世の中には、売れないバンドやアーティストはたくさんいます。苦渋をを舐め耐えて、そのまま消えていくのがほとんどです。しかし、もし時代の変化と共にいきなりブレイクするケースは決して不思議なことではありません。『REOスピードワゴン』はその元の言って良いでしょう。
イリノイ州の同じ大学に通っていたニール・ドーティ、アラン・グラッツァーらが中心になり1967年に発足。
1971年、ファースト・アルバム『REOスピードワゴン・デビュー』でデビュー。しかし、その直後、ボーカルのテリー・ルトゥレルを強制解雇。ロック史上稀に見る、とうもろこし畑に置き去りにするという解雇方法が取られました。
1972年、2代目のボーカルとしてケヴィン・クローニンが加入しました。加入のいきさつについては次の様なエピソードがあります。もともとはバンドのメンバーを斡旋する仲介業者としての仕事をシカゴでしていたケヴィン。そんな中、テリーが抜けて困っていたゲイリーが「新しいボーカルを探してくれ」とケヴィンの勤める会社に依頼したのだが、ゲイリーは何故か自分達のバンド名を伏せたままでケヴィンに教えようとはしませんでした。困ったケヴィンは一計を案じ、ゲイリーに「オレのアパートに来れば、お探しのボーカリストに会わせてやる」と連絡しゲイリーを誘い出しました(もちろん、ゲイリーを誘い出すための連絡なのでケヴィンはボーカリストを見つけていない)。そしてケヴィンの部屋にゲイリーが入ってくるなり、ケヴィンはエルトン・ジョンの曲を熱唱し出しました。結果、その歌声を気に入ったゲイリーがケヴィンに「ボーカルになってくれ」と依頼し、ケヴィンはこれを快諾しました。
新メンバーのケヴィンを迎え、2枚目のアルバム『輝く大地 (REO/T.W.O.)』をこの年の12月にリリース。
1973年、3枚目のアルバム『ライディング・ストーム』のレコーディング中、プロデューサーのビル・ハルヴァーソンの妻の真っ白なカーペットに新メンバーのケヴィンが赤ワインをこぼしてしまい、その妻が激怒。この問題を収拾するために他の4人のメンバーは数日間の話し合いを持ちます。結果、ケヴィンをクビにし、新しいボーカルを迎えるという結論に達しました。既に刷られていたアルバム・ジャケットからケヴィンの姿は綺麗に消されました。
1974年、様々なトラブルの末、3枚目のアルバム『ライディング・ストーム』リリース、全米第171位。
同年、4枚目のアルバム『ロスト・イン・ア・ドリーム』リリース、全米第98位。このアルバムの表題曲でもある「ロスト・イン・ア・ドリーム」はマイクと後に加入する、ブルース・ホールが共作しています。
1975年、5枚目のアルバム『こんどはホンキだぜ』リリース、全米第74位。
アルバムリリース後に3代目ボーカルのマイク・マーフィーが脱退。
バンドを離れていたケヴィン・クローニンが「キープ・プッシン」という曲のデモ・テープをバンドに送る。これがきっかけとなりケヴィンはバンドに復帰します。
1976年、この年の1月にロサンゼルスのレコード・プラント・スタジオでケヴィンと他のメンバー4人でレコーディングを行います。そして、このレコーディングで生まれたのが『キープ・プッシン (R.E.O.)』というアルバムで同年6月発売、全米第159位。この作品からケヴィンがバンドへ正式に復帰します。その後バンドは10ヶ月間のツアーを行ないました。
1977年、5月、初のライブ・アルバム『ライヴ〜嵐の中へ』リリース、全米第72位。このアルバムは2枚組ライブ・アルバムとして初のゴールドディスクを獲得します。
先に挙げたツアー終了と同時にベーシストのグレッグが脱退。
1978年、2代目ベーシスト、ブルース・ホールが加入。これによりニール、ゲイリー、アラン、ケヴィン、ブルースというバンド黄金時代の役者がすべて揃います。
4月、アルバム『ツナ・フィッシュ』リリース、全米第29位。この中の1曲「ロール・ウィズ・ザ・チェンジズ」と「出発の時」がシングルとしてもヒット。
1979年、8月、アルバム『ナイン・ライヴス』リリース、全米第33位。
1980年、初のベスト・アルバム『ディケイド・オブ・ロックンロール ’70〜’80』リリース、全米第55位。バンドとしての知名度は徐々に上昇していました。
次のアルバム『禁じられた夜』からの先行シングルとして「キープ・オン・ラヴィング・ユー」がリリースされる。
12月、アルバム『禁じられた夜』リリース。
1981年、アルバム『禁じられた夜』が、それまでビルボードのアルバムチャートで8週連続全米1位を獲得していたジョン・レノンの遺作、『ダブル・ファンタジー』にかわって1位になりました。その後、15週連続全米1位を獲得し、売り上げも最終的には1000万枚を突破した。そして、この年の年間アルバムチャートでは『ダブル・ファンタジー』を抑えて年間第1位を獲得しました。
