後にバックリィは、クラブなどでライブ活動を展開、徐々にその名を浸透させていきます。1992年、ついにコロンビア・レコードと契約。当時、ライブ活動の拠点としていたニューヨークのイースト・ヴィレッジにあるクラブ「Sin-é」での弾き語り演奏を収録した『Live at Sin-é』を1993年に発表します。
2012年より、出身地ロックフォードのBurpee自然史博物館にて、リック・ニールセンのテーマ展「Rick’s Picks: A Lifelong Affair With Guitars & Music」開催。コレクターとしても知られるリックの所有する膨大なギターやトムのベース、様々な関連資料が展示されます。
レコードセールスは思ったように伸びず悩んだキッスであるが、ライヴでは徐々に力を付け始め、1975年発売のアルバム『地獄の接吻』(全米32位)発表に合わせて大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを行います。デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり当地での人気が爆発します。当時、小さな田舎町をツアーで回っていたメンバーは、デトロイトでの人気を知るや、それ以降のツアーを全てキャンセル、当地での単独コンサートを行うことを決定します。
1974年、オーディションにより、ウルリッヒ・ロート(g.)とフランシス・ブッフホルツ(b.)、ヨルゲン・ローゼンタル(ds.)がメンバーに決定。RCAレコードと新たに契約し、11月に、移籍第1弾となるアルバム『電撃の蠍団 – Fly To The Rainbow – 』を発表。セルフ・プロデュースの本作は、ロートのギターをフィーチャーしたハード・ロック色が濃く、以降のサウンドの基礎となる作品となります。1年半ぶりのツアーで、夏のドイツ国内をツアー中に、ローゼンタルが脱退。ルディ・レナーズ(ds.)を加えて、ベルギーとフランスで国外ツアーを行います。その後、スウィートのサポーティング・アクトで、北欧をツアー。この時、後に6人目のメンバーと呼ばれ、長年作品を手掛けることになるプロデューサー、ディーター・ダークスが自らプロデュースを申し出て、新作のレコーディングに着手します。
1975年、ルバム『復讐の蠍団 – In Trance – 』を発売。プロモーションの一環として、ロンドンのマーキー・クラブで、イギリスでのデビュー・コンサートを成功させる。キッスのサポーティング・アクトとして、西ドイツ国内ツアーを行います。。ドイツの音楽誌での人気投票で、グループ部門3位を獲得。
1984年に、『禁断の刺青 – Love at First Sting – 』(全独6位、全英17位、全米6位)を発売。シングル「ロック・ユー・ライク・ア・ハリケーン」はビルボード・ポップ・チャートでもヒットを記録し、アメリカ進出に成功しました。日本初のヘヴィ・メタルのビッグ・イベント「スーパー・ロック ’84 イン・ジャパン」に、ホワイトスネイクや・シェンカー・グループ、ボン・ジョヴィなどと共に出演。
1985年、初の日本武道館を公演を果たし、同年のジャパン・ツアーと6月のイギリスのネブワース公演後、2枚目のライヴ・アルバム『ワールド・ワイド・ライヴ – World Wide Live – 』(全独4位、全英18位、全米17位)を発売。若干の充電期間と発表し、しばらくの間表立った活動を停止します。
1988年に、4年ぶりのアルバム『サヴェイジ・アミューズメント – Savage Amusement – 』(全独4位、全英18位、全米5位)を発売。ペレストロイカ最中のソビエト・レニングラードでコンサートを行います。
1989年、前年のコンサートが契機となり、歴史的イベントとなった、モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバルが開催。ボン・ジョヴィをメイン・アクトに、スコーピオンズやオジー・オズボーン、モトリー・クルーなどが参加しました。付随したチャリティー企画で、アンチ・ドラッグ/アルコール・キャンペーンのオムニバス・アルバム『メイク・ア・ディファレンス – Make A Difference – 』が発売され、スコーピオンズは、ザ・フーのカヴァー「アイ・キャント・エクスプレイン」が収録されました。
1990年「ベルリンの壁崩壊」の年7月に、そのベルリンの壁の前で行なわれた、元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主宰による「ザ・ウォール・ライヴ」に参加。演奏は、『ザ・ウォール ライヴ・イン・ベルリン – The Wall Live In Berlin – 』として発売された。11月に、アルバム『クレイジー・ワールド – Crazy World – 』(全独1位、全英27位、全米21位)を発売。このアルバムは、長年のプロデューサーであるディーター・ダークスに代わり、キース・オールセンがプロデュースを務めている。「ウィンド・オブ・チェンジ」がシングル・カットされ、全米第4位、全英第2位を記録するビッグ・ヒットとなりまささた。その後、印税のトラブルから、ベーシストのフランシス・ブッホルツ(b.)が脱退する結果となります。
1992年の活動は無く、1993年にはラルフ・リーカーマン(b.)を迎え、9月にアルバム『フェイス・ザ・ヒート – Face the Heat – 』(全独4位、全英24位、全米51位)を発売。1994年の来日公演はM.S.G.に終止符を打ったマイケル・シェンカーがスペシャル・ゲストで参加し、アコースティックで夢の共演を実現させます。しかしこの時期に70年代からのメンバー、ハーマン・ラレベル(Ds.)が脱退。ライヴではカート・クレスやピティ・ヘチットがドラマーとして参加、ルーク・ヘルゾッグやコーエン・ヴァン・ベイルといったキーボード奏者も参加しています。1995年、ライヴ・アルバム『ライヴ・バイツ – Live Bites – 』(全独66位)を発売。
1996年、デビュー25年を迎えイースト・ウェスト・ジャーマニー・ファンドと契約。ジェイムス・コタックが正式ドラマーに就任。5月にレーベル移籍第1弾アルバム『ピュア・インスティンクト~蠍の本能 – Pure Instinct – 』(全独8位、全米99位)を発売し活動を再開。
1997年にベスト・アルバム『蠍の刻印~マーキュリー・イヤーズ:ベスト・オブ・スコーピオンズ – DEADLY STING:The Mercury Years – 』(全独28位)を発売。