無名から世界へ‼️‼️‼️

引用

世の中には、無名からブレイクしたバンドやアーティストは、多くいます。『ポリス』もその一つです。

1976年末、イギリスのニューカッスルで、当時プログレッシブ・ロック・バンドのカーヴド・エアに在籍していたドラマーのスチュワート・コープランドが、偶然ジャズ・フュージョン・バンド、ラスト・イグジットで活動していたベーシスト兼ボーカリストのスティングのステージを見て、度重なる説得の末、1977年ギタリストのヘンリー(アンリ)・パドゥバーニを加えた3人でポリスを結成。後に、ストロンチウム90を通じて、元後期アニマルズのギタリスト、アンディ・サマーズが加入し4人編成となるが、パドゥバーニが脱退しトリオとなる。翌年にはアルバム『アウトランドス・ダムール』(全英7位、全米23位)でデビュー。当時の彼らは「あと3年くらいのうちにビートルズが作った世界的記録をすべて塗り替える」と豪語します。

1979年には、アルバム『白いレガッタ』(全英1位、全米25位)の収録曲「孤独のメッセージ」(全英1位、全米74位)が大ヒットします。その後も1980年のアルバム『ゼニヤッタ・モンダッタ』から、「高校教師」(全英1位、全米10位)、「ドゥドゥドゥ・デ・ダダダ」(全英5位、全米10位)、1981年の『ゴースト・イン・ザ・マシーン』(全英1位、全米2位)からは、「マジック」(全英1位、全米3位)、「インビシブル・サン」(全英2位』など、順調にヒット曲を重ねます。

1980年に初来日。京都大学西部講堂でのライブは、プロモータ主導に反発する自治会学生の乱入などで喧騒と化し、スティングに「冷静になれ」と言われる場面もあり、半ば伝説化していきます。

1983年には、5作目のアルバム『シンクロニシティー』が、全米17週連続1位。先行シングル「見つめていたい」も、全米8週連続1位、さらに年間チャート1位にも輝いていますが、1984年に活動停止を宣言しました。

スティングは、ソロ活動で大ブレイク。その後、一時的な再結成などをしており、人気は今でも健在です。



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アメリカのアイドルバンド‼️

引用

アメリカやイギリスで、60年代と言えばやはり『ザ・ビートルズ』ですよね。しかし、中期ビートルズのサウンドに疑問を持ったファンは少なくなく、乗り換える人々も多くいました。そんな中、『ザ・モンキーズ』がいました。

1964年、イギリス本国とアメリカ国内におけるビートルズの過熱ぶりを目の当たりにしたスクリーン・ジェムス・コロンビアのバート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンは、アメリカ国内でもスターグループを生み出そうと、ビートルズ主演の『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』をヒントに同様のテレビ番組を制作することを思いつきます。音楽業界紙『デイリー・ヴァラエティ』に掲載されたオーディション広告によって若者達約400人が集まり、1965年、カリフォルニア州ロサンゼルスでデイヴィー・ジョーンズ、マイク・ネスミス、ピーター・トーク、ミッキー・ドレンツの4人がメンバーに選出されました。

実際には、オーディション以前にバート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンはめぼしいアーティストらに声をかけており、デイヴィーはその時点ですでに参加が決定していました。後年、ザル・ヤノフスキーの代わりにラヴィン・スプーンフルに参加したジェリー・イェスターも台本を渡され打診されていたが、当時参加していたモダン・フォーク・カルテットの全員が参加するのでなければ参加できないとして辞退しています。

このオーディション参加者の中にはポール・ウィリアムズ、後にクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングに加入したスティーブン・スティル(不採用になったが、幼馴染のピーター・トークを推薦)、同じくスリー・ドッグ・ナイトのダニー・ハットン、ラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャン、ヴァン・ダイク・パークスなどがいたといいます。

選出当時、マイク・ネスミスはマイケル・ブレッシング名義でカントリー・ミュージシャンとして、デイヴィー・ジョーンズはイギリスマンチェスター出身の舞台俳優・歌手として(ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に初登場した回には番組に端役として出演していた)、かつてミッキー・ブラドックという名前で子役スターとして活躍していたミッキー・ドレンツは大学生として、ピーター・トークはグリニッジ・ヴィレッジでのインディーズミュージシャンとして、それぞれ活動していました。選考は非常に難航し、最終的にオーディションの合格者が決まったのは、テレビシリーズのパイロット版制作に入るデッド・ラインギリギリである1966年でした。

1966年、デビュー曲「恋の終列車 」をリリース。同年、NBC系列で『ザ・モンキーズ・ショー』が始まります。発売されたデビューアルバム『恋の終列車 』は、テレビとの相乗効果により500万枚を売上げるヒットとなります。以降、4人はレコーディングとテレビシリーズの撮影に追われる日々となります。

