これぞ、日本を代表するバンド👍👍👍

みなさんは、こんなことを考えたことはありませんか❓「日本のバンドやアーティストで、世界に誇れるのって何があるかなぁ〜❓」と。私は、『サザンオールスターズ』がその代表格ではないかと思います。

1972年、松田弘が大森隆志にドラムを貸す形で2人が出会います。1974年、青山学院大学に入学した桑田佳祐と関口和之は、フォークソング・サークルで知り合い、ロックバンド「温泉あんまももひきバンド」を結成しました。翌年の1975年、青山学院大学に大森と原由子が入学し、桑田や関口と同じフォークソング・サークルに入部しました。

桑田のバンドは、「温泉あんまももひきバンド」から「ピストン桑田とシリンダーズ」に改名を行い、大森は次第に桑田のバンドに興味を持つようになり、練習現場にしばしば現れるようになります。原が桑田のバンドに参加し、バンドは「青学ドミノス」「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」と名前が変遷した後に「サザンオールスターズ」に改名しました。

桑田が望んでいた「サザンオールスターズ」は長く持続せず、メンバーが頻繁に入れ替わっていた。大森は桑田に松田を紹介するなどして、1977年に桑田、大森、原、松田、天野和平による『サザンオールスターズ』でヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」に申し込みました。しかし、予選のテープ審査の時期に天野が脱退し、入れ替わりで関口が加入します。本選では入賞を果たし、桑田がベストボーカル賞を獲得します。この直後に大森がバイト先で知り合ったセミプロの野沢秀行が大森の勧誘を受ける形でなし崩し的に加入しました。

レコード会社はビクター音楽産業に決まったものの、芸能事務所がなかなか決まらなかった。ビクターのディレクターの高垣健が「女呼んでブギ」のカセットを持って事務所周りをしていた際、当時は新興事務所のアミューズの社長大里洋吉が興味を持ち、練習スタジオを訪問する。この際に「勝手にシンドバッド」を披露し、大里が「この男をテレビに出したら面白い」と考えたことから契約が決まったと大里は話しています。アミューズは原田真二の個人事務所的な存在として1977年に設立された会社だったが、大里が解散直前のキャンディーズのプロデュースに専念し事務所の仕事から離れていた時期に、ロック志向を強めていた原田がテレビ的な売り出し方を嫌うようになり、大里が事務所の仕事に復帰した直後に移籍してしまったといいます。サザンとの出会いはこの事件の2週間後であり、もし原田が移籍してなかったらサザンオールスターズをやる余裕はなかったと大里は話しています。

一方、バーニングプロダクション社長の周防郁雄は、ビクターのディレクターである東元晃から「勝手にシンドバッド」など5曲聞かされ、気に入ったが、ホリプロ社員だった奥田義行が井上陽水と立ち上げた「りぼん・なかよしグループ」に所属することになっていたため、5000万円払って譲ってもらい、当時出資していたアミューズの社長である大里に紹介し、アミューズ所属となったと説明しています。(この経緯は大里は知らないという)。このことから、「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」までの5曲の版権はバーニングパブリッシャーズが保持しています(アミューズから音楽出版権を返すよう言われたため、それ以降の作品ではアミューズが保持している)。

デビューに向けて着々と準備が進む中、メンバー全員が他のレコード会社の契約書にサインしてしまうという事件があったが、ビクター関係者が出向いて話を収拾しました。この時期はまだ学生バンドの思い出作り的な意識があったといいます。桑田はこのころはまだサザンのリーダーではなかったが、プロダクションとの契約にあたってメンバー全員が大卒初任給をもらえるよう交渉をしました。

1978年6月25日にシングル「勝手にシンドバッド」(3位)でビクターからメジャーデビューを果たしました。同年には1枚目アルバム『熱い胸さわぎ』(16位)を発売します。また同年に音楽番組『ザ・ベストテン』のスポットライトのコーナーで初出演しました。この際に桑田が「目立ちたがり屋の芸人です」と発言し、これによりイメージの形成に拍車がかかります。後に、この発言は「台本によるもの」と明かしています。「勝手にシンドバッド」はテレビ番組で披露されたこともあり、大ヒットとなりました。当時、桑田の日本語を英語風に発音してロックに乗せるいわゆる「巻き舌唱法」は音楽ファンや関係者の間で賛否両論となります。桑田はこの歌唱法や前述の作詞および作曲法をアマチュア時代からしていたため、歌唱法が批判されたりしたことを意外に思ったといいます。「勝手にシンドバッド」の発売から5か月後に2枚目シングルとなる「気分しだいで責めないで」(10位)を発売。1978年から翌年にかけて、公式上のデビューコンサート「胸さわぎ」を行いました。

