不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

全てを手にした男

引用

1960年代は、やはり『ザ・ビートルズ』が1番成功したロックバントですが、中でもメンバーの中で最大の功労者は『ポール・マッカートニー』でしょう。

1942年、リヴァプールで誕生します。労働者階級出身で、父のジェイムスはセールスマンや工場勤務で働く一方、アマチュアのジャス・ミュージシャンで腕はセミプロ級でした。父方の曽祖父がアイルランド系で、さらに母方の祖父もアイルランド系でした。

母メアリーが乳癌のため1956年に死去。この年、彼の処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲します。同曲は、後に1991年発売のライブ・アルバム『公式海賊盤』(全英7位、全米14位)に収録されます。リヴァプール・インスティチュート在学中の1957年、共通の友人の紹介でジョン・レノンと出会います。その後ザ・ビートルズの前身となる『ザ・クオリーメン』に加入。真面目に勉学に励んでいましたが,バンドにのめり込んでいくと、成績は下降していきました。

西ドイツのハンブルグなどのクラブでの演奏で多数のライブを経験します。歓楽街のハンブルグではアルコール、ロックンロール、女性、ドラッグなどを嗜む日々で、スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの脱退など何度かのメンバチェンジを経て、ジョン・ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターとの4人で1962年に『ザ・ビートルズ』としてパーロフォンより「ラブ・ミー・ドゥ」(全英17位、全米1位)でレコードデビューします。

その後成功を収め,『日本武道館ライブ』、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のグラミー賞受賞などの栄光に輝きますが、メンバー間での方向性の違いから1970年にバンドを脱退します。

同年にソロデビューアルバム『マッカートニー』(全英2位、全米1位)をリリース。ジョンからは「バンドの解散をアルバムの宣伝に利用した」と非難され、当時の音楽評論家やファンからは酷評されました。1971年、シングル「アナザー・デイ」(全英2位、全米5位)及びアルバム『ラム』(全英1位、全米2位)に引き継がれます(ラムは、妻リンダとの連名共作品)。『ラム』からは、「アンクルアルバート〜ハルセイ提督」がリリースされ、全米1位を記録します。

同年、リンダ、デニー・レインらと共に『ウィングス』を結成。デビューアルバム『ワイルド・ライフ』をリリース。全英11位,全米10位を記録しますが、わずか2週間、その内レコーディングに費やした時間が3日という短期間で完成させた為、評論家から批判を受けます。

1972年、新たにヘンリー・マッカロクを迎え、『ワイルド・ライフ』から2ヶ月後、ツアーを行います。同年、「アイルランドに平和を」(全英16位、全米21位)「メアリーの子羊」(全英9位、全米28位)「ハイ・ハイ・ハイ」(全英5位、全米10位)をリリース。スマッシュヒットしました。

1973年には、『レッド・ローズ・スピードウェイ』(全英5位、全米1位)をリリース。シングル「マイ・ラブ」(全英9位、全米1位)が大ヒットとなり、アルバムも前作を大きく上回るセールスを上げました。この頃からバンド名を『ポール・マッカートニー&ウィングス』に改めてます。映画『007/死ぬのは奴らだ』の主題歌が全英9位、全米2位と大ヒットを記録。ツアーも大成功を収め、バンドはさらなる新作作成を始めます。

同年、『バンド・オン・ザ・ラン』(英米1位)をリリース。同タイトル曲(全英3位、全米1位)、「ジェット」(英米7位)「愛しのヘレン」(全英12位、全米10位)がヒット。アルバムも、600万枚を超えるヒットとなり、グラミー賞を受賞します。

1974年、シングル「ジュニアズ・ファーム」(全英16位、全米3位)がヒット。翌75年には『ヴィーナス・アンド・マース』(英米1位)をリリース。予約枚数だけで、200万枚を記録。シングル「あの娘におせっかい」(全英6位、全米1位)が大ヒット。また、このアルバムからバンド名は『ウィングス』に戻ります。

1975年、12ヶ国64公演のツアーを行い、その中作成されたのが、アルバム『スピード・オブ・サウンド』(全英2位、全米1位)。バンドにとって1番1位を連続で獲得したアルバムとなり、シングル「幸せのノック」(全英2位、全米3位)、「心のラブソング」(全英2位、全米1位)が大ヒット。

同年に行われたライブ音源を収録した、ライブ・アルバム『ウィングス・オーヴァー・アメリカ』(全英8位、全米1位)をリリース。ここから、ライブ・シングル「恋することのもどかしさ」が全英28位、全米10位とヒットします。