1967年、第2弾アルバム『アイム・ア・ビリーバー 』をリリース。この頃から制作者サイドとメンバー間の軋轢が目立つようになります。当初、2作目以降はメンバー自身もアルバム制作に関われるという話であったが、モンキーズの音楽部門の責任者であるドン・カーシュナーはこれを一切認めず、ファーストアルバムまでの時点に収録が終わっていながら未発表になっていた自身の音楽出版社所属の楽曲を使用し、スタジオミュージシャンのバッキングトラックにボーカルを乗せた音源を使用して制作したアルバムをメンバーの知らないうちに発売しました。

さらにカーシュナーは、ニール・ダイアモンドの提供曲「恋はちょっぴり」を3枚目のシングルとして発売することにしていたが、B面に使用する曲を当初予定していたネスミス作詞・作曲の「どこかで知った娘 」ではなくジェフ・バリーの手による「シー・ハングズ・アウト 」に無断で差し替えて発表します。この暴挙にネスミスが激怒し、当初予定通りの「恋はちょっぴり/どこかで知った娘」のシングル盤を独自に制作。「これこそが本物のサード・シングルだ」として記者会見を開き、マスメディアを巻き込んだクーデターを決行しました。

クーデターの結果、ドン・カーシュナーは更迭され、カーシュナーが発表しようとしたシングルは業界関係者に配られたサンプル盤の段階で全て回収され、マイクの主張した盤が正式な3枚目のシングルとして発売されます。なお、このサンプル盤はその後「幻のシングル」としてコレクターズ・アイテムとなり高値が付けられています。

カーシュナーを追い出したマイクは、代わりに当時「ハッピー・トゥギャザー」のヒットを飛ばしたタートルズのチップ・ダグラス(当時は「Douglas Farthing Hatlelid」名義)をプロデューサーに迎えて3作目の『灰色の影 』を1967年にリリース。この頃にはハーマンズ・ハーミッツに替わって全米1位の人気グループとなり、イギリスにおいても高い人気を得ていました。

3作目のアルバム『灰色の影』は、前2作とは異なり、チップ・ダグラスとメンバー自身によってプロデュースされ、自分たちの選曲した曲と自作曲が収録されました。演奏もホーン・セクションを除いてはすべて自分自身で行なわれたこのアルバムは、テクニックが稚拙なためにガレージパンクのような荒さがあり、レコーディング中のお遊びなども収められています。当時の4人の等身大を表現する作品に仕上がったものの、売り上げは前作を若干下回ります。(なお、このアルバムの次にチャート・トップに立ったのは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』である)。その後、撮影、レコーディング、ツアーなどの時間的な制約から、演奏はスタジオミュージシャンを使用する方式にります。

1967年からカナダ・全米でのツアーを開始。メンバーはその合間にレコーディング、テレビシリーズ撮影という殺人的なスケジュールをこなします。なお、この同年のライブレコーディングは、20年後の1987年に『Live 1967』としてリリースされました。同年、『スター・コレクター』をリリース。この頃から次作のレコーディングに取り掛かります。

1968年、テレビシリーズが終了。その直後の4月に『小鳥と蜂とモンキーズ 』がリリースされます。同作と前作の『スター・コレクター』でモンキーズは作品的に一つの頂点を極めたが、『小鳥と蜂とモンキーズ』には前作ほどの分かりやすさはなく、直後にテレビシリーズが終了したこともあって、売上げは前作の『スター・コレクター』に及びませんでした。『小鳥と蜂とモンキーズ』は、モンキーズのアルバムで初めてアルバムチャートの1位を逃した作品です。

1968年、映画『HEAD』の撮影が行われます。「これまでに作り上げたアイドルとしてのモンキーズをぶち壊す」というボブ・ラフェルソンの意図により、出来上がった作品は細切れのシーンをつなげたパッチワークのような難解な作品となり、同年に公開されたものの興行的には失敗に終わります。この作品の脚本はジャック・ニコルソンが手がけ、デニス・ホッパーが出演しています。

1968年、太平洋ツアーを公演。9月にはオーストラリアで7公演を務めた後、来日しました。羽田空港にはファンの少女らが殺到し大騒ぎとなる。同年に日本武道館で、京都会館で、大阪フェスティバルホールでそれぞれ公演しました。武道館公演の模様は、当時日本で放送されていた『モンキーズ・ショー』の特別版として放送されました。(この回はマスターテープが紛失し、その後の再放送では放送されていない)。

太平洋ツアーの後、1968年に放送されたNBCのスペシャル番組『33 1/3レボリューションズ・パー・モンキー』の出演後、ピーター・トークがグループを脱退。その後、モンキーズは3人で活動を行います。

1969年、ピーター・トーク在籍時に録音済みだった未発表曲を寄せ集めたアルバム『インスタント・リプレイ 』をリリース。この時点で、テレビシリーズが終わってからほぼ1年が経っていました。その後もCBS・ABCではテレビシリーズの再放送がされてはいたが、アルバムチャートは最高32位止まりとなります。

