もう一つのプログレ界の神‼️‼️‼️

『プログレ界の神』は、『キング・クリムゾン』といいましたが、もう一つバンドがいます。『ピンク・フロイド』です。

1965年、リージェント・ストリート建築工芸学校の同級生であったロジャー・ウォーターズ、リチャード・ライト、ニック・メイスンの3名は、現代音楽に関して論争を交わしたことがきっかけで「シグマ6(Sigma 6)」というバンドを結成しました。当初はロジャーがギターを担当し、前述の3人のほかにクライヴ・メットカーフ(ベース)、キース・ノーブルとジュリエット・ゲイル(共にボーカル)がメンバーに加わっていた。その後、バンド名を「メガデス」」「アブダブス」「スクリーミング・アブダブス」「アーキテクチュラル・アブダブス」「レナーズ・ロジャース」「スペクトラム・ファイブ」などと次々に変えながら活動を続け、一旦「ティー・セット」に落ち着くが、行き詰まりから活動を休止しました。同年後半、ウォーターズ、ライト、メイスンの3人は旧友のシド・バレットとギタリストのボブ・クロースを誘い、バンド名を「ピンク・フロイド・サウンド」に改めて再出発を図ります。これは、バレットが好んだ2人のピードモント・ブルース・ミュージシャンの名前にちなんだものでした。

当初はブルースのほかにローリング・ストーンズやザ・フーの曲をコピーして演奏していたが、やがて即興演奏やリキッドライトを導入し、独自の道を歩み出します。純粋なブルースを志向していたボブ・クロースは方向性の違いから同1965年中にバンドを脱退し、代わってバレットがリード・ギターを担当することになります。この頃からバレットは精力的に曲作りを始め、オリジナル曲の演奏が次第に増えていきました。こうしてバンドはバレットの感性をグループの軸に据えるようになります。

なお、ボブが脱退した際にバンド名を「ピンク・フロイド・サウンド」から「ピンク・フロイド」へと改名した。バンド名を短くしたのは当時のマネージャーの進言によるものでした。

ピンク・フロイドは、サイケデリック・ロック全盛の時代にクラブUFOといったアンダーグラウンド・シーンで精力的にライヴ活動を展開します。バンドは徐々に認知度と評価を高め、複数のレコード会社による争奪戦の末にEMIと契約を結びます。

1967年、シド・バレット作のシングル「アーノルド・レーン」(全英20位)でデビューを果たします。歌詞が下着泥棒を示唆するものであったため、ラジオ・ロンドンでは放送禁止に指定されたが、それでもヒットとなります。続くセカンド・シングル「シー・エミリー・プレイ」は全英6位のヒットを記録しました。

同年、ファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き』(全英6位、全米131位)をリリース。このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作しており、メンバーはビートルズのレコーディングの様子を見学しました。

当初、ピンク・フロイドはバレットのワンマン・バンドでした?しかし、過度のLSD摂取によってバレットの奇行が目立ち始め、バンド活動に支障をきたし始めます。翌1968年には、彼の役割を補う形でデヴィッド・ギルモアが加入し、一時的にフロイドは5人編成となります。バレットはライヴには参加せず、曲作りに専念してもらおうとの目論見であったが、それすら不可能となるほどバレットは重症でした。同1968年の「夢に消えるジュリア」はシングルB面に収められたが、人気の一曲である。同曲はロジャー・ウォーターズの作曲です。

バレットは結局、同1968年3月にバンドを脱退した。これによりフロイドは、ウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアの4人で再スタートすることになりました。バレット脱退後、当初はシングル向けの楽曲も数曲作ったが、バンドは方針を転換してサイケデリック・ロックから脱却し、より独創性の高い音楽を目指すようになりました。また、シングルもイギリスでは1968年発表の「It Would be So Nice」(全英52位)以降はリリースしなくなります。彼らはそれまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身の強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていました。こうして発表された同1968年のセカンド・アルバム『神秘』(全英9位、全米85位)は、約12分のであるタイトル曲「神秘」を収録しています。

