アメリカやイギリスで、60年代と言えばやはり『ザ・ビートルズ』ですよね。しかし、中期ビートルズのサウンドに疑問を持ったファンは少なくなく、乗り換える人々も多くいました。そんな中、『ザ・モンキーズ』がいました。
1964年、イギリス本国とアメリカ国内におけるビートルズの過熱ぶりを目の当たりにしたスクリーン・ジェムス・コロンビアのバート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンは、アメリカ国内でもスターグループを生み出そうと、ビートルズ主演の『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』をヒントに同様のテレビ番組を制作することを思いつきます。音楽業界紙『デイリー・ヴァラエティ』に掲載されたオーディション広告によって若者達約400人が集まり、1965年、カリフォルニア州ロサンゼルスでデイヴィー・ジョーンズ、マイク・ネスミス、ピーター・トーク、ミッキー・ドレンツの4人がメンバーに選出されました。
実際には、オーディション以前にバート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンはめぼしいアーティストらに声をかけており、デイヴィーはその時点ですでに参加が決定していました。後年、ザル・ヤノフスキーの代わりにラヴィン・スプーンフルに参加したジェリー・イェスターも台本を渡され打診されていたが、当時参加していたモダン・フォーク・カルテットの全員が参加するのでなければ参加できないとして辞退しています。
このオーディション参加者の中にはポール・ウィリアムズ、後にクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングに加入したスティーブン・スティルス(不採用になったが、幼馴染のピーター・トークを推薦)、同じくスリー・ドッグ・ナイトのダニー・ハットン、ラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャン、ヴァン・ダイク・パークスなどがいたといいます。
選出当時、マイク・ネスミスはマイケル・ブレッシング名義でカントリー・ミュージシャンとして、デイヴィー・ジョーンズはイギリスマンチェスター出身の舞台俳優・歌手として(ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に初登場した回には番組に端役として出演していた)、かつてミッキー・ブラドックという名前で子役スターとして活躍していたミッキー・ドレンツは大学生として、ピーター・トークはグリニッジ・ヴィレッジでのインディーズミュージシャンとして、それぞれ活動していました。選考は非常に難航し、最終的にオーディションの合格者が決まったのは、テレビシリーズのパイロット版制作に入るデッド・ラインギリギリである1966年でした。
1966年、デビュー曲「恋の終列車 」をリリース。同年、NBC系列で『ザ・モンキーズ・ショー』が始まります。発売されたデビューアルバム『恋の終列車 』は、テレビとの相乗効果により500万枚を売上げるヒットとなります。以降、4人はレコーディングとテレビシリーズの撮影に追われる日々となります。
1967年、第2弾アルバム『アイム・ア・ビリーバー 』をリリース。この頃から制作者サイドとメンバー間の軋轢が目立つようになります。当初、2作目以降はメンバー自身もアルバム制作に関われるという話であったが、モンキーズの音楽部門の責任者であるドン・カーシュナーはこれを一切認めず、ファーストアルバムまでの時点に収録が終わっていながら未発表になっていた自身の音楽出版社所属の楽曲を使用し、スタジオミュージシャンのバッキングトラックにボーカルを乗せた音源を使用して制作したアルバムをメンバーの知らないうちに発売しました。
さらにカーシュナーは、ニール・ダイアモンドの提供曲「恋はちょっぴり」を3枚目のシングルとして発売することにしていたが、B面に使用する曲を当初予定していたネスミス作詞・作曲の「どこかで知った娘 」ではなくジェフ・バリーの手による「シー・ハングズ・アウト 」に無断で差し替えて発表します。この暴挙にネスミスが激怒し、当初予定通りの「恋はちょっぴり/どこかで知った娘」のシングル盤を独自に制作。「これこそが本物のサード・シングルだ」として記者会見を開き、マスメディアを巻き込んだクーデターを決行しました。
クーデターの結果、ドン・カーシュナーは更迭され、カーシュナーが発表しようとしたシングルは業界関係者に配られたサンプル盤の段階で全て回収され、マイクの主張した盤が正式な3枚目のシングルとして発売されます。なお、このサンプル盤はその後「幻のシングル」としてコレクターズ・アイテムとなり高値が付けられています。
