メタル・ゴッド‼️‼️‼️

引用

『ブラック・サバス』のオジー・オズボーンをメタル界の”ゴッド・ファーザー”とするならば、『ジューダス・プリースト』のロブ・ハルフォードは、”メタルゴッド”と呼ばれています。

1969年、現在とはまったく違うメンバーで、結成される。K・K・ダウニング(G)がオーディションを受けるが、落選。1970年、イアン・ヒル(B)、K・K・ダウニング(G)、ジョン・エリス(Ds)で、「FREIGHT」というバンドをバーミンガムで結成します。半年後、アル・アトキンス(Vo)が加入。皮肉なことにアトキンスは、オリジナル ジューダス・プリーストのオーディションでK・K・ダウニングを落とした張本人でした。

この頃FREIGHTは、メンバーの事故死などで活動停止状態にあった「ジューダス・プリースト」の名前を引き継ぐ形で改名します。

1971年、ジョン・エリス(Ds)が脱退。後任にアラン・ムーア(Ds)が加入するが、年末に脱退。1972年、ジャマイカ出身のクリス・キャンベル(Ds)が加入。イギリス中を回り本格的なライブ活動を開始します。

1973年、バンドの厳しい財政状況に耐えかねたアル・アトキンス(Vo)が脱退。追うようにしてクリス・キャンベル(Ds)も脱退。同年、イアン・ヒル(B)のガールフレンド(結婚したが、後に離婚)のスー・ハルフォードの兄、ロブ・ハルフォード(Vo)が加入。ロブ・ハルフォードの紹介で、バンド仲間であったジョン・ヒンチ(Ds)が加入。

1974年、イギリスのマイナーレーベル「ガル・レコード」と契約。しかし契約内容はバンド側に不利な内容であり、バンドが受け取るギャラは一ヶ月にわずか50ポンドであったため、メンバーはアルバイトをしたり、生活保護を受けるなど、経済的に困窮していました。

同年、レーベル側の提案でもう一人メンバーを加えることを決定。キーボーディストやホーン奏者を迎えるアイディアもあったが、結局もう一人ギタリストを加えることに決定。元「FLYING HAT BAND」のグレン・ティプトン(G)が加入。K・K・ダウニングと共にツインリードギターとなりました。

ファースト・アルバム『ロッカ・ローラ』でデビュー。プロデューサーは、ブラック・サバスやバッジーとの仕事で知られるロジャー・ベイン。アルバム発表後、レコード会社の支援なしでツアーを開始。地道な活動が功を奏してツアーは長期的なものとなりました。

1975年「ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル」に出演。スタジオアルバムには未発表の曲「Mother Sun」を演奏しました。フェスティバル後、ジョン・ヒンチ(Ds)が脱退。後任にアラン・ムーア(Ds)が復帰。

1976年、2ndアルバム『運命の翼』を発表。このアルバムではグレン・ティプトン(G)が本格的に曲作りに参加した上、レコーディング・エンジニアの一人に後の『ペインキラー』(1990年)のプロデューサー、クリス・タンガリーディスが参加しています。

アルバム発表後ツアーを開始。ツアー自体はとても好評であったが、「ガル・レコード」との契約によって相変わらずバンドの財政は苦しく、メンバーは機材車で寝泊りする状況だった。そしてついに金に困ったアラン・ムーア(Ds)が脱退。

同年、新たにメジャーレーベル「CBSレコード」と契約。メンバーはドラマー不在のまま曲作りを始める。空き家となっていた修道院を借りてリハーサルを行いました。

1977年にレコーディングを開始。「CBSレコード」側が「ヒット作のカヴァー」を収録するよう要請され、アメリカのフォーク・ミュージシャン、ジョーン・バエズの「Diamonds and Rust」をカヴァー。メジャー・デビュー作となる3rdアルバム『背信の門』(全英23位)を発表。ディープ・パープル(当時は解散している)のロジャー・グローヴァーがプロデュース、サイモン・フィリップス(Ds)が録音に参加。

