスリーは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行いました。
1958年8月11日、戦車兵としての専門教育を受けていたプレスリーは、すでに体調を崩していた母グラディスが緊急入院したとの知らせを受けます。上官はプレスリーからの外出申請をいったんは却下したが、後に許可されました。グラディスは亡くなり、翌日に葬儀が営まれました。再び帰営する際、プレスリーはグラディスの部屋を生前の状態に保つよう言い残しています。
プレスリーは西ドイツに駐留する第32機甲連隊に配属され、第1中戦車大隊の本部管理隊で勤務しました。同地では松濤舘空手を学び、また軍曹まで昇進します。なお空手8段とされているが、それは誤りです。また在籍中、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断されました。その際、医師はプレスリーの声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、回復し健康を取り戻しました。
1960年3月2日、プレスリーは帰国の途に就き、途中スコットランドを経由しているが、これが彼にとって唯一のイギリス滞在となりました。プレスリーは3月3日の朝に帰国して大勢のファンに迎えられ、5日に名誉除隊となりました。
歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いました。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強します。初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選びます。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender」に変更されて公開されます。プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしています。
陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたが、いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出しました。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえませんでした。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「G.I. Blues」、「Blue Hawaii」、「Viva LasVegas」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低いです。評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけであります。
結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、プレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は、1969年公開の「Charro!」のみでした。この映画が製作された頃のプレスリーは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期でした(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影されます。しかし、プレスリーの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るいませんでした。
そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ、また、プレスリーが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、プレスリーの仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになります。
歌手活動の本格再開後も、1970年のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画「Elvis: That’s the Way It I)」や1972年のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され、好評でした。それ以降は映画の公開はなかったが、プレスリーの死後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成したライフ・ストーリー的映画「This Is ELVIS」が公開されました。これらを合わせると、プレスリーが主演した映画は計34本となります。
1974年に、ラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れれます。バーブラは自らが主演する映画「A Star Is Born」での共演をプレスリーに依頼し、プレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断りました。
1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはありませんでした。理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、空手自体をやめてしまったことが挙げられるます。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めます。プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てます。亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流しました。
プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルスのプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られています。
ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まりました。
諸説あるが、メンバーのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて招かれた部屋に入きます。そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいました。「本物のエルヴィスだ」と感激した4人は呆然としてしまいます。そこでプレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけた事から、慌てて4人は挨拶し、即興演奏が始まります。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏しました。スターはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカーを楽しんでいたといわれています。
プレスリーは彼らの曲も歌い、そのあとで「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言いました。これに対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したことからその場が凍りつきます。これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはその発言に気分を害してしまいます。そしてその会見に実際に立ち会ったという記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンはさらに当時アメリカ軍による関与が拡大を続けていたベトナム戦争にプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判しました。これらの事がきっかけでレノンを嫌うようになったプレスリーは(事実上)マッカートニーやハリスンの曲はコンサートで頻繁に取り上げているが、レノンの曲は取り上げていません。
この様に、レノンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことで、この会見はとても成功したとは言えないものでした。
レノンはこの発言を反省したためか後日プレスリーの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と伝えるよう頼んだといわれています。しかしプレスリーはレノンがアメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行っていた頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したとも言われています。
