不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

グラム・ロックのヒーロー

引用

ロックに、アート・ロック、ブギーが合わさり、奇抜なファッションで、一世を風靡したい『グラム・ロック』。そんな『グラム・ロック』にある一つのバンドがいました。『T.レックス』です。

1967年、、アコースティック・ギターとヴォーカルのマーク・ボラン、パーカッションのスティーヴ・トゥックの二人組でティラノザウルス・レックスを結成し、翌68年にデビュー。サイケデリックなフォーク・ロック・グループとして一部でカルト的な人気を誇ります。

この時期の彼らを熱心に応援していたのが、DJのジョン・ピールだった。グループはデビューアルバム『ティラノザウルス・レックス登場!!』をリリースし、全英15位を記録。その後、新しいパートナーにミッキー・フィンを迎え、エレクトリック・ギターを導入したのは1970年でした。

同年末に、「T.Rex」とバンド名を短縮、「ライド・ア・ホワイト・スワン」(全英2位)の大ヒットでスターダムに。1971年にベースのスティーヴ・カーリーとドラムのビル・レジェンドが加わり、4人組のバンドになって初めてのアルバム『電気の武者』がUKチャート1位の大ヒット。「(バング・ア・ゴング)ゲット・イット・オン」(全英1位・全米10位)や「ジープスター」(全英2位)といったヒット・シングルも生まれ、イギリスでは人気グラム・ロックグループとなります。

また、この当時の彼らは「第2のビートルズ」との呼び声も高かった。デビュー当初からのプロデューサーであり、ストリングスを大胆に用いた独特のサウンドを構築したトニー・ヴィスコンティも、彼らの成功に伴って制作者としての評価を高めました。

1972年『ザ・スライダー』(全英4位・全米17位)、1973年には『タンクス』(全英4位)と次々にヒットアルバムを出す。さらにシングル「メタル・グゥルー」(全英1位)「チルドレン・オブ・ザ・レボリューション」(全英2位)、「イージー・アクション」(全英2位)など、数多くの大ヒットを連発していった。日本でも武道館公演を行なうほどの人気で、1973年にリリースされたシングル、「20センチュリー・ボーイズ」(全英3位)は当時の日本盤の発売元、東芝EMIのスタジオでレコーディングされました。さらに「ザ・グルーバー」「トラック・オン」「ライト・オブ・ラブ」「ティーンエイジ・ドリーム」なども発表した。しかし、アメリカでヒットしたのは「ゲット・イット・オン」1曲だけで、大きな成功をおさめることができませんでした。1975年に入るとグラムロックブームが終わり、急速に人気はしぼんでいきました。人気急落後のマーク・ボランは、自身の麻薬中毒ともあいまって、危機的な状況を迎えこととなります。この時期の楽曲はブラック・ミュージック色を取り入れたもので、現在ではそれなりに評価されているが、不摂生の祟ったマークは太ってしまい、ビジュアル面でも精彩を欠きます。だがやがて、息子の誕生などを機に、生活を改め、バンド・メンバーも一新、ソウル・ミュージックにも興味を示して再起を目指してます。

黒人女性シンガーのグロリア・ジョーンズとは、1969年に最初に出会い、1972年に再会し、恋愛関係になりました。マークが恋人だったジューン・チャイルドと1970年に既に結婚していたために、グロリアとは婚姻届なしの事実婚となります。1975年に二人の間には男の子も誕生します。しかし、1977年にグロリア・ジョーンズが運転する車が街路樹に激突し、同乗していた彼は29歳で死去。生前、「30歳まで生きられないだろう」と言っており、偶然だが30歳の誕生日の2週間前に死去でした。

バンド名がT.Rexとなってからは、殆どマークのソロプロジェクト状態だったが、後年はそれがより鮮明になっていた(アルバム『ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー』などはマーク・ボラン&T.Rex名義でリリースされている)。そのため、彼の死でT.Rexは活動を休止。その後1980年にスティーヴ・トゥック、1981年にスティーブ・カーリー、2003年にはミッキー・フィンがこの世を去っており、全盛期のメンバーではドラムのビル・レジェンドのみが存命です。