当初はツアーにサイモン・フィリップス(Ds)を参加させる予定であったが、彼は他のプロジェクトで忙しく断念。バンドはオーディションを行い、元ANIMALSのレス・ビンクスを加入させます。5月にイギリスツアー、6月には初めてアメリカツアーに他のバンドの前座として臨んだ。オークランド・コロシアムでのフェスティバル「DAY ON THE GREEN」では、大トリのレッド・ツェッペリンの前座を務めました。

1978年、4thアルバム『ステンド・クラス』(全英27位、173位)を発表。プロデューサーにデニス・マッケイを起用したが、シングル向けにスプーキー・トゥースのカヴァー、「ベター・バイ・ユー、ベター・ザン・ミー」を追加録音。同曲のみジェイムス・ガスリーがプロデュースしており、ジェイムスの仕事ぶりを気に入ったバンドは次作でも彼を起用しています。またこのアルバムからバンドのロゴが現在に近いものに変更されています。

アルバム発表後イギリスツアーを開始。2月にロンドンのハマースミス・アポロで公演。3月にはガル・レコードが初期の2枚(ロッカ・ローラと運命の翼)から選曲したベストアルバムを発表しました。

初来日。来日ツアーの後、イギリスに戻り新作の製作を開始。5thアルバム『殺人機械』(全英32位、全米128位)発表。アメリカでは1979年に発表され、タイトルも『Hell Bent for Leather』と変更されました。アメリカ盤にはフリートウッド・マックのカヴァー「グリーン・マナリシ」が追加収録されています。アルバム発表後イギリスツアー開始。このツアーからバンドのステージ衣装としてレザー&スタッドを着用するようになり、ロブ・ハルフォードはハーレーダビッドソンを乗り回すパフォーマンスを始めます。重厚で引き締まったサウンドによる音楽性と、ツアーにおけるステージ演出に至るまで今日のヘヴィ・メタルのスタイルがある程度確立されたといえます。

1979年、シングルカットされた「テイク・オン・ザ・ワールド」が全英で最高14位を記録。さらに2弾目のシングル「イヴニング・スター」は全英53位と大健闘。瞬く間に注目のバンドとなり、BBCの人気音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に2回出演しました。

2度目の来日。日本側の提案でライブ・アルバムの録音が決定。10月にライブ・アルバム『イン・ジ・イースト』(全英11位、全米70位)として発表され、後に海外でも9月に「UNLEASHED IN EAST」として発表された。ただし、ロブ・ハルフォード(Vo)は滞在先のホテルの空調が原因で喉を痛め、ボーカル・パートは後に録り直しています。

来日ツアーが終了後、アメリカツアー、その後イギリスツアーを行いました。レス・ビンクス(Ds)が脱退。後任に元トラピーズのデイヴ・ホーランド(Ds)が加入。KISSの前座としてアメリカツアーを行い、AC/DCの前座としてヨーロッパツアーを行いました。

ビートルズのリンゴ・スター所有のスタジオにて新作アルバムのレコーディングを開始しています。

1980年、年が明けてすぐに、ニューアルバムのマスター・テープが何者かに盗難される事件が発生する。このマスター・テープはパリで録音され、ニューヨークでミックス・ダウンする矢先の出来事であり、CBSレコード側は犯人の要求を飲んで5万ポンド(10万米ドル)を支払い、テープを取り戻した。しかし、2ヶ所の破損が発覚し、その部分を再レコーディングしました。なお、この事件の犯人と動機は不明であるが、マネージメントの内部事情から発生したものではないか、と言われています。何故なら、この事件と前後して同じマネージメントのツーリストのテープが再び盗難にあう事件が起きており、偶然にしてはあまりにもタイミングが良すぎるためです。全英ツアーがスタート。前座はこの頃デビューして間もないアイアン・メイデンでした。

6thアルバム『ブリティッシュ・スティール』発表。前年からのヘヴィ・メタルムーブメント(NWOBHM)に乗る形で全英チャート4位(全米34位)。バンドの愛称である「メタルゴッド」はこのアルバムに収録されている曲に由来する。「リヴィング・アフター・ミッドナイト」、「ブレイキング・ザ・ロウ」がシングルカットされ、12位まで上昇しました。6月からの全米ツアーが開始されると、全米チャートでも34位まで上昇し、バンドは初のゴールドディスクを獲得しました?

