不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

“キング・オブ・ポップ”‼️‼️‼️

引用

子供の頃から、持て囃され、成人後も数々の伝説を残した”キング・オブ・ポップ”といえばやはり、『マイケル・ジャクソン』でしょう。

20世紀以降のポピュラー音楽に多大なる影響を与えた人物の一人であり、全世界での総売上は4億枚を超えており、ビートルズやエルヴィス・プレスリーに次いで史上最も売れた音楽家として名を連ねている。また、これまでに13のグラミー賞(ノミネートは38回)を含む750以上の賞を受賞。ギネス世界記録から「人類史上最も成功したエンターテイナー」として認定されています。

1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街の家庭に六男として誕生します。

父ジョセフはクレーン操縦士、母キャサリンはデパートのパートタイム従業員として家計を支えていた。ジョセフは当時彼の実弟が始めたバンド「ファルコンズ」の一員として音楽活動もしており、音楽家として成功する夢を抱いていました。音楽好きな両親の影響で、マイケルは他の兄弟と共に音楽と接する機会の多い環境で育ちます。

マイケルの兄ジャッキー、ティト、ジャーメインはよく父のからギターを隠れて演奏していたが、ある日、ティトが弦を一本切ってしまう。張り替える間もなくジョセフに見つかってしまい、いつものようにジョセフは暴力を振るおうとするが、ティトは「僕にだって弾けるんだ」と抵抗を示し必死に演奏してみせたといいます。これを見てなかなかの上手さに気づいたジョセフは、自身の音楽経験を生かして子どもたちに音楽を教えることを決意します。

こうして三人は音楽グループとしての活動を始め、リーダーであったジャーメインを筆頭に、地元での人気を獲得していきます。

1963年、兄弟のグループに加入。キャサリンがジョセフに「この子は歌えるのよ」と助言したことがきっかけであったといわれます。

この頃グループは「ジャクソンズ」と名乗るようになります。

1967年には、ニューヨークのアポロ・シアターへの進出を果たします。マイケルはそこでジェームズ・ブラウンやジャッキー・ウィルソンのパフォーマンスを見て学んだといわれています。

1968年、スティールタウン・レコードからシングル「ビッグ・ボーイ」でデビュー。

この頃、ライブの前座でボビー、テイラーに出会います。ジャクソン5の素質を見出したボビーは、モータウン・レコードと契約させるべくジャクソン・ファミリーを無理矢理デトロイトに連れていきます。それが功を奏し、同年にモータウンとの契約に成功します。

1969年、シングル「帰ってほしいの」でメジャーデビュー。全米1位(全英2位)を獲得。可愛らしさ溢れるマイケルの歌声や、ベリー・ゴーディ・ジュニア率いるプロデューサー群による秀逸な楽曲群に加え、ダイアナ・ロスが発掘したという架空の設定も話題となり、グループは全米で人気を博すようになり、この頃からやっとジャクソン5と名乗るようになります。

1970年、シングル2作目の「ABC」がビートルズの「レット・イット・ビー」に代わり全米1位(全英8位)を獲得。その後、続く「小さな経験」(全米1位、全英7位)と「アイル・ビー、アゼア」(全米1位、全英4位)もチャートを制し、デビューから4曲連続で全米チャート1位を獲得するという偉業を成し遂げます。

1971年、シングル「ガット・トゥ・ビー・ゼア」(全米4位、全英5位)でソロデビュー。ソロでも堅調なヒットを重ね、1972年発表のシングル「ベンのテーマ」は、ソロでは初となる全米1位(全英7位)を獲得しました。

しかしこの頃から次第に、ジャクソン5とモータウンの方向性の違いが少しずつ露呈し始め、同じモータウン所属のマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーが自身で作詞作曲からプロデュースまで手掛ける中、いつまでもアイドル路線を続けさせられている状況にメンバーやジョセフは強い不満を示すようになります。しかしモータウンは一貫して彼らに曲の自作を許可することはなく、その軋轢は次第に大きくなっていきます。全米2位に輝いた74年の「ダンシング・マシーン」の成功を除いては、無理矢理なアイドル路線による人気低迷が否めず、彼らは移籍を決意することとなります。

1975年、エピック・レコードへ移籍後は「ジャクソン5」の名前の使用継続が認められなかったため、グループは「ジャクソンズ」としてまた昔に使われていた名前を使うことになりました。

ジャクソンズは1976年にアルバム『ザ・ジャクソンズ・ファースト〜僕はゴキゲン』(全米36位、全英53位』をもって正式にデビューを飾るが、活動初期はモータウン時代同様自主プロデュースをすることが許されず、2作目『ゴーイン・プレイシズ〜青春のハイウェイ』(全米45位、全英63位)まではギャンブル&ハフをプロデューサーに迎えて制作された。マイケルはこのことに再び強い不満を抱いており、特に2作目については「オージェイズの古い曲『ラヴ・トレイン』みたいで、必ずしも僕達のスタイルじゃない」「アイデンティティを失いつつあった」と当時の幻滅ぶりを明らかにしています。