2020年、『ロックの殿堂』入りを果たします。該当メンバーは、マーク・ボラン(Vo/G)、スティーヴ・カーリー(B)、ミッキー・フィン(パーカッション)、ビル・レジェンド(Ds)の4人。日本でも、映画『20世紀少年』に「20センチュリー・ボーイズ」が主題歌として、話題を呼びました。現在でも、大きな影響を与えています。



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ガレージ・ロックの始まり

引用

1960年代に、アメリカで流行した『ガレージ・ロック』。そんなこのジャンルの代表的なバンドをいくつか紹介しましょう。

MC5

1964年に、フレッド・“ソニック”・スミス、とウェイン・クレイマーを中心に結成。1968年、デビュー・ライブアルバム『キック・アウト・ザ・ジャズ』(全米30位)がヒット。パンク・ロックにも多大なる影響を与えました。1972年解散。その後いく度かの再結成を繰り返しています。

The Seeds(ザ・シーズ)

1965年、スカイ・サクソンを中心に結成。デビュー・アルバム『ザ・シーズ』(全米132位)をリリース。1969年に解散。何度か再結成しています。

The Sonics(ザ・ソニックス)

1960年、ダスティ・ワトソンを中心に結成。デビュー・アルバム『!!!Here Are The Sonics!!!』リリース。現在も活動中です。

The Velvet Underground(ヴェルヴェット・アンダー・グラウンド)

1964年、ルー・リードとジョン・ケイル中心し結成。デビュー・アルバム『The Velvet Underground & Nico』(全米131位)をリリース。1973年に解散。ルーは、ソロ活動を成功。何度か再結成をしています。

Blue Cheer(ブルー・チアー)

1967年に、ディッキー・ピーターソン中心に結成。デビュー・アルバム『Vincebus Eruptum』(全米11位)がヒット。シングル「Summertime Blues」が、全米14位とヒット。現在も活動中です。

2000年以降、ガレージ・ロックリバイバルが起こり、再び注目を集めました。



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2人兄妹とハーモニー

引用

シンガーソングライターブームが、到来した1960年代後半から70年代半ばにかけ流行りました。そんな中、アメリカで2人の兄妹デュオがデビューしました。それが『Carpenters』です。

リチャード・カーペンターとカレン・カーペンターは、コネチカット州ニューヘイブンにて、誕生します。父は宣教師として赴任していた中学で生まれました。その後、一家は1917年にイギリスに戻り1921年にはアメリカに渡り、技術者として身を置きます。父方の祖母は美しく、歌声も大きく綺麗でした。

1965年あたりから、本格的な音学活動を開始し、ビートルズ野「エブリー・リトル・シング」やフランク・シナトラの「夜のストレンジャー」をレコーディングしました。1966年に、A&Mと契約し、1969年まで、デモテープのレコーディングを続けます。

同年、ビートルズのカバー曲「涙の乗車券」(全米54位)デビュー。1970年、『涙の乗車券』(全米150位、全英20位)をリリース。

アルバムはこれといったヒットはしませんでしたが、2人はバート・バカラックとハル・デヴィット作の「遙かなる影」(全英1位)が大ヒットし、年間ランキングでも、2位となります。ベストセラーとなったアルバム『遙かなる影』(全米1位、全英23位)から「愛のプレリュード」が全米2位、全英28位と大ヒットを記録。その年最優秀新人賞を含め、グラミー賞を2つ受賞します。年末には、「メリー・クリスマス・ダーリン」(全米1位、全英25位)をリリースします。

一連のヒットにより、カーペンタズはチャートの常連となります。1971年のヒット曲「ふたりの違い」(全米3位、全英18位)は、同名映画の主題歌として大ヒットを記録。続いてリリースされたい「雨の日と月曜日は」(全米2位、全英63位)がヒットしました。因みに、1位を阻んだのはキャロル・キングの「イッツ・トゥー・レイト」でした。

同年、レオン・ラッセル作の「スーパースター」(全米2位,全英18位)がヒット。アルバム『カーペンタズ』(全米2位、全英12位)をリリース。グラミー賞で3部門にノミネートされます。

1972年、エレキギターのサウンドを取り入れた「愛にさよならを」(全米7位,全英9位)がヒット。アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』(全米4位、全英13位)を記録。アルバムからシングルカットされた「トップ・オブ・ザ・ワールド」(全米1位、全英5位)、「パーティング・いーチ・アザー」(全米2位)、「グッバイ・トゥー・ラブ」(全米7位、全英9位)などが大ヒットしました。