以降も3人でのツアー、テレビ番組へのゲスト出演、レコーディングをこなします。1969年、マイク・ネスミスが得意とするカントリー色の強いアルバム『プレゼント 』をリリースするも、前作よりもさらにセールスは悪化。この作品が3人での最後の作品となりました。この後、マイク・ネスミスは莫大な違約金を払ってモンキーズを脱退し、ファースト・ナショナル・バンドを結成してソロ活動へと移ります。なお、現在のマイク・ネスミスはグラム・パーソンズらと並んでカントリーロックのパイオニアとしての評価が定着しています。

1970年、アルバム『チェンジズ 』をリリースするも話題にすりませんでした。この頃はパートリッジ・ファミリーやボビー・シャーマンといった新たなるアイドルが躍進中で、すでにモンキーズは過去の存在と化していました。。『チェンジズ』は、最終的にミッキーとデイヴィーの2人だけになってしまったモンキーズの最後のアルバムである。同アルバム発表と時期をほぼ同じくして、モンキーズは解散しました。その後、再結成や『ニューモンキーズ』などといくつかの形がありましたが、これといった成功へは結びついていません。

マイク・ネスミスは、司会者やバラエティ番組である程度の成功は、納めているようです。



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女性シンガーのアルバム世界記録保持者(当時)

引用

1970年代には、シンガーソングライターブームがありましたが、女性アーティストとたくさんいました。『キャロル・キング』はその代表格でしょう。

彼女は、1942年2月9日、ニューヨーク市マンハッタンでユダヤ人家庭にキャロル・ジョアン・クラインとして生まれます。彼女の母親、ユージニア(旧姓カマー)は教師であり、父親のシドニー・N.クラインはニューヨーク市消防局の消防士でした。化学を専攻したシドニーと英語と演劇を専攻したユージニアは、1936年にブルックリン・カレッジの学生時代にエレベーターで出会いました。

彼らは大恐慌の終盤の1937年に結婚しました。ユージニアは大学を中退して世帯を切り盛りし、シドニーも大学を辞めてラジオアナウンサーとして短時間就職します。経済的に苦しい中、シドニーはより安定した職業としてニューヨークで消防士となります。キングが生まれた後も彼らはブルックリンに残り、最終的に彼らは収入のために二階を貸すことができる小さな二階建ての二世帯住宅を買うことができます。

60年代には、キングが作曲しゴフィンが作詞をする形で、2人はさまざまなアーティストのために後々まで歌い継がれている数々の作品を書きました。キングとゴフィンは、ドン・キルシュナーのディメンション・レコードの作曲チームでもあり、「チェインズ」(後にビートルズが録音)、夫妻のベビーシッターであるリトル・エヴァの「ロコモーション」、キングの最初のヒットとなる自身が1962年にレコーディングした「イット・マイト・アズ・ウェル・レイン・アンティル・セプテンバー」などを含む曲を生み出します。この曲は全米チャート22位、全英シングルチャート3位を記録しています。「…セプテンバー」をきっかけに何曲かのフォローアップシングルをレコーディングしたが、どれもあまり売れず、すでに散発的なレコーディング・キャリアは1966年までに完全に放棄されます。

キングの初期の時代(1967年まで)のその他の曲にとしては、”Half Way To Paradise”[トニー・オーランド、イギリスではビリー・フューリーによってレコーディングされた]、ボビー・ヴィーの「浮気なあの娘 (Take Good Care of My Baby)」、ドリフターズの「アップ・オン・ザ・ルーフ (Up on the Roof)」、アール=ジーンの”I’m into Something Good”(後にハーマンズ・ハーミッツが録音)、シフォンズの「ワン・ファイン・デイ」、モンキーズの「プレザント・バレー・サンディ」(ニュージャージー州ウェストオレンジ郊外への移転に触発された)そして、アレサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」が含まれています。二人はダスティ・スプリングフィールドによってレコーディングされた「ゴーイン・バック」や「サム・オヴ・ユア・ラヴィン」なども書いています。1960年から1963年にかけての3年間で、2人は延べ20曲あまりの全米トップ40ヒットを世に送り出しています。

1970年代に入ってからは、シンガー・ソングライターとしての活動に本腰を入れ、1970年にアルバム『ライター』で再びソロ・デビュー。翌1971年のソロ・アルバム『つづれおり』は、全米アルバムチャートで15週連続1位、その後も302週連続でトップ100に留まるロングセラーとなり、グラミー賞でも4部門制覇、現在まで約2200万枚を売り上げています。これは、1995年にアラニス・モリセットに抜かれるまで、女性シンガーの世界記録でした。先行シングル「イッツ・トゥー・レイト」は、全米シングルチャートで5週連続1位、年間チャートでは第3位を記録。ジェームス・テイラーが、収録曲「きみの友だち」をカバーし、シングルチャート1位を獲得しています。その後も、アルバム『ミュージック』『喜びにつつまれて』、シングル「ジャズマン」など、順調にヒットを連発。1970年代前半から中期を代表するヒットメーカーの一人となり、2つの年代にわたって天下を取りました。

また、『つづれおり』が大ヒット中の1972年には、五輪真弓のデビュー・アルバム『少女』の制作をサポート。その後、1974年までの3年間、五輪のアルバム3作品を手掛けたことでも知られています。