イギリスのドニントン・パークで行われた第1回モンスターズ・オブ・ロックに出演。ヘッドライナーはリッチー・ブラックモア率いるレインボー。出演中は激しい雨の中で行われたが6万人の大観衆を前に演奏しました。ちなみに、この年の1月1日に2015年現在のギタリスト、リッチー・フォークナーがロンドンで誕生。

1981年、サクソンを前座に迎えて欧米ツアーを行った後、7thアルバム『黄金のスペクトル』(全英14位、全米39位)発表。スペイン沿岸に近いイビザ島でレコーディングされました。この作品はアメリカ向けに、シンプルでキャッチーなメロディ重視の楽曲が多く、アメリカ、ヨーロッパ(イギリス含む)ともに今一つのセールスに終わりました。また、本作からPVが3曲制作されたが(後述)、いずれも低予算かつ珍妙な演出がなされている「怪作」で、プロモーション効果は薄いものでした。。夏にはアイアン・メイデンを前座につけてアメリカツアーを行います。この頃からステージ・セットが豪華なものになっており、フロントの4人はワイヤレス・システムを導入したことで、ギターやマイクのコードを気にすることなく、ステージ上を自由に動き回れるようになった。イギリスツアー、サポートはアクセプト。年の暮れにガル・レコードは新たなベストアルバム『HERO,HERO』を発表しています。

1982年、8thアルバム『復讐の叫び』(全英11位、全米17位)を発表。前作に引き続きイビザ島でレコーディングされたが、ミキシングに手間取り、レコーディングから7ヶ月要しました。ビデオ・クリップの効果もあって、ゴールド・ディスクを獲得。8月に全米ツアーを開始すると、ステージセットは更に大きなものとなったため、ツアー各地で話題となりツアーは、翌年まで延長されました。その全米ツアー中に、ザ・フーを手掛けたビル・カービシュリーのマネージメントへ移籍し、アルバムは全米チャートに21週間ランクイン。バンドは初のダブル・プラチナディスクを獲得。バンド最大のヒット作となりました。

1983年、ロサンゼルス郊外サンバーナディーノで行われた「USフェスティバル」に出演。バンドは2日目に登場し、ヴァン・ヘイレンやオジー・オズボーン、スコーピオンズ、モトリー・クルー、クワイエット・ライオットらと共に出演。この日だけで35万人以上を動員。

再びイビザ島にて新作をレコーディング。ミキシング中にタイトルが決定。

2年ぶりの英国ツアーを開始。ドイツのドルトムントでのテレビ番組「ROCK POP」出演。ヘッドライナーはアイアン・メイデン。

1984年、9thアルバム『背徳の掟』(全英19位、全米18位)発表。発表後欧州ツアーを開始。ステージセットにはジャケットに描かれたモンスター「メタリアン」が組み込まれるようになった。最終的にプラチナ・ディスクを獲得しました。5ヶ月間に渡る全米ツアーを開始。

三度目の来日。1982年の全米ツアーのメンフィス・アトランタでの公演を収録した初のライブビデオ「LIVE VENGEANCE82」が発表。

1986年、10thアルバム『ターボ』(全英33位、全米17位)発表。シンセサイザイズド・ギターを多用した。1987年、テキサス州ダラス公演を収録した『プリースト…ライヴ!』(全英47位、全米38位を発表。

1988年、11thアルバム『ラム・イット・ダウン』(全英24位、全米31位)発表。前作に欠けていたヘヴィさを取り戻した快作であったが、セールスは欧州、米国ともに伸び悩みます。

