日本フォークの全盛期を支えた‼️‼️‼️

日本のフォークは、前にも投稿したように『岡林信康』が元祖ですが、では全盛期は誰か。それはやはり、『吉田拓郎』でしょう。

父親・吉田正廣が朝鮮総督府で農林官吏として勤務したため、吉田家は戦前、朝鮮京城で暮らしました。長女は小学校1年の時、病気により朝鮮で早世。長兄一人、次女までは朝鮮で生まれ、敗戦により、1945年夏に朝鮮・京城から家族で引き揚げ、拓郎のみ次男の末っ子として鹿児島県大口町で生まれました。1952年春、鹿児島郡谷山町に転居し、谷山小学校に二年生まで在学(歌手の西郷輝彦と同期生)。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入った人物で、引き揚げ後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣。鹿児島時代は姉と同じ部屋で生活していたので、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことに、拓郎も大きな影響を受けました。拓郎自身は両親の出自については詳細はよくわからず、母方の祖母が広島の出身と話しています。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居し、小学校3年から広島県広島市南区西霞町で育ちます。同年、広島市立皆実小学校へ転校。立教大学ジャズ研出身で、後にジャズピアニストになった兄が、夏休み等に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになりました。小児喘息の持病があり、小学校から中学校にかけては出席日数が半分程度の目立たない子供だったといいます。このため家にいることが多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めました。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦。1962年、広島皆実高校に入学(後輩に奥田民生ら)。友人の通う広島商業の文化祭に誘われ、そこで同じ高校生のバンドがエレキで演奏しているのを「これだ!」と確信し、「僕もこれをやろう!」と決めました。自身もインストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当しました。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡しました。拓郎は「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる言わば『すべての始まり』であり『僕を生み出した季節』」と述べています。

1965年に広島商科大学に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにビートルズを真似た4人編成のロックバンド・ザ・ダウンタウンズを結成。ボーカルとギターを担当しました。当時はザ・ベンチャーズのコピーバンドが多く、歌えるアマチュアバンドは珍しく、ライブハウス・広島ACBに出演した際には「歌うエレキ・グループ登場!」と書かれました。同バンドは広島で最も人気があったグループ・サウンズ(GS)といわれ、1965年年秋に初コンサートを開催。R&Bが主なレパートリーだったが、ビートルズのコピーほかオリジナル曲も10~15曲程度ありました。オリジナルの一つが拓郎作詞・作曲による「たどりついたらいつも雨ふり」の原曲「好きになったよ女の娘」であります。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがGSブームも未到来の時代であり、相手にされなませんでした。天下のナベプロに断られたショックは計り知れず、「オレ、ギター一本でフォークソングやるわ」と決意するに至ります。

バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨き、ソロでもオリジナル曲を奏で歌います。1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」をボブ・ディランの写真を見て、ハーモニカホルダーを針金を使って自作し、6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱、中国大会2位、全国3位となります。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京しました。ザ・ダウンタウンズとして1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知りました。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退しました。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し、オリジナル曲「好きになったよ女の娘」を歌い、中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となります。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジ(agitation)を浴びせられました。

1969年には、カワイ楽器広島店に就職内定したが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加しました。

1970年ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売しました。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、広島のレコード店で売っていることに驚いた拓郎が買って家で聞いたら、リズムが途中で裏になっていたりし、拓郎の抗議で音源を録り直しました。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ザ・ダウンタウンズ」を解散して上京しました。

同年に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職します。エレックはまともな仕事は取ってこられず、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりしました。『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用されます。後藤はこれを機に重要なパートナーとなります。日活映画『女子学園 ヤバい卒業』(夏純子主演・沢田幸弘監督)の劇中、「青春の詩」を歌唱。1971年、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション『ユイ音楽工房』を設立。広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供。

1972年にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結びます。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げました。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知されます。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になり、画期的な“音楽シーン”を作り上げる第一歩を記されます。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込みます。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まりました。公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」(59位)を歌唱。長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えました。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げ、バックバンドだった猫をデビューさせたり、ロックやフォーク、歌謡曲、演歌歌手に楽曲プロデュースを行うなど音楽プロデューサーとしての地位も上げていきます。

1973年には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、釈放されました。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立ちます。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられました。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載しました。この金沢事件で女性ファンは一気に減ったが、デビュー直後に執拗な“帰れコール”を浴びせた男性ファンが戻ってきました。

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年に、森進一に「襟裳岬」を提供し、この「襟裳岬」は同年の第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが、当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場で平然と賞を受け取ったため物議を醸しました。

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなりました。1975年、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなります(拓郎5位、陽水7位)[90][91][92][93]

CBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社『フォーライフ・レコード』を発起しました。これを機に『吉田拓郎』と改名します。オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表します。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き”フォークの女王”に戻らせます。

静岡県掛川市・つま恋で、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」開催。

1976年に、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べています。小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなりました。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任します。浅田美代子と2度目の結婚。井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力しました。

70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられます。。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相でした。

1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』(8位)を発表しました。

1982年に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表されました。

1983年、女優・森下愛子との不倫騒動が流れ、同年10月に浅田美代子が芸能界へ復帰した際は、共に自身2度目の離婚を否定しています。しかし翌1984年、浅田との協議離婚を発表した。

1985年には、国立競技場で国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正と共に企画運営し、司会を務めて、5万人の観客を動員。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催されました。

1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。

1986年に森下愛子と3度目の結婚。

1988年に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立。

この頃からテレビ出演が多くなり、1989年にNHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用されました。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットします。

1988年、日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行います。

1989年、アルバム『ひまわり』(13位)を引っ下げて行われた全国ツアーがスタート。同年に、東京ドームでコンサートを行い、5万人を動員します。

新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”からの依頼で、1992年に「吉田町の唄」(48位)を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立されました。

1994年に参加した『日本をすくえ’94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』(4位)が20万枚以上の売り上げを記録しました。

1999年にフォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し、2000年4月にインペリアルレコードに移籍する。移籍したのは、交友のある飯田久彦がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからでした。

2003年に、肺がん手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せました。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われました。

2008年に母校の広島修道大学で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露されました。

2009年にavex traxに移籍します。生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定しました。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となります。

つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となります。

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録します。

2017年に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表されました。

歌手としても、タレントとしても一流です。



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