1973年に、アルバム『ナウ・アンド・ゼン」(英米2位)をリリース。シングル「シング」(全米3位)、「イエスタデイ・ワンス・モア」(英米2位)がヒット。シングル・ベスト盤『ザ・シングルス 1969〜1973』(英米1位)をリリース。1974年には、エルトン・ジョンの『カリブ』に首位を明け渡すも、トータル17週間首位を立ち続け、2008年までに700万枚を売り上げています。

1974年、「愛は夢の中に」(全米11位、全英9位』リリース。

1975年には、「プリーズ・ミスター・ポストマン」(全米1位、全英2位)がヒットを記録。アルバム『緑の地平線〜ホライゾン』(全米13位、全英1位)リリース。アルバムから続いて,「オンリー・イエスタデイ」(全米4位、全英7位)がヒットを記録。

1976年に、アルバム『見つめあう恋』(全米33位、全英3位)をリリースするも、『涙の乗車券』以来のプラチナアルバム獲得には至りませんでした。シングル「青春の輝き」(全米25位、全英36位)と大きなヒットは得られませんでした。

1977年には、実験的なアルバム『パッセージ』(全米49位、全英12位)をリリースするも、ヒット曲は生まれませんでした。シングル「星空の恋」は全英9位とヒットするも、全米では32位と振るいませんでした。

1978年、シングル・ベスト盤『ザ・シングルス 1974〜1978』(全英2位)をリリース。しかし、これ以降これといったヒットは生まれなくなります。同時期に、カレンが摂食障害を患い、アーティスト活動を一時休止しました。

1983年に、ニューヨークの病院での2カ月以上にわたる治療を経て、カレンは、13.6キログラム以上も体重を戻しましたが、長年にわたる無理なダイエットで既に彼女の体はボロボロで、心肺停止状態で発見され病院に運ばれるも、死亡を確認。享年32歳。

その後、葬儀が行われ世界が悲しみに包まれました。リチャードは、ソロ活動を開始。グループのコンピレーション・アルバムは、その都度リリースされヒットをし、現在でもその偉大さは人々を魅了しています。



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4人の化学反応が奇跡を生んだ‼️

引用

1980年代、ロックは日本では低迷期に入っていた。松田聖子や中森明菜もいったアイドルの登場により、マーケットは確実に変化していた。そんな中、再びロックを世の中へと現れた4人かいました。そのバンドの名は『BOØWY』です。

1980年、当時ヴォーカルをしていたバンド『スピニッジ・パワー』を脱退して故郷の群馬に帰郷を考えていた氷室京介が、日比谷野外公会堂での『RCサクセション』のライブを見て新たなバンド結成を考えます。後日、布袋寅泰に連絡を取り六本木アマンドの前で再開します。この後、松井恒松,深沢和明、諸星アツシが加入。

1981年、サポートメンバーとして木村マモルを迎え、メンバーが揃います。所属事務所ビーイングの副社長でサウンドプロデューサーの月光恵亮により、当時イギリスに『ガール』というハードロック・バンド(メンバーは全員男子)がいた事を話し、これに対して、自分達は男だけという事から、バンド名をそのまま『ボーイ』で良いだろと、当て字で『暴威』と命名。それを聞いた社長の長戸大幸からは、当時人気だった『横浜銀蝿』をマネて『群馬暴威』というバンド名を提案されますが、却下されます。

最初のアルバム『MORAL』(1989年再発時2位)をレコーディング開始。新宿ロフトで、『暴威 LOFT FIRST LIVE』を行います。因みに、このギクの13人の中には、後のメンバーである黒田まこともいました。後日、セッションに参加した髙橋が加入。その後のスタイルが出来上がります。

1982年、バンド名を『BOØWY』に改名。ビクター音楽産業よりデビュー・アルバム『MORAL』(1989年再発時2位)をリリース。プロデューサーは『マライア』の渡辺モリオ。『渋谷 PARCO PARTIII』のライブで『CHENGE COSTUME』と題し、それまでのパンキッシュな楽曲からニュー・ウェーヴ系のメロディアスな楽曲にシフトチェンジします。その後、深沢、諸星が脱退し、氷室、布袋,松井、髙橋の4人編成となります。