初めてメンバーがプロデュースに関わったのは3作目の『ディスティニー〜今夜はブギー・ナイト』で、このアルバムは全米11位、全英33位を獲得するなど、前2作を大きく上回るヒットを記録しました。マイケルとランディの作詞作曲によるカットシングル「シェイク・ユア・ボディ」も、全米チャートで7位まで上昇します。

同じく自主プロデュースの4作目『トライアンフ』も全米チャートトップ10入り(全米10位、全英13位)を果たすなどヒットを記録し、批評家からも高い評価を受け、特にマイケル自身のペンによる収録曲「キャン・ユー・フィール・イット」について、アンディ・ケルマンが「この曲の超自然的でスケールの大きなリズムは、単なるシングル曲という小さなスケールに収まらず、むしろ花火の演目のフィナーレ的だ」と絶賛するなど、ここにきてようやく作曲家やプロデューサーとしての彼らの力量が認められるようになりました。

1978年、ミュージカル映画『ウィズ』でダイアナ・ロスと共演。この映画の制作現場で、その後3枚のアルバムを共に制作しマイケルの音楽人生を変えることになる音楽家、クインシー・ジョーンズと出会います。

同年、映画のサウンドトラックからのカットシングル「ユー・キャント・ウィン」(全米81位)でエピックからソロデビュー。

1979年、エピック移籍後初となるアルバム『オフ・ザ・ウォール』(全米3位)をリリース。家族やレーベルの反対を押し切ってそのままクインシーをプロデューサーとして迎え制作された本作は、70年代のディスコ・ブームやブラック・ミュージックの集大成ともいえる内容に仕上がり、全米で800万枚を売り上げるなど大ヒットを記録。批評家からも高い評価を受けました。また、ソロでは初の自作曲となる先行シングル「今夜はドント・ストップ」(全米1位、全英3位)をはじめ、「ロック・ウィズ・ユー」(全米1位、全英7位)「オフ・ザ・ウォール」(全米10位、全英7位)「あの娘が消えた」(全米10位、全英3位)の合計4シングルが全米チャートトップ10に入るという史上初の偉業を成し遂げます。

1981年、モータウンでの最後のアルバム『フォーエバー・マイケル』(全米101位)を発表。アルバムからは「想い出の一日」がシングルカットされ、『オフ・ザ・ウォール』との相乗効果もあり全英1位(全米55位)を記録しました。

1982年、映画『E.T.』に「サムワン・イン・ザ・ダーク」を提供。ストーリーブックのナレーションにも参加し、2年後にグラミー賞を受賞しました。

1982年、移籍後から2作目となるソロとなる『スリラー』(英米1位)からの、先行シングルとしてポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」(全米2位、全英8位)がカットされました。

再びクインシーがプロデュースを担当した本作は、現在に至るまで少なくとも7000万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されています。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられました。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇します。

本作の発表では付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなりました。後に自身最大のヒット曲となった「ビリー・ジーン」(英米1位)のミュージック・ビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなりました。エディ・ヴァン・ヘイレンを奏者に迎えたシングル「今夜はビート・イット」(全米1位、全英3位)のミュージック・ビデオでは、ロスの本物のマフィアとの共演が実現し、集団でダンスを披露しました。そして何より世界に衝撃を与えた「スリラー」(全米4位、全英10位)のミュージック・ビデオは、14分にも及ぶ長さのホラー映画風のショート・フィルムとして制作され、その後現在に至るまでミュージック・ビデオの最高傑作として名を残しています。

1983年、兄弟たちと「モータウン25周年記念コンサート」に出演。ジャクソンズのステージの後、ソロで「ビリー・ジーン」を歌い、後にマイケルの代名詞となるムーンウォークを初披露しました。

同年、シングル「セイ・セイ・セイ」(全米1位、全英2位)を英パーロフォンから発売。ポール・マッカトニーとのデュエットが再び実現したこの曲は、マイケルのキャリアでは「ビリー・ジーン」に次ぐ2番目の大ヒットとなりました。この曲のミュージック・ビデオは後にマイケルが邸宅として購入することとなるサンタ・バーバラの渓谷で撮影され、姉のラトーヤも出演しました。

1985年、アフリカ飢餓救済のための慈善企画「USA・フォー・アフリカ」に参加。マイケルとライオネル・リッチーのペンによる楽曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」(英米1位)は、クインシーの指揮のもと、ハリウッドを代表するスター45人が集まって録音され、最終的に全米で750万枚を売り上げます。

1986年、主演を務めたディズニーランドの3Dアトラクション『キャプテンEO』が公開。劇中では「ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド」と「アナザー・パート・オブ・ミー」(全米11位、全英15位)がオリジナル曲として披露されました。

1987年、クインシーとの最後の作品となる第3作『バッド』(英米1位』を発表。シンセサイザーの多用が生んだより先鋭的なサウンドに加え、「マン・イン・ザ・ミラー」(全米1位、全英21位)に代表される世界平和や世相批判などをテーマにした楽曲が本作の大きな特徴となった。また、表題曲の発売に際しては、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話を基にしたマーティン・スコセッシ監督による18分の大作ショート・フィルムが付けられ、前回の『スリラー』に続いてミュージック・ビデオにおける革新性を再び示し、最終的に本作の売上は多く見積もって3500万枚に達したとされており、売上では前作『スリラー』は超えなかったものの、先行シングル「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」から5曲連続で全米1位を獲得するという初めての快挙を成し遂げました。

