アメリカには、『サザン・ロック』と言うジャンルの音楽があります。中でも、『ザ・オールマン・ブラザーズ・バンド』はその代表格です。
デュアン・オールマンと弟のグレッグ・オールマンは、地元フロリダ州デイトナビーチで1963年、オールマン・ジョイズを結成し米国南東部のツアーを経験、シングル・レコードもリリースする。続いて60年代後半、2人はアワーグラスに参加するために、カリフォルニア州ロサンゼルスへ移住しました。このバンドはリバティ・レコードより2枚のアルバムをリリースしたものの、希望する音楽をプレイできないことに不満を感じたデュアンはバンドを脱退し、フロリダに戻ってしまいました。
フロリダ州ジャクソンビルで活動をするうちに、デュアンは31stオブ・フェブラリーというバンドのブッチ・トラックス(ドラムス)、またセカンドカミングのディッキー・ベッツ(ギター)とベリー・オークリー(ベース)、R&Bのドラマーとして実績のあったジェイ・ジョハンソン(ジェイモー)といった面々と出会い、セッションを重ねました。同時に、アラバマ州マッスルショールズのフェイム・スタジオを中心にセッション・ギタリストとして名を上げ、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケットなどのレコーディングに参加しました。
1969年、まだロサンゼルスに残って活動を続けていたグレッグをデュアンが呼び寄せ、前述のセッション・メンバーに合流する。これが、『ザ・オールマン・ブラザーズ・バンド』の誕生でした。
1969年、地元のキャプリコーン・レコードと契約、同レーベルのフィル・ウォルデンの薦めによりバンドの拠点をジャクソンビルからジョージア州メイコンに移す。同年、ファースト・アルバム『The Allman Brothers Band』(全米188位)をリリース。プロデュースは、ハービー・マンやクリームなどの作品でエンジニアを務めたエイドリアン・バーバーが担当しました。翌年にはデュアンと親交のあったトム・ダウドのプロデュースによる2作目『Idlewild South』(全米38位)をリリースするが、2作とも大きな成功を収めるには到りませんでした。
彼らの存在を不動のものとしたのは、続いてリリースした1971年のライヴ盤『At Fillmore East』(全米13位)でした。デュアンの豪快なスライド・ギターをフィーチャーしたブラインド・ウィリー・マクテルのカバー「Statesboro Blues」、20分以上に渡るジャムが展開される「Whipping Post」などの演奏を収録したライブ盤の金字塔として知られるようになりました。また、インストの「In Memory of Elizabeth Reed」にはこんなエピソードも。この曲はディッキー・ベッツが、よく行っていた川沿いの墓地でデートをしているときに作ったそうだが、その女性の名前をつける訳にはいかなかったので、ある墓碑銘に刻まれたIn Memory of Elizabeth Reedをそのまま拝借した。後日、このエピソードをデュアンがローリング・ストーン誌に暴露したそうです。
『At Fillmore East』の成功から間もない1971年デュアン・オールマンがメイコンにてオートバイでトラックに追突し、24歳で死去します。バンドは、後任ギタリストを補充せず、レコーディング途中だったアルバム『Eat A Peach』(全米4位)をベッツが中心となって完成させた。以後、ベッツがデュアンに変わってバンドのリーダーを務めるようになりました。
1972年には、キーボードにチャック・リーヴェルが新たに加入する。しかし、1972年、デュアンに続きベリー・オークリーもオートバイ事故により亡くなってしまいます。デュアンの事故現場から僅か3ブロックしか離れていないところでの事故でした。
度重なるメンバーの死にも関わらず、残ったメンバーはバンド活動を続行する。オークリーの後任にはラマー・ウィリアムズが加入し、翌1973年、『Brothers And Sisters』をリリース。全米1位の大ヒットを記録し、アメリカの国民的バンドとしての地位を確立しました。またシングルカットされた 「Ramblin’ Man」もポップ・チャート2位を記録しました。
これに先立つ同年、ザ・バンド、グレイトフル・デッドとともにニューヨーク州ワトキンズ・グレンのワトキンズ・グレン・レース・サーキットにおけるライブ (サマー・ジャム)に参加。このイベントは、60万人もの観客が訪れました。