長期のツアーを終えた後、メンバーはそれぞれソロ活動を開始。1977年になると再びバンドのアルバム作成を開始します。その間にシングル「夢の旅人」が全英1位を獲得し、当時のイギリスでのシングル売り上げ記録を更新します。しかし、アメリカでは、カップリング曲「ガールズ・スクール」が全米33位と振るいませんでした。1978年、「夢の旅人」と同時期にレコーディングされたアルバム『ロンドン・タウン』(全英4位、全米2位)をリリース。シングル「しあわせの予感」(全英5位、全米1位)が大ヒットします。

その後、メンバーチェンジを終えたバンドは、1979年『バック・トゥ・ジ・エッグ』(全英6位、全米8位)をリリース。しかし、アルパムからはシングルヒットは出ませんでした。その後、単体でのシングル「グッドナイト・トゥナイト」(英米5位)をリリース。ポール自身は、ソロシングル「ワンダフル・クリスマスタイム」(全英6位)をリリースします。

1980年に、日本公演のために来日。しかし、成田空港の税関で大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕されるという事件が起こります。これにより、デニーがバンドを脱退。バンドは呆気なく解散してしまいます。

ボールは、久々のそのシングル「カミング・アップ」(全英2位、全米1位)とソロアルバム『マッカートニーII』(全英1位、全米3位)をリリース。1982年には、『タッグ・オブ・ザ・ウォー』(英米1位)リリース。シングル「エボニー&アイボリー」でスティーヴィ・ワンダーと共演し、英米で1位を記録。グラミー賞を受賞。

しかし、後続となる1983年『パイプス・オブ・ピース』(全英4位、全米15位: 同タイトル曲(全英1位、全米23位(カップリング曲「ソー・バット」)、マイケル・ジャクソンとの共演曲「セイ・セイ・セイ」(全英2位、全米1位))、1984年のサウンドトラック『ヤァ!ブロードストリート』(全英1位、全米21位:シングル「ひとりぼっちのロンリー・ナイト」(全英2位、全米六位)、1986年野『プレス・トゥ・プレイ』(全英8位、全米30位)とそれまでのポールとは思えないほど、平凡的な作品が続きました。

低迷期を抜け出すため、1988年頃からエルヴィス・コステロを招いて、翌89年『フラワー・インザ・ダート』(全英1位、全米21位)をリリースし、シングル「マイ・ブレイブ・フェイス」(全英18位、全米25位」がヒット。なんとか、低迷期を脱します。

1993年、『オフ・ザ・グラウンド』(全英5位、全米17位)をリリース。シングル「明日への近い」(全英13位、全米83位)がヒット。

1997年、『ブレイミング・パイ』(英米2位)から、シングル「ヤング・ボーイ」(全英19位)がヒットし、グラミー賞にもノミネートされます。

その後は、1999年『ラン・デヴィル・ラン』(全英12位、全米27位)、2001年『ドライヴィング・レイン』(全英46位、全米26位)、2005年『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード〜裏庭の混沌と創造』(全英10位、全米6位)、2007年『追憶の彼方に〜メモリー・オーロモスト・フル』(全英5位、全米3位)、2012年『キッス・オン・ザ・ボトム』(全英3位、全米5位)、2013年『NEW』(英米3位)とコンスタンスにアルバムをリリースしていきます。

そして、2018年『エジプト・ステーション』が、全英3位、全米では1982年の『タッグ・オブ・ザ・ウォー』以来、実に36年ぶりの1位を獲得します。

2020年には、現在の最新アルバム『マッカートニーIII』が、全英で1989年の『フラワー・イン・ザ・ダート』以来の1位を獲得。全米でも2位に輝きます。翌21年リミックス・アルパム『マッカートニーIII Imagined』(全英13位、全米18位)をリリース。

現在、御歳78歳。老いでなお盛んといった感じで、活動しています。



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ハードロックの基本系

引用

1960年代後半に、確立された『ハード・ロック』。『クリーム』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』などがチャートを席巻していました。そんな中、『ディープ・パープル』と共に70年代のハード・ロック界を牽引していくバンドが現れます。そのバンドこそ『レッド・ツェッペリン』です。

1966年に、ロンドンを拠点中にセッションミュージシャンとして活動していたジミー・ペイジはベースとして、ポール・サミュエル=スミスが脱退した『ザ・ヤードバーズ』に加入します。程なくしてペイジはクリス・ドレヤと入れ替わってギターを担当する事となり、ジェフ・ベックとのツインリードのラインナップが形成されます。1968年、ペイジは、ロバート・プラント(ボーカル)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ジョン・ボーナム(ドラムス)を集め、新たに『ニー・ヤードバーズ』を結成。各地で、ライブを行います。

