プログレ界の神‼️‼️‼️

イギリスで、一世風靡しな『プログレッシヴ・ロック』。その中でも、特に突き詰めて作品を出し続けたバンドがいます。『キング・クリムゾン』です。

1968年、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズ、ピーター・ジャイルズ)とロバート・フリップの3人によるバンド『ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ』から発展。同年6月にマルチプレイヤーのイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカルのジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンヴェンション)が加わってのスターティングメンバーで開始します。しかし翌7月にダイブルが抜け、同11月にフリップの古くからの友人であったボーカリスト兼ベーシストのグレッグ・レイクが参加。同12月にはピーター・ジャイルズが脱退し、残った5人(フリップ、Mジャイルズ、マクドナルド、シンフィールド、レイク)が正規メンバーとなり陣容が正式に固まりました。

翌1969年初頭、バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿」から採られ、「キング・クリムゾン」に決定。シンフィールドは、メンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えています。本格化した活動が始まり、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作を並行しました。

同年、デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』(全英5位、全米28位)を発表。それは今後のロック・ミュージックを左右する雛形が詰まったと言える作品で、業界からも非常に高い評価を得ます。当時から雑誌のレコード・レビューなどで「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で紹介されてしまう都市伝説も生まれました。

このファースト・アルバム制作当初、「ムーディー・ブルース」のプロデューサー トニー・クラークがプロデュースを担当する繋がりで、同バンドのレーベル「スレッショルド」からリリースする話もあったが、結局はクラークと制作面の相違で決裂。最終的にバンド側がセルフプロデュースして「アイランド・レコード」からのリリースとなりました。また、現在はフリップがバンドリーダーを務めているが、この当時の作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン)、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされています。

1stアルバム発表後、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは同年末で脱退し、ロック・デュオ「マクドナルド・アンド・ジャイルズ」結成に向かいます。これによりオリジナル・ラインナップは早くも崩壊し、アルバム僅か一枚の短命で終わります。

バンドは崩壊後も契約消化のため、アルバム・リリースを継続せねばならなかった。1970年からの新アルバム制作にサックス及びフルート奏者 メル・コリンズが正規加入、脱退していたジャイルズ兄弟らの協力やゲストプレイヤーを招いて、セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』(全英4位、全米31位)を完成させました。ただし、グレッグ・レイクがレコーディングに来なくなり、そのまま脱退。「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」結成に動き出していました。そのためライブツアーは実施されていません。その後、ボーカリスト兼ベーシスト ゴードン・ハスケルとドラマー アンディ・マカロックを正規メンバーに迎えた上に、ゲストプレイヤーの協力も仰いで、サード・アルバム『リザード』(全英26位、全米113位)を制作して同年末リリース。ライブツアーを実施しようとしたが、リハーサル段階でハスケルとマカロックが脱退したので頓挫しました。

1971年初頭、残った正規メンバー フリップ、コリンズ、シンフィールドは、ライブ活動ができる状態を模索します。まずボーカリストのボズ・バレルとドラマー イアン・ウォーレスを獲得。そしてベーシストは適任者探しが難航した末、バレルが兼任するという形に決まり、フリップがベースギターの素人であったバレルに奏法を教授しました。新作アルバムの制作に入る前に、4月からドイツや英国ツアーで1年以上ぶりのライブ活動を行います。

同年夏、新作アルバムの制作に着手し、並行して英国ツアーを継続。11月からは北米ツアーに入る。この間メンバー同士の確執が浮き彫りになります。特にフリップとシンフィールドの、ブレーン両名の険悪化は致命的であった。そんな中の同年末、4thアルバム『アイランズ』(全英30位、全米76位)を発表。そしてシンフィールドは解雇された。さらに翌1972年早々のリハーサル段階でもフリップと残りのメンバーとの間の意見統一ができず、結局フリップはバンドの解散を決意。マネジメント側は既に北米ツアーの向こう2ヶ月のスケジュールを組んでいたため、4人は渋々同意して渡米し、ツアーが終了した同4月頭に解散しました。

ツアー終了後フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は遠征先で意気投合したアレクシス・コーナーとバンド「スネイプ」を結成。その後バレルは、ポール・ロジャースのバンド「バッド・カンパニー」のベーシストとして参加。シンフィールドはグレッグ・レイクの呼びかけに応じて「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」に作詞で協力し、ソロ・アルバム『スティル』を制作した。後年にフリップは、この時期のバンド解消を「彼らとではアイデア(後の『太陽と戦慄』路線)を具体化できなかったから」と説明している。

同年6月、初のライブ・アルバム『アースバウンド』を廉価版にてリリース。これは北米ツアーの音源でカセットテープによって収録された劣悪な音質でありながら、対立が深まるメンバー同士の爆発寸前の驚異的な演奏であり、後々まで批評を受けました。

解散が決定した1972年初頭からの北米ツアーの期間中フリップは、既に次期クリムゾン再開に向けての青写真を描いていました?同年夏、ドラマーのビル・ブルーフォードを「イエス」から獲得。「ファミリー」のベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットン、デレク・ベイリーが主宰しクリムゾンが影響を受けた即興集団「カンパニー」のパーカッショニスト ジェイミー・ミューア、そして新鋭のキーボード兼ヴァイオリニスト デヴィッド・クロスが集結し、同年10月から再始動。即興演奏(インプロビゼーション)を主体に、新たな楽曲を生み出す技巧派集団に生まれ変わります。