同年、ソロ初のワールド・ツアー「バッド・ワールド・ツアー」を開始し、初演の地には日本が選ばれた。横浜公演が日本テレビで放映され、日本では「マイケル旋風」と呼ばれる大きなマイケルブームが巻き起こりました。最終的に同ツアーは1989年初頭まで続けられ、4つのギネス記録を打ち立てることになります。

1988年、自伝『ムーンウォーク』を発表。生涯で唯一の自伝の日本語版は田中康夫の翻訳で同年11月にCBSソニー出版から発売されます。2009年に河出書房新社から再刊。

同年、推定3800万ドルで購入した豪邸「ネバーランド・ランチ」に引っ越します。

同年、マイケルが主演及び原案製作総指揮を務めた映画『ムーンウォーカー』が公開。劇中では「スムーズ・クリミナル」(英米7位)や「リーヴ・ミー・アローン」(全英2位)などの楽曲が披露されました。

1989年、BREアワーズにおいてポップ・ロック・ソウルの三部門を制します。この時エリザベス・テイラーがマイケルを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称したことがきっかけで、マイケルは現在に至るまで「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるようになります。

1990年、アーケードゲーム『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』が発表されます。

1991年、4年ぶりとなる新作アルバム『デンジャラス』(英米1位)を発表。3作品を続けて手掛けてきたクインシーに代わってニュー・ジャック・スウィングの先駆者であるテディ・ライリーをプロデューサーに迎えた本作では、これまで以上にソリッドなサウンドを目指して新境地に挑戦します。本作の売上は前作『バッド』を上回り、前作同様多くのシングルヒットが生まれした。特に先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、人種の壁を乗り越えようというその歌詞が多くの人に受け入れられ、20か国のチャートで1位を獲得しました。マコーレー・カルキンと共演したショート・フィルムも話題となり、劇中の演出ではモーフィングと呼ばれる映像技術が使用されます。

1992年2月、ガボンの名誉勲位であるメリット勲位が贈られます。1992年、2度目のワールド・ツアー「デンジャラス・ワールド・ツアー」を開始。収益金は全てヒール・ザ・ワールド基金に寄付されました。

同年、シングル「ジャム」(全米26位、全英12位)のショート・フィルムにて、NBAの選手でマイケル同様「MJ」のイニシャルを持つマイケル・ジョーダンと共演。

1993年1月、スーパーボウル・ハーフタイムショーに出演。当時低迷していた「スーパーボウル」の視聴率がマイケルの出演によって大きく改善したため、以降は有名音楽家のハーフタイムショー出演が恒例となりました。

同年、オプラ・ウィンフリー・ショーに出演。インタビューではさまざまな疑惑に答え、尋常性白斑に罹患していることを初めて明かします。

1993年8月、ジョーダン・チャンドラーに性的虐待の訴訟を起こされます。これにより、開催中であった「デンジャラス・ワールド・ツアー」の中止を余儀なくされます。裁判ではジョーダンの父イヴァンによる恐喝があったことが明らかとなり、またジョーダンの証言にも多数の矛盾が発覚します。ところが、裁判が推定7年近くかかることや、マイケルが精神的に危険な状態にあったことなどにより、音楽活動への多大な影響を懸念してマイケル側は和解金を支払うことを選択します。ここで和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまいました。


1994年5月、エルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーと結婚。

1995年6月、2枚組アルバム『ヒストリー:パスト、プレゼント・アンド・フューチャー:ブック1』(全米1位、全英4位)を発表。1枚目が『HIStory Begins』と銘打たれたベスト盤、2枚目が『HIStory Continues』と呼ばれる未発表曲集という特異な構造を持つ本作では、全米に蔓延る社会問題の数々や、また93年の訴訟以降より強まることとなった世間からのバッシングに対するマイケルの怒りや悲愴が、これまでにないほど直接的に表現された。先行シングルとしては妹ジャネットとのデュエット「スクリーム」(全米5位、全英3位)がカットされ、そのショート・フィルムは「史上最も費用の使われたミュージック・ビデオ」としてギネス世界記録に認定されました。同年にシングルカットされた「ユー・アー・ノット・アローン」は、全米で初登場1位(全英1位)を記録するという前人未到の快挙を成し遂げ、こちらもギネス世界記録に認定されました。環境問題を扱った10月発表のシングル「アース・ソング」は、アメリカでは受け入れられなかったにもかかわらず、イギリスでは自身最大のヒット曲(全英1位)となりました。

1996年1月、リサと離婚。

同年、3度目のワールド・ツアー「ヒストリー・ワールド・ツアー」を開始。

同年、主演・製作総指揮・脚本を務めた短編映画『マイケル・ジャクソン 「ゴースト」』を公開。劇中では表題曲(英米5位)や「イズ・イット・スケアリー」などの新曲が披露された。映画はカンヌ国際映画祭にて上映されました。

1997年、ジャクソン5として『ロックの殿堂』入りを果たします。

同月、リミックス盤『ブラッド・オン・ザ・ダンス・フロア:ヒストリー・イン・ザ・ミックス』(全米24位、全英1位)を発表。前作『ヒストリー』収録曲のリミックス集に、新たな未発表曲が5曲加えられた形で発売されます。ほとんどプロモーションは行われなかったにもかかわらず、リミックス盤としては史上最高となる600万枚の売上を記録しました。