カーシュナーを追い出したマイクは、代わりに当時「ハッピー・トゥギャザー」のヒットを飛ばしたタートルズのチップ・ダグラス(当時は「Douglas Farthing Hatlelid」名義)をプロデューサーに迎えて3作目の『灰色の影 』を1967年にリリース。この頃にはハーマンズ・ハーミッツに替わって全米1位の人気グループとなり、イギリスにおいても高い人気を得ていました。
3作目のアルバム『灰色の影』は、前2作とは異なり、チップ・ダグラスとメンバー自身によってプロデュースされ、自分たちの選曲した曲と自作曲が収録されました。演奏もホーン・セクションを除いてはすべて自分自身で行なわれたこのアルバムは、テクニックが稚拙なためにガレージパンクのような荒さがあり、レコーディング中のお遊びなども収められています。当時の4人の等身大を表現する作品に仕上がったものの、売り上げは前作を若干下回ります。(なお、このアルバムの次にチャート・トップに立ったのは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』である)。その後、撮影、レコーディング、ツアーなどの時間的な制約から、演奏はスタジオミュージシャンを使用する方式にります。
1967年からカナダ・全米でのツアーを開始。メンバーはその合間にレコーディング、テレビシリーズ撮影という殺人的なスケジュールをこなします。なお、この同年のライブレコーディングは、20年後の1987年に『Live 1967』としてリリースされました。同年、『スター・コレクター』をリリース。この頃から次作のレコーディングに取り掛かります。
1968年、テレビシリーズが終了。その直後の4月に『小鳥と蜂とモンキーズ 』がリリースされます。同作と前作の『スター・コレクター』でモンキーズは作品的に一つの頂点を極めたが、『小鳥と蜂とモンキーズ』には前作ほどの分かりやすさはなく、直後にテレビシリーズが終了したこともあって、売上げは前作の『スター・コレクター』に及びませんでした。『小鳥と蜂とモンキーズ』は、モンキーズのアルバムで初めてアルバムチャートの1位を逃した作品です。
1968年、映画『HEAD』の撮影が行われます。「これまでに作り上げたアイドルとしてのモンキーズをぶち壊す」というボブ・ラフェルソンの意図により、出来上がった作品は細切れのシーンをつなげたパッチワークのような難解な作品となり、同年に公開されたものの興行的には失敗に終わります。この作品の脚本はジャック・ニコルソンが手がけ、デニス・ホッパーが出演しています。
1968年、太平洋ツアーを公演。9月にはオーストラリアで7公演を務めた後、来日しました。羽田空港にはファンの少女らが殺到し大騒ぎとなる。同年に日本武道館で、京都会館で、大阪フェスティバルホールでそれぞれ公演しました。武道館公演の模様は、当時日本で放送されていた『モンキーズ・ショー』の特別版として放送されました。(この回はマスターテープが紛失し、その後の再放送では放送されていない)。
太平洋ツアーの後、1968年に放送されたNBCのスペシャル番組『33 1/3レボリューションズ・パー・モンキー』の出演後、ピーター・トークがグループを脱退。その後、モンキーズは3人で活動を行います。
1969年、ピーター・トーク在籍時に録音済みだった未発表曲を寄せ集めたアルバム『インスタント・リプレイ 』をリリース。この時点で、テレビシリーズが終わってからほぼ1年が経っていました。その後もCBS・ABCではテレビシリーズの再放送がされてはいたが、アルバムチャートは最高32位止まりとなります。
以降も3人でのツアー、テレビ番組へのゲスト出演、レコーディングをこなします。1969年、マイク・ネスミスが得意とするカントリー色の強いアルバム『プレゼント 』をリリースするも、前作よりもさらにセールスは悪化。この作品が3人での最後の作品となりました。この後、マイク・ネスミスは莫大な違約金を払ってモンキーズを脱退し、ファースト・ナショナル・バンドを結成してソロ活動へと移ります。なお、現在のマイク・ネスミスはグラム・パーソンズらと並んでカントリーロックのパイオニアとしての評価が定着しています。
1970年、アルバム『チェンジズ 』をリリースするも話題にすりませんでした。この頃はパートリッジ・ファミリーやボビー・シャーマンといった新たなるアイドルが躍進中で、すでにモンキーズは過去の存在と化していました。。『チェンジズ』は、最終的にミッキーとデイヴィーの2人だけになってしまったモンキーズの最後のアルバムである。同アルバム発表と時期をほぼ同じくして、モンキーズは解散しました。その後、再結成や『ニューモンキーズ』などといくつかの形がありましたが、これといった成功へは結びついていません。
マイク・ネスミスは、司会者やバラエティ番組である程度の成功は、納めているようです。

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