不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

スラッシュメタル四天王

引用

1970年代に、隆盛を極めた『メタル』。それは、さまざまなジャンルに分かれます。その中に『スラッシュ・メタル』というジャンルがあります。

中でも、『スラッシュ・メタル四天王』呼ばれる4つのばんどがきます。

まずは、『メタリカ』。1981年にアメリカ西海岸で結成。1991年にリリースされたアルバム【メタリカ』が、(英米1位)が、3000万万モンスターアルバムとなる大ヒット。1996年『ロード』(英米1位)、1997年『リロード』(全米1位、全英4位)をリリース。第一線で活躍しています。

2つ目ののバンドは、『メガデス』です。1983年に、メタリカのギタリストだった、デイブ・ムスティンがメッカを脱退。結成後,1990年に『ラスト・イン・ピース』(全英8位、全米23位)リリース。シングル「ホーリー・ウォー…ザ・バニッシュメント・デュー」(全英15位)「ハンガー18」(全英26位)がヒット。グラミー賞を受賞。

3つ目のバンドは、『アンスラックス』。1981年結成。1993年のアルバム『サウンド・オブ・ホワイト・ノイズ』(全米7位)リリース。現在も精力的に活動してます。

そして最後は、『スレイヤー』。1981年に結成。1994年のアルバム『ディヴァイン・インターヴェンション』(全米8位』をリリース。

その後も、『パンテラ』『ホワイトゾンビ』【サパルートゥラ』などがデビュー。現在も第一線でで活躍中。



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ニュージーランドから世界へ

引用

イージービーツ以来、オーストラリアの音楽業界は世界のマーケティングに次々に現れた。しかし、ニュージーランドても新たなバンドが現れました

なかでも、『スピリット・エンズ』は特別なバンドです。1973年に、ティム・フインとフィル,ジャッドによって結成されましまた。その存中様々なメンバーがいました。

デビューアルパム『メンダル・ノーツ』(75年・全豪35位)『セカンド・トゥルース』(全豪25位)リリース。その後、フィルが脱退。代わって、ティムの弟ニールが加入。

ニール加入後に発売したアルバム『ジズリトミア』(77年・全豪18位)を記録。1979年には、『フレンジー』(全豪24位』リリース。シングル「アイ・シー・レッド」(全豪15位)がヒット。

ベスト盤(全豪35位)を挟んで、1980年『トゥルー・カラーズ』(全豪一位、全英38位)が大ヒット。シングル「アイ・ガット・ユー」(全豪1位、全英12位)「アイ・ホープ・アイ・ネバー」(全豪18位)が大ヒットし、大ブレイクします。

1981年、『ワイアタ/カラバリー』(全豪1位、全米45位)リリース。シングル「ワン・ステップ・アヘッド」(全豪5位)「ヒストリー・ネバー・リパーツ」(全豪4位、全英63位)とヒットを記録。

1982年、『タイム・アンド・タイド』(全豪1位、全英71位、全米58位)リリース。シングル「ダーティー・クリーチャー」(全豪6位)「エアテロアの風」(全豪2位、全英83位)とヒットを記録。特に、「エアテロアの風」は、バンド最大のヒット曲となります。

同年、ベスト盤『エンズ・オブ・アン・エラ』が全豪1位を記録。しかし、1983年『コンフィリクティング・エモーション』がまさかの全豪13位と低迷。1984年『シー・ヤー・ラウンド』も全豪29位と中ヒットに終わります。

その後、ティムがバンドを脱退。バンドは自然消滅します。

ニールは、ポール・ハスターにニック・セイモアを、加え1985年『クラウテッド・ハウス』を結成し大ブレイクします。

ティムは、1983年にソロ・デビューアルバム『エスカペード』(全豪8位)リリース。シングル「フラクション・トゥ・マッチ・フリクション」(全豪6位)がヒットし華々しい活動を開始。

ニュージーランドを代表するバンドとして、のちのバンドに影響をを与えています。



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日本のロックンローラー

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1950年代中頃、アメリカで発生した『ロックン・ロール』は、エルビス・プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャードなどがスターダムを走っていました。日本でも、ミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎などのいわゆる『ロカビリー三人男』が人気を博しました。

