子供の頃から、持て囃され、成人後も数々の伝説を残した”キング・オブ・ポップ”といえばやはり、『マイケル・ジャクソン』でしょう。
20世紀以降のポピュラー音楽に多大なる影響を与えた人物の一人であり、全世界での総売上は4億枚を超えており、ビートルズやエルヴィス・プレスリーに次いで史上最も売れた音楽家として名を連ねている。また、これまでに13のグラミー賞(ノミネートは38回)を含む750以上の賞を受賞。ギネス世界記録から「人類史上最も成功したエンターテイナー」として認定されています。
1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街の家庭に六男として誕生します。
父ジョセフはクレーン操縦士、母キャサリンはデパートのパートタイム従業員として家計を支えていた。ジョセフは当時彼の実弟が始めたバンド「ファルコンズ」の一員として音楽活動もしており、音楽家として成功する夢を抱いていました。音楽好きな両親の影響で、マイケルは他の兄弟と共に音楽と接する機会の多い環境で育ちます。
マイケルの兄ジャッキー、ティト、ジャーメインはよく父のからギターを隠れて演奏していたが、ある日、ティトが弦を一本切ってしまう。張り替える間もなくジョセフに見つかってしまい、いつものようにジョセフは暴力を振るおうとするが、ティトは「僕にだって弾けるんだ」と抵抗を示し必死に演奏してみせたといいます。これを見てなかなかの上手さに気づいたジョセフは、自身の音楽経験を生かして子どもたちに音楽を教えることを決意します。
こうして三人は音楽グループとしての活動を始め、リーダーであったジャーメインを筆頭に、地元での人気を獲得していきます。
1963年、兄弟のグループに加入。キャサリンがジョセフに「この子は歌えるのよ」と助言したことがきっかけであったといわれます。
この頃グループは「ジャクソンズ」と名乗るようになります。
1967年には、ニューヨークのアポロ・シアターへの進出を果たします。マイケルはそこでジェームズ・ブラウンやジャッキー・ウィルソンのパフォーマンスを見て学んだといわれています。
1968年、スティールタウン・レコードからシングル「ビッグ・ボーイ」でデビュー。
この頃、ライブの前座でボビー、テイラーに出会います。ジャクソン5の素質を見出したボビーは、モータウン・レコードと契約させるべくジャクソン・ファミリーを無理矢理デトロイトに連れていきます。それが功を奏し、同年にモータウンとの契約に成功します。
1969年、シングル「帰ってほしいの」でメジャーデビュー。全米1位(全英2位)を獲得。可愛らしさ溢れるマイケルの歌声や、ベリー・ゴーディ・ジュニア率いるプロデューサー群による秀逸な楽曲群に加え、ダイアナ・ロスが発掘したという架空の設定も話題となり、グループは全米で人気を博すようになり、この頃からやっとジャクソン5と名乗るようになります。
1970年、シングル2作目の「ABC」がビートルズの「レット・イット・ビー」に代わり全米1位(全英8位)を獲得。その後、続く「小さな経験」(全米1位、全英7位)と「アイル・ビー、アゼア」(全米1位、全英4位)もチャートを制し、デビューから4曲連続で全米チャート1位を獲得するという偉業を成し遂げます。
1971年、シングル「ガット・トゥ・ビー・ゼア」(全米4位、全英5位)でソロデビュー。ソロでも堅調なヒットを重ね、1972年発表のシングル「ベンのテーマ」は、ソロでは初となる全米1位(全英7位)を獲得しました。
しかしこの頃から次第に、ジャクソン5とモータウンの方向性の違いが少しずつ露呈し始め、同じモータウン所属のマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーが自身で作詞作曲からプロデュースまで手掛ける中、いつまでもアイドル路線を続けさせられている状況にメンバーやジョセフは強い不満を示すようになります。しかしモータウンは一貫して彼らに曲の自作を許可することはなく、その軋轢は次第に大きくなっていきます。全米2位に輝いた74年の「ダンシング・マシーン」の成功を除いては、無理矢理なアイドル路線による人気低迷が否めず、彼らは移籍を決意することとなります。
1975年、エピック・レコードへ移籍後は「ジャクソン5」の名前の使用継続が認められなかったため、グループは「ジャクソンズ」としてまた昔に使われていた名前を使うことになりました。