1999年6月、有志の友人たちと共にチャリティ・コンサート「マイケル・ジャクソン & フレンズ」を開催。収益金は赤十字社、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付されます。

同年、デビー・ロウと離婚。

2001年、史上最年少でロックの殿堂入りを果たしました。

同年9月、マイケル・ジャクソン 30周年記念ソロ・イヤーズを開催。ジャクソン5の再結成が行われたほか、次のアルバムの先行シングルである「ユー・ロック・マイ・ワールド」(全米10位、全英2位)も披露されました。

2001年、生前最後のスタジオ盤となる『インヴィンシブル』(英米1位)を発表。本作では、ロドニー・ジャーキンスをはじめとした若手プロデューサーの起用で時流に乗りつつも、自身の声を主体としたバラードの制作により精力が注がれた。全米1位は獲得したものの、最終的な売上枚数は1000万足らずと従来の作品に比べて伸び悩んでしまったことで、1990年代後半に始まった『ソニー戦争』と呼ばれるマイケルとソニーとの確執が表面化するようになります。

同月、アメリカ同時多発テロの被災者支援のため、ワシントンD.C.RFKスタジアムでチャリティコンサートを行います。新曲「ホワット・キャン・アイ・モア・ギブ」も披露され、約300万ドルの収益を集めます。

2002年4月、民主党全国委員会によるパーティーにて、「ヒール・ザ・ワールド」を含む3曲を披露。このコンサートが彼が踊った最後のコンサートとなりました。

2003年、ベスト盤『ナンバー・ワンズ』(全米13位、全英1位)を発売。先行シングルとして「ワン・モア・チャンス」(全米83位、全英5位)がカットされます。

同年、ギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑で逮捕されます。1993年の訴訟とは違って今回は刑事裁判にかけられ、マイケル・ジャクソン裁判として全世界の注目を受けることとなります。

2004年11月、ボックスセット『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』(全米154位)を発表。往年の代表曲に数々の未発表音源を織り混ぜたCD4枚と、92年のブカレスト公演の模様を映したDVD1枚が収録されました。

2005年6月、裁判のすべての起訴事実に関して無罪が言い渡されます。

同年、ライブDVD『ライヴ・イン・ブカレスト』を発売。なお、内容は『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』に収録されたものと同じもの。

2006年、訪日。無罪判決後初めて公の場に姿を表す。MTVジャパンのレジェンド・オブ・ミュージック・アワードを受賞しました。

2008年、企画盤『スリラー25周年記念盤』を発売。『スリラー』収録曲のリミックスが収められ、エイコン、カニエ・ウェスト、ウィル・アイ・アム、ファーギーなどが参加しました。

同年、生前最後となるベスト盤『キング・オブ・ポップ』(全英3位)を発売。このアルバムはマイケルの生誕50周年を記念して企画され、インターネット上で行われた投票で各国独自に収録曲が決められました。完全生産限定盤として発売され、全ての国のバージョンにボーナス・トラックとして「スリラー・メガミックス」が収録されました。

2009年、ロンドンにて記者会見を開き、O2アリーナで最後のツアー『THIS IS IT』を行うと発表。チケットが売り出されると4時間で50公演分が完売しました。

2009年、自宅にて心肺停止状態に陥り死去。主治医であったコンラッド・マーレーは過失致死罪の有罪判決を受けていました。

2009年10月、予定されていたO2アリーナでの公演のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』が公開。翌年発売されたBlu-rayは日本のオリコンにおいては歴代4位の売上を記録しています。

同年、Googleの検索ワードランキングで1位になりました。

2010年6月25日、一周忌であるこの日にドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔』が公開。

その後、死後に発売された遺作『MICHAEL』(全米3位、全英4位)により伝説に終止符を打ちました。2011年『イモータル』(全米24位、全英65位)、2014年『エスケイプ』(全米2位、全英1位)とコンピレーション・アルバムがリリースされました。

もう、亡くなって13年となるのですね。まだ、彼は生きているように思えてきます。これからも、名曲は伝説として歌われる事でしょう。



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女性シンガーの流行リ❣️

引用

ボブ・ディランやニール・ヤング、ジョン・デンバーなど、男性のシンガーは多くいますが、60年代において女性シンガーはほぼ皆無でした。流行の先端といえば、『ジョーン・バエズ』がいます。

1942年、ニューヨーク州のスタテン島にてメキシコ系の家に生まれます。彼女の一家は、クエーカー教徒でした。父親のアルバートは物理学者であり、軍需産業への協力を拒否し、それはジョーンの1960年代から現在まで続く公民権運動と反戦活動へ影響を及ぼしたした。妹のミミ・ファリーニャもフォーク歌手でした。

歌手としての経歴は、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルから始まった。1960年、ファースト・アルバム『ジョーン・バエズ』(全米20位、全英9位)をヴァンガード・レコードから発売。同作は「ドナドナ」「朝日のあたる家」などトラディショナルのフォーク・バラード、ブルースと哀歌が、彼女自身のギターによって演奏されたものした。

