第3のビートルズ‼️‼️‼️

世界を席巻し、伝説どなった『ザ・ビートルズ』。そんなスターに、密かにレノン/マッカートニーに隠れ、実力を磨いでいたアーティストがいました。『ジョージ・ハリスン』です。

1943年、リバプールにて誕生。父・ハロルドはウェールズ系のバス運転手。母・ルイーズはアイルランド系の敬虔なカトリック教徒でした。同時にドイツ人の血も入っています。ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越します。ダヴディル・ロード幼児学校、ダヴディル小学校に通い、リヴァプール・インスティテュートに入学。当時の同級生はジョージを独りぼっちで隅に座っているようなヤツと評しています。

ロックンロールに熱中していたジョージが、スキッフル・バンドを結成しようと考えて、初めて手にした楽器はギターではなくウォッシュボードこれは、一緒にバンドを組もうとしていた2番目の兄ピーター(1940年2007年)がすでにギターをでした。しかし、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まり、13歳の時に同じ学校の生徒から中古ギターを購入しました。

そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージは念願のスキッフル・グループを結成。バンド名を「レベルズ」としました。当時のイギリスには同名のバンドは多数存在していました。「レベルズ」が初めてコンサート・ステージに立つ日、ブッキングしている他のバンドが全てキャンセルしたので、少ないレパートリーの中、一曲を繰り返し演奏し数十分間引きのばし乗り切ったという逸話があります。

1950年代の中頃にポール・マッカートニーに出会います。ポールに紹介されジョン・レノンらのバンド「クオリーメン」(ビートルズの前身)に加入。バンドに加入できたのは、空のバスの2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要したビル・ジャスティスの”Raunchy”というギターインストゥルメンタルを完璧に弾いたことが、ジョンに認められたからと言われています。しかし、「いつもギターに触っていたい」という情熱を満たすため、以前から在籍しているバンドも辞めずに活動に勤しんでします。そのため、時には8時間以上も、徹夜で演奏することもあったが、ジョージには苦になリませんでした。

その後、ビートルズで活躍するも、方向性の違いが原因で、バンドは解散してしまいます。

ビートルズが解散して元メンバーの4人は、活発にソロ音楽活動を展開した。本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにも関わらず、全米/全英のアルバムチャートで1位となる大ヒットとなります。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に収録した。プロデューサー、フィル・スペクターのプロデュースと相まって、優れたアルバムとして評価されています。

シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1を記録しました。この曲はシフォンズの「いかした彼」(1963年)の盗作であるとの訴訟を起こされ、ジョージは1度敗訴。さらに版権を手に入れたアラン・クラインにも訴訟を起こされ、81年に賠償金を支払っています。作詞作曲をした人物はすでに死亡しており、著作権を手に入れた者が訴訟を起こすという新自由主義的な訴訟でした。

翌年には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート『バングラデシュ・コンサート』(全米2位、全英1位)を開催。ビートルズ解散後初めてリンゴ・スターと共演して話題になったほか、エリック・クラプトンや、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなどが参加したイベントは大成功を収めました。その模様を収めたライヴ盤は、1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝きました。

1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース・レコード」を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースします。(彼自身はまだアップルとの契約が残っていたため、このあともしばらくはEMIからレコードを発売し続けた)。それに伴い同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けました。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまいました。喉の異常は当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなります。同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされ、最終的に敗訴するなど、順風満帆に過ぎていたソロ活動はこの頃様々な不運によって精彩を欠いていました。

1974年にはアルバム『ダーク・ホース』(全米4位)を発表「ディンドン」「ダーク・ホース」は日本でヒット。1975年発売の『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したハリスンは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかります。日本ではシングル「ユー」がヒット。しかし、その矢先に彼は肝炎を患って入院してしまいます。そのため、レコード会社にはアルバムを提出する期限を守ることができず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから、違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまいます。A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件にワーナー・ブラザース・レコードと新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることになります。ここから1976年に『33 1/3』、1979年に『慈愛の輝き』という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11位、14位というまずまずのセールスを収めました。『慈愛の輝き』には「ブロウ・アウェイ」「ラヴ・カムズ・トゥ・エブリワン」という久々にジョージらしい曲が収められています。

私生活では、自分の親友だったエリック・クラプトンと交際を始めた妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会ったメキシコ系アメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン(現在はミュージシャン)を儲けています。1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事でも成功した。また、自伝『アイ・ミー・マイン』を1979年に発表した。

副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになります。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく〜母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない、内容が暗い」という理由からレコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまいます。(ジョージ自身が製作したジャケットも気に入らないと要求された)。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけてはクイーンやエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表されました。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなります。リンゴ・スターに提供する予定だった曲の歌詞を書き換えて完成したこの曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼びました。内容の差し替えを要求されたアルバムにはこの曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができました。

翌1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れませんでした。所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできませんでした。このアルバムの発表以降、ハリスンはアーティストとしての活動から半引退状態となります。プライヴェートでときおり楽曲を書くことはあったものの、特に1985年は「最も音楽から離れた年」であったと後年本人は語っています。新しいマテリアルとして映画のサウンドトラック盤『Porky’s Revenge』に収録の「青春の想い」をリリースした程度でこの曲はシングルでも発売されました。