ジャクソンズは1976年にアルバム『ザ・ジャクソンズ・ファースト〜僕はゴキゲン』(全米36位、全英53位』をもって正式にデビューを飾るが、活動初期はモータウン時代同様自主プロデュースをすることが許されず、2作目『ゴーイン・プレイシズ〜青春のハイウェイ』(全米45位、全英63位)まではギャンブル&ハフをプロデューサーに迎えて制作された。マイケルはこのことに再び強い不満を抱いており、特に2作目については「オージェイズの古い曲『ラヴ・トレイン』みたいで、必ずしも僕達のスタイルじゃない」「アイデンティティを失いつつあった」と当時の幻滅ぶりを明らかにしています。
初めてメンバーがプロデュースに関わったのは3作目の『ディスティニー〜今夜はブギー・ナイト』で、このアルバムは全米11位、全英33位を獲得するなど、前2作を大きく上回るヒットを記録しました。マイケルとランディの作詞作曲によるカットシングル「シェイク・ユア・ボディ」も、全米チャートで7位まで上昇します。
同じく自主プロデュースの4作目『トライアンフ』も全米チャートトップ10入り(全米10位、全英13位)を果たすなどヒットを記録し、批評家からも高い評価を受け、特にマイケル自身のペンによる収録曲「キャン・ユー・フィール・イット」について、アンディ・ケルマンが「この曲の超自然的でスケールの大きなリズムは、単なるシングル曲という小さなスケールに収まらず、むしろ花火の演目のフィナーレ的だ」と絶賛するなど、ここにきてようやく作曲家やプロデューサーとしての彼らの力量が認められるようになりました。
1978年、ミュージカル映画『ウィズ』でダイアナ・ロスと共演。この映画の制作現場で、その後3枚のアルバムを共に制作しマイケルの音楽人生を変えることになる音楽家、クインシー・ジョーンズと出会います。
同年、映画のサウンドトラックからのカットシングル「ユー・キャント・ウィン」(全米81位)でエピックからソロデビュー。
1979年、エピック移籍後初となるアルバム『オフ・ザ・ウォール』(全米3位)をリリース。家族やレーベルの反対を押し切ってそのままクインシーをプロデューサーとして迎え制作された本作は、70年代のディスコ・ブームやブラック・ミュージックの集大成ともいえる内容に仕上がり、全米で800万枚を売り上げるなど大ヒットを記録。批評家からも高い評価を受けました。また、ソロでは初の自作曲となる先行シングル「今夜はドント・ストップ」(全米1位、全英3位)をはじめ、「ロック・ウィズ・ユー」(全米1位、全英7位)「オフ・ザ・ウォール」(全米10位、全英7位)「あの娘が消えた」(全米10位、全英3位)の合計4シングルが全米チャートトップ10に入るという史上初の偉業を成し遂げます。
1981年、モータウンでの最後のアルバム『フォーエバー・マイケル』(全米101位)を発表。アルバムからは「想い出の一日」がシングルカットされ、『オフ・ザ・ウォール』との相乗効果もあり全英1位(全米55位)を記録しました。
1982年、映画『E.T.』に「サムワン・イン・ザ・ダーク」を提供。ストーリーブックのナレーションにも参加し、2年後にグラミー賞を受賞しました。
1982年、移籍後から2作目となるソロとなる『スリラー』(英米1位)からの、先行シングルとしてポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」(全米2位、全英8位)がカットされました。
再びクインシーがプロデュースを担当した本作は、現在に至るまで少なくとも7000万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されています。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられました。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇します。
本作の発表では付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなりました。後に自身最大のヒット曲となった「ビリー・ジーン」(英米1位)のミュージック・ビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなりました。エディ・ヴァン・ヘイレンを奏者に迎えたシングル「今夜はビート・イット」(全米1位、全英3位)のミュージック・ビデオでは、ロスの本物のマフィアとの共演が実現し、集団でダンスを披露しました。そして何より世界に衝撃を与えた「スリラー」(全米4位、全英10位)のミュージック・ビデオは、14分にも及ぶ長さのホラー映画風のショート・フィルムとして制作され、その後現在に至るまでミュージック・ビデオの最高傑作として名を残しています。