ここで再びバンドとしてのピークを迎え、5th『太陽と戦慄』(全英20位、全米61位)6th『暗黒の世界』(全英28位、全米64位)7th『レッド』(全英45位、全米66位)の3枚のアルバムをメンバー変遷を経ながらもリリースし、ライブ・ツアーも精力的にこなしました。

しかし、ミューアは『太陽と戦慄』発表前に早々に脱退。1974年にはデヴィッド・クロスとヘヴィ志向のウェットンとの間で音楽的衝突が浮き彫りになり、クロスを一方的に解雇し、アルバム『レッド』制作の頃は正規メンバーがフリップ、ウェットン、ブルーフォードの3人に減少していました。

ウェットンの呼び掛けにより、数名の旧メンバーがゲスト参加してアルバムを完成させたが、リリース直後にフリップは解散を宣言。直前まではメディアに、ゲストで参加したかつての創設メンバー イアン・マクドナルドを再度迎えてのバンド継続も匂わせていたが、フリップは自身だけでも脱退するつもりでいた。実際の裏側では、スティーヴ・ハケット(ジェネシス)を自分の後任候補に据えての存続をフリップは提案していたが、マネジメント側に却下されていた事実が後年に明かされています。

解散後の1975年に、北米ツアーのライブを収録したアルバム『USA』(全米125位)をリリース。元音源にはヴァイオリン兼キーボード(主にメロトロン)担当のデヴィッド・クロスが参加していたが、数曲が編集段階でエディ・ジョブソンの演奏に差し替えられています(またこの頃、「太陽と戦慄 パート2」(5thアルバム『太陽と戦慄』収録)に酷似した曲が映画「エマニエル夫人」で使用され、フリップの訴えによる裁判が行なわれている。裁判後に和解)。

解散から7年後の1981年、フリップは、かつてのメンバーであるビル・ブルーフォードと共同で、「ディシプリン」という名のプロジェクトを開始した。アメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィンが加入。2人目のギタリスト兼ボーカリストに、アメリカ人のエイドリアン・ブリューが参加した。この4人からなる新グループは、契約しているレーベルの商業的意向もあって再び「キング・クリムゾン」の名義で活動を再開します。

しかし1970年代までのスタイルからは打って変わり、管弦楽器を廃してギター・ロックに徹し、ポリリズムや当時ムーブメントになっていたニュー・ウェイヴの要素を取り入れるなど、音楽性が劇的に変化していました。(演奏については、2本のギターとスティックによる複雑なアルペジオの絡みが特徴的であった)。このような形での再結成に批判が高まり、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ化した」という批判も一部から出ました(旧メンバー ジョン・ウェットンも当時、「英国人以外が参加しているこのラインナップを、クリムゾンとして認めていない」旨の発言をしている)。

同1981年9月、当初のバンド名をセルフタイトルとした8thアルバム『ディシプリン』(全英41位、全米45位)リリース。同1981年(昭和56年)12月に初来日し、渋谷公会堂、浅草国際劇場を始めとする全国ツアーを行ないます。

1982年、9thアルバム『ビート』(全英39位、全米52位)を発表。元々『ディシプリン』のみのプロジェクトであったため新素材がほぼ皆無で、準備不足のなか創作に苦労したエピソードを明かしています。

1984年リリースの10thアルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』(全英30位、全米58位)に至っては、メンバーのモチベーションはもはや低下した中で制作された。同年春に再来日し、北米ツアー後の7月に解散を決定します。フリップは「レーベルとの契約は、アルバム3枚リリースが条件であった。本来意図したアイデアは『ディシプリン』で完結している」と後年に明かしています。

1980年代末頃からフリップの活動も活発になり、再び再結成の機運が高まっていきます。1992年にフリップは音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、自身が管理する独立レーベル「Discipline Records (後のDiscipline Global Mobile。通称 DGM)」を設立。

さらに、デヴィッド・シルヴィアンとの共作などで手応えを感じたフリップは、1994年から遂にバンドを再始動させます。1980年代のメンバーから更に増員して6人編成となり、3人二組のユニットを配置するスタイルを構築(通称 ダブルトリオ)。サウンド面では、1974年作『レッド』で片鱗をみせたヘヴィ路線を継承し、プログレッシブ・メタルを推進しました。

このラインナップでEP『ヴルーム』を制作。慣らし運転も兼ねた南米ツアーを開催し、翌1995年に11年ぶりの11thアルバム『スラック』(全英58位、全米83位)を発表。そしてフリップは、キング・クリムゾンが実践するヘヴィサウンドを「ヌーヴォメタル (Nuovo Metal)」と名付けました。アルバムに伴うワールドツアーを開始し、数多くのライブ音源をアーカイブ化していきます。

その後は、メンバー変更やメンバーの死などを乗り越えますが、2022年メンバーのイアン・マクドナルドの死去により、バンドの活動は終焉へと向かいました。

ついに、終焉。寂しいけど、それが現実。ラストまで見ていきましょう。



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