ローレル・キャニオンにいる間に、キングはジェームス・テイラーとジョニ・ミッチェル、そしてトニ・スターンと知り合いました。キングは1970年にルー・アドラーのオード・レーベル向けにテイラーのアコースティックギター演奏とバックボーカルを提供の受けた最初のソロアルバム『ライター』を製作しました。このアルバムはビルボードトップ200で84位に達します。同年、キングはB.B.キングのアルバム『インディアノーラ・ミシシッピ・シーズ』でキーボードを演奏した。

キングは『ライター』に続いて1971年に「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」と再解釈した「ナチュラル・ウーマン」、それに新曲を収録した『つづれおり』をリリースしました。アルバムは、テイラーの『マッド・スライド・スリム』と同時期に録音され、キング、ダニー・コーチマー、ジョニ・ミッチェルを含むミュージシャンのセットが重複していた。どちらのアルバムにも「君の友だち」が収録されており、これはテイラーにとってナンバーワンのヒットとなります。キングは1972年のインタビューで、「ジェームズや、特に誰かを思い浮かべて書いたわけではないの。だけど、ジェームズはこの曲を聞いて本当に気に入って、録音したがったの」と述べています。

『つづれおり』はあっという間に成功した。「イッツ・トゥー・レイト」の全米1位を含む多数のヒットシングルで、『つづれおり』は15週連続で1位の座を維持し、ほぼ6年間チャートに残り、世界中で2500万部以上を売り上げました。このアルバムは、アルバム・オブ・ザ・イヤー、女性のベスト・ポップ・ボーカル・パフォーマンス、レコード・オブ・ザ・イヤー(トニ・スターンの作詞による「イッツ・トゥー・レイト」)、キングが初の女性受賞者となる「君の友だち」に対するソング・オブ・ザ・イヤーの4つのグラミー賞を獲得した。このアルバムは『ローリング・ストーン』の『史上最高の500アルバム』に36番で掲載されます。さらに、「イッツ・トゥー・レイト」は、『ローリング・ストーンが選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500』の469番となります?

1971年にアルバム『ミュージック』がリリースされ、1971年12月9日にゴールド認定されました。初登場8位でトップ10に入り、『つづれおり』と『ミュージック』が同時にトップ10入りした最初の週となりました。翌週には3位に上昇し、1972年に1位となり、三週間1位にとどまります。このアルバムはさらにトップ10ヒット「スウィート・シーズンズ」(米国9位とアダルト・コンテンポラリー2位2)を生み出しました。『ミュージック』は44週間ビルボードのポップアルバムチャートに残り、最終的にプラチナに認定されます。

『喜びは悲しみの後に』(1972)と『ファンタジー』(1973)が後に続き、それぞれがゴールド認定を取得します。『喜びは悲しみの後に』はさらなるヒット「なつかしきカナン」(全米24位およびアダルト・コンテンポラリー1位)を生み出し、『ファンタジー』は2つのヒット「ビリーヴ・イン・ヒューマニティ」(全米28位)と「コラゾン」(全米37位、アダルト・コンテンポラリー5位)、ホット100でチャートインした別の曲「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」(全米67位およびアダルト・コンテンポラリー6位)を生み出します。1973年、キングはニューヨーク市のセントラル・パークで10万人が参加した無料コンサートを行います。

1974年、キングはアルバム『喜びにつつまれて』をリリースした。このアルバムは1974年にゴールド認定され、同年に7位でトップ10に入りました。2週間後には1位となり、1週間だけその地位に留まります。。『喜びにつつまれて』からは2曲のヒットが生まれれます。シングル「ジャズマン」は2位となったが、翌週にはトップ10から脱落しました。シングル「ナイチンゲール」は、1975年に9位となりました。

1975年、キングはモーリス・センダックの『おしゃまなロージー』のアニメ化されたTV番組用のセンダックによる歌詞の曲を同名のアルバムとしてリリースしました。

『サラブレッド』(1976)は、オードレーベルの下で制作した最後のスタジオアルバムとなりました。デヴィッド・クロスビー、グラハム・ナッシュ、ジェームス・テイラー、ワディ・ワクテルなどの長年の友人を集めたことに加えて、キングはゲリー・ゴフィンと再会してアルバムの4曲を書きます。彼らのパートナーシップは断続的に続いた。キングは1976年にアルバムのプロモーションツアーも行いました。

1977年、キングは別のソングライターであるリック・エヴァースと『シンプル・シングス』でコラボレーションした。このアルバムはキャピトル・レコードから配給された新しいレーベルの最初のリリースでした。その後まもなく、キングとエバーズは結婚しました。彼は1年後にコカインの過剰摂取で他界したが、その時キングと娘のシェリーはハワイにいました。『シンプル・シングス』はタペストリー以来ビルボードのトップ10に到達できなかった初のアルバムであり、翌年のコンピレーションアルバム『グレイテスト・ヒッツ』と2010年の『ライヴ・アット・ザ・トルバドール』を除くとRIAAによる彼女の最後のゴールド認定レコードでした。

