不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

ソフト・ロックからディスコの帝王

引用

197(年代後半から、アメリカを中心にブレイクした『ディスコ』。KC&サンシャイン・バンド、オハイオ・プレイヤーズ、アース、ウィンド&ファイア、スライ&ザ・ファミリー・ストーンと市場は黒人バンドが占めていました。そんな中、白人グループが、現れます。それこそが、『ビージーズ』です。

ギフ兄弟(ハリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブ)はオートバイレースで著名な英国王室族属領マン島に生まれました。1950年に父親の故郷、イングランド・マンチェスターに映ります。

1955年、ギブ兄弟は教会の合唱に所属しキャリアをスタートさせます。自宅の近所には後に『ハーマーンズ・ハミッツ』のリードボーカルとしてアメリカ、イギリスで人気を博すピーター・ヌーン一家が居り、ギブ一家とは家族間での付き合いがありました。1958年、父親の仕事の都合で家族7人はオーストラリアのクイーンズランド州ブリスベンに移住します。1番下の音音アンディはマンチェスターで生まれたばかりでした。ここで兄弟は、小遣い稼ぎのために歌うようになります。最初のグループ名は、『ラトルスネークス』、後に『ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ』となります。

そして 3人はラジオDJであるビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者とは別人)に紹介されます。紹介者は、レーサーのビル・クード。ゲイツは、自分とグードのイニシャル(BG)から彼らの名前を『ビージーズ』と名付けます。1960年代になると、テレビやラジオのレギュラー番組を持つようになります。1963年にファスティバル・レコードから「The Battle of The Blue and The Gray』でデビューする運びとなり、以来国民的な人気を博すことになります。当時アメリカ、イギリスの多くは黒人音楽に影響を受けていましたが、ビージーズはエヴァリー・ブラザーズの影響を受けました。

彼らは、1966年にはオーストラリアで最優秀ボーカルグループに選ばれ、67年、シングル「スピックス&スペックス」が全豪1位になった頃、オーストラリアの人気に目をつけた、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインは、自ら経営する『NEMSエンタープライズ』入社していた新人ロバート・スタッグウッドをオーストラリアに赴かせ,ギブ兄弟にワールド・デビューの契約を持ちかけます。

イギリスに帰国したギブ兄弟は、オーストラリアクイーンズランド州生まれでロンドン育ちの、ドラムス、コリン・ヒーターセン、そしてオーストラリア時代からの彼らのレコーディングにたびたび参加していたシドニー出身のヴィンス・メロニーをリード・ギターに迎え、5人編成としてあ67年、ポリドール・レコードより「ニューヨーク炭坑の悲劇」(全米14位、全英12位)でデビュー。

以降、「ラブ・サンバディ」(全米17位、全英41位)、「ホリディ」(全米16位)、「マサチューセッツ」(全米11位、全英1位)、「ワールド」(全英9位)。1968年には、「ワーズ」(全米15位、全英8位)、「ジャンボー」(全米57位、全英25位)、「獄中の手紙」(全米8位、全英1位)「ジョーク」(全米6位)をリリース。同年末に、ヴィンスがプロデューサー行に転向するために脱退。1969年には、3作目『オデッサ』(前半20位、全英10位)及びシングル「若葉のころ」(全米37位、全英6位)の発売間もなくロビンがソロ・シンガーとなるべく独立、同年夏にはシングル「トゥモロウ・トゥモロウ」(全米54位、全英23位)を最後にバリーとモーリスは、コリンを一方的に解雇します。これにより、2人になったビージーズはは、「想い出を胸に」(全米73位、全英2位)リリース後改めて、バリー、ロビン、モーリスの3人は結束の下にに改めてビージーズとして再スタートします。

1975年に芸能活動20周年記念アルバム『メインテーマ・コース』(全米14位)リリース。シングルカットした「ジャイブ・トーキン」(全米1位、全英5位)、「ブロードウェイの夜」(全米7位)が大ヒット。これによりディスコ次第の幕開けとなります。以降もその路線で、「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」(全米1位、全英5位)がヒット。ディスコで名実ともに人気に火が付いたビージーズは、ビージーズサウンドを取り入れた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が公開。「ステイン・アライブ」(全米1位、全英4位)、「恋のナイト・フィーバー」(全米1位、全英1位)、「愛はきらめきの中」(全米1位、全英3位)が次々と大ヒット。サウンドトラック『サタデー・ナイト・フィーバー』(全米1位全英1位)も世界的な大ヒットとなります。1979年『失われた愛の世界』(全米1位、全英1位)から、「失われた愛の世界」(全米1位、全英3位)、「哀愁のトラジディ」(全米1位、全英1位)が大ヒットし,70年代を終えます。