アルバムからの先行シングルとなった「キープ・オン・ラヴィング・ユー」はの全米シングルチャートで全米1位を獲得しました。そして、この年の年間シングルチャート第10位にもなりました。売れない地味なハードロック・バンドのままなら、批判されることもなかったのだが、大ヒットを飛ばすに至り「産業ロック」との批判を受けることになってしまいます。
1982年、7月、アルバム『グッド・トラブル』リリース、全米第7位。
1983年12年ぶりに本格的なオフ期間を設けます。
1984年11月、アルバム『ホイールズ・アー・ターニン』で活動再開、全米第7位。
1985年、先に挙げたアルバムからシングルカットされた「涙のフィーリング」が全米シングルチャートで3週連続第1位を獲得。このミュージック・ビデオは「一人の男が生まれ、成長、そして結婚し子供が生まれ、さらにその子供が独立。そして夫婦は年老いていき、夫は最愛の妻に先立たれる」というストーリーになっている。このビデオでケヴィンは特殊メイクを用い、最後の老人役で出演しています。
同年に行なわれたライヴエイド(フィラデルフィア・JFKスタジアム)に出演。「涙のフィーリング」「ロール・ウィズ・ザ・チェンジス」を披露。「ロール・ウィズ・ザ・チェンジス」では同じく出演していたビーチ・ボーイズや他の出演者がコーラスを担当しています。
アルバム『ザ・ベスト・オブ・REOスピードワゴン』リリース。
1987年、2月、黄金期のメンバーでレコーディングされた最後のオリジナル・アルバム『人生はロックンロール』をリリース、全米第28位。
1988年、6月、ベスト・アルバム『ザ・ヒッツ』(通算16枚目)をリリース、全米第56位。その中の新曲「アイ・ドント・ウォント・トゥ・ルーズ・ユー(涙のルーズ・ユー)」と「ヒア・ウィズ・ミー」(全米第20位)がゲイリーとアランがバンドメンバーとしての最後のレコーディングとなります。
このリリース直後、ドラムのアランが脱退。元サンタナのグラハム・リアー加入。
1989年、バンドの中心的存在だったギターのゲイリーが脱退。バンドは後任のギタリストとして、元プレイヤーのマイルス・ジョセフを迎えました。
1990年、グラハムとマイルスが脱退。元ワン・チャンのブライアン・ヒットと元テッド・ニュージェント・バンドのデイヴ・アマト、そしてフリーのキーボード奏者のジェシー・ハームスが加入。バンドは初めて6人編成となりました。
8月、アルバム『ジ・アース・ア・スモール・マン・ヒズ・ドッグ・アンド・ア・チキン』をリリース、全米第129位。16年ぶりに100位以下の順位を記録してしまいます。
1991年、10月、ベスト・アルバム『ディケイド:1981〜1991』をリリースしバンドは活動休止。
レコード会社の意向でベスト・アルバム『Keep on Loving You – Best』をリリース。
1992年この年の後半、ニール、ケヴィン、ブルース、デイヴ、ブライアンの5人で活動を再開。
1993年、アルバム『スター・ボックス』をリリース。
1995年アルバム『Believe in Rock and Roll』をリリース。
1996年、キャッスル・レコードへ移籍。
アルバム『Building the Bridge』をリリース。
1999年それまでの楽曲の中からバラード曲(新曲2曲を含む)のみを集めた、ベスト・アルバム『バラード・ベスト』をリリース。
2000年『ライヴ〜嵐の中へ』以来、23年ぶりのライブ・アルバム『アーチ・アライズ〜ライヴ・アット・リヴァーポート』リリース。このアルバムはスティクスと行なった合同ライブの模様が収録されています。
2001年、アルバム『Live-Plus』をリリース。
2004年、ケヴィン・クローニンが選曲し、未公開音源も収録されたベスト・アルバム『エッセンシャル・REOスピードワゴン』リリース。
2007年、アルバム『涙の道標 (みちしるべ)』をリリース。
2009年、アルバム『Not So Silent Night… Christmas with REO Speedwagon』をクリスマス・アルバムとしてリリース。
2015年デビューから全盛期時代まで在籍した元メンバー、ゲイリー・リッチラスが死去。
長い間活動同していますが、ボーカルのケビンの歌声は、全く変わりません。凄いバンドですね。

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