1983年、兄弟たちと「モータウン25周年記念コンサート」に出演。ジャクソンズのステージの後、ソロで「ビリー・ジーン」を歌い、後にマイケルの代名詞となるムーンウォークを初披露しました。
同年、シングル「セイ・セイ・セイ」(全米1位、全英2位)を英パーロフォンから発売。ポール・マッカトニーとのデュエットが再び実現したこの曲は、マイケルのキャリアでは「ビリー・ジーン」に次ぐ2番目の大ヒットとなりました。この曲のミュージック・ビデオは後にマイケルが邸宅として購入することとなるサンタ・バーバラの渓谷で撮影され、姉のラトーヤも出演しました。
1985年、アフリカ飢餓救済のための慈善企画「USA・フォー・アフリカ」に参加。マイケルとライオネル・リッチーのペンによる楽曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」(英米1位)は、クインシーの指揮のもと、ハリウッドを代表するスター45人が集まって録音され、最終的に全米で750万枚を売り上げます。
1986年、主演を務めたディズニーランドの3Dアトラクション『キャプテンEO』が公開。劇中では「ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド」と「アナザー・パート・オブ・ミー」(全米11位、全英15位)がオリジナル曲として披露されました。
1987年、クインシーとの最後の作品となる第3作『バッド』(英米1位』を発表。シンセサイザーの多用が生んだより先鋭的なサウンドに加え、「マン・イン・ザ・ミラー」(全米1位、全英21位)に代表される世界平和や世相批判などをテーマにした楽曲が本作の大きな特徴となった。また、表題曲の発売に際しては、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話を基にしたマーティン・スコセッシ監督による18分の大作ショート・フィルムが付けられ、前回の『スリラー』に続いてミュージック・ビデオにおける革新性を再び示し、最終的に本作の売上は多く見積もって3500万枚に達したとされており、売上では前作『スリラー』は超えなかったものの、先行シングル「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」から5曲連続で全米1位を獲得するという初めての快挙を成し遂げました。
同年、ソロ初のワールド・ツアー「バッド・ワールド・ツアー」を開始し、初演の地には日本が選ばれた。横浜公演が日本テレビで放映され、日本では「マイケル旋風」と呼ばれる大きなマイケルブームが巻き起こりました。最終的に同ツアーは1989年初頭まで続けられ、4つのギネス記録を打ち立てることになります。
1988年、自伝『ムーンウォーク』を発表。生涯で唯一の自伝の日本語版は田中康夫の翻訳で同年11月にCBSソニー出版から発売されます。2009年に河出書房新社から再刊。
同年、推定3800万ドルで購入した豪邸「ネバーランド・ランチ」に引っ越します。
同年、マイケルが主演及び原案製作総指揮を務めた映画『ムーンウォーカー』が公開。劇中では「スムーズ・クリミナル」(英米7位)や「リーヴ・ミー・アローン」(全英2位)などの楽曲が披露されました。
1989年、BREアワーズにおいてポップ・ロック・ソウルの三部門を制します。この時エリザベス・テイラーがマイケルを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称したことがきっかけで、マイケルは現在に至るまで「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるようになります。
1990年、アーケードゲーム『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』が発表されます。