ゴールド認定のレコードステータスにもかかわらず『シンプル・シングス』はローリング・ストーン誌によって「1977年最悪のアルバム」に選ばれました。アルバムの共同プロデューサーとしてデビューした『ウェルカム・ホーム』(1978)および『タッチ・ザ・スカイ』(1979)もトップ100に達しませんでした。パールズ (Pearls – The Songs of Goffin and King)』(1980)からははヒットシングル、「ワン・ファイン・デイ」のニュー・バージョンが生まれます。

彼女はアルバム『ワン・オン・ワン』(1982年)と、1983年に『つづれおり』時代のプロデューサーであるルー・アドラーと再び組んだ『スピーディング・タイム』のためにアトランティック・レコードに移ります。1984年の好評を博したコンサートツアーの後、クリスチャン・サイエンス・モニターの記者キャサリン・フォスターは、キングを「ロックの女王」と名付けました。彼女はまた、キングのパフォーマンスを「すべての勇気と活気に満ちたもの」と呼びます。

1985年、キングは『ケア・ベアーズ・ムービー』のテーマである「ケア・ア・ロット」を書いて演奏します。また1985年にはマーティン・リット監督の映画『マーフィのロマンス』のサウンドトラックの総譜を作成し、デビッド・サンボーンと共に演奏します。サウンドトラックは再びアドラーがプロデュースし、“Running Lonely”“Love For The Last TimeTheme from ‘Murphy’s Romance’が含まれていたが、サウンドトラックアルバムは公式にはリリースされませんでした。キングは映画の中で役場の従業員ティリーとしてカメオ出演します。

1989年にキングはキャピトルレコードに戻り、エリック・クラプトンが2曲、ブランフォード・マルサリスが一曲加わり、スラッシュが出演。『カラー・オブ・ユア・ドリームス』(1993)が続く『シティ・ストリーツ』をレコーディングした。キングの曲「Now and Forever」は、1992年の映画『プリティ・リーグ』のオープニングクレジットに含まれており、グラミー賞にノミネートされました。

1988年、オフブロードウェイ・プロダクション『Aマイナー・インシデント』に出演し、1994年にブロードウェイでの『ブラッド・ブラザース』でジョンストン夫人を演じます。1996年、アイルランドでピーター・シェリダン演出の『ブライトン・ビーチの思い出』に出演しました。

1990年には初の来日公演が実現し、ジェリー・ゴフィンと連名で『ロックの殿堂』入りも果たしました。

1991年初頭、ディナ・キャロルが クォーツのアルバム“Perfect Timing”で「イッツ・トゥー・レイト」をレコーディング。このカバーは世界中のダンスチャートで1位となり、1991年の全英シングル・チャートで8位に達しました。キングもミュージック・ビデオの撮影に出演することが期待されていたが、その時の厳しいツアース・ケジュールを理由に辞退します。

1991年、キングはシンガー・ソングライターであるマライア・キャリーのセカンドアルバム『エモーションズ』で「イフ・イッツ・オーヴァー」を共同で書き、共同プロデュースした。キングはキャリーが最初のシングル「ヴィジョン・オブ・ラヴ」をライブで演奏するのを見て、キャリーと彼女の楽曲に興味を持ち始めます。キングはキャリーに連絡し、アレサ・フランクリンのためにジェリー・ゴフィンとともに書いた曲「ナチュラル・ウーマン」のカバーに興味があるかどうか尋ねます。キングの音楽的影響の1つが完璧に実行された歌をカバーすることに不安を感じたので、キャリーは辞退しました。それでもキャリーと仕事をしようと決意していたキングは、ある種のバラードを作詞作曲することを望んで、ニューヨークにむけて飛び立ちます。「イフ・イッツ・オーヴァー」の着想を得るまで、2人のソングライターは1日を通してピアノで音楽のアイデアとメロディを交換します。

1997年に、キングはソラヤの1997年のアルバムTorre De Marfilのためにソラヤと共に“Wall Of Smiles / Torre De Marfil”を書いた。同年、キングはセリーヌ・ディオンのアルバム『レッツ・トーク・アバウト・ラヴ』のために「ザ・リーズン」を書き、バッキング・ボーカルをレコーディングしました。この曲はフランスでの100万枚を含む世界中で売り上げを伸ばしました。フランスでは1位、イギリスでは11位、アイルランドでは13位になります。このペアは、最初のVH1ディーヴァズ・ライヴ慈善コンサートでデュエットします。キングはまた、アレサ・フランクリンやマライア・キャリーなどと「ナチュラル・ウーマン」を歌ったように、セリーヌ・ディオン、グロリア・エステファン、シャナイア・トゥエインと「君の友だち」を演奏しました。1998年に、キングは“Anyone at All”を書き、トム・ハンクス、メグ・ライアン主演の『ユー・ガット・メール』で演奏しました。