1931年発売の『ジョーン・バエズ 第2集』(全米21位)はゴールド・アルバムとなり、翌年リリースされた『イン・コンサート』(全米10位)も同じくゴールド・アルバムを獲得します。バエズは、1960年代初頭から中期に掛けて、アメリカにおけるルーツ・リバイバルの先頭に立ち、自らの聴衆に対し、ブレイク前のボブ・ディランを紹介し、また多くのアーティストは彼女を模倣しました。

1968年、ディランの作品のみを歌った2枚組のアルバム『ボブ・ディランを歌う』(全米30位)を発表。シングルカットされた「ラヴ・イズ・ジャスト・ア・フォー・レター・ワード」(全米86位)はバエズのコンサートの定番曲のひとつとなりました。

1969年、 ウッドストック・フェスティバルに出演。

1971年、アルバム『心、愛、祈り』(全米11位)をリリース。シングル「オールド・ディキシー・ダウン」は、ザ・バンドのカバーであったが、全米3位、全英6位と大ヒットを記録します。

1975年には、ジャス要素を取り入れた『ダイアモンド&ラスト』(全米11位』がヒットします。

2010年、スペイン政府より芸術文学の勲章を受勲し、Excelentisima Señoraの称号を得ます。

2017年、『ロックの殿堂』入りを果たしました。

2018年、10年ぶりのアルバム『Whistle Down the Wind』(全米88位)をリリース。この作品と、それに伴うワールドツアーが最後になると明言し、第一線からの引退を表明しました。

彼女の活躍は、後々のジョニ・ミッチェル、リンダ・ロンシュタット、キャロル・キングなどの女性シンガーを産む引き金となりました。



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本当のフォークの神様‼️

引用

日本の『フォークの神様』は、『岡林信康』でしたね。では、『世界的』にはとなると、やはり『ボブ・ディラン』がいます。

出生名、ロバート・アレン・ジマーマン。1941年、ミネソタ州ダルースに生まれます。ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマ。ジスルはイスラエルの愛称。祖父母はロシアのオデッサやリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーンは小規模だが絆の固いミネソタのアシュケムジム・ユダヤ人の一員でした。1946年、弟デイヴィッド誕生。1947年頃、一家はヒビングに転居します。

幼少時より家にあったピアノを独習。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」て育います。初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ボブもまたエルヴィス・プレスリーらにあこがれバンドを組んで演奏活動を始めます。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしています。1959年、ノースダコタ州ファーゴでエルストン・ガンという名でボビー・ウィーのバンドにピアノ弾きとして入り、彼のバックでステージを数回経験します。

1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなります。持っていたエレキ・ギターをアコースティック・ギターに交換。ミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時に『ボブ・ディラン』と名乗っています。ボブはロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取ったもので、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べています。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受けます。

1961年、大学を中退してニューヨークに出てきた彼は、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていたが、やがてハリー・ベラフォンテのバックで初めてプロのレコーディングを経験。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや、タイムズ紙で好意的に論評されたことをきっかけに、コロンビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され、1962年19にアルバム『ボブ・ディラン』(全英13位)でレコードデビューします。しかしその年の売上は5,000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスでした。

当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達、絵画、ミュージカル、レコード、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの新しい歌を書くようになります。「オンリー・アンディ・ホーボー〜トーキン・デビル」「ジョン・ブラウン」「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)のオムニバスに収録、ブラインド・ボーイ・グランドなる変名でクレジットされています。

アルバート・グロスマンがマネージメントに乗り出すと、幅広い活動が可能になり、ボブの楽曲を他のアーティストに提供することが考え出されます。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立。2枚目のアルバムのレコーディング途中で、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代します。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたため早々に回収されます。

1962年から1963年初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート 」に出演し、ロンドンのクラブで演奏。タウンホールでソロ・コンサート。初の全米中継であるテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演が決まるが、リハーサル後、極右政治団体のジョン・バーチ・ソサイエティを揶揄した曲「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」を省くよう指示されると、検閲的行為に怒ってスタジオを出てしまいます。同年、モンタレー・フォーク・フェスティバルに出演。タイム誌は「新たなるヒーロー」と紹介しれます。共演したジョーン・バエズは、以後積極的にディランの楽曲を歌い行動を共にすることが多くなります。

1963年、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(全米22位、全英1位)リリース。ミシシッピ州グリーンウッド選挙人登録集会で演奏。7月、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」が全米2位のヒットを記録します。同月、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演。ワシントン大行進で演奏。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてボブは次第に「フォークの貴公子」として多大な支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていきます。カーネギー・ホールでソロ・コンサート。1964年、アルバム『時代は変る』(全米20位、全英4位)リリース。しかし、急進化する運動や世間が抱いている大げさな自分のイメージに違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』(全米43位、全英8位、1964年)では、プロテストソングと呼べる曲はなくなっていました。フィルハーモニック・ホール「ハロウィーン・コンサート開催。

またこのころから、ボブの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってきた。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン」は全米で1位を獲得。「悲しきベイブ」「はげしい雨が降る」「くよくよするなよ」「イフ・ノット・フォー・ユー 」「いつまでも若く 」などもよくカバーされています。

