不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

悲劇の天才

引用

1990年代前半は、グランジ(アメリカ)、マンチェスター・サウンド(イギリス)などが、ブームであり、シンガーソングライターは、下火でした。そこに、ひとりのアーティストが現れます。『ジェフ・バックリィ』がです。

父親は1960年に活躍していた歌手、ティム・バックリィ。8歳の頃に一度だけ会って以降は、麻薬の過剰摂取によるティムの死去まで会うことは無かったと言われています。母親は、マリー・グーバート。誕生時、ジェフリー・スコット・バックリィと名付けられたが、後に母親がロン・ムーアヘッドと再婚し(この結婚生活は、2年間しか続かなかった)、スコッティ・ムーアヘッドとして育てられます。父親の死後、バックリィ姓を継ぐことを決め、更に元々ミドルネームであった『スコット』から本来の『ジェフ』を名乗るようになり、『ジェフ・バックリィ』となります。

母親がピアニスト兼チェリストであったため、「音楽的には非常に恵まれた環境にあった」とバックリィは述懐しています。初めて買ったアルバムはレッド・ツェッペリンの『フィジカル・グラフィティ』で、キッスなども幼少の頃のお気に入りでした。高校に入る頃には、プログレッシブ・ロックやジャス、フュージョンを愛好する様になり、高校ではジャスバンドに所属していました。

高校卒業後、ハリウッドに移住し、音楽学校『ミュージシャンズ・インスティテュート(MI)』に入学。1年の課程を修了。その後、バックリィはホテルで働きながら、様々なバンドでプレイすることとなるものの、芽は出ず、また後に知られることになる美声も、このときの彼にはせいぜいがコーラス位しか歌う機会がなく、認知されることはありませんでした。

1990年にチャンスを求めてニューヨーク入りするも、思ったほどの機会は与えられず、その年のうちにロサンゼルスへと帰ってきます。帰省後、彼はレコード会社に自分を直接売り込むため、父親の元マネージャーに連絡を取り、デモテープを作成。『バビロン・ダンジョン・セッションズ』と名づけられた彼の初めてのデモテープは、当初脚光を浴びることはありませんでした。

その後、ニューヨークのティム・バックリィのトリビュート・コンサートに「ティム・バックリィの息子」としてコンサートに出演。その日のコンサートは、彼のキャリアにとって大きな一歩となります。結果として、彼に成功するきっかけを与えたのが、幼少の頃一度会っただけの、葬式にも出席しなかった父親であったことは大いなる皮肉でした。

後にバックリィは、クラブなどでライブ活動を展開、徐々にその名を浸透させていきます。1992年、ついにコロンビア・レコードと契約。当時、ライブ活動の拠点としていたニューヨークのイースト・ヴィレッジにあるクラブ「Sin-é」での弾き語り演奏を収録した『Live at Sin-é』を1993年に発表します。

1993年の夏から『グレース』の製作を開始、1994年に『グレース』(全米149位、全英31位)発表となります。当初の売れ行きはさほど芳しくはなかったが、ジミー・ペイジやロバート・プラント、エルトン・ジョンなど各界著名人から高評価を受け、その後押しを受けてセールスも伸びていきます。

1995年には、来日公演を行いました。その美しい歌声から「天使の歌声」と称され、また類いまれなギターの演奏テクニックから、メディアの注目を集めるようになります。

1997年夜にミシシッピ川で泳いでいた際に溺死。彼は友人とリブとビールの食事をした後、ドライブに出かけブーツを履いた状態で川に入りレッド・ツェッペリンの「Whole Lotta Love」を歌いながら泳いでいたが、同行者が目を離した瞬間に姿が消えました。地元警察らによって捜索活動が行われたが発見できず、5日後に地元住民が遺体を発見されます。当時、セカンド・アルバムの製作中でした。

溺れた当時は酒を飲んではいたが、ドラッグを使用した形跡や遺書等は無く、事故死であろうとされており、遺体は、5日後に発見されます。

後に、彼が双極性障害(躁鬱病)を患っていたことを親しい者に洩らしていたことがわかり、自殺説も囁かれたが、普段のジェフ・バックリィは物真似や冗談を言い、漫画のようなユーモラスなキャラクターになり切ることがありました。ブーツを履いたまま川に飛び込んで「Whole Lotta Love」を歌いながら泳ぐという突飛な行動は普段の彼にとって特別珍しいものではなかったといいます。