1996年には自らの半生をモデルにした架空伝記映画「グレイス・オブ・マイ・ハート」が公開された。劇中曲をオファーされたが断っています。

2000年に、キングは彼女のヒット曲“Where You Lead”のバージョンをテレビ番組『ギルモア・ガールズ』のテーマソングとしてレコーディングするように求められます。キングは母娘の話に合うようにいくつかの歌詞を書き直した。キングはこの歌を娘のルイーズ・ゴフィンとよく演奏しています。この歌の歌詞の背後にある感情が盛り上がったウーマン・リブの台頭と好意から外れたため、オリジナルのリリース後に歌を演奏することはめったにありませんでした。キングは、「より関連性の高いもの」になるように曲を修正することに同意。この曲は女性の友情や家族と強く結びつきます。

2001年、キングは娘のルイーズゴフィンとともに、GAPのテレビ広告に出演します。キングは新曲「ラヴ・メイクス・ザ・ワールド」(Love Makes the World)を演奏し、2001年秋にコッホ・レコードが配給した自身のレーベル、Rockingaleでのスタジオ・アルバムのタイトル・トラックとなります。アルバムには、1990年代半ばにキングが他のアーティストのために書いた曲が含まれており、セリーヌディオン、スティーヴン・タイラー、ベイビーフェイス、k.d.ラング らをフィーチャーしてます。『ラヴ・メイクス・ザ・ワールド』は全米158い、全英86位になり、ビルボードのトップ・インディペンデント・アルバム・チャートおよびトップ・インターネット・アルバム・チャートに20位で初登場しました。アルバムの拡張版は6年後に発行され、「Love Makes the World Deluxe Edition」と呼ばれます。トニ・スターンと共作した“Where You LeadI Will Followのリメイクを含む、5つの追加トラックを含むボーナスディスクが含まれています。

同年、キングとスターンは、日本のバンド、JUDY AND MARYの元リードボーカリストであるYUKIがレコーディングした「サヨナラダンス」を翌年の初のソロアルバム『PRISMIC』のために書いた。また2001年、キングはセミソニックのフロントマンであるダン・ウィルソンとアルバムAll About Chemistryの曲を作曲しました。

キングは、2004年7月にシカゴのオーディトリアム・シアターでリビング・ルーム・ツアーをスタートした。そのショーは、ロサンゼルスのグリーク・シアターとケープコッド・メロディテント(マサチューセッツ州ハイアニス)でのショーとともに、2005年7月にライブアルバム『リビング・ルーム・ツアー』としてレコーディングされました。このアルバムは、米国での最初の週に44,000枚を売り上げ、全米17位で登場しました。1977年以来で最高のチャート順位のアルバムとなりました。アルバムはオーストラリアでも51位となり、米国では330,000枚を売り上げました。2006年8月、アルバムは全米151位でビルボード200に再びチャートインしました。ツアーはカナダ、オーストラリア、ニュージーランドで終了します。ツアーのDVDは“Welcome to My Living Room”というタイトルで2007年10月にリリースされました。

2007年、キングはキッコーマン北米進出50周年記念イベントの一環で、1990年以来17年振りにメアリー・J・ブライジおよびブラック・アイド・ピーズのファーギーとともに日本でツアーを行った。13日の日本武道館公演が、2008年、NHK-BShiにて放映されました。日本のレコードレーベルのソニーとビクターは、以前はコンパクトディスクで入手できなかった1970年代後半の作品を含むキングのアルバムのほとんどを再発行します。キングは、アン・マレーの2007年のアルバム『アン・マレー・デュエット:フレンズ・アンド・レジェンズ』で、アン・マレーとゴフィン/キング作の「タイム・ドント・ラン・アウト・オン・ミー」のデュエットを録音しました。この歌は以前、マレーによって1984年のアルバム『ハート・オーヴァー・マインド』のために録音されています。

2014年1月にキングはミュージケアーズ・パーソン・オブ・ザ・イヤーとして表彰されます。2015年、キングはケネディ・センター名誉賞受賞者として表彰されました。

2016年、彼女は2016年にロンドンのハイドパークで開催されたブリティッシュ・サマー・タイム・フェスティバルのヘッドパフォーマーであり、『つづれおり』の全曲を初めてライブで演奏しました。『つづれおり』のライブレコーディングされたコンサートは、2016年にイギリスSkyArts TVで放送された。アルバムは2017年にリリースされています。

2018年に、キングは自身の曲“One”の新バージョンをリリースしました。2011年以来の最初の新しい録音で、キングは“One”(オリジナルは1977年のアルバム『シンプル・シングス』)の歌詞を“One(2018)”として11月6日(米国の中間選挙)のために「愛が勝った」と書き直すべくインスパイアされています。

現在、80歳。大ベテランとして、活躍中です。



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第3のビートルズ‼️‼️‼️

引用

世界を席巻し、伝説どなった『ザ・ビートルズ』。そんなスターに、密かにレノン/マッカートニーに隠れ、実力を磨いでいたアーティストがいました。『ジョージ・ハリスン』です。

1943年、リバプールにて誕生。父・ハロルドはウェールズ系のバス運転手。母・ルイーズはアイルランド系の敬虔なカトリック教徒でした。同時にドイツ人の血も入っています。ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越します。ダヴディル・ロード幼児学校、ダヴディル小学校に通い、リヴァプール・インスティテュートに入学。当時の同級生はジョージを独りぼっちで隅に座っているようなヤツと評しています。

