関白宣言の人

日本のフォークブームにおいて、この人は外せないでしょう。その人の名は『さだまさし』。

父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、1952年、長崎県長崎市で生まれます。

佐田家の本家は島根県那賀郡三隅町にあり、本家の二男だった祖父・繁治は中国大陸や極東ロシアに渡り諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主でした。その繁治と結婚した祖母エムもまたソ連のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在でした。父・雅人は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子と結婚し、その結果、雅志が誕生したのでした。

雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった(ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる)。

3歳よりヴァイオリンを習い始めます。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していました。中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごしました。

最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたといわれています。中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになります。駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで京成本線高架や市川橋の下に行っていたという(なお、当時はNHK連続テレビ小説『おはなはん』にはまって38日間連続して遅刻といった調子の生活をしていたという)。

上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまいます。家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現します。

國學院大學法学部に進学する。ペンキ屋(塗装工員)など、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷します。1972年、高校時代からの友人吉田正美が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなります。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったといいます。以後二人は意気投合し同年、バンド『グレープ』を結成、音楽活動を開始する。NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったといわれています(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニアより全国デビューしました。所属事務所(プロダクション)はユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的には赤い鳥の事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、デビューに至ります。

デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー・蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けました。これが助力となって、同番組の放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の作詩賞を受賞することとなった。

1975年11月にリリースした「無縁坂」(12位)もヒット曲となりました。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られています。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散しましま。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べていました。

1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始めます。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。

1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となりました。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなりました。その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」(15位)などがヒットします。

1978年に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」(9位)をリリースしました。同年にリリースした「関白宣言」(1位)は150万枚を超える大ヒットとなります。以後「親父の一番長い日」(1位)「道化師のソネット」(2位)「防人の詩」(2位)「驛舎」(9位)など、数々のヒット曲を放ちます。

1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当。一方、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年に公開され映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだはました。映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり)さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金(負債)が残ってしまいました。大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意します。

1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となります。

1985年、ソロ・コンサート通算1,000回(東京厚生年金会館)を達成します。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしています。。ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型です。

1987年、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催しました。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなりました。

1993年、ソロ・コンサート通算2,000回(大阪フェスティバルホール)を達成しました。

1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始します。(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。

1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞しました。

2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱しました。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行います。(女性は1994年の髙橋真梨子が初)。

2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされました。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説「精霊流し」の世界』を発売しました。

児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞します。

2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。

2004年12月、長編小説『眉山』発表。

2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選サッカー日本代表対イランの試合にて「君が代」を独唱。「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』(8位)発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。

2006年、未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送されます。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いています。

2006年、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」(49位)をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。

2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行います。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言します。

2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞されます。

2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。

2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われました。

2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行いました。

2010年、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。

2012年に本門佛立宗横浜の妙深寺、法深寺主催。パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。

2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート( – 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容でした。

2013年、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。

2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。公式インスタグラム開設と「PPAP〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表。

2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社をJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに移籍することが決定。同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。5月27日、第85回日本ダービーで国歌「君が代」を独唱。

苦労を重ね、今でも活躍中です。



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