ロックと言えば、『ザ・ビートルズ』が代表的ですが、それ以前にデビューして売れていたバンドがいます。『ザ・ビーチ・ボーイズ』です。
ブライアン、デニス、カールのウィルソン兄弟はサーフィンで知り合ったジョン・マース(後のザ・ウォーカー・ブラザースのジョン・ウォーカー)よりギターの手ほどきを受け、いとこのマイク・ラヴ、高校の友人アル・ジャーディンと共に1961年にグループを結成します。グループの前途に不安を感じ一時脱退したアル・ジャーディンの代わりとしてデヴィッド・マークスが1962年から1963年まで在籍しました。
彼らは最初ペンデルトーンズ(それはマイク・ラヴが当時流行していたシャツから取った名)と名乗り、ウィルソン兄弟の父親マレーによってマネジメントされました。マレーの友人ハイト・モーガンが経営していた小レーベル、CANDIXと契約しデビューシングル「サーフィン」をリリースしたが、そのレーベルには彼らの知らない「ザ・ビーチ・ボーイズ」という名前がクレジットされていました。デビューシングルは全米75位止まりだったものの、マレーは大手のキャピトル・レコードとの契約を成功させます。
キャピトル・レコードに移籍後の第一弾シングル「サーフィン・サファリ」は全米14位のヒットとなった。彼らの初期の曲のテーマはカリフォルニアの青年のライフスタイル(例えば「オール・サマー・ロング」「ファン・ファン・ファン」)、自動車(「リトル・デュース・クーペ」)そしてサーフィン(「サーフィン」「サーフィン・サファリ」)から取られたものでした。これらは主にデニスの趣味でした。リーダーで、ヒット曲の多くを書いたブライアン・ウィルソンには、サーフィンの趣味はありません。
1962年末にデビューアルバムとなる『サーフィン・サファリ』(全米32位)を発表してから1966年の『ペット・サウンズ』の前まで、彼らは3年間で10枚のアルバムを発表しています。うち、ライブアルバムが1枚、企画アルバムが2枚で、オリジナルアルバムは7枚となるが、クリスマスアルバム用にもオリジナル曲を用意しています。CDの普及により、アルバム1枚あたりの曲数が増えた現在と単純な比較はできないし、曲の重複もあるが、1年にオリジナルアルバムを2枚以上出していたことになります。また、2作目まではベテランのA&Rマンであったニック・ヴェネにプロデュースを任せたものの、1963年のオリジナルアルバム3作目『サーファー・ガール』(全米7位、全英13位)からはブライアン本人がプロデュースまでつとめるようになりました。このとき、ブライアンはまだ21歳でした。
その後、ブライアンは敬愛するフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドや、効果音を取り入れたアレンジを見事に消化し才能を開花させた。この時期に、演奏技術に優れたスタジオ・ミュージシャンをバックに初期のポップで商業主義的な『オール・サマー・ロング』(全米4位)『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥディ』(全米4位、全英6位)『サマー・デイズ』(全米2位、全英4位)が立て続けに発表されます。しかし、順調に見えたビーチボーイズの前途にその後ずっと付きまとう影が現れたす。
1964年末のツアーに向かう飛行機の中で、ブライアンは感情の抑制がきかなくなってライブを欠席します。そしてこれをきっかけに、コンサート活動への参加を止め、スタジオでの音楽作りに専念することを宣言してしまいます。このツアーではブライアンの代わりをグレン・キャンベルが務めました。その後、この役目を担うためにブルース・ジョンストンが参加し、結局そのまま6人目のビーチボーイとして以降の音楽生活を送ることになります。
ブライアンはビートルズのアルバム『ラバー・ソウル』に衝撃を受け、対抗心を燃やした。そして、当時ポップ・ミュージックとしては珍しい完全なコンセプト・アルバムを作ることを考えた。これが『ペット・サウンズ』(全米10位、全英2位)です。しかし、それまでの彼らのイメージとはかけ離れていた作品であるため、契約していたキャピトル・レコードから敬遠され、保守的な米国のファンにもなかなか受け入れられませんでした。
早々に50万枚を売り上げたが、それまでの作品に比べて売上の伸びない状況に不満を感じたキャピトル・レコードは、ペット・サウンズの発売後すぐに、それまでのヒット曲を集めたアルバム『ベスト・オブ・ザ・ビーチボーイズ』(全米8位、全英2位)を発表しました。ベスト盤は瞬く間に100万枚を売上げ、ペット・サウンズよりもヒットしてしまう結果となった。この事実にブライアンは酷く傷つき、その傷はその後長くブライアンを蝕むことになります。
しかしイギリスでは米国の反応と異なり好評であり、シングルがヒットチャート上位にランクインする結果となりました。また、元ビートルズのポール・マッカートニーや、ザ・フーのピート・タウンゼント、エリック・クラプトンが好きなアルバムとして挙げるなど、一部には理解者がいたが、このアルバムが見直されるには、かなりの時間が必要でした。
スタジオでの完全主義ゆえに彼は『ペット・サウンズ』以上の作品を作り出さなければならないという強迫観念に駆られ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音と期間が重複していた『スマイル』の制作中にノイローゼになりました。
一日の大半をドラッグとアルコールに依存するようになったブライアンは、アルバム内の曲「エレメンツ」録音時にスタジオ内で消防士の格好をしたり、キャピトルの重役夫人を悪魔呼ばわりしてその重役のスタジオ入りを拒否したり、奇行が見られるようになりました。また、スタジオでのエフェクトに凝り始めたブライアンと、グループの持ち味であるボーカル・ハーモニー路線を支持したマイクを始めとする他メンバーとの方向性に対する対立も深まります。モジュラー・レコーディングといういくつかの(実際には、中間部が異なる各曲数十テイクに及ぶ)テイクの断片を組み合わす方式は、編集段階でもさらに精神的混乱を巻き起こします。