ロックンロールに熱中していたジョージが、スキッフル・バンドを結成しようと考えて、初めて手にした楽器はギターではなくウォッシュボードこれは、一緒にバンドを組もうとしていた2番目の兄ピーター(1940年2007年)がすでにギターをでした。しかし、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まり、13歳の時に同じ学校の生徒から中古ギターを購入しました。

そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージは念願のスキッフル・グループを結成。バンド名を「レベルズ」としました。当時のイギリスには同名のバンドは多数存在していました。「レベルズ」が初めてコンサート・ステージに立つ日、ブッキングしている他のバンドが全てキャンセルしたので、少ないレパートリーの中、一曲を繰り返し演奏し数十分間引きのばし乗り切ったという逸話があります。

1950年代の中頃にポール・マッカートニーに出会います。ポールに紹介されジョン・レノンらのバンド「クオリーメン」(ビートルズの前身)に加入。バンドに加入できたのは、空のバスの2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要したビル・ジャスティスの”Raunchy”というギターインストゥルメンタルを完璧に弾いたことが、ジョンに認められたからと言われています。しかし、「いつもギターに触っていたい」という情熱を満たすため、以前から在籍しているバンドも辞めずに活動に勤しんでします。そのため、時には8時間以上も、徹夜で演奏することもあったが、ジョージには苦になリませんでした。

その後、ビートルズで活躍するも、方向性の違いが原因で、バンドは解散してしまいます。

ビートルズが解散して元メンバーの4人は、活発にソロ音楽活動を展開した。本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにも関わらず、全米/全英のアルバムチャートで1位となる大ヒットとなります。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に収録した。プロデューサー、フィル・スペクターのプロデュースと相まって、優れたアルバムとして評価されています。

シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1を記録しました。この曲はシフォンズの「いかした彼」(1963年)の盗作であるとの訴訟を起こされ、ジョージは1度敗訴。さらに版権を手に入れたアラン・クラインにも訴訟を起こされ、81年に賠償金を支払っています。作詞作曲をした人物はすでに死亡しており、著作権を手に入れた者が訴訟を起こすという新自由主義的な訴訟でした。

翌年には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート『バングラデシュ・コンサート』(全米2位、全英1位)を開催。ビートルズ解散後初めてリンゴ・スターと共演して話題になったほか、エリック・クラプトンや、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなどが参加したイベントは大成功を収めました。その模様を収めたライヴ盤は、1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝きました。

1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース・レコード」を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースします。(彼自身はまだアップルとの契約が残っていたため、このあともしばらくはEMIからレコードを発売し続けた)。それに伴い同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けました。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまいました。喉の異常は当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなります。同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされ、最終的に敗訴するなど、順風満帆に過ぎていたソロ活動はこの頃様々な不運によって精彩を欠いていました。

1974年にはアルバム『ダーク・ホース』(全米4位)を発表「ディンドン」「ダーク・ホース」は日本でヒット。1975年発売の『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したハリスンは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかります。日本ではシングル「ユー」がヒット。しかし、その矢先に彼は肝炎を患って入院してしまいます。そのため、レコード会社にはアルバムを提出する期限を守ることができず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから、違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまいます。A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件にワーナー・ブラザース・レコードと新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることになります。ここから1976年に『33 1/3』、1979年に『慈愛の輝き』という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11位、14位というまずまずのセールスを収めました。『慈愛の輝き』には「ブロウ・アウェイ」「ラヴ・カムズ・トゥ・エブリワン」という久々にジョージらしい曲が収められています。

私生活では、自分の親友だったエリック・クラプトンと交際を始めた妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会ったメキシコ系アメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン(現在はミュージシャン)を儲けています。1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事でも成功した。また、自伝『アイ・ミー・マイン』を1979年に発表した。

副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになります。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく〜母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない、内容が暗い」という理由からレコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまいます。(ジョージ自身が製作したジャケットも気に入らないと要求された)。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけてはクイーンやエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表されました。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなります。リンゴ・スターに提供する予定だった曲の歌詞を書き換えて完成したこの曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼びました。内容の差し替えを要求されたアルバムにはこの曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができました。

翌1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れませんでした。所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできませんでした。このアルバムの発表以降、ハリスンはアーティストとしての活動から半引退状態となります。プライヴェートでときおり楽曲を書くことはあったものの、特に1985年は「最も音楽から離れた年」であったと後年本人は語っています。新しいマテリアルとして映画のサウンドトラック盤『Porky’s Revenge』に収録の「青春の想い」をリリースした程度でこの曲はシングルでも発売されました。

本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナ、ショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』でした。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズ・フォロワーとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンである。リンとの出会いにより、彼は再び音楽活動への情熱を取り戻します。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえるひどい代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たしました。

1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスのチャールズ皇太子が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスでパフォーマンスを行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏しました。前年の同イヴェントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となりました。

リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年に発売されました。このアルバムの発表にあたってジョージは、久々に世界中のメディアで大々的にプロモーションを行い、その甲斐あってアルバムはアメリカをはじめとする世界各国で大ヒット(全米8位、全英10位)日本では、最も売れた彼のソロ作品となりました。また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」は全米1位を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは1973年以来であり、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンやランディ・ニューマンなどを手がける売れっ子プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなります。同年ジョージはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続3位を記録。また、1989年製作の映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供し、現在でも映画ファンに親しまれています。

1991年、日本だけでエリック・クラプトンとのジョイント・ツアーが行われます。(日本を選んだのはクラプトンとそのマネージャーの提案で、ハリスンも勧められて快諾した)。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの日本公演でもありました。当時、息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われます。1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになりました。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなります。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライブ盤『ライヴ・イン・ジャパン』(全米126位)に収められています。翌1992年、ほぼ同じ曲目と同じバンド(クラプトンは不参加だったが、ジョー・ウォルシュ、ゲイリー・ムーア、リンゴ・スターらと共演)で自らが支持する政党の支援を目的としたコンサートを本国で行いました。同年にはボブ・ディランのレコードデビュー30周年記念コンサートにクラプトンらと参加するが、これがジョージにとっての生涯最後のライヴ・パフォーマンスとなりました。その間にひそかに広島県に訪問して、原爆資料館を見学して、原爆による戦争の恐ろしさを痛感しました。

1993年より、「ビートルズ・アンソロジー」のプロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業が行われます。ジョン・レノンの生前に残されたデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」(全米6位、全英2位)「リアル・ラヴ」(全米11位、全英4位)の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなりました。

1997年には、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的にプロモーション活動を行いました。だが、同時期に喉頭癌が判明し、7月に手術を受けることになります。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったといいます。1999年にはOBEを拒否しました。理由は97年に授章したポール・マッカートニーが騎士団よりも下の階級だったことで、勲章は自分を侮辱していると感じたためと、インディペンデントやBBCが報道しています。

1999年頃からは、自らが過去に発表したソロ・アルバムのリマスターの作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、同年晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負ってしまいます。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きいものでした。この話を聞いた多くの人が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄しました。しかし、恐怖するファンを安心させるかのように、2001年、ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かしました。

この間にビートルズの元メンバーであるピート・ベストに関して、ジョージは「僕はビートルズ時代にピートに何もしてあげられなかった。せめてピートに会って当時のことを謝りたかったんだ」と述べていたが、ジョージの死で再会は実現しませんでした。

しかし、そんな矢先に肺癌が発見され、さらに脳腫瘍も併発していることが判明。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛びかいます。交本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道はさらに過熱しました。2001年には、各国の大衆紙がジョージが危篤であると報道しました。11月29日(日本時間11月30日早朝)、彼は滞在先であるロサンゼルスの友人宅にて家族・友人たちに看取られながら58歳で息を引き取りました。ビートルズ・ファンが追悼の巡礼に殺到することを危惧したオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載し、死去した場所は公表されていません。

ハリスンが病に冒されなければ、生前に完成するはずだった新作は、彼の死から約1年後の2002年11月に『ブレインウォッシュド』(全米18位、全英29位)というタイトルで発売されました。(プロデュースはハリスンと彼の息子ダーニ、ジェフ・リンの3人)。2003年度グラミー賞には本アルバム、及び「Any Road」と「Marwa Blues」の2曲がノミネートされ、後者は最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞しました。

遺作集のリリースとほぼ時期を同じくしてエリック・クラプトンの企画による追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』が行われ、リンとトム・ペティ、マッカートニー、スター、ビリー・プレストン、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、生前ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数参加しました。このコンサートの模様は、翌年にCDとDVDでリリースされています。

リンゴ・スターはジョージへの追悼曲「Never Without You」を作り、2003年にシングルで発売した。アルバム『リンゴ・ラマ』にも収録されています。

2004年には、ソロ・アーティストとして『ロックの殿堂』入りを果たし、同時期にはワーナー在籍時代のアルバムが、デジタル・リマスターを施されて再リリースされ、話題を呼びました。また、2005年には彼のキャリア最大の功績のひとつである『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いを新たに再発されました。2006年には、アルバム未収録だった2曲を加えた、1973年発表の全米1位アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が、リマスターされて発売されました。

2009年、『ハリウッドの殿堂』入りを果たします。ビートルズとしては既にグループで殿堂入りしており、個人ではレノンに次いで2人目となりました。また、同年には、アビー・ロード・スタジオにて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた1967年頃(当時23〜24歳)に書かれたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者であるハンター・デイヴィスによって発見され、大英図書館にて展示された。同年6月16日には自身3枚目となるベスト盤『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』(全英4位、全米24位)が発売されました。(日本盤は7月8日発売)。

没後10年である2011年、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が公開されました。

現在ポール、リンゴに続き、英国王室から「Sir」の称号が与えられる見通しとなっています。

『静かなるビートルズ』。伝説として、語り継がれることでしょう。



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