スタジオ・アルバムは1作だけだが、死後に製作途中だったアルバムの楽曲や未発表曲、ライブ音源などが現在も発表されています。2007年にシングルカットされた「ハレルヤ」が全英シングルチャートで2位を獲得しました。

亡くなった年は、27歳。奇しくも、グランジの帝王『ニルヴァーナ』のカート・コーバーンと同じ年齢での死でした。1998年リリースの、2作目(コンピレーション・アルバム)『素猫』が全英7位、全米64位を記録。現在も彼は、伝説として語り継がれています。



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イケメン2人に他2人

引用

アメリカでハード・ロックといえば、『エアロスミス』『キッス』などがいますが、アイドル的な人気を持ったハード・ロックバンドもいます。それが、『チープ・トリック』です。

リック・ニールセンとトム・ピーターソンは、Fuseというバンドのメンバーとして1969にメジャー・デビューするが、商業的成功には恵まれず、一時はフィラデルフィアに拠点を移します。その後、リックとトムはイリノイ州に戻り、バン・E・カルロスやランディ・ホーガンと共にチープ・トリックを結成。しかし、ランディは間もなく脱退し、後任としてロビン・ザンダーが加入してラインナップが固まります。

1977年に、デビュー・アルバム『チープ・トリック』(全米207位)発表。しかし、本国アメリカでは成功せず、その後2枚のアルバムもヒットしなかったが、日本では人気が高まっていき、1978年には、初の日本公演を行います。その時の模様を収録したライヴ・アルバム『チープ・トリックat武道館』(1978年)は、当初は日本限定企画だったが、本国アメリカで日本からの輸入盤が売れ出したため、1979年に本国でもリリースされ、バンドにとって初の全米トップ10入り(最高4位)を果たします。また、このアルバムからシングル・カットされた「甘い罠」は、全米で7位まで上昇し、バンドにとって初の大ヒット・シングルとなりました。

1980年、ロビン以外の3人は、ジョン・レノン「アイム・ルージング・ユー」のレコーディング・セッションに参加。チープ・トリックが参加したヴァージョンは、ジョンのアルバム『ダブル・ファンタジー』には収録されず、後にボックス・セット『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されました。同年発表のアルバム『オール・シュック・アップ』(全米24位)は、ビートルズとの仕事で知られるジョージ・マーティンがプロデュースを担当。しかし、同作を最後にトムが脱退。バンドはピート・コミタを迎えてツアーを行い、その後ピートに代わってジョン・ブラントが加入。トッド・ラングレンがプロデュースを担当した『ネクスト・ポジション・プリーズ』(全米65位:1983年)等の意欲作を発表するが、セールス的には落ち込んでいきます。1986年には、映画『トップガン』のサウンドトラックに「Mighty Wings」を提供。

1987年、トムがバンドに復帰。翌年には、アルバム『永遠の愛の炎』が全米16位のヒットとなり、同作からのシングル「The Flame」は、バンドにとって初の全米1位シングルとなりました。第2弾シングルのエルヴィス・プレスリーのカバー「冷たくしないで」は全米4位。

その後、バンドはワーナー・ブラザース・レコードに移籍し、テッド・テンプルマンのプロデュースによる『蒼い衝動』(全米127位:1994年)を発表するが、同作は商業的には成功せず、バンドはほどなくワーナー・ブラザースを離れます。以後、バンドはライヴ中心の活動に移行し、サブ・ポップからシングル「Baby Talk」をリリースした後は、Red AntやBig3といったインディーズ・レーベル(日本ではビクターエンタテインメント)から作品発表を継続。

2003年来日しサマーソニック03に出演。競演していた多くのパワーポップ系若手バンドからリスペクトを集めます。

2008年、78年のアルバム「at 武道館」発売30周年を記念し、4月24日に再び日本武道館で公演。

2009年ラスベガスにて2週間にわたり、ビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 」全曲を演奏するショー、Sgt. Pepper Liveを開催。フルオーケストラと競演、ジョーン・オズボーンなどがゲスト参加しました。