その後、バンド名を『レッド・ツェッペリン』に改名して、デビュー・アルバム『レッド・ツェッペリンI』(全英6位、全米10位)をリリース。北米ツアーが大成功をします。このことから、音楽雑誌『フォークミュージック』から「ハードロックとヘヴィメタルの進化におけるおおきなターニングポイントとなった」と評されます。

1969年、セカンドアルバム『レッド・ツェッペリンII』(英米1位)からのシングル「胸いっぱいの愛を」が、全米4位を記録する大ヒットとなり、一躍スターダムへ。

1970年、ペイジとプラントはウェールズの人里離れた里へ籠り、サードアルバム『レッド・ツェッペリンIII』(英米1位)をリリース。アルバムは、フォークとケルト音楽の影響が取り入れられた作品となり、賛否両論が巻き起こります。シングル「移民の歌」は、全米16位のスマッシュヒットになりました。

1971年、4枚目のアルバム『レッド・ツェッペリンIV(『無題とも呼ばれます』)』リリース。3700万枚を売り上げ、史上最も売れたアルバムと呼ばれ、アメリカだけで2400万枚売り上げます。シングル「ブラック・ドッグ」(全米15位)「ロックンロール」(全米47位)がヒット。また、「天国の階段」は、シングルではなかったが、ラジオで頻繁にリクエストされた代表曲となりました。

1973年に、5作目となる『聖なる館』(英米1位)をリリース。メルトロンとシンセサイザーによるオーケストレーションの使用を拡大したさらなる実験を特徴としています。

1974年、6作目『フィジカル・グラフィティ』(英米1位)をリリース。スワンソング・レーベルからの初リリースとなったこの作品は、『聖なる館』のレコーディング音源も収録したアルバムとなり、リリース後既発のアルバムがチャートの200位内に斎藤じょうします。

休養を挟んで、1976年『プレゼンス』(英米1位)をリリース。以前のアルバムで取り上げられたアコースティックなバラードのとハードロックがマッチし、さらに複雑なアレンジから離れ、より単純なギターベースのジャムに変化、『後期の名盤』と呼ばれます。

その後、プラントの怪我のため、バンドは1976年のツアーを行いませんでした。代わりに彼らのライブアルバム『永遠の詩(熱狂のライブ)』(全英1位、全米2位)をリリース。

1978年、バンドはスウェーデンのストックホルムにあるポーラー・スタジオでレコーディングを行い、1979年『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』(英米1位)をリリース。再び評論家から複雑な反応を引き出すこととなった実験的サウンドを展開します。ところが、同年ボーナムが、ドラッグ中毒による嘔吐により気道を詰まらせ死亡。偶然による不運な事故死でした。享年32歳。

ペイジは、屋台骨を失ったバンドを再興することを諦め、解散を発表。1982年、未発達曲を集めた『最終楽章(コーダ)』(全英4位、全米6位)をリリース。バンド活動に終止符を打ち、個々にソロ活動を始めました。

1985年、チャリティーライブ『ライブ・エイド』参加のため、一時的に再結成し話題となります。

1994年、ペイジもプラントがMTVアンプラグドで共演。この模様を収録した『ノー・クウォーター』(全英7位、全米4位)リリース。

2007年、O2アリーナで開催されたアーメット・アーティガン・トリビュート・コンサートに参加。この模様を収録したライブアルバムが『セレブレーション・デイ』(全英4位、全米9位)をリリース。

2010年以降は、過去のアルバムをリマスターしたものをリリース。現在でも、コンスタンスに活動中です。



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マンチェスターブーム

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1980年に、イギリスで起こった『ニュー、ウェーブ』ムーブメント。沢山のバンドが現れては消えていきました。その後、80年代に『マンチェスターサウンド』変化していきます。バンド達を紹介していきます。

先ずは『ザ・ストーンズ・ローゼズ』を紹介します。

1983年デビュー。イアン・ブラウン、ジョン・スクワイア、マニを中心に結成。

当年に、シングル「ソー・ヤング/テル・ミー」でデビュー。1986年、セカンドシングル「シナモン・サリー」で、初回プレス1000枚が完売し、全英インディーズ・チャートで6位を記録。1989年「メイド・オブ・ストーン」(全英20位)をリリース。当初の反響は小さかったものの、NME誌のシングル・オブ・ジ・イヤーに選ばれ、デビュー・アルパム『ザ・ストーン・ローゼズ』が全英19位まで上昇するヒットとなります。その後は、ヒットを重ね人気バンドとなります。