1981年のアルパム『リヴィング・アイズ』(全米41位、全米73位)に終わった後、各自のソロ活動と並行して他のアーティストへの楽曲提供が中心となり、数多くの全米ヒットを生みます。1987年にワーナー・レコードに移籍し、アルパム『E.P.S.』(全米96位、全英5位)よりシングル・カットされた「ユー・ウィン・アゲイン」(全米79位、全英1位)がヒットしました。1989年には、シングル「One」(全米7位、全英71位)が大ヒットを記録。

1989年、アンディ・ギブが早逝。2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝。2012年に、ロビン・ギブが死去し、ビージーズは消滅しました。

その後、ベスト盤やリミックスアルバムがヒット。いまでも、語り継がれています。



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ラテン・ロックのベテランバンド

引用

ラテン・ロックアーティストは、アメリカの『リッチー・ヴァレンス』、『ジー・ミッドナイタース』、メキシコのカルロス・サンタナ率いる『サンタナ』などがいますが、ヨーロッパにもいます

そのバンドの名は、『ジプシー・キングス』です。

メンバーは、互いに兄弟、親戚関係にあるスペイン系ロマの一家です。レイエス兄弟の父である歌手のホセ・レイエスとバリアルド兄弟の父であるギタリストマニスタ・デ・プラタは従兄弟同士で、また、チコはホセの娘婿でした。

バンドの前身は、1975年にホセが息子たちと『ホセ・レイエス&ロス・レイエス』というバンドを組み、地元フランス南部のプロヴァンス地方で活動していました。1979年ホセが没した後『ロス・レイエス』となりましたが、ニコラなど数名の兄弟チコとバリアルド兄弟を加えて新たに『ジプシー・キングス』というグループを立ち上げます。その後、アルパム『アレグリア』、『情熱の月』をリリースしますがあまり売れませんでした。

世界的に有名になったのは、クロード・マルチネスをプロデューサーを迎えたからです。マルチネスは、ジプシー・キングスの音楽は素晴らしいが何か足りないと思い、もともとのフラメンコを基調とした音楽に、ポップスやロックなどの現代的な音楽的要素を取り入れます。その結果、1987年にリリースした「ジョビ・ジョバ」。「バンボレオ」が、フランス国内で大ヒットします。

クリスチャン・ラクロアのショーで使われたり、フランソワ・ミッテランが大統領選戦で「バンボレオ」を使い若者の支持を集めました。1990年、フランスの音楽賞であるヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュジークの年間最優秀グループを受賞しました。

日本でも、「インスピレーション」が時代劇『鬼平犯科帳』のエンディング曲に使われ、有名になります。「ジョビ・ジョバ」は、京セラのCMソングに、「ボラーレ」はビールのCMソングと多くのメディアに起用されます。

現在でも活躍中、フランス音楽界の重鎮として君臨しています。



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こちらもブリットポップの申し子

引用

以前、ギャラガー兄妹のバンド『オアシス』がブリットポップの代表的なものと紹介しましたが、他にもというか、こちらこそ代表的なバンドともいえます。そのバンドの名は『ブラー』です。

1988年、当時ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジに在学していたデーモン・アルバーンが、ロンドンで『サーカス』という名のインディーズ・バンドを結成します。コルチェスーの市役所でコンピュータ・プログラマーとして働いていたデイヴ・ロウントゥリーも参加しましたが、程なくしてギタリストが脱退したことに伴い、デーモンの幼馴染のグレアム・コクソンが加入します。

グレアムの加入により、バンドの質は飛躍的に向上。その後、グレアムの大学の同級生であるアレックス・ジェームズが加入。4人編成となったバンドはサリンジャーの小説に因んで、『シーモア』に変更。1989年に、シーモアとして初のライブを行います。これを見ていたフード・レコードのA&R、アンディ・ロスから契約のオファーを受けます。ロスはバンド名であるシーモアから、改名を提案。1990年、バンド名を『ブラー』に改名します。

結成後すぐに『ザ・クランプス』の前座としてイギリスをツアーして新曲を試し、デビュー・シングル「シーズ・ソー・ハイ」(全英48位)をリリースし、メジャーデビューを果たします。91年には、『ザ・スミス』等のプロデュースでも知られるスティーブン・ストリートを起用して何とかして完成させたという2枚目のシングル「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」(全英8位)がスマッシュヒットを記録すると、当時流行していたマンチェスター・サウンド、シューゲイザーなどの影響を受けた、トリッピーでサイケデリックなデビュー・アルバム『レジャー』(7位)をリリース。各音楽雑誌から、高評価を得ます。