2010年従来より身体的な問題が伝えられていたバン・E・カルロスについて、バンドは、バン・E がメンバーとして籍は残すもののツアーには参加しないことを発表。以降、リック・ニールセンの息子ダックスがツアードラマーとして迎えられた。(その後2015年にバン・Eはインタビューにて、ツアーからの離脱はスケジュールやセットリストの長さの意見の食い違いに起因する、ロビン・ザンダーとの不仲によるものであったことを明かしている。)

2011年、オタワ・ブルースフェスティバル(カナダ)での演奏中、強風のためステージが大崩落する事故が発生。メンバーは怪我を免れ、以降も精力的にツアーを継続。

2012年より、出身地ロックフォードのBurpee自然史博物館にて、リック・ニールセンのテーマ展「Rick’s Picks: A Lifelong Affair With Guitars & Music」開催。コレクターとしても知られるリックの所有する膨大なギターやトムのベース、様々な関連資料が展示されます。

2013年バン・E・カルロスが、自身がメンバーであるにも関わらず新作のレコーディングへの参加が認められず、得られるはずの報酬も支払われていないとしてバンドを相手取った訴訟を起こします。残るメンバー3人はバン・Eが既にメンバーではないと主張して対抗訴訟を起こすが裁判所はこれを棄却。同年8月には来日し、10日、11日サマーソニック2013出演。

2015年、バン・E・カルロスが起こした訴訟が結審。2月下旬ロビンから、バン・Eが現在もバンドのメンバーであることを認める一方で、今後ツアーやレコーディングにはバン・Eが参加しない旨がアナウンスされました。同年、ディープ・パープル、シカゴ等とともに、翌2016年付での『ロックの殿堂』入りが発表されます。なお、2016年、行われた殿堂入りセレモニーにはバン・Eも出席し、6年ぶりの共演を披露しています。

2016年、ダックス・ニールセンがレコーディングに参加したニューアルバム『バン・ズーム・クレイジー・ハロー』(全米31位)をBig Machine Label Groupより発表されました。

そして、2021年には新作『イン・アナザー・ワールド』(全米142位)をリリース。

意外にも、ブレイクは日本からだと言われています。これからも、素晴らしいサウンドを届けて欲しいものです。



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ヴィジュアル・バンドの元祖

引用

1990年代に、日本で巻き起こったヴィジュアル系ブーム。それは、アメリカのあるバンドに起源があります。それが、『KISS』です。

1970、ニューヨーク、ミュージシャンとして契約を目指すジーン・シモンズの元に旧知のポール・スタンレーが加わって「ウィキッド・レスター」という5人組ロックバンドが誕生します。バンドはデビューを目指していたが、結局ウィキッド・レスター名義のライヴは2回しか行われませんでした。

1972年にアルバムを1枚製作するも、契約する予定だった「エピック・レコード」に拒否され、お蔵入りとなります。バンドを脱退するメンバーも現れ、そのままの形でウィキッド・レスターを継続することが困難となります。

新しいバンドでよりストレートなハードロックへの路線変更を決意したシモンズとスタンレーは自らバンドを脱退、ローリング・ストーン誌に告知を出していたドラマーのピーター・クリスに連絡し、クリスが加入。しばらく3人でひたすら練習していたが、この頃から他のバンドとの差別化を図るために顔にメイクをしてみたりするようになります。

シモンズとスタンレーの2人は、サウンド面を強化するためギタリスト募集のオーディションを行い、リードギタリストとしてエース・プレイリーが加入。1973年にスタンレーの発案によりバンド名を「Kiss」に改名。クリスが以前在籍していたバンド「リップス」からヒントを得たと言われています。現在に至る有名なバンドロゴはフレーリーがデザインし、スタンレーが手直しをして完成しました。