この頃バンドはテレビ映画などのサウンドトラックも担当していた。スタンリー・キューブリックがこの年(1968年)に発表した映画『2001年宇宙の旅』では、フロイドに音楽制作の依頼が来ていたという話が伝わっています。明くる1969年に発表された『モア』(全英9位、全米153位)は、バルベ・シュローダー監督の映画『モア』(主演:ミムジー・ファーマー)のサウンドトラックとして制作されました。映画はドラッグに溺れるヒッピーの男女の物語でした。

同1969年発表のアルバム『ウマグマ』(全英5位、全米74位)は、ライブとスタジオ・レコーディングで構成された2枚組でした。当時バンドは精力的にライブ活動を繰り広げており、そのライブ・パフォーマンスの一端が窺えています。スタジオアルバムはバンドメンバー4人のソロ作品である。当時バンドはライブで『The Man/The Journey』なる組曲を演奏しているが、この組曲は既に発表されている曲を組み合わせたものであり、『ウマグマ』収録のスタジオ・テイクの一部も組み込まれています。この年には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘 (映画)』の音楽も手がけています。

1970年には『原子心母』を発表。本作は全英1位(全米55位)を記録し、批評家筋からも絶賛されるなど音楽的・商業的に成功を収めます。タイトル曲は収録に前衛音楽家のロン・ギーシンを招き、オーケストラ(正確にはブラスアンサンブルにチェロを加えた編成)を全面的に取り入れた23分にわたるロック・シンフォニーである。本作以降、フロイドは『プログレッシヴ・ロック』を代表するバンドとして認知されるようになります。

続く1971年発表の『おせっかい』(全英3位、全米70位)は、セールス面では前作『原子心母』に及ばなかったが、バンドが音楽的に大きく飛躍するきっかけとなった作品でした。23分を超える大作「エコーズ」が収録されています。バンドはこの「エコーズ」の誕生をもって「初めてバンドがクリエイティビティを獲得した」と認識しています。同年には初来日し、音楽フェスティバル「箱根アフロディーテ」などでコンサートを披露しました。

同1971年に『おせっかい』ツアーが終了すると、バンドは次のアルバム制作に取り掛かります。制作に先立ち、ウォーターズは新作のアルバムのテーマとして「人間の内面に潜む狂気」を描くことを提案します。バンドはこのアイデアを元に組曲を作り上げ、それは翌1972年のコンサートから「A Piece for Assorted Lunatics」というタイトルで披露された。これがのちに大ヒットアルバムとなる『狂気』です。バンドは同年同月からイギリスを皮切りにコンサート・ツアーを開始、同年には2回目の来日を果たしている。こちらでも『狂気』の組曲が披露されました。

バンドは『狂気』制作と並行して、同年下旬から再びバーベッド・シュローダー監督の映画『La Vallée』のサウンドトラックも担当。フランスに赴き、約2週間で『雲の影』を完成させた。こちらは全米46位(全英6位)を記録し、ウォーターズ作の「フリー・フォア」(がシングル・カットされています。

明くる1973年3月、コンセプト・アルバム『狂気』(全英2位、全米1位)を発表。本作はウォーターズが歌詞を全面的に担当した初めての作品となった。また、フロイドのアルバムに歌詞が掲載されたのはこの『狂気』が初めてであった。発売と同時に、シングル・ヒットした「マネー」(全米13位)とともに全世界で大ヒットを記録、音楽的にも商業的にも大成功を収めます。こうして、ピンク・フロイドは一躍スターダムにのし上がりました。その後、『狂気』はビルボードアルバムTOP100に741週間(約15年間)に亘ってランクインし続けることになるが、この記録は現在(※2021年上半期時点)も破られていません。

これ以後、フロイドを取り巻く環境は一変する。コンサートの観客数は大幅に増え、客層も変わっていった。このことはバンドのメンバー、特にウォーターズを大いに苛立たせることになり、この年のコンサートツアーを終えるとバンドは長期休暇に入りました。

1974年に入り、バンドは『狂気』に続くアルバムのレコーディングを開始します。当初は、楽器を一切使わずにワイングラスや輪ゴムなどの日用品を使って演奏する組曲「Household Objects」の制作を試みたが、結局は断念しました。

その後、同年にフランス、イギリスでコンサートツアーを行いました。新曲「Shine on You Crazy Diamond」「You’ve Gotta be Crazy」「Raving and Drooling」などが披露され、次のアルバムではこの3曲を収録することが決まりかけていたが、これらの新曲を披露したコンサートを収録した海賊盤『British Winter tour』なるアルバムが大いに売れてしまったため、「You’ve Gotta be Crazy」と「Raving and Drooling」の収録は見送られました。この2曲は、のちのアルバム『アニマルズ』にタイトルが変更されたうえで収録されています。