次は、『インスパイラル・カーペッツ』。

グレアム・ランバート(ギター)、スティーブン・ホルト(ボーカル)、クリント・ボーン(キーボード)、マーティン・ウォルシュによって1983年に結成。90年のシングル「ディス・イズ・ハウ・イット・フィールズ」が全英9位を記録。デビューアルバム『ライフ』が全英2位まだ上昇する大ヒットとなります。1995年に解散。2014年に再結成しています。

次は、『ハッピー・マンデーズ」。

1980年に結成。1990年にシングル「ステップ・オン」が、全英5位を記録。同年のアルバム『ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス』が全英4位の大ヒットを記録。ブームの終息と共に1993年に解散しました。 

最後は、『ザ・シャーラタンズ』です。

1988年、結成。以前は『ザ・ギフト・ハウス』というバンド名で、既に活動していましたが、メンバーのマーティン・プラントの『ザ・ロウ・ローズ』とバス・ケトレの『ザ・シャーラタンズ』の2つがありましたが、花柄の裏表で決めるコイン投げで、後者のバンド名に決まります。1990年「ザ・オンリー・ワン・アイ・ノウ」が全英9位を記録。デビューアルバム『サム・フレンドリー』が全英1位を記録。

その後、彼らの活動により、『オアシス』、『ブラー』などが次々ととデビュー。『ブリット・ポップ』ブームが巻き起こります

彼らの存在は、その後のイギリスの音楽業界に大きな影響を与えています。



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野生のロックバンド

引用

1960年は、ビートルズやローリング・ストーンズが人気でしたが、同じように人気を博したバンドがいくつかいました。中でも『ザ・フー』は特出すべきバンドです。

全身のバントは、ロジャー・ダルトリーが10代の頃に身近な仲間と共に結成したスキッフルバンド『ザ・ティトゥアーズ』でした。1961年、ダルトリーの誘いにより中学校の後輩のベースのジョン・エントウィッスルが加入。1962年に、前任のギタリストの代わりにエントウィッスルのかつてのバンド仲間だったピート・タウンゼントが加入。タウンゼントの加入から間もなく、他のバンドよりも10歳異常年長ので妻帯者のダグ・サンダムガンダムドラムスに加入。1964年、のメジャー・デビューまでにメンバーは目まぐるしく入れ替わり、1962年の下旬に前任のボーカルが他のメンバーと衝突し脱退。リードギター担当だったドルトリーがボーガルに転向します。

同年に、バンド名を『ザ・フー』に改名。しかし、オーディションで「ドラムスに問題あり」という批評が引き金となり、タウンゼントとダク・サンダムが衝突。サンダム脱退します。サンダム脱退後、色々なドラムスを加入させますが、決め手となる人物に巡り合えないでしました。そんな中、とある人物が「自分の連れの方が上手い」と、ある少年を推薦します。その少年こそがキース・ムーンでした。

メジャー・デビューを加速させ、一時期バンド名を『ハイ・ナンバーズ』と改めます。同年、「ズート・スーツ/アイム・ザ・フェイス」でメジャー・デビュー。しかしレコードは、1000枚しかプレス、宣伝活動の甲斐もなく、デビュー・シングル不発に終わります。

1965年、バンド名ォ『ザ・フー』に戻し、「アイ・キャント・エクスプレイン』が全英8位のヒットとなり、一躍スターダムへ上り詰めます。3枚目となる「マイ・ジェネレイション」が全英2位という大ヒットとなり、人気を確実なものとします。同年、デビュー・アルバム『マイ・ジェネレイション』(全英2位)をリリースしました。

1966年には、シングル「恋のピンチ・ヒッター」が全英5位となるヒットとなりますが、B面曲である「サークルズ」が、著作権侵害に当たる裁判所に訴えられます。同年、ダルトリーが一時バンドを脱退。そのダルトリーがバンドに戻ると、今度はムーンがタウンゼントと衝突し、バンドを一時的に脱退します。また、この当時エントウィッスルもバンドの脱退を考えていたと言われてす。この年に、リリースされたシングル「恋のピンチ・ヒッター」「アイム・ア・ボーイ」(2位)「ハッピー・ジャック」(3位)か全てヒットします。また、「ハッピー・ジャック」が全米24位のヒットを記録し、アメリカで初めてチャートインします。