1974年、アルバム『キッス・ファースト 地獄からの使者』(全米87位)でレコードデビュー。強烈なインパクトを与えるメンバー写真のジャケットこそ注目を受けたが、当初の人気は奮わなかった。キッスとして初のツアーを開始し、初めていくつかのTVに出演、あるライヴ番組ではシモンズの火吹きの他に、クリスはドラムセットを破壊・投げ落とし、スタンレーは現在も行われているギターを地面に叩き付け破壊する強烈なパフォーマンスを披露します。しかし同年発表された2作目のアルバム『地獄のさけび』(全米100位)も、鳴かず飛ばずの結果でした。

レコードセールスは思ったように伸びず悩んだキッスであるが、ライヴでは徐々に力を付け始め、1975年発売のアルバム『地獄の接吻』(全米32位)発表に合わせて大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを行います。デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり当地での人気が爆発します。当時、小さな田舎町をツアーで回っていたメンバーは、デトロイトでの人気を知るや、それ以降のツアーを全てキャンセル、当地での単独コンサートを行うことを決定します。

そしてデトロイト・コボホールにおけるコンサートを収録したライヴアルバム『地獄の狂獣 キッス・ライブ』が、2枚組というハンディがありながら全米チャート9位に入るヒットを記録し、一躍人気バンドとなりまさす。日本では、これまでのオリジナルアルバムを一斉発売し、主要マーケットの一つとなりました。

翌1976年、ボブ・エズリンをプロデューサーに迎えて制作した『地獄の軍団』(全米11位)をリリース。同アルバムからのシングル『ベス』が大ヒット(全米7位)します。初の世界ツアーでもあるDESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録しました。

同年、アルバム『地獄のロックファイアー』(全米11位)発売。同アルバムからのシングル「ハード・ラック・ウーマン」がヒットします。かつて、ボブ・シーガーの前座を担当していたキッスが立場を逆転し、ボブ・シーガーがキッスの前座をするという現象まで発生しました。

1977年、アルバム『ラブ・ガン』(全米4位)、『アライブII』(全米7位:1977年のライヴと5曲のスタジオ新録曲を収録)発売。『ラヴ・ガン』は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品歴代最大の売上を記録。『アライヴII』からのシングルカットは、フレーリーが歌う「ロケット・ライド」がヒット。この頃になるとキッスは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行されたす。

日本においては1970年後半を代表するバンドとしてエアロスミス、クイーンと共に「ミュージック・ライフ」誌などで特集が組まれ、大人気であったが、このころからバンド内部の衝突も起こりはじめました。

1978年9月、各メンバーのソロアルバムが同時リリース。フレーリーのソロアルバムに収録された「ニューヨーク・グルーヴ」(ラヴ・バラードの曲のカヴァー)がヒット。ソロ・アルバムで自信をつけたフレーリーは、さらにグループからの独立を志向し始めます。

同年、リミックスを施した初のベストアルバムである、『ダブル・プラチナム』(全米22位)発売。

1979年、グループとしては2年ぶりのオリジナルアルバム『地獄からの脱出』(全米9位)発売。ソロアルバムの延長のような作品で、スタジオでメンバー全員が顔を合わせることは無かった。スタンレーがデズモンド・チャイルを見出し共作したシングル「ラヴィン・ユー・ベイビー」(全米11位)は、2人が当時のマシンミュージック全盛のディスコ・ブームに一石を投じようと意気投合して作ったディスコ調ロックで、同ナンバーは世界中で大ヒットを記録しました。しかし合わせて行われたDYNASTY TOURの観客動員は伸び悩み、やがてキッスは混乱と低迷の時代を迎える事となります。

1980年、薬物依存や人間関係・体力的な問題などにより、バンド継続が不可能であると判断したシモンズ・スタンレー・フレーリーの3人とマネージメントは、クリスの解雇を決定。その直後に、アルバム『仮面の正体』(全米35位)製作開始(同アルバム収録曲「シャンディ」のPVにはクリスは出演)。なお、このアルバムとDynastyでクリスの代わりにドラムを叩いたのはアントン・フィグでした。

翌81年、ニュー・アルバムの制作を開始。当初はこれまでよりもハードなロック・アルバムの予定であったが、制作途中からマネージャーの意向により路線を変更。シモンズが以前から温めていた構想を基に、グループの歴史上唯一のコンセプトアルバム『〜エルダー〜魔界大決戦』(全米75位)を完成しリリースするも、またしても不評をかいます。