1967年には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。プリシラはプレスリーの駐西独アメリカ軍での所属部隊長の継子でした。プレスリーは未成年であったプリシラを自分の父親とその妻の家に同居させ、有名なカトリックの女子高に通わせて、きちんと卒業させるということをプリシラの母親と継父に約束してプリシラをメンフィスで暮らせるようにしました。しかし、程なく2人はグレイスランドで一緒に暮らすようになっていきます。8年後に結婚し、1968年には娘リサ・マリー・プレスリーが生まれます。
その4年後、結婚前から続いているプレスリーの生活習慣(昼と夜が逆転した生活)、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)といつも一緒の生活、さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは空手教師のもとに走り、2人の結婚生活は破綻してしまいます。グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移します。1973年に正式離婚。
離婚後もプレスリーとプリシラは友人関係にあり、以前よりも密に連絡を取り合うようになったといいます。プレスリーがツアーでロサンゼルスにいるときは、プリシラの家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラをグレイスランドに呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていました。二人は、リサ・マリーがまだ幼かったこともあって、2人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていました。リサとプレスリーは頻繁に会っていたようだ。プレスリーが死んだその日もリサはグレイスランドにいました。
プレスリーの音楽活動は62年の「好きにならずにいられない」までは好調を保っていたが、63年から68年ごろまでは絶不調と言ってよい状態でした。量産された映画とビートルズの登場に押された影響は否定できず、プレスリー自身もそれを自覚していた。不調の時代では65年の「クライング・イン・ザ・チャペル」が彼らしい佳作でした。68年のTVライブで復活したエルヴィスは69年に「サスピシャス・マインズ」「イン・ザ・ゲットー」を発売し、カムバックします。1969年から過密スケジュールでキャリアを再開。しかし、それはプレスリーを完全なワーカホリック状態へと追い込むものでした。1969年以降行ったライヴは1000回以上であり、平均すると1年におよそ125回のペースでした。
1969年よりネバダ州のラスベガスを中心にショーを行うようになります。プレスリーのコンサートは時代を経て、大規模なものになっていきます。瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年のNBC-TVスペシャル以後、翌年にラスベガスのステージで歌手復帰してからは、ロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、ゴスペルやスタンダード・ナンバー等を取り入れます。バックもコーラス・グループやピアノ等が新たに加わり、オーケストラまで揃えた多人数の団体に膨れ上がります。なお派手な衣装は、リベラーチェからの影響と言われています。
また、ラスベガスのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れます。コンサート活動再開後、最後にコンサートを行った1977年インディアナポリス公演までチケットは売り切れ状態が続きます。72年には「バーニング・ラヴ」が大ヒットとつながります。70年代には他に「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売。1977年から始まる予定だったツアーも最終日のメンフィス公演まで売り切れ、翌日に同地で追加公演を行う予定でした。
1977年にテネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドで没しました。ガールフレンドのジンジャー・アルデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3時30分、プレスリーの死亡を確認。42歳没。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表されています。
晩年、プレスリーはストレスからくる「過食症」に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、1975年頃からは主治医だったジョージ・ニコポウラスから処方された睡眠薬などを「誤った使い方」で服用していました。処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・ソニー・ウェストなどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っています。
グレンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないといっているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷したとされました。このことについてソニーは「まだ存命中だったエルヴィスを救うためだった」と述べます。違法なドラッグは一切使用していないが、この処方ドラッグの影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまいました。イギリスのテレビ局、チャンネル4はプレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こすものが発見されたと報道しました。
当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレイスランドに再埋葬されました。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られたキャディラック、愛娘の名前をつけた自家用機、コンベア880型「リサ・マリー号」などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れています。スコティ・ムーアは「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しませんでした。
プレスリーの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にでした。プレスリーはステージ以外の事は人任せで、肖像権は一応管理されていたが杜撰だったため、金儲けの道具とされ、プレスリーのイメージを損なうものであっても簡単に商品化できました。
存命中にはプレスリーは多くの「名義貸し」のつもりで契約書にサインしていたが、相手は「エルヴィスが利益になる」と考え、膨大な予算をプレスリーに用意させようとします。(ソニー・ウェストの暴露テープに電話の内容が記録されている)。
死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理しようと訴訟を起こします。(当時、亡くなった人々の肖像権の取り扱いは帰属等がはっきりしていなかった)。遺族らは勝訴し、肖像権を手に入れ、以後今日までしっかりと管理されています。
肖像権が管理できるようになって、「エルヴィス・プレスリー」という名を使い現在まで様々なプロジェクトを世界に向かって発信してきました。プレスリーのキャリアはサン・レコードからデビューした1954年から死去する1977年である。本業の歌の部門では、数多くの未発表テイクが発掘されています。
最近の話題だと新編集された曲が2002年のFIFAワールドカップの公式テーマソングになったり、未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評となります。その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてた物や、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化した物もありました。
それ以外にもプレスリーをモチーフにした映画の製作やプレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌に使用される事も多い。プレスリーに因んだセリフも数多くの映画の中で聞くことが出来きます。ブロードウェイのミュージカルにも取り上げられる等、そのような話題はとどまる事を知りません。プレスリーの記録であるナンバー1ヒット曲数18曲が、2019年マライア・キャリーの19曲によって更新されました。
2002年には、『ELV1S~30ナンバー・ワン・ヒッツ』が英米1位を獲得。現在でも、その影響力は、健在です。

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