1990年、アメリカ・リノに住んでいた少年2人が1985年に自殺を図り、1人が即死した事件に関して、少年たちの遺族から「息子が自殺したのはバンドの曲に含まれるサブリミナルメッセージが原因」との荒唐無稽な理由で裁判を起こされるが、最終的にはバンド側の無罪判決となります。

デイヴ・ホーランド(Ds)脱退。元RACER X のスコット・トラヴィス(Ds)が参加、12thアルバム『ペインキラー』(英米26位)発表。

1993年、2枚組ベスト・アルバム『METAL WORKS』(全英37位、全米155位)発表。その後ヴォーカルのロブ・ハルフォード(Vo)が自身のソロ・プロジェクトを巡り、レーベルと契約問題でもめ、バンドを脱退。その後数年間ヴォーカリスト不在の状態が続きました。

1996年に後任としてティム “リッパー” オーウェンズ(Vo)が加入。ロブの後任オーディションには元ガンマ・レイ、現プライマル・フィアのラルフ・シーパーズ、ロイヤル・ハントのD.C.クーパーも参加した。

1997年、13thアルバム『ジャギュレイター』(全米82位)発表。

2001年、14thアルバム『デモリッション』(全米165位)を発表。

2003年、ロブ・ハルフォード(Vo)が復帰、ティム・オーウェンズは脱退。

2005年には、ハルフォードやハロウィンを手掛けたロイ・Zのプロデュースで15thアルバム『エンジェル・オブ・レトリビューション』(全英39位、全米13位)が発表され、アメリカや日本、ドイツを始めとする欧州各国でチャートインするなど健在ぶりを示しました。2005年には日本武道館を始め全国7箇所に渡る来日公演を行い、その模様を収録したDVD『RISING IN THE EAST』が2005年12月に発売されました。

2008年、初の2枚組オリジナルアルバムである16thアルバム『ノストラダムス』(全英30位、全米11位)を発表。その後、世界ツアーが行われ、9月下旬から名古屋と大阪、横浜、東京で日本公演が行われました。

2009年、『BRITISH STEEL』のリリース30周年を記念した再現ツアーにて来日。神戸と名古屋、幕張メッセで行われるLOUD PARKへの参加の3公演を行なった。

2010年、公式ホームページで、2011年に最後のワールドツアー(2015年に撤回)を行うことが発表されました。

2011年4月20日、6月から行われるワールドツアー、『EPITAPH』にK・K・ダウニング(G)が参加しないことが発表された[5]。これは事実上の脱退であり、最後のツアーを前に、長きにわたって演奏されてきたグレンとのツインリードが過去のものとなった[6]

2011年、K・K・ダウニング(G)に代わり、後任としてリッチー・フォークナーが加入。アメリカの人気オーディション番組アメリカン・アイドルでお披露目。オランダ公演を行います。

2012年、リッチー・フォークナー擁する新メンバーで初来日。福岡、横浜、神戸、広島、名古屋、東京と公演を行います。

2014年、17thアルバム『贖罪の化身』(全英12位、全米6位)発表。バンド史上初めて全米チャートTOP10入りしました。

2015年にツアー『REDEEMER OF SOULS TOUR』を行うことを発表。日本、ブラジル、オーストラリア等での公演も決定し、ワールドツアーの終了を事実上撤回しました。

2018年グレン・ティプトンが10年前よりパーキンソン病を患っている事を公表。2018年発売のアルバム『Firepower』(英米5位)に伴うツアーには参加せず、代役にアンディ・スニープが参加する事を発表しました。

“メタル・ゴッド”。現在も活躍中です。



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正統派ビートルズの後継者

引用

ビートルズの後釜的なバンドは沢山いますが、『バッドフィンガー』はその代表格でしょう。

バッドフィンガーの前身となるパンサーズ (The Panthers) は1961年に結成されました。その後、アイヴィーズ (The Iveys) と名前を変えて活動中にマル・エヴァンズに認められ、1968年11月にアップル・レコードからデビュー・シングル「メイビー・トゥモロウ」を発表。しかし、この曲は翌1969年にオランダのヒット・チャートで15位を記録するものの、全英シングルチャート入りを逃し、全米でも67位止まりでした。そして、1969年のファースト・アルバム『メイビー・トゥモロウ』はイタリア、西ドイツ、日本でしかリリースされず、売り上げも芳しくありませんでした。アメリカおよびイギリスでの発売が見送られた理由は、当時アップルの新社長に就任したばかりのアラン・クレインが会社の財政状況を調査し終えるまですべての非ビートルズ作品のリリースを延期したためでした。これにより発売時期を逃した同作品は上記3カ国以外でリリースされず、1990年代に再発されるまでコレクターズ・アイテムとなっています。