1982年、ハード&ヘヴィへの原点回帰を打ち出したアルバム『暗黒の神話』(全米45位)発売。このアルバムのジャケット写真と収録曲の「勇士の叫び」のPV、同年発売の日本とオーストラリア限定ベスト盤『キッス・キラーズ』(全英42位)にはフレーリーの姿はあるが、バンドに興味が持てなくなった彼はレコーディングには一切関わっていません(飲酒と薬物の影響によるとも)。フレーリーはジャケット写真の撮影とTV出演の直後に脱退しています(契約の関係でしばらく伏せられていた)。

翌1983年、エース・フレーリーの脱退が公式に報じらます。だがツアー契約があったために急遽ギタリストが必要になり、ヴィニー・ヴィンセントが2代目リードギタリストとして加入。アメリカ本国や日本での人気が低迷していた中、反対に人気が最絶頂だったブラジルのリオ公演で過去最大の13万人を動員します。

ここでスタンレーとシモンズは、これまで秘密として隠し通してきた素顔を見せることを決心し、アルバム『地獄の回想』(全米24位)のジャケットで素顔を公開します。前作『暗黒の神話』のヘヴィな路線を継承しつつ、よりシャープな演奏を披露したアルバムの内容や、素顔公表による話題、当時爆発直前であった世界的なヘヴィ・メタルブーム(LAメタル含む)により、バンドは再び上昇気流に乗り始めました。

しかしシモンズとスタンレーは、協調性がなく自己顕示欲の強いヴィンセントを解雇することを決定(後任が決まらず、ツアーのキャンセルもできなかったため、ツアー終了まではグループに同行)。

1984年、かつて『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』をレコーディングしたデトロイト・コボ・ホールでライヴ撮影を行い、TVやラジオで放送した後、『アニマライズ・ライヴ』(全米というタイトルでライヴビデオをリリース。このライヴでもブルース・キューリックがプレイしており、ツアーの初日からステージに上がれなかったマーク・セント・ジョンは3公演のみ参加(うち1公演では、スタンレー、キューリック、ジョンのトリプルギター編成で演奏している)。結局、マーク・セント・ジョンは加入からわずか8カ月で脱退さします。(前述のライヴビデオの撮影日に、事実上脱退していた)。

1985年。ブルース・キューリックが正式加入し、アルバム『アサイラム』(全米20位)発売。そして、1980年代はこのメンバーで定着しました。

1987年、ハートなどを手掛けたロン・ネヴィソンをプロデュースに迎え、メタル色を若干薄めてシンセサイザーを導入した作品『クレイジー・ナイト』(全米18位)発売。大ヒットしてプラチナム・アルバムを記録、イギリスではチャート4位になったが、プリプロではもう少しハードな音だったらしく、メンバーはあまり音の仕上がりには満足していませんでした。

1986年、原点回帰を目標にしたストレートなロックンロール・アルバム『ホット・イン・ザ・ジェイド』(全米29位)発売。スタンレーがマイケル・ボルトンと共作した「Forever」は全米8位を記録する大ヒットバラードとなりました。(これは「ベス」以来初のTOP10シングル)。また、この頃から楽曲のキーが元に戻らります。

しかしツアー観客動員数は若干減り、盛り返した人気は一段落しますが、その一方、カーは心臓血管に悪性腫瘍が見つかり入院してしまい、そのまま死去します。

1996年、MTVアンプラグド・ライヴの模様を収めたライヴアルバムとライヴビデオ『停電(地獄の再会)〜Kiss アンプラグド』(全米15位)を発売。

6月、シモンズ、スタンレー、フレーリー、クリスのラインナップで13年振りにメイクを施して行う大規模なリユニオン・ワールド・ツアー「ALIVE/WORLD WIDE 96-97」がスタート。

オリジナルメンバーでのアルバム発売が望まれる中、1998年に『サイコ・サーカス』発売。全米初登場3位にランクインします。そして、同アルバム名を掲げたPSYCHO CIRCUS TOURは無事成功を収めました。(しかしスタンレーによるとオリジナルメンバーでのレコーディングは大変に困難な状況であり、その精神的苦痛から2009年になるまでKISSとして新作を作ることはなかった)。 