1979年に3枚目シングル「いとしのエリー」(2位)同年に2枚目アルバム『10ナンバーズ・からっと』(2位)を発売しました。特に「いとしのエリー」は、出荷枚数が125万枚を記録し、「勝手にシンドバッド」での一発屋を作品力で回避しました。『10ナンバーズ・からっと』を製作していた期間は「いとしのエリー」のヒットもあり、並行して雑誌の取材やテレビ出演、CM撮影、ライブ活動、年末にはNHK紅白歌合戦に「いとしのエリー」で初出場するなど多忙な日々を送っており、精神的にも落ち込んでいたといいます。

1980年に入った直後に「テレビ番組などに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」「5か月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」という宣言をして、FIVE ROCK SHOWと銘打った計画を開始します。その後、3枚目アルバム『タイニイ・バブルス』を発売し、自身の作品初となるオリコン週間ランキング1位を獲得しました。アルバムに収録されていた「私はピアノ」は原がボーカルを務め、特に評判となった。その評判を受けて、1981年にサザンのメンバーの中で最初に原が「I Love Youはひとりごと」(35位)でソロデビューをしました。デビューのプロデュースは桑田が担当しました。同年、サザンとしては、4枚目アルバム『ステレオ太陽族』(1位)が発売され、7枚目アルバム『人気者で行こう』(1位)までは4枚連続で毎年発売されました。

1982年に入り、14枚目シングル「チャコの海岸物語」(2位)が「いとしのエリー」以来のヒットとなり、2度目のNHK紅白歌合戦に出演しまさした。同年には5枚目アルバム『NUDE MAN』(1位)が発売され、ミリオンセラーに迫る売上枚数を記録しました。その後同年に、バラード曲を中心に収録したバラッドシリーズの第1弾『バラッド ’77〜’82』(1位)が発売されました。1983年も引き続き3度目のNHK紅白歌合戦に出演して19枚目シングル「東京シャッフル」(23位)を披露しました。

1983年には音楽業界にシンセサイザーによるデジタルの波が来たことで、同年3月発売の17枚目シングル「ボディ・スペシャルII」(10位)辺りからサザンも原がシンセサイザーを使用するようになりました。6枚目アルバム『綺麗』(1位)からシンセサイザーを本格的に使用したサウンドとなり、1984年発売の『人気者で行こう』でも同様のサウンドとなっています。1984年『人気者で行こう』の先行シングルとして発売された20枚目の「ミス・ブランニュー・デイ」(6位)は発売当時絶大な人気と評価を集めました。公式な形では自身初の年越しライブ『縁起者で行こう』を開催した。同ライブは「日本初の年越しライブ」「年越しライブの元祖」とも呼ばれています。

1985年に、自身初の2枚組となった8枚目アルバム『KAMAKURA』(1位)を発売しました。シンセサイザーをより本格的に使用したサウンドとなり、5か月間制作に打ち込んでいました。制作時期に原が産休に入り、1986年にはサザンは一年間限定で活動を一旦休止しました。桑田や松田は『KUWATA BAND』としての活動、他のメンバーもそれぞれのソロ活動に入りました。この活動休止については、桑田が「全員がソロ活動をやって、一つ一つが別個性として出てくれば理想的だね」と持ち掛けたところ、全員がそれを受け入れたことや、「あのままだとサザンはパンク寸前だった」「俯瞰で自分やサザンを見直した方がいいんじゃないか」というムードがメンバー全員にあったことが語られています。1987年はバラッド第2弾『バラッド2 ’83〜’86』(1位)が発売されました。