1969年、アイヴィーズは再出発をはかるにあたり、ジ・アイヴィー・リーグとの混同を避けるべく、改名を提案。ポール・マッカートニーはThe CagneysHome、ジョン・レノンはPrixThe Glass Onion、ニール・アスピノールはビートルズのナンバー「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」の当初の名前である「バッドフィンガー・ブギ」より名をとったバッドフィンガーを提案。このうち、ニールの案が採用されました。

バッドフィンガー名義のファースト・アルバム『マジック・クリスチャン・ミュージック』のレコーディング中、1969年8月のセッションを最後にロン・グリフィスがバンドを去り、残りの曲ではトム・エヴァンズがベースを弾きました。そして、アルバム完成後には新ギタリストにジョーイ・モーランドを加えて、バンドは再編成されました。

ビートルズの弟分的存在として、1969年末にリンゴ・スター出演の映画マジック・クリスチャンのテーマ曲「マジック・クリスチャンのテーマ」(作詞・作曲はポール・マッカートニー)で再デビューを果たす。同曲は1970年にアメリカ盤シングルも発売され、全英4位、全米7位に入るヒットとなりました。そして1970年にリリースされたファースト・アルバム『マジック・クリスチャン・ミュージック』(全米55位)には、英米でリリースされなかったアイヴィーズのアルバムから7曲を再収録しました。

1970年にはセカンド・アルバム『ノー・ダイス』(全米28位)をリリース。「嵐の恋」がシングル・カットされ、全米8位にまで上昇します。また、1972年と1994年にハリー・ニルソンとマライア・キャリーによって大ヒットとなる「ウィズアウト・ユー」が収録されているのもこのアルバムです。

1970年に最初のアメリカ・ツアーに備えて、バンドはスタン・ポリーという当時ニューヨークで評判の良かったマネージャーを雇い入れる。しかし実際は犯罪組織とつながりがあり、何よりバッドフィンガーにとって不利益となる支払協定がメンバーの承諾なしに織り込まれた契約でした。

バンドは人気の上昇にともないアップル関係の多くのセッションに参加。ジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』、リンゴ・スターのシングル「明日への願い」ではバック・ボーカルを提供。トムとジョーイはジョン・レノンのアルバム『イマジン』でもプレイしています。。そして4人のメンバー全員が1971年8月にバックアップ・ミュージシャンとしてジョージ・ハリスンのバングラデシュ・コンサートに参加しています。

1971年には3枚目のアルバム『ストレート・アップ』(全米31位)をリリース。プロデュースは ジョージ・ハリスンとトッド・ラングレン。代表曲「デイ・アフター・デイ」(全英10位、全米4位)が収録されており、彼らの商業的に最も成功したアルバムである。後に米誌Goldmineは廃盤アルバムの読者投票で最も人気の高かったアルバムとしてCDでのリリースを促しました。

しかし、ビートルズ解散後のアップル・レコードは財政的に非常に混沌としていて、スタンが新たなレコードレーベルを捜しているのをアップルの社長アラン・クレインは知っており当然ながら両者の関係は良くありませんでした。

1972年のイギリスツアーの途中、マイクが一時脱退。ドラムスにロッド・スタウィンスキを迎え、残るイギリスツアーとアメリカツアーを行いました。ツアー後、マイクが復帰。