2008年、結成35周年ツアー・ALIVE/35 WORLD TOUR開始。オーストラリアツアーではKISSTERIAというドキュメンタリー風ドラマを撮影します。

ツアー前半では、2代目“スペースマン”ことセイヤーが、初代であるフレーリーの持ち歌「ショック・ミー」で初めてリードボーカルをとる。

同年8月、現在のメンバー、シモンズ、スタンレー、シンガー、セイヤーによって新たに録音されたベスト盤『地獄烈伝』が日本限定発売。

2009年、ALIVE/35 WORLD TOURを続けながら、11年ぶりのスタジオ・アルバムである『ソニック・ブーム』を発売、バンド史上最高位となる全米初登場2位を記録しました。

初期のKISSコンセプトのように、メンバー全員がそれぞれリード・ボーカルをとる曲が含まれ、またスタンレーとシモンズの共作も復活。しかし日本ではレコード会社との契約がなされておらず、『ソニック・ブーム』の日本盤は未だ発売されていません

2018年、来年度からのワールドツアーをもっての活動停止を発表。2021年の地元ニューヨーク公演が最後になると伝えられます。

2019年ファイナルツアー「END OF THE ROAD WORLD TOUR」を開始。年末の来日ツアーが、日本では最後のパフォーマンスとなりました。

2020年、世界的に流行した新型コロナウイルス感染症拡大の余波を受けてツアーのスケジュールが変更され、最終公演は2022年以降に持ち越しとなりました。



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ドイツの蠍団‼️

引用

『メタルと言えば、ドイツ』という方多いのでは、ないでしょうか。やはり、そうなのです。ドイツには、『スコーピオンズ』というメタル・バンドがいます。

1965年にルドルフ・シェンカーが、バンドを結成。メンバーは、ルドルフ・シェンカー(vo.g.)とカール・ハインツ・ヴォルマー(g.)、ウォルフガング・ズィオニー(ds.)、ヨアヒム・キルヒホッフ(b.)の4人組。1971年初頭に、解散したバンド、コペルニクスのマイケル・シェンカー(g.)とクラウス・マイネ(vo.)とアチィム(b.)を加え、第1期スコーピオンズは6人構成となります。その後、アチィム(b.)と交代したローザー・ハインベルグ(b.)でのラインナップで、ドイツのメトロノーム傘下のブレイン・レコードと契約。

1972年に、コニー・プランクのプロデュースで、デビュー・アルバム『恐怖の蠍団 – Lonesome Crow – 』を発売。十代のマイケル・シェンカーのギタープレイを大きくフィーチュアしていた。同年ユーライア・ヒープ、ロリー・ギャラガー、UFOなどのサポーティング・アクトとして、西ドイツ国内ツアーを行います。サーキット中に、UFOのミック・ボルトンが失踪し、急遽代役ギタリストを務めたマイケル・シェンカー(g.)がUFOに移籍。1973年、ハインベルグ(b.)とズィオニー(ds.)が脱退。一時活動停止を余儀なくされます。

1974年、オーディションにより、ウルリッヒ・ロート(g.)とフランシス・ブッフホルツ(b.)、ヨルゲン・ローゼンタル(ds.)がメンバーに決定。RCAレコードと新たに契約し、11月に、移籍第1弾となるアルバム『電撃の蠍団 – Fly To The Rainbow – 』を発表。セルフ・プロデュースの本作は、ロートのギターをフィーチャーしたハード・ロック色が濃く、以降のサウンドの基礎となる作品となります。1年半ぶりのツアーで、夏のドイツ国内をツアー中に、ローゼンタルが脱退。ルディ・レナーズ(ds.)を加えて、ベルギーとフランスで国外ツアーを行います。その後、スウィートのサポーティング・アクトで、北欧をツアー。この時、後に6人目のメンバーと呼ばれ、長年作品を手掛けることになるプロデューサー、ディーター・ダークスが自らプロデュースを申し出て、新作のレコーディングに着手します。