1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響が、コンサートやレコーディングでも見られます。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期です。ただしビートルズのメンバーはハンブルク時代からドラッグ、セックス、ロックンロールを享受しており、ボブがビートルズにドラッグを教えたというのは謬説(あやまり)です。中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにしたサイケデリックな曲を多く残しました。中でも特に1960年代半ばのジョン・レノンはボブに傾倒し、作風から精神面、スタイルなどの面でボブに触発されました。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなります。

従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ、賛否両論を巻き起こしました。なかでも1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ボブはバック・バンドをしたがえて数曲演奏したが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けます。そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し、観客に「お前らなんて信じない」と言い放ち、過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を涙ながらに歌いあげた、という逸話が有名です。

一方、ボブ自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、1965年から1966年にかけて『ブリンキング・イット・オール・バック・ホーム』(全米6位、全英1位)、『追憶のハイウェイ61』(全米3位、全英4位)、『ブロンド・オン・ブランド』(全米9位、全英3位)とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表します。

このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでボブは従来以上に新しいファン層を多く獲得。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられています。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要でした。

中でもアル・クーパー、マイク・プルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、全米2位を記録。その他「寂しき4番街」が7位、「雨の日の女 」が最高2位、「アイ・ウォント・ユー」が20位、「女の如く」が33位を獲得するなど、次々チャートアクションを記録。しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいていわゆる「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに、さらに多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は遥かに大きいといえます。

1965年から1966年にかけて、後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスをしたがえてワールドツアーをこなす。既述のように、ここでも初期の弾き語りを求めるファンやメッセージ性の強いラディカルな曲を好む観客からのブーイング、リズムを乱すようにしむける不規則な手拍子、足踏みなどの妨害行為は収まらず、それに対し挑戦的にバンド演奏を繰り広げるボブの姿は『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレグ・シリーズ第4集』(全米31位、全英19位、1998年)、映画『イート・ザ・ドキュメント』などに収録されています。ロイヤル・アルバート・ホール』では、バンドが次曲の準備をしている最中に観客の一人が「ユダ(裏切り者)!」と叫ぶと、場内に賛同するような拍手やブーイング、さらには逆にそれを諌める声などが起こった場面が収められています。その中でディランは「I don’t believe you… You’re a liar!」と言い放つと、怒涛の迫力で「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏をはじめます。嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ボブはぶっきらぼうに「Thank you」と言い残し、そのままステージをあとにしました。

またこの頃にはLSDも使用するようになっており、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きな影響を受け、特にボブは声が大きく変化します。

この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ」のアル・クーパー、マイク・プルームフィールドによるセッションなどがあります。「イート・ザ・ドキュメント」の中でジョン・レノンと彼のリムジンの中で会話を収録しようとしたが、なぜか酔っていたボブはまともな会話が出来ず呆れ失望したジョンは酷いイヤミを言うようになってしまい、最後ボブはみっともない醜態を見せ、それまでボブに傾倒していたジョンに決別を決意させてしまう結果になります。その映像はカットされたがビートルズの海賊盤のCDやビデオやDVDに収録されています。

その後は、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』(全米2位、全英1位、1967年)、『ナッシュヴィル・スカイライン』(全米3位、全英1位)、『ジョン・ウィズリー〜』からは、「見張り塔からずっと」が、ジミ・ヘンドリックスのカバーがヒットします。1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男」に差し替えられるということがありました。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ 」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなります。ボブにとって、最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル〜』はまさにそれカントリーといっていいアルバムです。このアルバムでの澄んだ歌声についてボブは、煙草を止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声の多重録音一人二重唱をやっています。後に自身と同じくミュージシャンとなる息子、ジェイコブ・ディランを授かっています。

1970年6月、『セルフ・ポートレイト』(全米4位、全英1位)を発表。カントリー、MOR、インストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあったがセールスは好調でした。その直後、レコーディング拠点をナッシュビルからニューヨークに戻し、『新しい夜明け』(全米7位、全英1位)を発表。

その後、ボブはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、ジョージ・ハリスン、レオン・ラッセル、ハッピー・トラウム、アール・スクラッグス、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン、ダグ・サムらとセッションしたこと以外は沈黙を守ります。

1971年発表の『グレーテスト・ヒッツ第2集』(全米14位、全英12位)にはボブ自身のリリース条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となります。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン」(全米33位)を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグ・バンド・バージョン、B面にはアコースティック・バージョンを収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大でした。

1973年、ビリー・ザ・キッドを題材にした映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉」(全米12位)はボブの曲の中でもカバーするアーティストが多い一曲となりました。

1974年、かつてのバック・バンドだったザ・バンドを従えてレコーディングした『プラネット・ウェイヴス』を発表。初の全米1位アルバムとなるります。引き続き、ザ・バンドと共に全米ツアーを行った。彼らとの共演は1968年のウディ・ガスリー追悼コンサート、1969年ワイト島音楽祭、1971年大晦日のザ・バンドコンサートのゲスト以来、5回目でした。しかし、今やスターダムにのしあがったザ・バンドとの力関係は対等になり、バンドサウンドとしては完璧で非の打ち所のないものながら、ボブ自身は退屈さをも漏らしていたようである。このツアーの模様はライブ盤『偉大なる復活』(全米3位、全英8位)に収録されました。