1975年、アルバム『Win, Lose or Draw』を発表し、全米5位を記録。同年、バンドはアメリカ民主党ジミー・カーターの大統領選挙キャンペーンを支援するコンサートに参加し、カーターの支持母体サザン・バプティスト教会の支援を受けます。カーターの当選は南部のロック・バンドが最初に政治に深く関わった歴史的な一面も持ちます。
だがメンバー間の音楽的な意見の相違と個人的対立が徐々に大きくなり、バンドの結束は徐々に崩れてしまいます。そして1976年、バンドは解散します。グレッグとベッツはソロ活動に転じ、リーヴェル、ジェイモー、ウィリアムズはシー・レヴェルというバンドを結成するに到ります。
2年後の1978年、グレッグがベッツに和解を呼びかける形でバンドを再結成します。リーヴェルとウィリアムズはシー・レヴェルでの活動を続けたため再結成には加わらず、新たにデヴィッド・ゴールドフライズ(ベース)、ダン・トーラー(ギター)が加入した。1979年にはアルバム『Enlightened Rouges』(全米9位)をリリースし存在感をアピールするものの、この後、デビュー当時から所属していたキャプリコーン・レコードが倒産してしまいます。バンドはアリスタに移籍し、更に2枚のアルバムをリリース。1981年の『Brothers Of The Road』(全米44位)からのシングル「Straight From The Heart」はポップ・チャートの39位を記録し、まずまずの成功を収めるが、バンドは1982年に再度解散するに到ります。
1989年、ディッキー・ベッツ・バンドにいたギタリスト、ウォーレン・ヘインズとベーシストのアレン・ウッディ、それにジョニー・ニール(キーボード、ハーモニカ)を加え、バンドが再結成される。エピックと契約し、翌1990年、『Seven Turns』(全米53位)をリリース。1991年にはスパイロ・ジャイラなどで活動していたパーカッショニストのマーク・キニョーネスが加入。
1994年に『Where It All Begins』(全米45位)をリリースし、同年Woodstock ’94に出演。1995年には『ロックの殿堂』入り、さらに翌年には「Jessica」で第38回グラミー賞ベスト・ロック・インスト賞を受賞するなど、注目を集めていきます。
1997年、ヘインズとウッディがガヴァメント・ミュールの活動に専念するためにバンドから脱退します。後任にジャック・ピアソン(ギター)、オテイル・バーブリッジ(ベース)が加入しました。1999年には、ピアソンに替わり、ブッチ・トラックスの甥にあたるデレク・トラックスが迎え入れられます。
2000年には、デレク加入後としては初のライヴ盤『Peakin’ at the Beacon』を録音するが、同年、メンバーとの対立からオリジナル・メンバーのベッツがグループから追い出される形で脱退。一時的にジミー・ヘリングが後任として加入した後、翌2001年にはウォーレン・ヘインズを再度迎え入れ、その後はニューヨークのビーコン・シアターでの恒例ライヴ、2003年に9年ぶりのスタジオ録音アルバム『ヒッティン・ザ・ノート』(全米37位)を発表、またジャムバンド・ミュージックの祭典ボナルー・フェスティバル(2003年、2005年)への出演など精力的に活動しました。
2014年、ウォーレン・ヘインズとデレク・トラックスが同年中の公演を最後にバンドから脱退することを表明。デレクは自身のバンド、テデスキ・トラックス・バンドの活動に専念するために脱退したのでした。同年にビーコン・シアターで、ウォーレンとデレクをメンバーとした最後の公演が行われました。
2014年現在、バンドとしての活動予定は発表されていない。
2017年、オリジナルメンバーの1人、ブッチ・トラックスが死去。69歳没。マイアミ・ヘラルド紙によると、ブッチはフロリダ州ウェストパームビーチにある自宅のマンションで拳銃で頭を撃ち自殺したという事です。
2017年、オールマン兄弟の1人、グレッグ・オールマンがジョージア州サバンナの自宅で肝臓ガンの合併症により69歳で死去。
伝説のバンドの波瀾万丈なストーリー。しかし、作品は今でも生き続けます。

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