1975年、ルバム『復讐の蠍団 – In Trance – 』を発売。プロモーションの一環として、ロンドンのマーキー・クラブで、イギリスでのデビュー・コンサートを成功させる。キッスのサポーティング・アクトとして、西ドイツ国内ツアーを行います。。ドイツの音楽誌での人気投票で、グループ部門3位を獲得。

1976年に、『狂熱の蠍団~ヴァージン・キラー – Virgin Killer – 』を発売。メロディ・ラインに哀愁を帯び、ハード・ロック・サウンドを前面に出した作品で、バンドの代表作となりました。

1977年の全英ツアーは規模を拡大し、ホール・クラスでのバンドに昇格するが、レナーズが心臓病を患い脱退。後任のハーマン・ラレベルが加入し、5作目のアルバム『暴虐の蠍団 – Taken By Force – 』を発売。

1978年に来日。中野サンプラザでの2ステージをレコーディング、同年に、初のライヴ・アルバム『蠍団爆発 – Tokyo Tapes – 』として発売され先ず。この後、ウルリッヒは、バンドがコマーシャルな方向に向かっていることを理由にバンドを脱退。バンドは、イギリスの音楽誌「メロディ・メイカー」紙に募集告知を掲載し、約140名をオーディションするが、後任は見つかりませんでした。改めてドイツでメンバーを探し、地元のハノーファーで、マティアス・ヤプス(g.)を3代目ギタリストに迎えます。1979年、新ギタリスト披露のため、ドイツで開催の「サマータイム・オープン・エアー・フェスティバル」出演。ニューアルバムのレコーディング直前、アルコールとドラッグの併用で精神的な支障をきたし、UFOから失踪・脱退していたマイケル・シェンカー(g.)を、ルドルフ・シェンカーとクラウス・マイネが迎え、レコーディングに参加。

同年、6人編成で制作されたアルバム『ラヴドライヴ – Lovedrive – 』(全独11位、全英33位、全米55位)を発売。同編成で、3月23日のマルセイユからヨーロッパ・ツアーを開始し、マイケルの完全復帰を思わせたが、ケルン公演直前にマイケルが倒れ、バンドから離脱。日本で2度目の来日公演が決定していたが、マイケルの登場はありませんでした。その後、ジャパン・ツアー。テッド・ニュージェントのサポーティング・アクトとして初の全米ツアー。同8月にイギリスのレディング・フェスティバルにシン・リジィの代替でヘッドライナーとして出演。同12月、RCA時代4枚のアルバムの中から11曲をセレクトし、初のベスト・アルバム『蠍団伝説~スコーピオンズ・ベスト – BEST OF SCORPIONS – 』(全米180位)を発売。

1980年に、『電獣~アニマル・マグネティズム – Animal Magnetism – 』(全独12位、全英23位、全米52位)を発売。イギリスでのNWOBHMムーヴメントを契機とした、ヘヴィメタルシーン活性化を受け、レインボーやジューダス・プリーストなどと共に、第1回モンスターズ・オブ・ロックに参加。前年の続編となるベスト・アルバム『蠍団帝国~スコーピオンズ・ベストII – SCORPIONS BEST2 – 』(全米175位)を発売。

1981年、クラウス(vo.)が声帯を痛め、医師に1年間の静養を言い渡されます。バンドは一部録り終えていたレコーディング作業を一時中止し、静養期間としました。休止期間には、ハーマン(ds.)がソロ・デビュー・アルバム『奇襲攻撃 – Nip In The Bud – 』を製作しています。

1982年に、『蠍魔宮~ブラックアウト – Blackout – 』を発売。2年振りのこのアルバムは全独10位、全英11位、全米10位の売り上げとなり、最強のライヴ・バンドと評されながら、セールスが反映されなかったアメリカ・マーケットで初のビッグ・ヒットを記録。同アルバムのプロモーション・ツアーをイギリスからスタート、アメリカや日本などをサーキットします。