翌1975年には、『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドと『ナッシュヴィル・スカイライン』の透明感を併せ持つコロムビア復帰作『血の轍』を発表。内省的で沈鬱な内容にも関わらず、これも全米1位(全英4位)を獲得。ボブは当時、マリー・トラヴァースのラジオ番組で「なぜ、このような暗いアルバムが好かれているのか理由がわからない」と述べています。この作品は、当初ニューヨークで録音されてプレス盤も出回ったが、ボブ本人がリリース直前にストップをかけ、ミネアポリスで半数を取り直しました。録音にはミック・ジャガーが立ち会います。ミックはオルガンも弾いたそうだが、採用されたかは不明。ニューヨーク音源からは「リリー、ローズマリーとハートのジャック」だけが日の目を見ていません。

また1975年と1976年の2つの時期にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と銘打ったツアーを行ないます。これは事前の宣伝を行わず、抜き打ち的にアメリカ各地の都市を訪れて小規模のホールでコンサートを行なうというもので、かつてのフーテナニーのリバイバルないし、巨大産業化したロック・ミュージックに対する原点回帰の姿勢を提示します。このツアーでは、ボブ自身が監督をつとめた映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われました。このツアーの模様は『ローリング・サンダー・レヴュー(ブートレッグ・シリーズ第5集』(全米56位、全英69位、2002年)、『激しい雨』(全米17位、全英3位、1976年)、映画『レナルド&クララ』、テレビ番組『Hard Rain』などに収録されている。このツアーメンバーを主として、ツアー開始直前に録音されたアルバム『欲望』が1976年初頭に発表され、全米1位(全英3位)を獲得するとともに自身最大のセールスを記録しました。

1979年発表の『スロー、トレイン・カミング』(全米3位、全英2位)はボブ流のゴスペルで占められていました。このアルバムはマッスルショウルズの専属スタジオミュージシャン達の手により制作された、ボブ初の“プロフェッショナル”なアルバムです。このアルバムは旧来のファン離れを招いたものの、売れに売れてグラミー賞も獲得。本作収録曲の「ガッタ・サーヴ・サンバディ」はボブ最後のトップ40シングルでした。シングルB面の “Trouble in Mind” はアルバム未収録。また、未発表の “Ain’t No Man Righteous, No Not One” もレゲエ・グループのJah Mallaにカバーされるなど、この時期の曲は比較的人気が高くトリビュート・アルバムも作られています。

前述の『スロー・トレイン・カミング』と1980年発表の『セイヴド』(全米24位、全英3位)、1981年発表の『ショット・オブ・ラブ』(全米33位、全英6位)は「ゴスペル三部作」と呼ばれています。この時期のコンサートでは当初、これらの作品群からの曲しか演奏せず、批判を浴び動員も伸び悩びました。その結果を考慮して後期のツアーでは、初期のヒット曲も織り交ぜた折衷版として妥協の姿勢も見せます。ボブはこの当時のサウンドにはかなり誇りを持っていたようで、ライブアルバムの発表を望んだが、コロムビアに拒絶されます。『ショット・オブ・ラブ』のアルバム未収録曲としては “Let It Be Me” 、「デッド・マン、デッド・マン (“Dead Man, Dead Man”, Live Version) 」があります。後者は1989年「ポリティカル・ワールド (“Political World”) 」のカップリングで発表された後、『Live 1961-2000』に再録。1981年にはそれまでの代表曲、未発表曲を網羅したコンピレーションアルバム『バイオグラフ』(全米33位)の企画が持ち上がる。発売には4年を要したため、1982年以降の曲は収録されていません。

ソニー・ミュージックとクリスチャン・トゥディ(2016/10月)が伝えたところによれば、ディランは83年の「インフィデル」からユダヤ教に回帰しています。確かにダイアー・スオレイツのマーク・ノップラーをプロデューサーに迎えて製作した『インフィデル』(全米20位、全英9位、1983年)はキリスト教色は薄れている。ボブが21世紀に入ってからも福音派(新興宗教的キリスト教)を信仰しているという誤りは、アル・カシャというキリスト教関係者による希望的憶測に過ぎませんでした。ノップラーは制作途中で自身のワールドツアーに出てしまい、残されたテープをボブ自身がミックスしたこのアルバムにはノップラーも含め、選曲、アレンジなどに不満の声もあります。このアルバムからのシングル「スウィートハート 」は全米55位でした。

1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のブリッジ部分でリード・ボーカルをとりました。また同年には大規模チャリティー・コンサートの「ライブエイド」に、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ、ロン・ウッドとともにトリで出演。1988年にはロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、トム・ペティと共に覆面インスタント・ユニット、『トラヴェリング・ウィルベリーズ』を結成し、アルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズVol.1』(全米3位、全英16位)をリリース。ツアーも予定されていたが、ロイ・オービソンが心臓発作で死去したため、ツアーは幻に終わります。その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行という噂があったが、デル・シャノンは1990年に拳銃自殺してしまいます。この時期のバンドに関しては未だに詳細不明です。結局、残された4人で2枚目のアルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズVol.3』(全米11位、全英14位、1990年)をリリースし、バンドは自然消滅しました。