新たなアルバム作りは困難を極めた。『狂気』の成功で注目を集めたことによる重圧、『狂気』でやりたいことをやり尽くしたという満足感、そして、メンバーの個人的問題などが原因であった。ウォーターズとメイスンがそれぞれ離婚の危機を抱えていたのでした。

1975年、難産の末の2年ぶりの新作となる『炎〜あなたがここにいてほしい』(英米1位)を発表。大ヒットアルバム『狂気』に続く作品ということで注目されたが、セールス面では伸び悩みました。これ以後、フロイドが発表するスタジオ・アルバムはいずれも大がかりなコンセプト・アルバムの体裁をとるようになります。1970年後半にはパンク・ロック勢が登場し、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、クイーンなどは「オールド・ウェーヴ」「ダイナソー(化石)・ロック」として激しく非難されました。

バンドは次第にロジャー・ウォーターズのイニシアティブが強くなってゆきます。1977年発表の『アニマルズ』(全英2位、全米3位)はコンセプトアルバムであるが、全5曲中4曲がウォーターズ単独の書き下ろしであり、ウォーターズがリード・ボーカルを担当しました。サウンド面でもそれまでの幻想的な音創りは影を潜め、分かりやすいロック・サウンドになっていた。ウォーターズは中流階級出身であるが、左派的思想の持主で、彼の歌詞には独特の社会風刺がよく表れています。『アニマルズ』の歌詞、そして、のちのアルバム『ザ・ウォール』の歌詞には、彼の思想が存分に投影されています。

なお、ヒプノシスがプロデュースする『アニマルズ』のアートワークについては、バタシー発電所と豚の形のゴム風船の話が欠かせません。テムズ河畔にある旧バタシー発電所のブリックゴシックの建築物は、『アニマルズ』に採り上げられたことで世界的知名度を挙げ、観光地化するだけでなく、音楽関係者ばかりではない他分野のクリエーターにイメージやロケ地という形で利用されるようになりました。後述する豚形のゴム風船の表現力と相まって『アニマルズ』のアートワークはパロディも数多く作られています。

『アニマルズ』発表後のツアー「Pink Floyd : In The Flesh」はヨーロッパと北アメリカを跨ぎ、当時のフロイドでは最大級のコンサート・ツアーとなりました。このツアーの最終日であるカナダ・モントリオール公演で、ウォーターズは前列で大騒ぎしていた観客に激怒し、演奏途中で唾を吐き掛けるという行為に及びます。自らのこの行為が発想の引き金となって、コンサート終了後、ウォーターズは次のアルバム制作に没頭します。一方、他のメンバーはそれぞれにソロ活動を開始し、デヴィッド・ギルモアは1978年に『デヴィッド・ギルモア』(全英17位、全米29位)を発表してヒットを記録します。

1979年、2枚組アルバム『ザ・ウォール』(全英3位、全米1位)を発表。シングル「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール(パート2)」(全英(英米1位)とともに大ヒットを記録しました。シングルにはディスコの影響が見られました。2枚組全26曲のうち、数曲を除きウォーターズが単独で作詞・作曲を行っている。共同プロデューサーとしてアリス・クーパーのプロデュースなどで知られるボブ・エズリンが招かれ、アルバムのレコーディングには多数のセッション・ミュージシャンが招かれています。

バンド内ではウォーターズの独裁化が進み、『ザ・ウォール』のセッション途中でウォーターズがリチャード・ライトを解雇するなど、メンバー間の亀裂は深くなる一方でした。ライトは1980年から翌1981年にかけて行われたツアーにサポート・メンバーとして参加したが、すでに正式なメンバーでなくなっていたため、同ツアーで発生した莫大な赤字に対する支払いを被らずに済みます。