本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナ、ショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』でした。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズ・フォロワーとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンである。リンとの出会いにより、彼は再び音楽活動への情熱を取り戻します。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえるひどい代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たしました。

1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスのチャールズ皇太子が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスでパフォーマンスを行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏しました。前年の同イヴェントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となりました。

リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年に発売されました。このアルバムの発表にあたってジョージは、久々に世界中のメディアで大々的にプロモーションを行い、その甲斐あってアルバムはアメリカをはじめとする世界各国で大ヒット(全米8位、全英10位)日本では、最も売れた彼のソロ作品となりました。また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」は全米1位を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは1973年以来であり、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンやランディ・ニューマンなどを手がける売れっ子プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなります。同年ジョージはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続3位を記録。また、1989年製作の映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供し、現在でも映画ファンに親しまれています。

1991年、日本だけでエリック・クラプトンとのジョイント・ツアーが行われます。(日本を選んだのはクラプトンとそのマネージャーの提案で、ハリスンも勧められて快諾した)。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの日本公演でもありました。当時、息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われます。1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになりました。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなります。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライブ盤『ライヴ・イン・ジャパン』(全米126位)に収められています。翌1992年、ほぼ同じ曲目と同じバンド(クラプトンは不参加だったが、ジョー・ウォルシュ、ゲイリー・ムーア、リンゴ・スターらと共演)で自らが支持する政党の支援を目的としたコンサートを本国で行いました。同年にはボブ・ディランのレコードデビュー30周年記念コンサートにクラプトンらと参加するが、これがジョージにとっての生涯最後のライヴ・パフォーマンスとなりました。その間にひそかに広島県に訪問して、原爆資料館を見学して、原爆による戦争の恐ろしさを痛感しました。

1993年より、「ビートルズ・アンソロジー」のプロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業が行われます。ジョン・レノンの生前に残されたデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」(全米6位、全英2位)「リアル・ラヴ」(全米11位、全英4位)の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなりました。

1997年には、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的にプロモーション活動を行いました。だが、同時期に喉頭癌が判明し、7月に手術を受けることになります。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったといいます。1999年にはOBEを拒否しました。理由は97年に授章したポール・マッカートニーが騎士団よりも下の階級だったことで、勲章は自分を侮辱していると感じたためと、インディペンデントやBBCが報道しています。

1999年頃からは、自らが過去に発表したソロ・アルバムのリマスターの作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、同年晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負ってしまいます。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きいものでした。この話を聞いた多くの人が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄しました。しかし、恐怖するファンを安心させるかのように、2001年、ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かしました。

この間にビートルズの元メンバーであるピート・ベストに関して、ジョージは「僕はビートルズ時代にピートに何もしてあげられなかった。せめてピートに会って当時のことを謝りたかったんだ」と述べていたが、ジョージの死で再会は実現しませんでした。

しかし、そんな矢先に肺癌が発見され、さらに脳腫瘍も併発していることが判明。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛びかいます。交本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道はさらに過熱しました。2001年には、各国の大衆紙がジョージが危篤であると報道しました。11月29日(日本時間11月30日早朝)、彼は滞在先であるロサンゼルスの友人宅にて家族・友人たちに看取られながら58歳で息を引き取りました。ビートルズ・ファンが追悼の巡礼に殺到することを危惧したオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載し、死去した場所は公表されていません。

ハリスンが病に冒されなければ、生前に完成するはずだった新作は、彼の死から約1年後の2002年11月に『ブレインウォッシュド』(全米18位、全英29位)というタイトルで発売されました。(プロデュースはハリスンと彼の息子ダーニ、ジェフ・リンの3人)。2003年度グラミー賞には本アルバム、及び「Any Road」と「Marwa Blues」の2曲がノミネートされ、後者は最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞しました。

遺作集のリリースとほぼ時期を同じくしてエリック・クラプトンの企画による追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』が行われ、リンとトム・ペティ、マッカートニー、スター、ビリー・プレストン、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、生前ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数参加しました。このコンサートの模様は、翌年にCDとDVDでリリースされています。

リンゴ・スターはジョージへの追悼曲「Never Without You」を作り、2003年にシングルで発売した。アルバム『リンゴ・ラマ』にも収録されています。

2004年には、ソロ・アーティストとして『ロックの殿堂』入りを果たし、同時期にはワーナー在籍時代のアルバムが、デジタル・リマスターを施されて再リリースされ、話題を呼びました。また、2005年には彼のキャリア最大の功績のひとつである『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いを新たに再発されました。2006年には、アルバム未収録だった2曲を加えた、1973年発表の全米1位アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が、リマスターされて発売されました。

2009年、『ハリウッドの殿堂』入りを果たします。ビートルズとしては既にグループで殿堂入りしており、個人ではレノンに次いで2人目となりました。また、同年には、アビー・ロード・スタジオにて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた1967年頃(当時23〜24歳)に書かれたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者であるハンター・デイヴィスによって発見され、大英図書館にて展示された。同年6月16日には自身3枚目となるベスト盤『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』(全英4位、全米24位)が発売されました。(日本盤は7月8日発売)。

没後10年である2011年、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が公開されました。

現在ポール、リンゴに続き、英国王室から「Sir」の称号が与えられる見通しとなっています。

『静かなるビートルズ』。伝説として、語り継がれることでしょう。



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p

コメントを残す