大人のロック

今回は、大人のロックを特集していきたいと思います。代表格はやはり『スティーリー・ダン』でしょう。

ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーはニューヨークのバード・カレッジ在学中に知り合い、共同で曲作りを始める。カレッジ卒業後(ベッカーは中退)2人は作曲家として活動するが仕事には恵まれず、ジェイ&ジ・アメリカンズのバックミュージシャンなどで糊口を凌いでいました。。この頃に作られたデモテープは、後に「ベッカー&フェイゲン」名義の作品集としてレコード、CD化されています。ようやくABCレコードのプロデューサーのゲイリー・カッツに才能を見出された2人はロサンゼルスに移住、バンドとしてレコード・デビューするために旧知のミュージシャンを呼び寄せ、スティーリー・ダンを結成した。バンド名は、ウィリアム・S・バロウズの小説『裸のランチ』に登場する男性器の張型「Steely Dan III from Yokohama」に由来します。

結成当初のメンバーは、ドナルド・フェイゲン(ボーカル、キーボード)、ウォルター・ベッカー(ベース)、デニー・ダイアス(ギター)、ジェフ・バクスター(ギター)、ジム・ホッダー(ドラム、ボーカル)、デイヴィッド・パーマー(ボーカル)。主なスタッフにゲイリー・カッツ(プロデューサー)、ロジャー・ニコルズ(エンジニア)。

1972年発表のデビュー・アルバム『キャント・バイ・ア・スリル』(全米17位、全英38位)からシングル・カットされた「ドゥ・イット・アゲイン」は全米6位の大ヒットを記録しました。

プロのミュージシャンとなればライブ活動は必要不可欠だが、本来作曲家としての活動を望んでいたベッカーとフェイゲンは肉体的にも精神的にもきついライブを嫌い、それがやがて他のメンバーとの軋轢を生みます。また作品を追うごとに理想とするサウンドとバンドの演奏力の差が明らかになると、メンバーの感情を無視して外部のスタジオ・ミュージシャンを積極的に起用するようになり、バンドとしての一体感は失われていました。73年にはセカンド・アルバムを発表しました。

1974年発表のサード・アルバム『プレッツェル・ロジック』(全米8位、全英37位)からシングルカットされた「リキの電話番号」は全米4位と、シングルとしては彼ら最大のヒットを記録しました。しかしすでにこの頃はバンド形態は崩壊寸前、同年にジェフ・バクスターとジム・ホッダーがクビにされ、ライブ活動を停止しました。(デイヴィッド・パーマーは既にクビ)。なおこの年のライブではマイケル・マクドナルド、ジェフ・ポーカロがツアーメンバーとして参加しています。76年に4枚目のアルバム『『うそつきケイティ』(英米13位)を発表。

以降はスタジオ・レコーディングのみの活動に専念、トム・スコット、ラリー・カールトン、チャック・レイニー、バーナード・パーディー、スティーヴ・ガッドら主に、クロスオーバー系の腕利きミュージシャンを大勢起用するようになります。

1977年発表のアルバム『彩(エイジャ)』は全米3位(全英5位)、200万枚を売り上げる大ヒットを記録した彼らの代表作です。同アルバムでは、東西の有名スタジオ・ミュージシャンを贅沢に起用していました。音楽評論家からも高い評価を受け、このアルバムはスティーリー・ダンの名声を決定的なものにしました。なおデニー・ダイアスが本作を最後に正式にメンバーから外れ、スティーリー・ダンは名実共にベッカーとフェイゲンの2人だけのグループとなります。

1980年発表のアルバム『ガウチョ』(全米9位、全英27位)を最後にスティーリー・ダン、すなわちベッカーとフェイゲンのコンビは翌年に活動を停止します。『ガウチョ』もヒットを記録、高い評価を獲得したが、前作の評価があまりにも高かったゆえに制作時のプレッシャーは並々ならぬものがありました。フェイゲンやプロデューサーゲイリー・カッツの完璧主義は前作を超え、演奏に寸分の狂いも許さず、一方ベッカーは麻薬に溺れレコーディングどころではなくなっていた。前作に比べ、膨大な時間(2年半)と費用(日本円で1億円以上)がかさんだり、曲がミスで消されるなどのトラブルが頻発したが、完成度の高さは頂点を極めている。スティーリー・ダンはこのアルバムを区切りに、長い休止期に入ります。

1982年にドナルド・フェイゲンはソロ・アルバム『ナイトフライ』(全米11位、全英44位)を発表。スティーリー・ダン時代のサウンドにさらに磨きをかけ、以前に劣らぬヒットと高い評価を獲得しました。3M製32トラックのデジタル・マルチトラックレコーダーを使用した音響面のクオリティの高さも絶賛され、一時期はPAエンジニアのサウンド・チェックの定番となっていたほど「音のいいアルバム」といわれていました。

一方のウォルター・ベッカーは麻薬中毒から脱するためにハワイに移住。1985年にチャイナ・クライシスのプロデューサーとして音楽界に復帰します。その後はフェイゲン、ベッカーともどもさほど目立った活動をすることはなかったが、1993年にフェイゲンのソロ・アルバム『カマキリアド』(全米10位、全英3位)をベッカーがプロデュースしたことをきっかけに2人での活動を再開します。そして同年に「スティーリー・ダン・フィーチャリング・ウォルター・ベッカー&ドナルド・フェイゲン」名義でライブツアーを開始、翌年には初来日も果たしました。このツアーの模様は公式のライブ盤として発売されています。1996年にも再び世界ツアーを行ない、同年に発表したベッカーのソロ・アルバム『11の心象』をフェイゲンがプロデュースしています。

2000年、スティーリー・ダン名義としては『ガウチョ』以来20年ぶりとなるスタジオ・レコーディング・アルバム『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』を発表。全米6位(全英11位)の大ヒットを記録し、同年のグラミー賞では最優秀アルバムをはじめ4部門を獲得しました。2001年に『ロックの殿堂』入りを果たしました。2003年には、『彩(エイジャ)』がグラミー賞殿堂入りを果たしています。

2017年、ウォルター・ベッカーの死去が、ベッカーのオフィシャルサイト上で発表されました。67歳没。当初死因等の詳細は発表されていなかったが、ベッカーの妻デリアにより、死因については急激な進行の食道癌であったことが公表されました。癌は毎年受けていた健康診断で発見され、化学療法による治療を行っていたものの、進行が早く発見から4ヶ月も経たないうちに死去したといわれています。ドナルド・フェイゲンは追悼声明で、大学時代からの長年の友人でありバンドメイトでもあったベッカーを回想するとともに、スティーリー・ダンとして作り上げてきた音楽を、自分ができうる限り続けていきたいと語りました。

ベッカー死去の翌週から、意向の通りバンド活動を継続。ベッカー亡き後初のツアーは10月13日、オクラホマ州タッカービル公演からスタートし、「ドゥービー・ブラザーズ」とのジョイントライブをイギリスで3公演開催する事を発表しました。

2019年秋、過去の名作『幻想の摩天楼』『彩(エイジャ)』『ガウチョ』『ナイトフライ』のアルバム全曲を再現する日替り企画を、秋の米東海岸ツアーにて実施。

ドナルド・フェイゲンの『ナイトフライ』名盤ですね^_^

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