『ザ・ウォール』ツアーでは、演奏途中から観客席と舞台の間に実際に巨大な壁(※鉄筋コンクリート造の白い壁になぞらえた大道具的舞台装置)を構築し、それがクロジーング・ナンバー「Outside The Wall」の直前で完全に崩れ去るという大規模な演出で話題を呼びました。ただし、あまりにも大規模で経費と手間が掛かりすぎ、実際にこの演出が行われたのは全世界で4都市のみの公演に留まりました。その一方で、アルバムのコンセプトを具現化した映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』がアラン・パーカー監督の下で製作され、1981年に公開されました。

1983年発表の『ファイナル・カット』(全英1位、全米6位)は、”A Requiem For The Post War Dream by Roger Waters”(ロジャー・ウォーターズによる戦後の夢へのレクイエム)というサブタイトルから伺えるように、ピンク・フロイド名義ではあるが実質的にはウォーターズのソロ作品でした。ウォーターズ以外のメンバーであるデヴィッド・ギルモアとニック・メイスンはレコーディング・セッションではウォーターズに乞われたときにしか動かないという状態でした。

当初『ファイナル・カット』に伴うコンサート・ツアーも行う予定であったが、ウォーターズがこれを中止させました。このためピンク・フロイドは活動停止状態となり、メンバーはそれぞれのソロ活動を行うことになります。すでに脱退していたライトもソロ・プロジェクトを立ち上げました。

1984年、ギルモアは『狂気のプロフィール』(全英29位、全米32位)を、ウォーターズは『ヒッチハイクの賛否両論(The Pros and Cons of Hitch Hiking)』を発表し、アルバムに伴うコンサートツアーも行いました。しかし、両者のアルバムの売り上げ並びにコンサートの観客動員は芳しいものではなく、空席の目立つ観客席を前に演奏することがありました。ギルモアのコンサートはわずかに黒字を確保したが、ウォーターズは(エリック・クラプトンという大物が居たにも拘わらず)チケットを売り切ることが全く出来ず、大幅な損失を被ってしまいます。

1985年、ウォーターズはマネージャーであるスティーブ・オラークとの契約を破棄しようとしました。しかし、オラークはウォーターズの意に反し、引き続きピンク・フロイドの仕事を続けたため、ウォーターズはギルモアとメイスンの同意を取り付けようとするが両者は拒否、結局ウォーターズは同年に「ピンク・フロイドは創造性を使い切った」との理由でバンドを脱退しました。ウォーターズにとっては、ピンク・フロイドはもはやその存在価値を無くしていました。ウォーターズは、リーダーである自分が脱退することでバンドの解散を意図していたが、ギルモアはフロイドの活動継続を決めました。

ウォーターズは脱退後、映画『風が吹くとき』のサウンドトラックを担当しました。これはウォーターズ自身のアルバム制作のためのヒントとなり、1984年の『ヒッチハイクの賛否両論』(全英13位、全米31位)に続くソロ・アルバムの制作につながります。ウォーターズはプロデュースをボブ・エズリンに依頼したが、エズリンはギルモア主導のピンク・フロイドの新作プロデュースのためにこのオファーを断り、ウォーターズの怒りを買います。

ギルモアはメイスンと共にピンク・フロイドの「解散」に強く反対してグループの存続を主張しており、ウォーターズの脱退を受け、自ら指揮を執って新生ピンク・フロイドを立ち上げます。ギルモアは多数の外部ミュージシャンを招聘してアルバム制作に取り掛かります。ウォーターズはこのピンク・フロイドの活動継続に激怒して訴訟を起こします。ギルモアは訴訟への対応を余儀なくされたが、『ザ・ウォール』に関する権利をウォーターズに譲ること、ステージでの「豚」のオブジェクトの使用禁止、楽曲使用に伴う収入の20パーセント強をウォーターズに支払うことなどを条件に両者は和解しました。この両者の対立はマスコミやファンの注目の的となり、「ローリング・ストーン」誌のピンク・フロイド特集号はその年の同誌の売り上げナンバー・ワンとなりました。

新生ピンク・フロイドは1987年に『鬱』(英米3位)を発表、大掛かりなツアーを敢行してピンク・フロイドの復活を印象付けました。ウォーターズも同年にソロアルバムアルバム『RADIO K.A.O.S.』(全英25位、全米50位)を発表しました。ウォーターズは『鬱』並びに新生フロイドを「フロイドの真似事をしただけのニセモノ」と手厳しく非難しました。両者は同時期にアルバムを発売し、アメリカ・ツアーではいくつかの都市で両者がバッティングすることもあったが、観客動員や注目度ではフロイドの圧勝に終わっています。

