ビートルズの後釜的なバンドは沢山いますが、『バッドフィンガー』はその代表格でしょう。
バッドフィンガーの前身となるパンサーズ (The Panthers) は1961年に結成されました。その後、アイヴィーズ (The Iveys) と名前を変えて活動中にマル・エヴァンズに認められ、1968年11月にアップル・レコードからデビュー・シングル「メイビー・トゥモロウ」を発表。しかし、この曲は翌1969年にオランダのヒット・チャートで15位を記録するものの、全英シングルチャート入りを逃し、全米でも67位止まりでした。そして、1969年のファースト・アルバム『メイビー・トゥモロウ』はイタリア、西ドイツ、日本でしかリリースされず、売り上げも芳しくありませんでした。アメリカおよびイギリスでの発売が見送られた理由は、当時アップルの新社長に就任したばかりのアラン・クレインが会社の財政状況を調査し終えるまですべての非ビートルズ作品のリリースを延期したためでした。これにより発売時期を逃した同作品は上記3カ国以外でリリースされず、1990年代に再発されるまでコレクターズ・アイテムとなっています。
1969年、アイヴィーズは再出発をはかるにあたり、ジ・アイヴィー・リーグとの混同を避けるべく、改名を提案。ポール・マッカートニーはThe CagneysとHome、ジョン・レノンはPrixとThe Glass Onion、ニール・アスピノールはビートルズのナンバー「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」の当初の名前である「バッドフィンガー・ブギ」より名をとったバッドフィンガーを提案。このうち、ニールの案が採用されました。
バッドフィンガー名義のファースト・アルバム『マジック・クリスチャン・ミュージック』のレコーディング中、1969年8月のセッションを最後にロン・グリフィスがバンドを去り、残りの曲ではトム・エヴァンズがベースを弾きました。そして、アルバム完成後には新ギタリストにジョーイ・モーランドを加えて、バンドは再編成されました。
ビートルズの弟分的存在として、1969年末にリンゴ・スター出演の映画マジック・クリスチャンのテーマ曲「マジック・クリスチャンのテーマ」(作詞・作曲はポール・マッカートニー)で再デビューを果たす。同曲は1970年にアメリカ盤シングルも発売され、全英4位、全米7位に入るヒットとなりました。そして1970年にリリースされたファースト・アルバム『マジック・クリスチャン・ミュージック』(全米55位)には、英米でリリースされなかったアイヴィーズのアルバムから7曲を再収録しました。
1970年にはセカンド・アルバム『ノー・ダイス』(全米28位)をリリース。「嵐の恋」がシングル・カットされ、全米8位にまで上昇します。また、1972年と1994年にハリー・ニルソンとマライア・キャリーによって大ヒットとなる「ウィズアウト・ユー」が収録されているのもこのアルバムです。
1970年に最初のアメリカ・ツアーに備えて、バンドはスタン・ポリーという当時ニューヨークで評判の良かったマネージャーを雇い入れる。しかし実際は犯罪組織とつながりがあり、何よりバッドフィンガーにとって不利益となる支払協定がメンバーの承諾なしに織り込まれた契約でした。
バンドは人気の上昇にともないアップル関係の多くのセッションに参加。ジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』、リンゴ・スターのシングル「明日への願い」ではバック・ボーカルを提供。トムとジョーイはジョン・レノンのアルバム『イマジン』でもプレイしています。。そして4人のメンバー全員が1971年8月にバックアップ・ミュージシャンとしてジョージ・ハリスンのバングラデシュ・コンサートに参加しています。
1971年には3枚目のアルバム『ストレート・アップ』(全米31位)をリリース。プロデュースは ジョージ・ハリスンとトッド・ラングレン。代表曲「デイ・アフター・デイ」(全英10位、全米4位)が収録されており、彼らの商業的に最も成功したアルバムである。後に米誌Goldmineは廃盤アルバムの読者投票で最も人気の高かったアルバムとしてCDでのリリースを促しました。
しかし、ビートルズ解散後のアップル・レコードは財政的に非常に混沌としていて、スタンが新たなレコードレーベルを捜しているのをアップルの社長アラン・クレインは知っており当然ながら両者の関係は良くありませんでした。
1972年のイギリスツアーの途中、マイクが一時脱退。ドラムスにロッド・スタウィンスキを迎え、残るイギリスツアーとアメリカツアーを行いました。ツアー後、マイクが復帰。