バッドフィンガーの4枚目にしてアップルでの最後のアルバム『アス』のセッションは1972年にアップルの地下スタジオで始まり、5つのレコーディングスタジオで9カ月に渡り続きました。その間、スタンはワーナー・ブラザースとの間で百万ドル以上に及ぶというレコーディング契約を交渉しています。

新レーベルでのアルバムのリリースはアップルから合法的な処置で妨害されています。アルバム『アス』はアメリカでは1973年にリリースされたが、本国イギリスではクオリティの問題や契約に関するごたごたなどの理由で遅らされ1974年5月にやっとリリースされています。

ワーナー・ブラザースで1974年に2枚のアルバムをリリースする契約だったため、バンドは本国イギリスで1年の間で2つのレーベルから3枚のアルバムをリリースすることとなりました。結果的にあまりプロモーションもされずじまいでセールスは伸び悩びます。また、アップルはバンドをロバに見立て巨大なニンジン(ワーナーとの巨額な契約)につられるという皮肉的な絵をこのアルバムのジャケットに使用し、タイトルも『Ass(ロバ)』(全米122位)としました。

『アス』セッションが終了した6週間後に、バンドは彼らの最初のワーナーからのリリースのためスタジオに入ります。そのアルバム『涙の旅路』(全米161位)からの「Love Is Easy」、「I Miss You」のシングルは、チャートに達しなかった。しかしバンドは数回のアメリカ・ツアーの結果、何とかアメリカのファンのサポートを維持します。

最後のアメリカ・ツアーに続いてバンドはコロラドのCaribou Ranchレコーディング・スタジオにて『素敵な君』(全米148位)をレコーディングする。ローリング・ストーン誌などのアルバム・レビューでは『素敵な君』に対しなかなか好意的でした。

しかしバンド管理と金銭を中心とした内部の摩擦は2、3年間の間にバンド内で膨張し続けていきます。ジョーイの妻はスタンとの完全な契約破棄を進言するも他のメンバー、特にピートを説得するには至りませんでした。

バンドが1974年のイギリス・ツアーのためリハーサルを始めるすぐ前にピートは突然バンドを脱退します。一時、「ギタリスト/キーボード奏者」のボブ・ジャクソンが彼の後任となるが、1974年のツアーが始まるすぐ前にピートは再びバンドに加わります。その時ボブはフルタイムの「キーボード奏者」として残ることとなりました。ツアーの後に、それらの管理状況で意見の不一致についてバンドを辞めたのは結局ジョーイでした。

ピート、トム、ボブ、およびマイクは、『素敵な君』がリリースされたすぐ後に次のアルバムをレコーディングするために再び集まった。アルバム『Head First』は1974年のアップル・スタジオにて2週間でレコーディングされました。ワーナー・ブラザースの出版事業部は、バッドフィンガー・エンタープライズInc.(グループの管理会社)とスタンに対して訴訟を準備していたため、『Head First』のテープを受け入れるのを拒否しました。ボブは1974年12月15日にエンジニアのフィル・マクドナルドによって終了したラフミックスのコピーを保有したが、このテープは2000年の『Head First』リリースのベースとなったものでした。

1974年にバッドフィンガー・エンタープライズInc.に対してワーナー・ブラザースの出版事業部によって訴訟が着手されました(1979年のカリフォルニア法廷まで継続)。問題はスタンが管理していたアメリカにおける10万ドルの消滅でした。ワーナー・ブラザースがお金の存在に関して尋ねるも、スタンはこの要求を拒否。これによりワーナー・ブラザースによるバッドフィンガーに係るリリースが一切止められ、1975年前半にはレコード店の棚から全て引き上げられます。

バンドとスタンとの契約ではバッドフィンガー・エンタープライズInc.に対するロイヤリティがスタンによってコントロールされた会社に全て入ることになっていきました。またメンバーに対する給料はその会社から支払われていたが、それらは収益に対し酷く不充分なものでした。