1960年代は、日本ではGSブーム真っ只中であり、ロックン・ロールは下火でした。

しかし、70年代になると日本語ロックが流行。

『はっぴえんと』『頭脳警察』『外道』『サディスティック・ミカ・バンド』などが登場し、人気を集めました。そんな中に『キャロル』というバンドに1人のスターが誕生します。彼の名は、『矢沢永吉』。

子供時代は、苦労をしていたらしく、極貧生活が続き、そんな経験から「BIGになる」との思いが芽生えたと後に,矢沢自身が語っている。

1968年、広島国際学院高校卒業後、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を持って、広島から最終列車で上京。しかし、東京駅に向かうはずが、長時間の移動で尻が痛くなったのと、『ザ・ビートルズ』の出身地リバプールと横浜が同じ港町だったことから、反射的に横浜へ途中下車。チャイナタウンや喫茶タクトなどで働きながらバンド活動を始めます。

1970年、自作曲『アイ・ラブ・ユー・OK』のテープを「ビートルズのレコードを出しているから」もいう理由から、東芝EMIに持ち込みますが「売れない」という理由から断られます。CBS・ソニーに持ち込みますが不採用となります。その後、「ザ・ベース」「イーセット」を経て、「ヤマト」を結成。芸能界デビューを目指すもの諸事情がありバンドは解散。

1972年、矢沢が貼り紙チラシで募集をかけ、ジョニー大倉、内海利勝、ユウ岡崎らと、ロックバンド『キャロル』を結成。ボーカル兼ベースを担当。

当時,歌謡曲やフォークが中心であり、ロックバンドは商業的に受け入れられないに突如現れ人気を博します。活動は短期間でしたが、のちの日本のロックシーンに大きな影響を与えます。

1975年、解散が決まった頃、矢沢はソロ活動を行うに際し、フォノグラムとの間に起こり得る問題を未然に防ぐため、単身CBS・ソニーに行き、幹部と面会自らのソロ活動を担保に金銭面、ビジネス面の話をまとめます。その後キャロルは、日比谷野外音楽堂にて解散します。

同年、レーベル移籍後、キャロル関係の人間から離れ、一切のスタッフを総入れ替えし、デビューシングル「アイ・ラブ・ユー、OK」(43位)とデビューアルバム『I Love You,OK』(8位)をリリース。

1978年、CMソング「時間よ止まれ」(1位)リリース。累計売り上げは、ミリオンセラーを記録しました。同曲では、バックバンドに坂本龍一、高橋幸弘、後藤次利が参加していました。その後、自著伝『なりあがり』を出版。100万部を超えるベストセラーとなります。1979年には、アルパム『ゴールドラッシュ』リリース(1位)。

1981年、単身渡米し、アサイラム・レコードと契約。その後、『YAZAWA』(9位)で世界デビュー。全米での売り上げは、約2000枚でした。以降主なるカツ丼拠点をロサンゼルスに定めます。

1982年、『YAZAWA It’s Just Rock’n Roll』(2位)を全米リリース。この頃から、「止まらない、Ha〜Ha〜」「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」(5位)「涙のラブレター」(9位)などが立て続けにヒット。ライブなども成功します。

1992年、元ビートルズのドラムス、リンゴ・スターの息子、ザック・スターキーをドラムスに吸えて、アルバム『Anytime Woman』(5位)リリース。1997年、イギリス・ロンドンは、ウェンブリー・スタジアムでエルビス・プレスリー没後20周年を記念してロックフェスティバル『songs and visions』にアジア代表として選ばれ、ロット・スチュワート、ジョン・ポン・ジョヴィ、ロバート・パーマー、チャカ・カーンの共演します。

2000年、ナラダ・マイケルウォールデンプロデュースのチャリティー・クリスマスアルパム『music of love〜for tomorrow’s children』に参加。ほかにも、エンヤ、スティング、スティーヴィ・ワンダーも参加しています。