1983年、プライベートオフィス『Ø-con’ nection』設立。新宿LOFTを皮切りとして、『AFROCKABILY LIVE』と題したシリーズGIGを展開。徳間ジャパンより2作目『INSTANT LOVE』(3位)リリース。プロデューサーは脱退した木村マモル。サンプル盤の『OH!MY JULLY』のB面、「FUNNY-BOY」が有線放送で3週連続1位を獲得します。内田裕也主催のイベント『NEW YEAR ROCK FESTIVAL』に出演。

1984年、新宿LOFTで2DAYSライブを敢行。ホール展開も視野に入れた飛躍に向けた「けじめ」のライブでした。その後、拠点を『渋谷LIVE INN』に移し、『BEAT EMOTION』と題してシリーズギクを行います。夏からは同名のタイトルで全国ツアーを敢行。その後、ユイ音楽工房と契約し、レコード会社を東芝EMIに移籍する事に決定。当時にライブの半年間休止も発表されます。この頃から、氷室は「狂介」から「京介」に改名。

1985年、ベルリンのハンザ・スタジオで『BOØWY』のレコーディングを開始。ロンドンの『マーキー・クラブ』でGIGを行います。日本にも取ると、『赤坂ラフォーミュージアム』でマスコミに招待状を送ったコンベンションライブを行います。この後、ファースト・シングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」(再発時61位)リリース。3作目『BOØWY』(48位)リリース。プロデューサーは、佐久間正英。渋谷公会堂で大ホール・ワンマンライブを行います。シングル「BAD FEELING」(再発時46位)リリース。名古屋技術創造センターで『BOØWY’s BE AMBITIOUS』ツアー開始。渋谷公会堂で同ツアー終了。このライブのステージ上で布袋、山下久美子との結婚を発表します。

1986年、「わがままジュリエット」(39位)リリース。4作目『JUST A HERO』(5位)リリース。青山スパイラルホールで、『JUST A HERO TOUR』開始。日本武道館で同ツアー終了。終了後の音源を収録した、ライブ・アルバム『”GIG”JUST A HERO TOUR 1986』(1位)を限定盤(後に通常盤も再リリース)をリリース。南こうせつの野外ライブ『第6回サマーピクニック』にゲスト出演。シングル『B・BLUE』(7位)リリース。5作目『BEAT EMOTION』(1位)リリース。石川厚生記念開館より『ROCK ‘N ROLL CIRCUS』開始。

1987年、日本武道館で『ROCK ‘N ROLL CIRCUS』ツアー終了。シングル「ONLY YOU」(4位)、「MARIONETTE-マリオネット-」(1位)リリース。神戸でライブ『CASE OF BOØWY』を開催。しばらく演奏されていなかった楽曲もセットリストに含めた、総括的なライブを敢行。これは、横浜でも開始されます。宮城県にて行われたライブ・イベント『ロックンロールオリンピック』に出演します。グリーンピア南阿蘇アスペクタにてライブ・イベント『BEAT CHILD』に出演。6作目『PSYCHOPATH』(1位)リリース。宇都宮市文化会館で『ROCK’N ROLL REVIEW DR.FEELIN’S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』開始。シングル「季節が君だけを変える」(4位)リリース。同ツアー最終日渋谷公会堂でのライブ中に解散宣言。新聞各紙の広告スペースに解散メッセージが掲載されます。

1988年、未収録曲3曲を追加した『MORAL+ 3』(1位)リリース。シングル「DAKARA」(2位)リリース。東京ドームにて『LAST GIGS』を行います。解散コンサートではなく、少し早い同窓会だとメンバーは語っています。終了後の移動車両の中でメンバーは号泣したと言われています。ライブ・アルバム『”LAST GIGS” LIVE AT TOKYO DOME “BIG EGG” APRIL 4,51988』(1位)リリース。そして、ラストとなるシングル・ベスト盤『”SINGLES”』(1位)をリリースしてバンド派の活動は終了しました。

その後は、ご存知のように,氷室京介は90年代はじめに、シングル「KISS ME」(1位)で大ブレイク。布袋は、吉川晃司と『COMPLEX』を結成。シングル「BE MY BABY」(1位)含め、ソロでも大ブレイク。松井、髙橋らもセッションミュージシャンとして活躍。バンドはでんせつとして、今尚も語り継がれています。



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