デビュー10周年を迎えた1988年に24枚目シングル「みんなのうた」(2位)を発売し、サザンとしての活動を再開しました。このシングルから音楽プロデューサーの小林武史がアレンジ、プロデュース業を共に行うようになります。全国の球場9か所でライブ『真夏の夜の夢 大復活祭』を開催しました。9枚目アルバムとなる『Southern All Stars』(1位)と、桑田が監督を務めた映画作品『稲村ジェーン』のサウンドトラックであり、サザンの10枚目アルバムにもなる『稲村ジェーン』(1位)の制作に入りました。1989年に発売した26枚目シングル「さよならベイビー」がオリコン週間ランキングで1位を獲得し、デビュー11年目にしてシングル初の首位獲得となりました。45万枚限定のベスト・アルバム『すいか』(1位)が発売され、こちらは予約だけで完売しました。年越しライブを開催。この頃から同年に開業した横浜アリーナで行うことが恒例になります。

1990年に入り、アルバム『Southern All Stars』を発売しました。売上は120万枚近く記録し、自身の作品としては初となるミリオンセラーとなります。直後にアルバムを引っ提げ、全国ツアー『夢で逢いまSHOW』が開催されました。上述の映画『稲村ジェーン』の主題歌で28枚目シングルとなる「真夏の果実」(4位)を発売しました。85万枚を記録するヒットとなり、自身の代表作になります。そして、9月にはアルバム『稲村ジェーン』を発売。こちらも130万枚を超えて、アルバム2作連続でミリオンセラーとなりました。年越しライブを開催。1991年前半は原がソロで活動しており、7月にサザンとして活動を始め、29枚目シングル「ネオ・ブラボー!!」(1位)を発売します。全国ツアー、年越しライブを開催。

1992年に30枚目シングル「シュラバ★ラ★バンバ」、31枚目シングル「涙のキッス」を2枚同時に発売しました。オリコン週間ランキングで2週連続1、2位を獲得し、「涙のキッス」はTBS系列ドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主題歌に使用され、初登場から7週連続1位を記録。155万枚を売り上げて、自身のシングルとしては初のミリオンセラーとなりました。中国・北京でライブを行い、初の海外公演となった[214]。直後に前述のシングル2枚を収録した11枚目アルバム『世に万葉の花が咲くなり』(1位)を発売。アルバムは180万枚に迫る売上を記録しました。1993年には、32枚目シングル「エロティカ・セブン」(1位)、33枚目シングル「素敵なバーディー (NO NO BIRDY)」(3位)を2枚同時に発売した。「エロティカ・セブン」はフジテレビ系列ドラマ『悪魔のKISS』の主題歌となり、170万枚を超えるヒットとなりました。

1993年の34枚目シングル「クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)」(3位)を最後に小林がサザン(桑田ソロ含む)との共同作業から離れました。このことについて桑田は小林のアレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価しつつも「(小林は)危ないヤツと分かった」と語っているが、これは人間性を否定しているわけではなく、サザンの正規のメンバーを差し置いて小林に過度に頼ってしまうという意味があります。これ以降の作品は自身によるプロデュースとアレンジで発売するようになりました。

年越しライブを開催し、1994年からは桑田がソロ活動を始めました。1995年に関口が休養から復帰し、5月に35枚目シングル「マンピーのG★SPOT」(4位)で活動を再開。限定販売アルバム『HAPPY!』(1位)は2日間で70万枚が完売した。7月にドラマの主題歌に使用された36枚目シングル「あなただけを 〜Summer Heartbreak〜」(1位)が発売され、「エロティカ・セブン」以来のミリオンセラーとなりました。2日間のみのライブ『ホタル・カリフォルニア』を開催。西城秀樹がゲスト出演し話題となりました。1996年に37枚目シングル「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」(1位)を発売し、155万枚のヒットを記録。7月にはクラシック・ロック・テイストを取り入れた12枚目アルバム『Young Love』(1位)が発売されました。アルバムは250万枚近くを売り上げ、オリジナルアルバムとしては最大ヒットとなりました。アルバム発売直後に全国ツアー、年越しライブを開催。

1997年には直ぐに13枚目アルバム『さくら』(1位)の製作に着手し、当時のデジタルのロックの融合にトライ、現代的な要素を盛り込んだ作品となりました。また、同年に39枚目シングル「01MESSENGER 〜電子狂の詩〜」(5位)、40枚目シングル「BLUE HEAVEN」(5位)を発売。年越しライブを開催しました。1998年に入り、41枚目シングル「LOVE AFFAIR 〜秘密のデート」(4位)を発売し、デビュー20周年を迎えた6月25日にはベストアルバム『海のYeah!!』(1位)を発売しました。アルバムの売上が480万枚を記録するヒットとなり、自身最大売上作品となりました。アルバムを引っ提げ2日間のみのライブ『スーパーライブ in 渚園 “モロ出し祭り”』を開催。アルバム『さくら』を発売し、120万枚を記録しました。1999年に43枚目シングル「イエローマン 〜星の王子様〜」(10位)を発売し、初のアリーナ・ドームツアー『Se O no Luja na Quites 〜素敵な春の逢瀬〜』を開催。シークレットライブ『’99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町』、年越しライブを開催しました。