ワーナー・ブラザース訴訟が起こされたすぐ後に、スタンは給料をバンドのメンバーに送金するのを中止する。このことは極貧の財政状況であったピートを苦しめます。

絶望のあまりピートは、身重のガールフレンドを残し1975年に「スタンを道連れにする」という意味深な遺書を書いて首吊り自殺を遂げます。娘が誕生したのは彼の死の一ヶ月後でした。これにより、バンドは一時終焉を迎えました。

最後は、悲しい結末でしたが、彼らの作品は今でも生き続けています。



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第2のビードルズ

引用

1970年の解散により、消滅した『ザ・ビートルズ』。そんなこのバンドに憧れ目指したバンドは多くいました。『ベイ・シティー・ローラーズ』がその代表的なバンドでしょう。

前身は1965年に結成された「サクソンズ(The Saxons)」というグループ。アラン(ベース)とデレク(ドラムス)のロングミュアー兄弟と4人の友人により結成され地元のパブ等で演奏するようになります。

タム・ペイトンがマネージャーになり、ロングミュアー兄弟は1968年にグループ名を「ベイ・シティ・ローラーズ」に改称。1971年、シングル「朝まで踊ろう」でデビューしました。当時のリードボーカルはノビー・クラークでした。この曲は全英9位になるヒットとなり、のちにエリック・フォークナーが加入しました。

メンバーによるとバンド名にある「ベイ・シティ」とは、アメリカ合衆国の地図を開いてダーツを投げたところ、ダーツが刺さった箇所が、ミシガン州の「Bay City(ベイシティ)」を指しており、これをグループ名としたといわれます。この逸話は日本で放映されたテレビ番組でも取り上げられたことがありました。

マネージャーのペイトンは、幾度かのメンバーチェンジを行い、1974年にレスリー・マッコーエン(リード・ボーカル)、エリック・フォークナー(リード・ギター)、スチュアート・ウッディ・ウッド(サイド・ギター後にベース)、アラン・ロングミュアー(ベース)、デレク・ロングミュアー(ドラム)による5人編成になってから、アルバム『エジンバラの騎士』が全英1位を獲得。「サタデー・ナイト」(全米1位)などのヒット曲を生み出し、本国イギリスを皮切りに、その後アメリカや日本など、世界中で人気を博し、日本でも度々公演が行われました。

1975年には、『噂のベイ・シティ・ローラーズ』をリリース。全英1位を獲得。シングル「バイ・バイ・ベイビー」(全英1位)がヒット。

日本でも度々公演が行われれ、ラジオ・パーソナリティの山本さゆりは、この頃からの熱烈なファンでした。「二人だけのデート」(全英4位、全米12位)もヒットするなど大人気の中、年長者であるアラン・ロングミュアーが脱退しました?その後、イアン・ミッチェル(ギター)が新たに参加するが、同じ年にミッチェルは脱退し、パット・マッグリン(ギター)が参加しました。

しかし、パット・マッグリンも短い期間で脱退してしまい、メンバーチェンジが激しいものでした。日本では1977年頃まで、イアン・ミッチェルを中心に脱退したメンバーが結成したロゼッタ・ストーンの曲まで、洋楽チャート番組に採り上げられるなど、ベイ・シティ・ローラーズの人気が持続しました。しかし、1978年頃からはその人気にも翳りが見えてきました。

1978年秋の3度目の来日公演を最後に、レスリーが脱退。新たにラビットから、ダンカン・フォール(リード・ボーカル、ギター)が加入し、グループ名を「ザ・ローラーズ」に改称して活動を続けたが、1981年に解散しました。

しかし、早くも1982年にはレスリーも参加して日本公演を行い、大盛況を得ています。これに気を良くしてか、翌年の夏、わずか半年しか在籍していなかったイアン・ミッチェルとパット・マグリンも加えて東京で公演(パットいわく「やっぱり変な気がしたよ」。彼は前年にイギリス東芝の邦楽系レーベルから3度目のデビューをしていた)。同年12月には、イアンの元あったバンドにパットを加えて、横浜で公演(EPとLPも発売されたが、この1枚限りとなった)。その2年後、ベイ・シティ・ローラーズは再結成し、LPを1枚発表(日本のみの発売)。