『スマイル』はキャピトル・レコードの再三のリリース要求にもかかわらず結局完成せず、1967年5月にキャピトルはこのアルバム発売をキャンセルした。キャピトル・レコードは、アルバムをリリースさせるために、レコーディングの途中にもかかわらずジャケットを印刷してプレッシャーを与えようとしていたが、大半が破棄されました。
『スマイル』用の曲のうちのいくつかは『スマイリー・スマイル』(全米41位、全英9位)に収録されたが、そのバージョンは厳密には『スマイル』録音時のテイクではなく、ブライアンがドロップアウトした後に他のメンバーが手早くでっち上げた断片や残骸とでもいうべきものでありました。当然、40年後にアウトテイクも含んだ形で発表されたボックスセット『グッド・バイブレーションズ・ボックス』に収録された同名楽曲の完成度とは比べものにならない代物で、「英雄と悪漢」(全米12位、全英8位)、「グッド・ヴァイブレーション」(英米1位)といった傑作曲が収録されたものの、『スマイリー・スマイル』の評価は惨憺たるものでした。ブライアンが『スマイル』を放棄した後に、残りのメンバーが作り上げた『スマイリー・スマイル』が、彼らが嫌ったサイケデリック色の強いアルバムとなったのは皮肉な結果でした。
ブライアンの精神状態の悪化や事実上のドロップアウトにもかかわらず、バンドはさらに活発に活動を続けました。。『ワイルド・ハニー』(全米24位、全英7位)『フレンズ』(全米13位、全英126位)『20/20』(全米68位、全英3位)までの作品をキャピトル・レコードで発表しました。
ただし、ブライアン以外のメンバーも平穏な生活を送っていたわけではありません。この時期デニスは、後に女優シャロン・テート惨殺事件を起こすチャールズ・マンソンと共同生活を送った上に、楽曲の共作まで行っている。これは事件後スキャンダルとなりました。
1970年の『サンフラワー』(全米151位、全英29位)でキャピトルレコードを離れ、ワーナーブラザース傘下のリプリーズに移籍。また、本格的に自分たちのレーベルであるブラザーレコード名義で作品を発表するようになります。続いて1971年の『サーフズ・アップ』(全米29位、全英15位)がリリースされました。そのタイトル・トラック「サーフズ・アップ」は才能あるシンガー・ソング・ライターのヴァン・ダイク・パークスとの共作で、元々は『スマイル』に収録される曲であったが、ブライアンの思った通りのボーカルが録音できず、カールが代わってリードボーカルを務めました。このように『スマイル』が頓挫してから以後に発表されたほとんどのアルバムには、分散する形で『スマイル』収録予定曲の別バージョンが収録されています。
1970年代を通してブライアンの活動は低調で、1973年の『オランダ』(全米36位、全英20位)も複雑な評価を得ました。ブライアンは1976年にツアーに復帰したが、彼の精神疾患は1990年代まで問題のままでした。ただし、ブライアン不在の中、他のメンバーは精力的にツアーを続け、ライブバンドとしての地位を確立していきます。また、ブライアンの穴を埋めるために、メンバーが作った楽曲の中には佳作もあり、ビーチボーイズが決してブライアン一人の才能によって成り立っていたわけではないことを示す結果となりました。
しかし、1983年にウィルソン三兄弟の次男であるデニスが事故死。泥酔状態でクルーザーから水中に飛び込み、溺死でした。当時、それぞれがソロアルバムを出すなど、すでに分裂の危機にあった彼らは、デニスの死をきっかけとして一時的に以前の結束を取り戻すかのように見えました。
1985年に行なわれた『ライヴ・エイド』に出演します。亡くなったデニス以外のメンバー5人(ブルース、カール、マイク、アル、ブライアン)がフィラデルフィア・JFKスタジアムに集結し、「カリフォルニア・ガールズ」「ヘルプ・ミー・ロンダ」「素敵じゃないか」「グッド・ヴァイブレーション」「サーフィンU.S.A.」を披露しました。これにより残された5人での活動に大きな期待が寄せられたが、同年リリースされたアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ』以後、ブライアンはマイクとの共作をやめ、精神面での主治医ユージン・ランディの誘導により、ソロ活動に重きを置くようになっていきます。
活動停止やソロ活動を経て、バンド活動は継続され、1988年、亡くなったデニスをはじめとして、マイク、カールもソロアルバムを発表済みだったが、とうとうブライアンがソロアルバム『ブライアン・ウィルソン』を発表します。このアルバムは精神分析医ユージン・ランディの強い影響下で作られたものでした。ブライアンの才能が発揮された佳作で、一部で熱狂的に迎えられたものの、一般に大きな反響をもたらすものではありませんでした。皮肉なことに、同年ブライアン以外のメンバーがビーチ・ボーイズ名義で発表した映画『カクテル』の主題歌「ココモ」が22年ぶりの全米1位(全英25位)を獲得する大ヒットとなります。
2012年、新作アルバム『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ〜神の創りしラジオ〜』をリリース(全米3位、全英15位)、来日公演(千葉・名古屋・大阪)を行いました。
同年以降はマイクとブルースが再びブライアンらと袂を分かち、前年までのバンドを率いてツアーを再開。一方ブライアンとアルはリユニオンの継続を希望したものの受け入れられませんでした。その代わり、ブライアンのバンドにアルが息子のマット・ジャーディンと共に合流し二者でのアルバム製作やライヴ活動を行うようになったため、現状では二分裂の状態となっています。2016年頃からはかつて1971-73年の間メンバーだったブロンディ・チャップリンもブライアンのバンドに参加しています。

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