1967年に、バンドはアメリカ進出を開始。この年、長期の全米ツアーを敢行、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。お得意の楽器破壊を披露し、過激なライブパフォーマンスでアメリカ人に印象を植え付けます。出演順を巡り、ジミ・ヘンドリクスと争ったというエピソードがありますが、争いに敗れたヘンドリクスは、ギターに火をつけるというザ・フー以上のパフォーマンスを見せます。この年「恋のマジック・アイ」をリリース。全英では10位止まりでしたが、全米で9位を記録し、バンド最大のヒットとなります。

1968年、スモール・フェイセス、ポール・ジョーンズ、と共にオーストラリア〜ニュージーランドツアを敢行。同年リリースの「ドッグス」「マジック・バス」は共に全英20位内にチャートイン。3枚目のアルバム『セル・アウト』(全英13位、全米48位)も英米でとトップ10入りを逃したことにより、バンドはシングル・ヒット飛ばし続けることに限界を感じ始めます。

1969年、半年以上の期間を費やし、ようやく『トミー』をリリースし、全英2位、全米4位の大ヒットとなり、70年まで続けられた「“トミー“ツアー」は大成功を収めます。

70年バンド初のライブアルバム『ライブ・アット・リーズ』をリリース。全英3位、全米4位という大ヒットとなります。1971年、『トミー』に続くロック・オペラ作品『ライフハウス』を企画。アルバム作成と共に映画も作成の計画が立っていましたが、あまりにも壮大なプロジェクトにメンバーは、理解しきれず頓挫します。そこからの楽曲の一部を集めてリリースされたのが『フーズ・ネクスト』であり、初の全英1位を獲得。全米でも4位と大ヒットを記録します。

1973年、ロック・オペラ作品第2弾となる『四重人格』が、英米2位の大ヒットを記録。1974年に、未発表曲を集めたアルバム『オッズ&ソッズ』が全英10位、全米15位を記録。1975年には、アルバム『ハイ・ナンバーズ』が全英7位、全米8位の大ヒット。1978年3年ぶりとなるアルバム『フー・アー・ユー』リリース。全英6位、全米2位を記録します。これにより、ザ・フーの人気は確固たるものとなると思われた中、ポール・マッカートニー主催のパーティーに参加した翌日、ムーンはオーバードース(アルコールの)により死亡。32歳の若さでした。タウンゼントはムーンに対する哀悼の念を込め、バンドの活動継続をを表明します。

ムーンの死に際し、バンドの元にジェネシスのフィル・コリンズから加入の連絡がありましたが、タウンゼントが求めていたのは、元スモール・フェイセスのケニー・ジョーンズでした。1979年、タウンゼント希望通りケニー・ジョーンズが加入。また、サポートメンバーにキーボードのジョン・“ラビット”・バンドリックを加え、バンドは再始動。1981年、ジョーンズ加入ゴールドラッシュ初となるアルバム『フェイス・ダンス』リリース。全英2位、全米4位を記録。だが,もはや彼らにかつてのような勢いはなく『イッツ・ハード』をリリース。全英11位、全米8位を記録するも、1983年に、タウンゼントがバンドの脱退の意向を示し、正式にバンドは解散しました。

1985年に、チャリティーライブ『ライブエイド』の参加のために、メンバーが再結成することとなり、話題となります。デビュー30周年を記念して『ザ・フー・ボックス』及び同タイトルの映画を発表します。1996年、ハイドパークにて、チャールズ皇太子主催のプリンス・トラスト・コンサートにおける『四重人格』全曲ライブ演奏を契機に本格的に活動を再開します。

2000年には、北米・全英ツアーには、ダルトリーが支援している青少年のがんや白血病患者の支援団体である『ティーンエイジ・コンサート・トラスト』のためのチャリティー・コンサートをイギリスのロイヤル・アルバート・ホールで開催され、ノエル・ギャラガー、ポール・ウェラーや『パールジャム』のエディ・ウェダーなどと共演します。2001年、グラミー賞特別功労賞を受賞。しかし、エントウィッスルが、2003年のライブ中のホテルでアルコールのオーバードースで死亡してしまいます。

2006年、『イッツ・ハード』以来24年ぶりとなるアルバム『エンドレス・ワイアー』(全英9位、全米7位)をリリース。デビュー50周年となる2014年にベスト盤『ヒッツ50』をリリース。2019年、13年ぶりとなるアルバム『WHO』(全英3位、全米2位)をリリース。ダルトリーは、「『四重人格』以来の傑作だ」と自負しています。2人とも、70歳を超えましたが、現在も現役で活動中にです。



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