フロイドのコンサートは各地でソールド・アウトを記録して多数の追加公演が組まれ、1989年まで続く長丁場となります。1988年には3度目の来日公演も果たしています。

ウォーターズは、1990年にベルリンの壁が崩壊したのを受けて『ザ・ウォール』の再現コンサートをベルリンで行うことになりました。こちらにも多数のミュージシャンが集まっての一大イベントとなった。これは評判を呼び、『ザ・ウォール〜ライブ・イン・ベルリン』(全英27位、全米56位)としてライブ盤とビデオが発売されています。

1992年、ウォーターズはソロアルバム『死滅遊戯』(全英8位、全米21位)を発表します。これはウォーターズ得意のコンセプト・アルバムであり、批評家からも高い評価を受けたもののセールス面ではゴールド・ディスクにとどまりました。当時「200万枚売れたらツアーをやる」と公言していたが、結局このときは実現しませんでした。

ピンク・フロイドは1993年秋頃に再始動し、1994年に『対/TSUI』(英米1位)を発表。収録曲「孤立」はグラミー賞ベスト・ロック・インストゥルメンタル部門を受賞。そして再び大規模なコンサート・ツアーに出ます。全112公演で、ツアーの総費用は2億ドルに及びました。このツアーでは『狂気』組曲を1975年以来19年ぶりに演奏し、このライブの模様を収めた『P.U.L.S.E』(全英(英米1位)もリリースしたが再び沈黙に入ります。

ピンク・フロイド側とロジャー・ウォーターズ側は決定的に対立し、インタビューでウォーターズとギルモアが互いを非難しあうことがありました。しかし1990年代末より、両者の間の距離は少しずつではあるが縮まり始めていきます。

2000年になって、1979年発表の『ザ・ウォール』に伴うツアーの模様を収録したライブ・アルバム『ザ・ウォール・ライヴ:アールズ・コート1980-1981』(全英15位、全米19位)を発売。

2001年にはベスト・アルバム『エコーズ〜啓示』(英米2位)をリリース。ウォーターズを含めた4人で選曲が行われ、ピンク・フロイドにとって初と言ってもいいベスト盤となりました。メンバーの和解による再結成の期待が高まったが、再びバンドとしての活動が無い時期が続きます。

2003年、長年ピンク・フロイドのマネージャーを務めたスティーヴ・オラークが死亡。ウエスト・サセックスのチチェスター大聖堂で行われた葬儀の際、ギルモア、メイスン、ライトが「デブでよろよろの太陽(Fat Old Sun)」と「虚空のスキャット(The Great Gig in the Sky)」の2曲を演奏しました。

2005年に行われたアフリカ貧困撲滅チャリティーイベント「LIVE 8」において、ウォーターズを含めた4人によるラインナップで再結成を果たし、復活ライブを披露すると、同イベントに参加したミュージシャンのなかでも屈指の反響を得えました。この一時的な再結成の後には1億ポンド(約200億円)で全米ツアーを行わないかというオファーもあったが、ギルモアがこれを断ったことにより、実現しませんでした。

同年、『イギリスの音楽の殿堂』の第2回が発表され、ピンク・フロイドが、ザ・フー、ザ・キンクス、ニュー・オーダーとともに受賞したことが発表されました。ロンドンのアレクサンドラ・パレスで執り行われた授賞式にはギルモアとメイスンが参加し、ウォーターズは滞在先のローマから衛星中継で参加するも、ライトは目の手術のために参加できませんでした。

2006年、かつてのリーダーであったシド・バレットが死去します。メンバーからは追悼のコメントが寄せられた。バレット死去に際して再結成の噂も聞かれたが、こちらも実現しませんでした。

同年、ギルモアの新作発売に伴うソロ・ツアーにライトが参加しました。また、ウォーターズのツアーにメイスンが数回参加した。ギルモアのロンドン公演にメイスンがゲスト出演しました。この時、ギルモアからウォーターズにもゲスト参加の要請があったが、ウォーターズは自身のツアー・リハーサルに専念するとの理由で参加しませんでした。

同じく2006年、『P.U.L.S.E』のDVD化(『驚異』という邦題が付けられた)に伴い、ギルモア、ライト、メイスンの3人が揃って発売記念イベントに参加しました。