1983年に、アメリカのサン・バーナディーノで開催されたUSフェスティバル、同年12月に、ドイツのロック・ポップ・ヘヴィ・メタル・スペシャルに出演。同年10月に、イギリスのロンドン・ハマースミスオデオン劇場で行われたM.S.Gのライヴに、ルドルフとクラウスが飛び入り参加し、ファンを沸かせました。(このライヴの模様を収めたライヴ・アルバムとライヴ・ビデオが、翌年にM.S.G側から発売されている)。

1984年に、『禁断の刺青 – Love at First Sting – 』(全独6位、全英17位、全米6位)を発売。シングル「ロック・ユー・ライク・ア・ハリケーン」はビルボード・ポップ・チャートでもヒットを記録し、アメリカ進出に成功しました。日本初のヘヴィ・メタルのビッグ・イベント「スーパー・ロック ’84 イン・ジャパン」に、ホワイトスネイクや・シェンカー・グループ、ボン・ジョヴィなどと共に出演。

1985年、初の日本武道館を公演を果たし、同年のジャパン・ツアーと6月のイギリスのネブワース公演後、2枚目のライヴ・アルバム『ワールド・ワイド・ライヴ – World Wide Live – 』(全独4位、全英18位、全米17位)を発売。若干の充電期間と発表し、しばらくの間表立った活動を停止します。

1988年に、4年ぶりのアルバム『サヴェイジ・アミューズメント – Savage Amusement – 』(全独4位、全英18位、全米5位)を発売。ペレストロイカ最中のソビエト・レニングラードでコンサートを行います。

1989年、前年のコンサートが契機となり、歴史的イベントとなった、モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバルが開催。ボン・ジョヴィをメイン・アクトに、スコーピオンズやオジー・オズボーン、モトリー・クルーなどが参加しました。付随したチャリティー企画で、アンチ・ドラッグ/アルコール・キャンペーンのオムニバス・アルバム『メイク・ア・ディファレンス – Make A Difference – 』が発売され、スコーピオンズは、ザ・フーのカヴァー「アイ・キャント・エクスプレイン」が収録されました。

1990年「ベルリンの壁崩壊」の年7月に、そのベルリンの壁の前で行なわれた、元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主宰による「ザ・ウォール・ライヴ」に参加。演奏は、『ザ・ウォール ライヴ・イン・ベルリン – The Wall Live In Berlin – 』として発売された。11月に、アルバム『クレイジー・ワールド – Crazy World – 』(全独1位、全英27位、全米21位)を発売。このアルバムは、長年のプロデューサーであるディーター・ダークスに代わり、キース・オールセンがプロデュースを務めている。「ウィンド・オブ・チェンジ」がシングル・カットされ、全米第4位、全英第2位を記録するビッグ・ヒットとなりまささた。その後、印税のトラブルから、ベーシストのフランシス・ブッホルツ(b.)が脱退する結果となります。


1992年の活動は無く、1993年にはラルフ・リーカーマン(b.)を迎え、9月にアルバム『フェイス・ザ・ヒート – Face the Heat – 』(全独4位、全英24位、全米51位)を発売。1994年の来日公演はM.S.G.に終止符を打ったマイケル・シェンカーがスペシャル・ゲストで参加し、アコースティックで夢の共演を実現させます。しかしこの時期に70年代からのメンバー、ハーマン・ラレベル(Ds.)が脱退。ライヴではカート・クレスやピティ・ヘチットがドラマーとして参加、ルーク・ヘルゾッグやコーエン・ヴァン・ベイルといったキーボード奏者も参加しています。1995年、ライヴ・アルバム『ライヴ・バイツ – Live Bites – 』(全独66位)を発売。

1996年、デビュー25年を迎えイースト・ウェスト・ジャーマニー・ファンドと契約。ジェイムス・コタックが正式ドラマーに就任。5月にレーベル移籍第1弾アルバム『ピュア・インスティンクト~蠍の本能 – Pure Instinct – 』(全独8位、全米99位)を発売し活動を再開。

1997年にベスト・アルバム『蠍の刻印~マーキュリー・イヤーズ:ベスト・オブ・スコーピオンズ – DEADLY STING:The Mercury Years – 』(全独28位)を発売。

その後も、アルバムを作成し続け、現在も現役で活動中です。



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