2009年、『第60回紅白歌合戦』に白組のサプライズゲストとして参加。「時間よ止まれ」「コバルトの空」を熱唱し話題となります。

2021年、横浜アリーナでライブを開始。小田和正の、2019年が打ち立てた71歳10か月64公演の記録を塗り替えます。

現在、72歳。行けるレジェンド、これからの活躍に注目です。



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日本のテクノスター

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1970年代ドイツを中心としたヨーロッパで発展した『クラウトロック』これは『テクノポップ(正式名称:シンセポップ)』と呼ばれるようになり、後のニー・ウェーブの礎となりました。

日本にその波は、押し寄せました。リーダーは、元はっぴえんどの細野晴臣(ベース)、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏(ドラムス)、スタジオミュージシャンとして活動していた坂本龍一(キーボード)の 3人は、『イエロー・マジック・オーケストラ(YMO』のです。

YMO結成以前、細野は、ドラムスの林立夫、シンガーのマナと共に自身の『イエロー・マジック・カーニヴァル』をカヴァーするというユニットを構想していましました。だがこれが実現すせず、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニー「ファイアクラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したため実現しませんでした。細野は、当時のマネージャーに人選を依頼し、坂本龍一を推薦されます。

1978年に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人に、初めて 3人で顔お合わせることとなります。

それまでにも細野と坂本は1975年、大瀧詠一のアルパム『NIAGARA MOON』の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野が『ティン・パン・アレー』のツアーのサポートメンバーとして坂本を起用するという関係でした。1976年、細野のアルバム『泰安洋行』リリース時のライブでは坂本と共に「ファイアクラッカー」を演奏しています。一方、髙橋と細野は学生時代からの旧知の仲でしたが、ミュージシャンとして交流は『サディスティック・ミカ・バンド』が1975年のライブに出演した際、小原礼の代役として細野が演奏したことが一度だけありました。

1978年『YMO』としてのレコーディングを開始。同年、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』(69位)をアルファレコードからリリース。しかし、鳴かず飛ばずの状態となります。しかし、アルファレコードは、アメリカのA&Mレコードと業務提携しており、ライブの模様が社長のトミー・リピューマの目に留まり、全米デビューが決まったとされていますが、それより先に決まっていたと言われています。

1979年、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』(オリコン20位、全米81位)をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードからリリース。これがアメリカでヒット。日本でも注目を集めるようになります。

同年、2作目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1位)をリリース。日本国内の売り上げは100万枚を超える大ヒットとなり、その名を幅広い層に浸透させることに成功させます。同アルバムからシングル「テクノポリス」(9位)「ライディーン」(15位)はヒットを記録し、YMOのパブリック・イメージとなります。また、当日流行っています『竹の子族』のイメージソングに「ライディーン」が使われたことにより、YMOの名はさらに知られることとなり、彼らの髪がは『テクノカット』と呼ばれ大ブレイクします。

1981年はYMOにとって転換期となります。5作目となるアルバム『BGM』(2位)をリリース。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチ・トラック・レコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルパムであり、それまでの耳に馴染みの良いポップ志向のスタイルから一転、”暗く思い”ヨーロッパ志向かつ、ニュー・ウェーヴ色の強いエレクトリックサウンドを展開します。しかし、「ライディーン」的なサウンドを求めていた評論家やファンからは不評とされ、セールス的にも前作を下回ります。

同年には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的なアルバム『テクノデリック』(4位)をリリース。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声をサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界のミュージシャンに多大なる影響を与えることになります。

その後、個々にソロ活動を並行して、バンドとしては、1983年、カネボウ化粧品CMタイアップ曲「君に、胸キュン。」(2位)でYMOとしての活動を再開。7作目となる『浮気な僕ら』(1位)、8作目となる『サーヴィス』(5位)をリリース。

その後、音楽雑誌「GORO」のインタビューで正式に「散開(解散)」を発表。細野と高橋は、『スネイクマン・ショー』を、坂本はソロ活動をそれぞれ開始します。その後、「再生(再結成)」をし、1993年『テクノドン』(2位)をリリース。シングル「ポケットが虹でいっぱい」(13位)、「ビー・ア・スーパーマン」(76位)がヒット。

その後も、度々再結成を続けながら活躍しています。



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