2007年、ロンドンのアビー・ロード・スタジオで行われたストーム・ソーガソンの本の出版記念パーティーにギルモア、ライト、メイソンの3人が駆けつけます。

同年、「アーノルド・レーン」のプロデューサーを務めたジョー・ボイド主催のシド・バレット追悼コンサート『Madcaps Last Laugh』がロンドンで行われます。クリッシー・ハインド、ロビン・ヒッチコック、ジョン・ポール・ジョーンズらと共にウォーターズ、ギルモア、ライト、メイスンが出演します。ウォーターズはショー前半のトリでジョン・カーリンを伴い「フリッカーリング・フレイム(Flickering Flame)」を演奏。後半のトリにギルモア、ライト、メイスンの3人がカーリン、オアシスのベーシストのアンディ・ベルを伴い「アーノルド・レーン」を演奏する。最後に出演者全員で「バイク(Bike)」を演奏したがウォーターズは現れず、4人の共演は実現しませんでした。

2008年、ポーラー音楽賞を受賞する。スウェーデンのストックホルムで行われた授賞式にウォーターズ、メイソンの2人が参加。2人はカール16世グスタフ国王から盾と花束を渡され、賞金100万クローナが贈られました。メイソンは、賞金について「メンバー間で分けて、それぞれ寄付する」とコメント。

同年、リチャード・ライトが65歳で死去。タイムズによるとライトは2007年に癌と診断されていました。

2010年、チャリティー・イベントでウォーターズとギルモアが共演。さらに、チャリティー・イベントでの再結成も予定されていたが、会場の問題でキャンセルされたと報じられました。

2011年ロンドンのO2アリーナでのウォーターズのツアー「The Wall Live」のステージにギルモアとメイソンが出演し、久々に3人揃っての演奏が実現しました。

同年、ピンク・フロイドと契約を更新したEMIが「Why Pink Floyd…?」と題された世界的なリリース・キャンペーンを行うと発表。リリースを皮切りに、3回に分けた大々的なリリースを展開する。各アルバムのリマスター盤、ボックスセット、ベスト・アルバム、コレクターズボックスなどの様々な形態で発売されます。

2014年、スタジオ録音としては20年ぶりとなるアルバムを秋に発表すると、バンドのオフィシャル・サイトで公式発表し、アルバム『永遠/TOWA』(全英1位、全米3位)をリリースされました。これは、亡くなったリチャード・ライトを追悼した作品であり、生前に録音しながらもお蔵入りしていた未発表音源でもありました。ギルモアは「これがピンク・フロイドのラストアルバムになる」と明言します。

2015年、ギルモアはウォーターズを含む再結成を改めて否定し、「ピンク・フロイドは自然消滅した。リック・ライトなしでは、ピンク・フロイドの看板で演奏することはない」と、バンドの終結を示唆しました。ウォーターズも「正しい判断」とギルモアの意向を支持しています。

2016年、オフィシャル・フェイスブックに「ピンク・フロイドは、女性ガザ自由船団を支援するために再び団結します」というタイトルで投稿。メディアは再結成と解釈して誤報されました。

2018年、メイスンがガイ・プラットらとソーサーフル・オブ・シークレッツを結成。ピンク・フロイドの初期の楽曲をライブ演奏するというコンセプトのプロジェクト・バンドで、現在も活動を続けています。

ウォーターズとギルモアも、ソロのライブではピンク・フロイドの楽曲を演奏し続けています。

2022年、ロシアのウクライナ侵攻により被害を受けた人々の人道支援のため、28年ぶりの新曲「Hey, Hey, Rise Up!」(全英49位)をシングルとして発表した。ウクライナのバンド「ブームボックス」のボーカリスト、アンドリーイ・クリヴニュークがにInstagramに投稿した映像から、クリヴニュークが歌った「ああ、草原の赤きガマズミよ」の声が使用されています。演奏者はギルモア、メイスン、ガイ・プラット(ベース)、ニティン・ソーニー(キーボード)の4人。ミュージック・ビデオも同日、配信されました。ビデオの監督はマット・ホワイトクロスが務めました。

正に、『神』‼️‼️‼️解散とは、なんとも悲しいですが、楽曲は今尚も生き続けます。



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