1991年、4年ぶりとなる新作アルバム『デンジャラス』(英米1位)を発表。3作品を続けて手掛けてきたクインシーに代わってニュー・ジャック・スウィングの先駆者であるテディ・ライリーをプロデューサーに迎えた本作では、これまで以上にソリッドなサウンドを目指して新境地に挑戦します。本作の売上は前作『バッド』を上回り、前作同様多くのシングルヒットが生まれした。特に先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、人種の壁を乗り越えようというその歌詞が多くの人に受け入れられ、20か国のチャートで1位を獲得しました。マコーレー・カルキンと共演したショート・フィルムも話題となり、劇中の演出ではモーフィングと呼ばれる映像技術が使用されます。
1992年2月、ガボンの名誉勲位であるメリット勲位が贈られます。1992年、2度目のワールド・ツアー「デンジャラス・ワールド・ツアー」を開始。収益金は全てヒール・ザ・ワールド基金に寄付されました。
同年、シングル「ジャム」(全米26位、全英12位)のショート・フィルムにて、NBAの選手でマイケル同様「MJ」のイニシャルを持つマイケル・ジョーダンと共演。
1993年1月、スーパーボウル・ハーフタイムショーに出演。当時低迷していた「スーパーボウル」の視聴率がマイケルの出演によって大きく改善したため、以降は有名音楽家のハーフタイムショー出演が恒例となりました。
同年、オプラ・ウィンフリー・ショーに出演。インタビューではさまざまな疑惑に答え、尋常性白斑に罹患していることを初めて明かします。
1993年8月、ジョーダン・チャンドラーに性的虐待の訴訟を起こされます。これにより、開催中であった「デンジャラス・ワールド・ツアー」の中止を余儀なくされます。裁判ではジョーダンの父イヴァンによる恐喝があったことが明らかとなり、またジョーダンの証言にも多数の矛盾が発覚します。ところが、裁判が推定7年近くかかることや、マイケルが精神的に危険な状態にあったことなどにより、音楽活動への多大な影響を懸念してマイケル側は和解金を支払うことを選択します。ここで和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまいました。
1994年5月、エルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーと結婚。
1995年6月、2枚組アルバム『ヒストリー:パスト、プレゼント・アンド・フューチャー:ブック1』(全米1位、全英4位)を発表。1枚目が『HIStory Begins』と銘打たれたベスト盤、2枚目が『HIStory Continues』と呼ばれる未発表曲集という特異な構造を持つ本作では、全米に蔓延る社会問題の数々や、また93年の訴訟以降より強まることとなった世間からのバッシングに対するマイケルの怒りや悲愴が、これまでにないほど直接的に表現された。先行シングルとしては妹ジャネットとのデュエット「スクリーム」(全米5位、全英3位)がカットされ、そのショート・フィルムは「史上最も費用の使われたミュージック・ビデオ」としてギネス世界記録に認定されました。同年にシングルカットされた「ユー・アー・ノット・アローン」は、全米で初登場1位(全英1位)を記録するという前人未到の快挙を成し遂げ、こちらもギネス世界記録に認定されました。環境問題を扱った10月発表のシングル「アース・ソング」は、アメリカでは受け入れられなかったにもかかわらず、イギリスでは自身最大のヒット曲(全英1位)となりました。
1996年1月、リサと離婚。
同年、3度目のワールド・ツアー「ヒストリー・ワールド・ツアー」を開始。
同年、主演・製作総指揮・脚本を務めた短編映画『マイケル・ジャクソン 「ゴースト」』を公開。劇中では表題曲(英米5位)や「イズ・イット・スケアリー」などの新曲が披露された。映画はカンヌ国際映画祭にて上映されました。
1997年、ジャクソン5として『ロックの殿堂』入りを果たします。
同月、リミックス盤『ブラッド・オン・ザ・ダンス・フロア:ヒストリー・イン・ザ・ミックス』(全米24位、全英1位)を発表。前作『ヒストリー』収録曲のリミックス集に、新たな未発表曲が5曲加えられた形で発売されます。ほとんどプロモーションは行われなかったにもかかわらず、リミックス盤としては史上最高となる600万枚の売上を記録しました。
1999年6月、有志の友人たちと共にチャリティ・コンサート「マイケル・ジャクソン & フレンズ」を開催。収益金は赤十字社、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付されます。
同年、デビー・ロウと離婚。
