不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

キング・オブ・ブルース

引用

アメリカの音楽で、代表的なものといえば、ブルースとカントリーですが、今回はブルース。その中でも『キング・オブ・ブルース』ことB.B.Kingでしょう。

1925年にミシシッピ州北西部のイッタベーナのプランテーションに生まれます。幼少の頃は小作人として働きます。その後ギターを手にし、幼くして頭角を現し始める。T-ボーン・ウォーカーやロニー・ジョンソンと言ったギタリストの音楽だけではなく、ゴスペル音楽にも触れていたといわれます。

1943年に州内のインディアノーラに移住し、その3ヵ月後にはテネシー州のメンフィスに移り住む。キングはそこで、いとこのブッカ・ホワイトに教わりながらギター・テクニックを磨いていきます。

やがてキングは、メンフィスのラジオ局WDIAでDJをするようになった。当時は「Blues Boy」と呼ばれていて、その後「B.B.」と略されるようになります。これが芸名の名前の由来であります。

1949年、ナッシュビルのレーベル、ブレット・レコードに4曲を吹き込み、レコード・デビューを果たします。翌年には、ロサンゼルスのモダン/RPMと契約しました。1951年末にシングル「3 O’clock Blues」がR&Bチャートの1位を記録。これを機に以降、数多くのヒットを世に送り出す存在となります。

1964年には、後に多くのアーティストが取り上げるスタンダード・ナンバーとなった「Rock Me Baby」を発表。1969年に発表された「Thrill Is Gone」のリメイク(原曲はロイ・ホーキンス)では翌年のグラミー賞を受賞しました。1971年にはロンドンでピーター・グリーン、クラウス・フォアマン、アレクシス・コーナー、リンゴ・スター等のゲストを迎えてアルバム『In London』を録音。その後も彼の活躍は続き、1951年から1985年までの間に実に74回も全米のR&Bチャートに曲を送り込んでいます。

1980年代から2000年までの間は、アルバムのリリースは少なくなる一方、テレビのショーへの出演やライブへの出演が多くなり、特にライブの回数は年に300回にも達していたといわれます。1988年にはU2と「When Love Comes To Town」で共演、同曲は翌年にはシングルとしてヒットしました。1993年には多くのブルース・ミュージシャンをゲストに迎えたアルバム『Blues Summit』を発表し、同アルバムでグラミー賞を受賞。1997年のアルバム『Deuces Wild』にはヴァン・モリソン、ドクター・ジョン、ローリング・ストーンズ、ウィリー・ネルソン等、B.B.キングを慕うアーティストが参加。1998年には長いキャリアにおいて初のセルフ・プロデュース作品『Blues on the Bayou』を発表し、同アルバムでグラミー賞を受賞。2000年にはエリック・クラプトンとのアルバム『Riding With the King』を製作した。また、1998年に公開された映画『ブルース・ブラザース2000』では、クラプトンと共演しています。

1987年に『ロックの殿堂』入りを果たし、授賞式にはスティングがプレゼンターとして出向いています。また1991年には、米国立芸術基金(NEA)の選定するNational Heritage Fellowship(日本の人間国宝に相当)にも選ばれています。

2015年に、自身のホームページ及びFacebookでラスベガスの自宅で在宅介護を受けていることを表明した。

2015年死去。89歳没。

ネバダ州クラーク郡の検視局は、殺人の可能性で捜査が行われると発表しました。司法解剖の結果、殺害に当たる証拠は認められず、アルツハイマー病に加え永らく患っていた糖尿病や冠動脈疾患といった要因が複合していたことが明らかになりました。

『フレディー・キング』と、『アルバート・キング』と共に『3大キング』と呼ばれた天才でした。

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オルタナ系のイギリスバンド

引用

『オルタナティブ・ロック』というと、どうしてもアメリカのイメージが強いのですが、イギリスにもオルタナ系バンドはいます。『レディオヘッド』がそれです。

オックスフォード郊外のアビンドン=オン=テムズにある男子全寮制パブリックスクールのアビンドン・スクールでメンバー5人は出会います。それぞれ別のバンドで活動したのち、1985年に「オン・ア・フライデー」というバンドを結成。ジョニー以外のメンバーはスクールを卒業後オックスフォードを離れ、バンドは解散状態になります。

1991年、大学を卒業したメンバーがオックスフォードに戻り、バンドを再結成。同年にEMI傘下のパーロフォンとメジャー契約し、バンド名を『レディオヘッド』に変更します。1992年にEP『Drill』でメジャーデビュー。翌年、1stアルバム『パブロ・ハニー』(全英22位、全米32位)からのシングル「クリープ」(全英7位、全米34位)が若者から熱烈な支持を受け、世界的なヒットとなります。この当時はUSオルタナティヴ・ロック、UKシューゲイザーなどの影響が頻繁に語られるような、トリプルギターにベース、ドラムという比較的オーソドックスなロックバンドでした。