1992年、シングル「ポップシーン」(全英32位)をリリースするも、売り上げは振るわずレコード会社との関係は悪化しました。また、グランジブーム真っ只中のアメリカでは、『イギリスのポップバンド』として誰にも興味を持たれない中、延々とドサ回りをされられた苦い経験から、デーモンは反動的に「英国的なもの」なものにこだわるようになりますが、レコード会社からは、グランジバンドへの路線変更を要求されます。

しかし、デーモンはやがてイギリス的なポップブームが訪れると説得。1993年、『ザ・ビートルズ』『ザ・キンクス』『XTC』などに続くイギリスのロックミュージックの伝統に則って作成された2作目『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』(全英15位)をリリース。これが、ブリットポップの始まりとなります。シングル「フォー・トゥモロウ」(全英28位)、「クリミナル・ワールド」(全英28位)、「サンディ・サンディ」(全英26位)がヒット。

1994年、先行シングル『ガールズ&ボーイズ』(全英5位)をリリース、大ヒットを記録し、ブリット・ポップの金字塔と評される3作目『パークライフ』をリリース。これが、初の全英1位を獲得。「トー・ジ・エンド」(全英16位)「パークライフ」(全英10位)「エンド・オブ・ア・センチュリー」(全英19位)のヒットを記録。アルバムも90週にに渡り、アルバムチャート40位内に居座り続けます。これにより、翌95年のブリットアウォードで賞を総なめにします。

1995年、2作目から続いた3部作の完結編となる『ザ・グレイト・エスケープ』(全英1位)をリリース。シングル「カントリーハウス」(全英1位)が共に大ヒットを記録。シングル「ザ・ユニバース」(全英5位)、「ステレオタイプ」(全英7位)、「チャームレス・マン」(全英5位)と全てのシングルが大ヒット。しかしこの頃から、同じイギリスのバンド『オアシス』との確執が浮上。中流階級の『ブラー』、労働者階級の『オアシス』。階級にうるさいイギリスにおいて、このバンド間の争いは『ブリットポップ盟主戦争』と呼ばれますが、オアシスのアルバム『モーニング・グローリー』がアメリカで4位まで上昇し、全世界で、2000万枚を超えるモンスター・アルバムになり、ブラーの『ザ・グレイト・エスケープ』は評論家から過小評価されてしまいます。

1997年、『ブラー』(全英1位)をリリース。シングル「ビートルバム」(全英1位)をリリースし、デーモンが『ブリットポップは、死んだ』発言によって、ブリットポップブームは終焉を迎えます。ここから、「ソング2」(全英2位)が全米でもヒットし、アメリカでも徐々に成功していきます。

1999年、『13』(全英1位)をリリース。シングル「テンダー」(全英2位)がヒット。他にも「コーヒー&TV」(全英11位)、「ノー・ディスタンス・ライフ・トゥ・ラン」(全英14位)がヒット。

2000年、ファン投票から選ばれた曲を収録したベスト盤『ザ・ベスト・オブ』(全英3位)リリース。アルバムから、シングル「ミュージック・イズ・マイ・レーダー」(全英10位)がヒット。

2001年、アルバム『シンク・タンク』(全英1位)をリリース。シングル「アウト・オブ・タイム」(全英5位)がヒット。アルバムもワールドミュージックを意識した曲調を中心とした作品となりました。しかし、デーモンがプロデューサーとして招いたノーマン・クック(ファットボーイ・スリム)に対して、グレアムが不快感を表し、デーモンとグレアムとの間に音楽の方向性にずれが生じ、グレアムが脱退を表明。

2004年、新アルバム作成を開始するも、グレアムの抜けたバンドは自然消滅的に、バンドは活動を休止。各自、ソロ活動を始めます。

2015年、12年ぶりとなる新作アルバム『ザ・マジック・ウィップ』(全英1位)をリリース。『パークライフ』以来6作品連続で1位を獲得します。

現在も、精力的に活動を続けています。



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ジャパニーズ・パンクの夜明け

引用

1960年代に、アメリカはデトロイトで誕生した『パンク・ロック』。『ザ・ストゥージーズ』『MC5』などがその代表であり、その精神は、イギリスはロンドンで花開き、『セックス・ピストルズ』『ザ・クラッシュ』『ザ・ジャム』などに、発展していきました。その息吹は、日本にも届いていました。