2001年、史上最年少でロックの殿堂入りを果たしました。
同年9月、マイケル・ジャクソン 30周年記念ソロ・イヤーズを開催。ジャクソン5の再結成が行われたほか、次のアルバムの先行シングルである「ユー・ロック・マイ・ワールド」(全米10位、全英2位)も披露されました。
2001年、生前最後のスタジオ盤となる『インヴィンシブル』(英米1位)を発表。本作では、ロドニー・ジャーキンスをはじめとした若手プロデューサーの起用で時流に乗りつつも、自身の声を主体としたバラードの制作により精力が注がれた。全米1位は獲得したものの、最終的な売上枚数は1000万足らずと従来の作品に比べて伸び悩んでしまったことで、1990年代後半に始まった『ソニー戦争』と呼ばれるマイケルとソニーとの確執が表面化するようになります。
同月、アメリカ同時多発テロの被災者支援のため、ワシントンD.C.RFKスタジアムでチャリティコンサートを行います。新曲「ホワット・キャン・アイ・モア・ギブ」も披露され、約300万ドルの収益を集めます。
2002年4月、民主党全国委員会によるパーティーにて、「ヒール・ザ・ワールド」を含む3曲を披露。このコンサートが彼が踊った最後のコンサートとなりました。
2003年、ベスト盤『ナンバー・ワンズ』(全米13位、全英1位)を発売。先行シングルとして「ワン・モア・チャンス」(全米83位、全英5位)がカットされます。
同年、ギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑で逮捕されます。1993年の訴訟とは違って今回は刑事裁判にかけられ、マイケル・ジャクソン裁判として全世界の注目を受けることとなります。
2004年11月、ボックスセット『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』(全米154位)を発表。往年の代表曲に数々の未発表音源を織り混ぜたCD4枚と、92年のブカレスト公演の模様を映したDVD1枚が収録されました。
2005年6月、裁判のすべての起訴事実に関して無罪が言い渡されます。
同年、ライブDVD『ライヴ・イン・ブカレスト』を発売。なお、内容は『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』に収録されたものと同じもの。
2006年、訪日。無罪判決後初めて公の場に姿を表す。MTVジャパンのレジェンド・オブ・ミュージック・アワードを受賞しました。
2008年、企画盤『スリラー25周年記念盤』を発売。『スリラー』収録曲のリミックスが収められ、エイコン、カニエ・ウェスト、ウィル・アイ・アム、ファーギーなどが参加しました。
同年、生前最後となるベスト盤『キング・オブ・ポップ』(全英3位)を発売。このアルバムはマイケルの生誕50周年を記念して企画され、インターネット上で行われた投票で各国独自に収録曲が決められました。完全生産限定盤として発売され、全ての国のバージョンにボーナス・トラックとして「スリラー・メガミックス」が収録されました。
2009年、ロンドンにて記者会見を開き、O2アリーナで最後のツアー『THIS IS IT』を行うと発表。チケットが売り出されると4時間で50公演分が完売しました。
2009年、自宅にて心肺停止状態に陥り死去。主治医であったコンラッド・マーレーは過失致死罪の有罪判決を受けていました。
2009年10月、予定されていたO2アリーナでの公演のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』が公開。翌年発売されたBlu-rayは日本のオリコンにおいては歴代4位の売上を記録しています。
同年、Googleの検索ワードランキングで1位になりました。
2010年6月25日、一周忌であるこの日にドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔』が公開。
その後、死後に発売された遺作『MICHAEL』(全米3位、全英4位)により伝説に終止符を打ちました。2011年『イモータル』(全米24位、全英65位)、2014年『エスケイプ』(全米2位、全英1位)とコンピレーション・アルバムがリリースされました。
もう、亡くなって13年となるのですね。まだ、彼は生きているように思えてきます。これからも、名曲は伝説として歌われる事でしょう。

にほんブログ村</p</p</p</p</p</p