その後、ボーカルのレスリーがリード・ギターのエリックとグループ名を巡って争ったことがあった。

1990年代になると、『あの人は今!?』にも出演するなど、繰り返し再結成が行われていたようでした。初期のメンバーにはパイロットのデヴィッド・ペイトン、ビル・ライオールが在籍していた。ペイトンは日本で「Beagle Hat」としても活動しました。

他にも、代表曲としては、「ロックン・ロール・ラブレター」(全米28位)、「イエスタデイズ・ヒーロー」(全米54位)、「マニー・ハニー」(全英3位、全米9位)、「ラブ・ミー・ライク・アイ・ラブ・ユー」(全英4位)、「恋をちょっぴり」(全英1位)などがあります。

是非とも、新作出してほしいものですね。



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ハード・ロック黎明期②

引用

ハード・ロック黎明期には、たくさんのバンドはやアーティストが出ましたが、『クリーム』と並ぶバンド/アーティストといえば、『ジミ・ベンドリス・エクスペリエンス』でしょう。

1942年、ワシントン州シアトルに生まれました。(デビューアルバムの裏には「1945年生まれ」と記されている)。出生時の名前は、ジョニー・アレン・ヘンドリックスで、母ルシールによって名付けられました。父親のアルことジェームズ・アレン・ヘンドリックス は、アフリカ系の父親と、アメリカ先住民の母親との間に生まれたブラック・インディアンでした。純血のチェロキー族だった父方の祖母ノラ・ヘンドリックスから、幼少期のヘンドリックスはチェロキー族の昔話を教えられたといわれています。その影響はヘンドリックスの作る曲のそこかしこに見いだされました。母親のルシールは、17歳でヘンドリックスを産んだが、遊び好きで家庭を顧みないところがあったと言われ、まだ幼いヘンドリックスを置いて出奔したこともあるといい、早くに亡くなっています。ヘンドリックスの楽曲「Angel」は、亡き母、ルシールが夢に現れたことから作られたとされています。

1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ、9月に渡英します。チャンドラーにヘンドリックスの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズのギタリスト)の恋人だったリンダ・キースでした。当時のヘンドリックスは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド「ジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズ」を率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス1人だけでした。チャンドラーはヘンドリックスの演奏を初めて聴いた際、「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたといわれています。チャンドラーに渡英を勧められ、ヘンドリックスはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけました。そして、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストのエリック・クラプトンの名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。チャンドラーは「君の演奏を聴いたら彼(クラプトン)の方から会いに来るよ」と答えていました。

ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)と共に「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成。1966年から活動を始めます。この際に名前をジェームズ/ジミー(James/Jimmy)から、ジミ(Jimi)に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、ポリドール系のトラックレコードからデビューシングル「Hey Joe / Stone Free」が全英4位のヒットを記録しました。アルバムアルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』は、全英2位、全米5位まで上昇するひっととなりました。

1967年には、アルバム『アクシス:ボールド・アズ・ラヴ』では、サイケデリック色を全面に押し進めた作品として、全英5位、全米3位とヒットし、名バラード「リトル・ウィング」は人気の代表曲です。

ベスト盤『スマッシュ・ヒッツ』(全英4位、全米6位)をはさんで、1968年、ラストアルバムとなった『エレクトリック・レディランド』(全英6位、全米1位)を発表。シングル「ヴードゥー・チャイルド」は、全英1位を獲得。

その後、彼は解散後『バンド・オブ・ジプシーズ』を結成。1970年には、ライブアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』(全英6位、全米5位)を発表。

順調かと思われた矢先、酒と睡眠剤のオーバードーズが、原因となり死亡してしまいます。享年27歳。死後、ソロとして唯一のアルバム『ザ・クライ・オブ・ラブ』(全英2位、全米3位)を発表。ここに、歴史に終止符が打たれました。

如何だったでしょうか。『ハード・ロック黎明期』シリーズ。次回も、色々なシリーズを投稿します。よろしくお願いします。



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