1997年に再び訪日。5月に心臓発作で倒れ、一時は危ぶまれたものの快癒し、復帰。この時ボブは「もうすぐエルヴィスに会うのかと本気で思った。」と発言しています。その直後、三度ラノワと組み、7年ぶりにオリジナル・アルバムを発表することが明らかになり、新曲はもう聴けないと思っていたファンを狂喜させました。これに関し、自分のライブに若いファンが訪れているのを知ったボブが、彼らの為にアルバムを作ろうと思った、と述べています。このアルバム『タイム・アウト・オブ・マインド』は18年ぶりに全米トップ10に入り(英米10位)、グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞しました。同年には、息子であり、アメリカのロック・バンド、ザ・ウォールフラワーズのフロントマンでもあるジェイコブ・ディランもグラミー賞を受賞しており、親子揃っての受賞となりました。

1997年9月、イタリアのボローニャでおこなわれたカトリック教会のイベント、世界聖体大会で教皇ヨハネ・パウロ2世を前で演奏。教皇は2万人の会衆に対して「風に吹かれて」の歌詞をモチーフとした説教を行います。ホワイトハウスにてケネディ・センター名誉賞を受賞。当時のアメリカのビル・クリントン大統領は、「ボブほどの大きな衝撃を与えた同世代のクリエイティヴ・アーティストはおそらくほかにいない。」と献辞を贈りました1999年、ポール・サイモンとアメリカ国内ツアー。ビッグ・ネームふたりの共演に、チケットは高騰します。

現在も、現役で活躍中。2020年には、現在の最新作『ラフ&ロウディ・ウェイズ』(英米3位)をリリースしています。



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こちらのグラム・ロックも人気だった‼️

引用

『グラム・ロック』=『T.REX』というイメージの方は、多いと思います。しかし、彼ら以外にも、人気のバンドはいます。『スウィート』です。

1968年、ウェインライツ・ジェントルメンというバンドの中心人物だったヴォーカルのブライアン・コノリーと、ドラムスのミック・タッカーが同バンドを脱退し、ジ・アーミィというバンドにいたベーシストのスティーヴ・プリーストと、ギタリストのフランク・トービィとともにバンドを結成するが、直後にフランク・トービィが脱退、後任のギタリストとしてアンディ・スコットが加わり、スウィートの結成に至たります。

1968年、フォンタナ・レーベルよりシングル「スローモーション」でデビューするが、商業的に成功せず、直後にEMI傘下のパーロフォン・レーペルに移籍します。ここで3枚のシングルをリリースしたものの、これも商業的な成功には至らず、1971年、RCAに移籍しました。

ヒットメーカーのマイク・チャップマンとニッキー・チンが作詞作曲した「ファニー・ファニー(Funny Funny)」がイギリスのチャートで13位まで上昇、さらに次にリリースしたシングル「コ・コ(Co-Co)」がイギリスで2位、アメリカでも99位に初ランクされます。その後もチャップマンとチンが共作した「リトル・ウィリー」(英4位・米3位)「ブロック・バスター」(英1位・米73位)「ボールルーム・ブリッツ」(英2位・米5位)などリリースするシングルの多くがヒットし、スウィートはイギリスのポップ・ロック・シーンにおいて地歩を築いていきます。ブロック・バスター」は日本でも小ヒットしました。

しかし、1974年の夏頃には、スウィートはチャップマンとチンによるコントロールから離れようと思うようになります。そして、1975年にはメンバー4人が共作したオリジナル曲「フォックス・オン・ザ・ラン」が全英2位・全米5位の大ヒットを記録して、西ドイツのチャートでは1位を獲得し、スウィートのシングルとしては「リトル・ウィリー」以来のミリオンセラーとなった。続く「アクション」(英15位・米20位)も、やはりメンバー4人の共作で、この曲は後にデフ・レパード等にカヴァーされています。1976年に発表されたスタジオ・アルバム『甘い誘惑』には、チャップマンとチンの楽曲は含まれず、収録曲のほとんどがメンバー4人の共作で固められました。

1978年に「ラブ・イズ・ライク・オクシジェン」が全英9位のヒットとなるが、その後は全英シングルチャートでトップ100入りすることができず、グループはスランプ状態に陥ります。1979年には、ブライアン・コノリーが脱退してソロ活動を開始。スウィートは残った3人で活動を継続したが、ヒットに恵まれず、1981年に解散しました。

1985年、スウィートの代表曲をメドレーにしたダンス・シングル「イッツ・ザ・スウィート・ミックス」が全英45位に達して、その後スウィートが再結成されますが、1991年に再び解散。

1993年に「アンディ・スコット・スイート」名義で再々結成され、活動を継続します。また、2008年にはスティーヴ・プリーストもロサンゼルスを拠点としてThe Sweet名義での活動を開始しました。

2012年、アンディ・スコット以下、ピート・リンカーン(リード・ボーカル、ベース)、トニー・オホーラ(ギター、キーボード、ボーカル)、ブルース・ビスランド(ドラムス、ボーカル)というラインナップで、カヴァーとセルフ・カヴァーから成るアルバム『New York Connection』を発表しました。

2020年には、現在での最新作『Isolation Boulevard』を発表しています。

バンドは、今でも活動中。現役バリバリです。



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