2000年に44枚目シングル「TSUNAMI」(1位)を発売。この楽曲は当時放送されていたTBS系列バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとして使用され、300万枚近くを売り上げて「エロティカ・セブン」で記録した最高売上を更新しました。また、当時のオリコン歴代シングルランキングで3位にランクインし、この年の第42回日本レコード大賞で大賞を受賞しました。桑田の地元である茅ヶ崎市の地元住民の署名運動によって、2日間の野外ライブ『サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ』を開催しました。ライブに合わせて製作された45枚目シングル「HOTEL PACIFIC」(2位)を発売し、80万枚を超えるヒットとなります。46枚目シングル「この青い空、みどり 〜BLUE IN GREEN〜」(3位)とベストアルバム『バラッド3 〜the album of LOVE〜』(1位)が発売され、アルバムは290万枚を売り上げ、バラッドシリーズでは最高売上を記録しました。その直後、大森が休養を発表し開催された年越しライブを欠席。2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退しました。同年から2002年まで桑田を始めとしたメンバー5人は今後のバンドのステップアップを目標にソロ活動を行いました。

2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」を発売し、25年越しにオリコン週間ランキングで1位を獲得しました。同年に47枚目シングル「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」(1位)を発売、直後に大規模な野外・スタジアムツアーを開催し、サザンでの活動が本格的に始まります。2004年には、シングル3作を発売して全てオリコン1位を獲得するなどヒットし、12月には年越しライブを開催しました。2005年にデビューシングル「勝手にシンドバッド」から「TSUNAMI」までのシングル44作を12cmCD化して再発売されました。同年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバムで14枚目アルバムとなる『キラーストリート』(1位)を発売し、110万枚以上の売り上げを記録。発売後に2度目のドームツアーが開催されました。

2006年に52枚目シングル「DIRTY OLD MAN 〜さらば夏よ〜」(1位)を発売し、サザンとして『THE 夢人島 Fes.』に出演しました。2007年は桑田はシングル発売やツアーの開催、原は映画主題歌を書き下ろすなど、メンバーが個人で活動しました。同年にビクターとアミューズがサザンやソロの楽曲管理・配信などを行う合弁会社「タイシタレーベルミュージック」を設立しました。

2008年にメンバーは「サザンという看板に頼らないで、サザンの活動だけをあてにしないで視野を広げていこう」という方針を決め、30周年に伴う53枚目シングル「I AM YOUR SINGER」(1位)の発売やライブなどの活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべくサザンオールスターズとしての活動を無期限休止にすることを発表しまさした。この活動休止については、発表の当日にNHKの『おはよう日本』が報じたほか、民放各局でも報道や特集が大々的になされ、発表後には所属するアミューズの株価が大幅下落し、「サザンショック」と言われました。また、発表直前の2008年の東京スポーツ紙上で「サザン解散か」などといった誤った報道がなされ、ファンおよび世間に動揺を与えることになりました。桑田はそのことへの反省の弁を自身のラジオで述べ、活動休止の理由をつまびらかに語り、この騒ぎに対する謝罪や無期限休止への理解を求める発言をすると共に「(サザンの)解散は絶対にない」と断言しました。

2009年から各自がソロ活動を行う。2012年に、桑田とスタッフの間で35周年を迎えるにあたっての話が持ち上がったことがきっかけで、「ファンをはじめとした多くの人たちと、楽しめるときに大いに楽しもうじゃないか」とサザンの活動を再開をすることにメンバー5人の気持ちが合致しました。この活動休止期間は、2010年に桑田の食道がんによる休養と闘病、2011年に東日本大震災の復興支援のための「チーム・アミューズ!!」結成や桑田の「宮城ライブ」の開催などがあり、「これまでにない濃密な5年間」と振り返っています。