バッドフィンガーの4枚目にしてアップルでの最後のアルバム『アス』のセッションは1972年にアップルの地下スタジオで始まり、5つのレコーディングスタジオで9カ月に渡り続きました。その間、スタンはワーナー・ブラザースとの間で百万ドル以上に及ぶというレコーディング契約を交渉しています。
新レーベルでのアルバムのリリースはアップルから合法的な処置で妨害されています。アルバム『アス』はアメリカでは1973年にリリースされたが、本国イギリスではクオリティの問題や契約に関するごたごたなどの理由で遅らされ1974年5月にやっとリリースされています。
ワーナー・ブラザースで1974年に2枚のアルバムをリリースする契約だったため、バンドは本国イギリスで1年の間で2つのレーベルから3枚のアルバムをリリースすることとなりました。結果的にあまりプロモーションもされずじまいでセールスは伸び悩びます。また、アップルはバンドをロバに見立て巨大なニンジン(ワーナーとの巨額な契約)につられるという皮肉的な絵をこのアルバムのジャケットに使用し、タイトルも『Ass(ロバ)』(全米122位)としました。
『アス』セッションが終了した6週間後に、バンドは彼らの最初のワーナーからのリリースのためスタジオに入ります。そのアルバム『涙の旅路』(全米161位)からの「Love Is Easy」、「I Miss You」のシングルは、チャートに達しなかった。しかしバンドは数回のアメリカ・ツアーの結果、何とかアメリカのファンのサポートを維持します。
最後のアメリカ・ツアーに続いてバンドはコロラドのCaribou Ranchレコーディング・スタジオにて『素敵な君』(全米148位)をレコーディングする。ローリング・ストーン誌などのアルバム・レビューでは『素敵な君』に対しなかなか好意的でした。
しかしバンド管理と金銭を中心とした内部の摩擦は2、3年間の間にバンド内で膨張し続けていきます。ジョーイの妻はスタンとの完全な契約破棄を進言するも他のメンバー、特にピートを説得するには至りませんでした。
バンドが1974年のイギリス・ツアーのためリハーサルを始めるすぐ前にピートは突然バンドを脱退します。一時、「ギタリスト/キーボード奏者」のボブ・ジャクソンが彼の後任となるが、1974年のツアーが始まるすぐ前にピートは再びバンドに加わります。その時ボブはフルタイムの「キーボード奏者」として残ることとなりました。ツアーの後に、それらの管理状況で意見の不一致についてバンドを辞めたのは結局ジョーイでした。
ピート、トム、ボブ、およびマイクは、『素敵な君』がリリースされたすぐ後に次のアルバムをレコーディングするために再び集まった。アルバム『Head First』は1974年のアップル・スタジオにて2週間でレコーディングされました。ワーナー・ブラザースの出版事業部は、バッドフィンガー・エンタープライズInc.(グループの管理会社)とスタンに対して訴訟を準備していたため、『Head First』のテープを受け入れるのを拒否しました。ボブは1974年12月15日にエンジニアのフィル・マクドナルドによって終了したラフミックスのコピーを保有したが、このテープは2000年の『Head First』リリースのベースとなったものでした。
1974年にバッドフィンガー・エンタープライズInc.に対してワーナー・ブラザースの出版事業部によって訴訟が着手されました(1979年のカリフォルニア法廷まで継続)。問題はスタンが管理していたアメリカにおける10万ドルの消滅でした。ワーナー・ブラザースがお金の存在に関して尋ねるも、スタンはこの要求を拒否。これによりワーナー・ブラザースによるバッドフィンガーに係るリリースが一切止められ、1975年前半にはレコード店の棚から全て引き上げられます。
バンドとスタンとの契約ではバッドフィンガー・エンタープライズInc.に対するロイヤリティがスタンによってコントロールされた会社に全て入ることになっていきました。またメンバーに対する給料はその会社から支払われていたが、それらは収益に対し酷く不充分なものでした。
ワーナー・ブラザース訴訟が起こされたすぐ後に、スタンは給料をバンドのメンバーに送金するのを中止する。このことは極貧の財政状況であったピートを苦しめます。
絶望のあまりピートは、身重のガールフレンドを残し1975年に「スタンを道連れにする」という意味深な遺書を書いて首吊り自殺を遂げます。娘が誕生したのは彼の死の一ヶ月後でした。これにより、バンドは一時終焉を迎えました。
最後は、悲しい結末でしたが、彼らの作品は今でも生き続けています。

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