悲しい最後

イギリスには、70年代にLSDやコカインの応酬により、ロック界は疲弊しながらも新たなるバンドが出てきていました。そんな中、『ジョイ・ディヴィジョン』が表れます。

1976年6月4日の金曜日、かねてからの友人同士であったバーナード・アルブレヒトとピーター・フックは、マンチェスターのフリー・トレード・ホールで行われたセックス・ピストルズのライブを観に行いました。ピストルズのパフォーマンスに衝撃を受けた二人は、すぐに自分たちもバンドを結成することを決意。アルブレヒトがギター、フックがベースを担当することになり、ボーカリストには以前にライヴ会場で顔を合わせたことがあったイアン・カーティスが加入。その後ドラマーを見つけるのに苦労したが、1977年にスティーヴン・モリスがバンドに加わったことでメンバーが固まりました。

当初、バンド名はバズコックスのマネージャーの命名によりスティフ・キトゥンズ(Stiff Kittens)としていたが、すぐにデヴィッド・ボウイのアルバム『ロウ』収録曲からとった「ワルシャワ (Warsaw)」という名称に変更。その後、類似する名前のバンドが存在することが判明したため、バーナード・サムナーの発案およびバンド内での協議により1978年から「ジョイ・ディヴィジョン」と名乗るようになった。この名前はナチス・ドイツの強制収容所内に設けられた慰安所に由来するもので、イェヒエル・デ・ヌールの小説『ダニエラの日記』の一節からとられました。

1978年、ジョイ・ディヴィジョンはファクトリー・レコードのオーナーであり、地元の音楽シーンの顔役であったトニー・ウィルソンが司会を務めるテレビ番組に出演。ほどなくしてファクトリーとレコード契約を締結します。バンドは次第に知名度を高め、1979年にはイアン・カーティスが音楽誌NMEの表紙を飾ります。

1979年4月からは1stアルバム『アンノウン・プレジャーズ』のレコーディングに入ります。当時の彼らの演奏は荒削りでパンク・ロックの影響を引きずっていたが、プロデューサーのマーティン・ハネットの手により劇的な変化が加えられ、張りつめた空気と陰鬱さを併せ持つポストパンクのサウンドが構築されました。これにはイアンの書く絶望や孤独を歌った歌詞も大きく貢献している。アルバムは発売直後から賛辞をもって受け入れられ、全英アルバムチャートでは最高71位だったものの、インディーチャートでは初登場2位を記録し最終的に首位を獲得しました。

アルバム発売後の10月からはバズコックスをサポートする全英ツアーに出ることになり、音楽で生計を立てることが可能になったメンバーはそれまで続けていた仕事を辞めてバンド活動に専念することになりました。

バンドは1980年にヨーロッパを回るツアーを行った後、2月からは全英ツアーを展開。さらに次作『クローサー』のレコーディングのため、再びハネットとスタジオ入りします。バンドが順調に成功への階段を上る一方で、過密したスケジュールは次第にイアン・カーティスの心身を蝕んでいった。持病のてんかんとうつ病、さらに女性関係の問題も抱え精神的に不安定な状態になったイアンは、ツアーの最中の4月7日にフェノバルビタールを服用して自殺を図ります。この時は一命を取り留めたものの、一部のライヴをキャンセルした後にツアーが続行されたため、イアンの健康状態は悪化しました。

1980年、全米ツアーへの出発を前日に控えた月曜日の早朝にイアンは自宅で首を吊り自殺。彼の遺体は同日の昼に帰宅した妻デボラにより発見されました。突然の悲劇によりヴォーカリストを失ったジョイ・ディヴィジョンは活動を停止し、全米ツアーもキャンセルされます。

遺作となったシングル「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」は5月に全英シングルチャート13位を記録。二枚目の(同時に最後の)アルバム『クローサー』がリリースされ、全英アルバムチャート6位まで上昇。年末にはNME誌の特集で年間最優秀アルバムに選出されました。

残されたメンバーは話し合いの末、音楽活動を継続することを決定。イアンの生前に結ばれた「メンバーが一人でも欠けたらジョイ・ディヴィジョンの名前でバンド活動は行わない」という約束に基づき、バンド名はニュー・オーダーに改められ、ボーカルはギタリストのバーナードが兼任することになった。1980年9月には延期されていた全米ツアーを敢行しています。

後年、ニュー・オーダーはイアン・カーティスの自殺が伝えられた時の心境を曲にした「ブルー・マンデー」を発表。同シングルは世界的なヒットを記録しました。

にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

コメントを残す