1966年、中学の同級生だった忌野清志郎、小林和生、破廉ケンチの3人でバンド『ザ・クローバー』を結成。1967年、高校進学によりバンドは解散。忌野と小林は、上級生の武田清一を迎え,『リマインダーズ・オブ・ザ・クローバー』を結成し、始めてギャラをもらえる仕事をします。

1968年、バンドが自然消滅後、破廉がバンドに戻り、バンド名を『リマインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション』の略称形から『RCサクセション』と命名します。

1969年、テレビ番組『ヤング720』のオーディションに合格。その後、東芝主催の『カレッジ・ポップス・コンサート』オーディションで3位に入り、この模様を収録したオムニバス盤が初めての公式音源となります(収録曲は「泥だらけの海」)。

1970年、「宝くじは買わない」で東芝音工よりデビュー。71年、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス『青い森』で当時フォーク・グループ、『古井戸』として活動していた仲井戸麗市と出会います。

72年、ラジオ番組『ハローパーティー』や『バタリス・フォーク・ビレッジ』などへの出演を始める。3rdシングル「僕の好きな先生」(70位)がヒット。デビュー・アルバム『初期のRCサクセション』をリリースします。

74年、当時のマネージャー奥田義行が事務所に造反、独立してプロダクション『りぼん』を設立。RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干されます。

1976年、ホリプロから『りぼん』へ移籍。前年既に制作済みだった3rdアルバム『シングル・マン』(79位)がようやくリリースされるも、1年後に廃盤。破廉は精神状態が不安定になり、ギターが弾けなくなります。翌77年正式に破廉は脱退します。

1978年、春日がメンバーとして参加、フォーク形態からロック/R&B形態にバージョンアップされます。しかし、そのスタイルから音楽雑誌からは『パンク・ロック』と呼ばれることがありました。さらに、新井田が正式加入、RCの黄金期のメンバーの基礎が完成。忌野は髪を短く切り逆立て、派手な衣装にどぎついメイクしてステージに立つようになり、この頃から仲井戸が加入します。

1979年、春日に変わり小川が加入。RCはそのライブ・パフォーマンスが評判を呼び、マスコミに度々取り上げられます。ジョニー、ルイス&チャーの前座として初めて日本武道館のステージに立ちます。

音楽評論家の吉見佑子らが『シングル・マン』のの再リリース懇願した為『シングルマン再発実行委員会』を発足。ポリドールとの折衝が繰り返絵された結果、自主制作で300枚限定で異例の再リリースが決定。当初は国立の『レコード・プラント』、青山の『パルドパイハー・ハウス』の2店の発売となりました。この頃、Gee2woがサポート参加。仲井戸が正式に加入します。

1980年、「雨上がりの夜空に」発売記念として渋谷のライブハウス『屋根裏』で4週連続のコンサートを開催。のべ800人の観客を動員、同ライブハウスの動員記録を打ち立てます。渋谷公会堂でのシーナ&ロケッツ、BOWWOWどのジョイントコンサートも約2000人の観客動員を達成、RC人気に火が付き、『シングル・マン』が正式に再リリースされます。

エレキ化後のデビュー盤となる『RHAPSODY』(47位)をリリース、半年以上のロングランヒット。81年、初の単独日本武道館公演。この年を始めとしてその後10年間連続で武道館クリスマスコンサートを行い、この年はその他に100本近いコンサートを行います。

1982年,忌野はYMOの坂本龍一と組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」(1位)が資生堂のCM春のキャンペーンソングとして大ヒットを記録します。MVでは、どぎつい化粧をして男同士がキスをするなどの過剰なパフォーマンスを展開し、時代を席巻。

1985年、事務所『リボン』から独立。個人事務所『うむ』設立。西武劇場で独立記念コンサート『スーパーエイプリルフール』開催。

1988年、東芝EMIよりリリースされた「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVER』が、収録曲の歌詞が問題隣発売禁止になります。同シングル・アルバムは、古巣のキティレコードからリリース、RC初の1位を獲得します。

1991年、無期限活動休止に入り、個々にソロ活動を始めます。しかし、忌野と仲井戸とのコンビは、その後も続き、2005年の日本武道館での忌野の復活ライブにも同行しました。

しかし、2009年忌野が癌のため死去。バンドは解散します。

唯一無二にして、日本が誇るクレージーかつクールなバンドとして、語り継がれることでしょう。



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