デビュー35周年の2013年6月25日に活動再開を発表。同年に54枚目シングル「ピースとハイライト」を発売し、オリコンで首位獲得したことでシングルとして1980年代〜2010年代の4年代で首位獲得、国内グループとしては史上初の快挙となりました。同年にかけて全国ツアー『灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!』を開始した。ツアーを映像化した作品を発売し、映像作品としても史上初の4年代首位獲得を記録しました。

2014年には55枚目シングル「東京VICTORY」(1位)を発売しました。サザンの楽曲266曲がiTunes Storeでの配信を解禁され、日本を含む111カ国で配信を開始しました。同時にmoraでも配信が開始されました。年末には年越しライブを開催。並行して31年ぶりで4度目となるNHK紅白歌合戦にシークレットゲストとして中継出演し、「ピースとハイライト」「東京VICTORY」を披露しました。

2015年には『キラーストリート』以来約10年振りとなる15枚目アルバム『葡萄』を発売、アルバムでも4年代首位を達成しました。同年にかけて全国ライブツアー『おいしい葡萄の旅』を開催。2017年には自身が初めてコマーシャルに出演した、アサヒ飲料『三ツ矢サイダー』にメンバー全員で再び出演しました。

2018年に入り、アルバム『葡萄』以来の新曲「闘う戦士たちへ愛を込めて」(1位)が自身初の配信シングルとして発売され、続けて2作目の配信シングル「壮年JUMP」(4位)も発売されました。『海のYeah!!』の続編ベスト・アルバム『海のOh, Yeah!!』が発売されました。このアルバムがオリコン週間ランキングで首位獲得したことにより、国内グループでデビュー40年を超えての首位獲得は史上初の快挙となりました。同年に5度目となるNHK紅白歌合戦に特別枠として「究極の大トリ」で出演、「希望の轍」「勝手にシンドバッド」を披露し、平成最後の紅白歌合戦を締め括りました。歌手別瞬間最高視聴率が45.3%を記録し、出場歌手の中で最も高い視聴率を獲得しました。

2019年、6大ドームを含む全11か所22公演の全国ツアー『“キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!”だと!? ふざけるな!!』を開催しました。ライブでは新曲「愛はスローにちょっとずつ」(3位)が披露され、3作目の配信シングルとして発売されました。サザンの楽曲やソロ5人の楽曲も含め、全972曲のサブスクリプション型サービスによるストリーミング配信が解禁されました。

2020年に新型コロナウイルス感染症が流行して、芸能イベントや音楽ライブが中止となり大打撃を受けました。その関係でスタッフ達の仕事が無くなったことを知った桑田は何か音楽で出来ることを考え、サザンとしては「Keep Smilin’〜“出来ることから”ちょっとずつ〜」をスローガンに掲げた特別企画を開始させ、デビュー42周年を迎えた6月25日には無観客配信ライブ『Keep Smilin’〜皆さん、ありがとうございます!!〜』を開催します。このライブは“感謝”がテーマとなっており、ファンや400人のスタッフだけでなく、新型コロナウイルス感染症を治療する医療機関への感謝を込めたライブになっています。横浜アリーナで通常のライブと同様に大規模なステージを作り、ライブが行われました。リハーサルスタジオおよび横浜アリーナ内ではアクリル板が配置され、メンバーや演者・スタッフの検温、消毒、マスク着用、ソーシャルディスタンス、前述した桑田と女性ダンサーとの接触を行わないといった感染拡大防止対策を徹底しました。スタッフはマスクやフェイスシールドを着用しました。チケットはライブ当日まで販売しており、チケット購入人数は18万人、推定視聴者数は50万人ほどであり、ライブの収益の一部はアミューズ募金を通じて、新型コロナウイルス感染症の治療や研究開発にあたる医療機関に役立てられました。同年の大晦日に横浜アリーナで無観客年越しライブ『Keep Smilin’〜皆さん、お疲れ様でした!! 嵐を呼ぶマンピー!!〜』が開催され、前回とは違い、メンバーやスタッフの新型コロナウイルス感染症の防止や同年8月に松田が右肩の手術を受け、復帰初のライブであることから事前に収録したものが配信されました。

やはり、『サザンオールスターズ』は、日本の宝ですね。これからも、名曲をたくさんリリースしてくれる事でしょう^_^

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