ギターロックをより押し進めつつもアコースティックソングやサイケデリック・ロックからの影響を昇華した、1995年の2ndアルバム『ザ・ベンズ』(全英4位、全米88位)により、人気を不動のものとする。この作品からプロデューサーのナイジェル・ゴッドリッチと組むようになりました。

この頃から次第にロックミュージック以外の音楽と接近していき、メンバー各自が様々な楽器を使い分けるようになる。1996年明けには映画音楽・サイケデリック・トリップ・ホップなどからの影響をシングルのB面や限定シングルカット「Lucky」などに表出し始め、1997年にはそれらの実験的な試みの結晶ともいえる1997年の3rdアルバム『OK コンピューター』(全英1位、全米21位)を発表。このアルバムは全世界で大きな評価を獲得し、1990年代のポップ・ミュージックを代表する金字塔としばしば評される出世作となります。

アルバムの世界的な成功により名声を得たメンバーだったが、評価を得たそれらのサウンドを捨て去り、当時ポップミュージックの分野ではほぼ手つかずのジャンルであったエレクトロニカ・現代音楽などに大きく傾倒。長いスタジオ作業の果てに「商業的自殺」とも言われた、2000年の4thアルバム『キッド A』(英米1位)を発表し、大方の予想を裏切り再度成功を収めます。実験的な電子音楽とバンド・サウンドを融合させ、前作『OK コンピューター』からの劇的な変化を遂げた作品となりました?

翌年には『キッド A』と同時期に制作された、2001年の5thアルバム『アムニージアック』(全英1位、全米2位)を発表。1920年代のスウィング・ジャズを取り入れるなど、ジャンルに捕われない音楽性をより明確にした。同年に初の公式ライブアルバム『I Might Be Wrong – Live Recordings』を発表しました。

2003年の6thアルバム『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』(全英1位、全米3位)では、これまでの実験性を包括したうえで改めてバンドサウンドに立ち返りました。このアルバムを最後にEMIとの契約を終了。契約金額で折り合わなかったことが理由と報じられています。同年、ジョニーが初のソロ作品としてテレビ・ドキュメンタリー『Bodysong』のサウンドトラックを発表。翌2006年にトムが初のソロ・アルバム『ジ・イレイザー』(全英3位、全米2位)を発表。

2005年から新作に向けた活動が再開され、2006年には欧米でのツアーも行われました。2007年、突然公式ブログにて7thアルバム『イン・レインボウズ』(英米1位)を発表。期間限定の専用サイトを通じ、MP3形式で先行ダウンロード販売が行われました。購入価格は買い手が自由に決める方式となっており、話題になります。同時に、豪華版のディスクボックス(ダウンロード版と同内容のDisc1にDisc2を加えた2枚組CD、同内容のアナログ盤2枚、ブックレット、化粧箱で構成される)も40ポンド定額でリリースされ、2007年より発送開始となりました。その後、TBDレコード(北アメリカのみ)、ホステス・エンタテインメント(日本のみ)、XLレコーディングス(それ以外の全世界)と契約し、通常のCDフォーマットでもリリースされました(内容はダウンロード版、豪華版Disc1と同様)。

2008年に初のベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブ』(全英4位、全米26位)と同タイトルのベストDVDをリリース。バンド自身は曲順やアートワークなどの制作全般に関わっておらず、EMIが残されたアルバム契約を消化するために行われました。

2009年より、トムがレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、ナイジェル・ゴッドリッチらと共に新バンド「アトムス・フォー・ピース」(ソロ・アルバムの曲名が由来)を結成。セットリストはソロアルバムの曲を中心に、他バンドのカバーや新曲をちりばめたようなもので、各所でライブを精力的に行っています。

2010年よりフィルがソロ・アルバム『Familial』を発表。また、フジロックフェスティバルにアトムス・フォー・ピースが出演しました。

2011年、突如公式サイトにて8thアルバム『ザ・キング・オブ・リムズ』(全英7位、全米3位)の完成を発表。専用サイトにて、アルバムダウンロード(MP3又WAV)と豪華版ニュースペーパー・アルバムの予約受付を開始しました。『ザ・キング・オブ・リムズ』のリミックスシリーズの発売が決定。完全生産限定12インチ・アナログシングル(輸入盤のみ)と、デジタル・シングルでの発売となる。「リトル・バイ・リトル」と「ロータス・フラワー」のリミックスが収録されました。

2011年春、2013年夏、2015年夏と断続的にスタジオ入りが報じられており、ジョニーはインタビューで新作には未発表曲の「Lift」が収録される予定だと答えています。

2015年、映画『007 スペクター』の主題歌候補として「スペクター」を歌うが、最終選考でサム・スミスに敗れます。

2016年に9thアルバム『ア・ムーン・シェイプト・プール』(全英1位、全米3位)が発表されたが、上記の「Lift」は収録されませんでした。

2019年には、『ロックの殿堂』入りを果たました。

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こちらもグランジ‼️‼️‼️

引用

アメリカで、80年代後半から90年代前半まで、ブレイクした『グランジ』。『ニルヴァーナ』『ソニックユース』が代表的ですが、他にもたくさんいます。『パール・ジャム』などがその一つに入ります。

ストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは1980年代中頃にグリーン・リヴァーというバンドで活動していて、ツアーやレコーディングも行っていたが、わずかな成功を残してバンドは1987年に解散してしまいました。そして同1987年の後半にはゴッサードとアメンは Malfunkshun というバンドのボーカリストだったアンドリュー・ウッドと共にバンド「マザー・ラブ・ボーン」として活動を始め、1989年初頭にはポリグラム・レコードと契約し、制作費などの資本的なバックアップを得られるようになりレコーディングとツアーを行っていました。

マザー・ラブ・ボーンでのデビュー・アルバム『Apple』が1990年7月に発売され、次世代トップ・ミュージシャンとしての将来が確実とされていたジェフ・アメンとストーン・ゴッサードであったが、デビューから4ヶ月後にアンドリュー・ウッドがヘロインの過剰摂取により他界してしまいました。それから数ヶ月後にゴッサードは「シャドウ」というバンドのギターリストだったマイク・マクレディを招き入れ、アメンと3人でリハーサルを行ったり、シンガーとドラマーを募集するための音源として5曲のデモ・テープ制作を行います。その音源をレッド・ホット・チリ・ペッパーズ結成時のドラマー、ジャック・アイアンズが気に入り、彼らのバンドへ加入することとなります。

1990年頃のエディ・ヴェダーはカリフォルニア州サンディエゴのバンド「バッド・レイディオ」のリード・ボーカリストとして活動していて、ライブ・ハウスの従業員でもありました。そのヴェダーのバスケット・ボール仲間だったジャックは、ヴェダーから「ボーカリストになりたい」という夢を聞かされており、彼にアメンらのボーカリスト募集用のデモ・テープを聴かせたところ、ヴェダーは歌詞を書き加え3曲 (後の「Alive」「Once」「Footsteps」) に対してボーカルをオーバー・ダブした。ジャックはそのテープをメンバー募集中のアメンらへ送付し、アメンとゴッサードはテープを聴いてから1週間ほどの内にヴェダーをボーカリストとしてバンドへ迎え入れることにしました。新たなドラマーとしてデイヴ・クルーセンが加わり、バンド名は「ムーキー・ブレイロック」となったが、1990年の秋には エピック・レコーズと契約を交わす事となり、バンド名はこの時点で 『パール・ジャム』となりました。

エディ・ヴェダーの人生にとって初の大物バンド参加がパール・ジャムで、参加から契約まで数ヶ月しか経なかったため、デビュー直前まで彼のステージングは素人以下とバンド内外から酷評を受けていました。ある夜のライブでヴェダーが興奮し、マイクスタンドの根元の鉄板を客に向かって投げつける暴挙に出た瞬間、今日のグランジ・バンド的とされるステージパフォーマンスが誕生しました。幸運にもこの時に怪我人はいなかったが、鉄板が会場の壁に刺さって騒然となりました。しかしこの日を境にヴェダーは、生まれ変わったが如く過激なステージ・パフォーマンスを展開し、グランジ・スタイルを完成させることになります。

1991年3月にバンドはシアトルのロンドン・ブリッジ・スタジオでデビュー・アルバム用のレコーディング・セッションに入ります。しかし、デイヴ・クルーセンが婚約者の出産を理由に出産日当日にバンドを脱退したため、新たなドラマーとして、Edie Brickell & New Bohemians で活動していたマット・チャンバーレインを見つけました。しかし彼はサタデー・ナイト・ライブ・バンドに参加してしまったため、チャンバーレインからの紹介でテキサスの無名ファンクバンドで活動していたデイヴ・アブラジーズを迎え入れることになりました。そして同年にデビュー・アルバム『Ten』(全米2位、全英18位)が発売された。

アルバムのセールス初動はスロー・ペースだったが、1992年中頃にはブレークし始め、ゴールド・アルバムとして認定されることになりました。アルバムからはメンバー募集時からの馴染み曲でもある「Alive」と、他に「Even Flow」「Jeremy」などがシングル・カットされヒットしました。その後、アルバムは2年間近くビルボードにチャート・インし続けて、当時は最も売れたロック・レコードとして記録され、13x プラチナ・アルバムとしてRIAAから認定される結果となりました。

アルバム『Ten』の成功を経て、パール・ジャムはアリス・イン・チェインズ、ニルヴァーナ、サウンドガーデンらと共にシアトルのグランジ・ロック・シーンでは中心的存在になりました。1992年には サタデー・ナイト・ライブ やMTV アンプラグドなどへ出演し、夏のロラパルーザツアーでは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、サウンドガーデン、ミニストリーなどと競演していた。そしてマット・ディロン主演の映画「シングルズ」のサウンドトラック・アルバム用に「State of Love and Trust」と「Breath」の2曲を提供し、自らも出演するなど、徐々に活動の幅を拡げていきます。

アルバム・セールスのブレークと共に様々なメディアに書き立てられ、その事が原因となってカート・コバーンとの間に確執ができるなどの弊害もあったが、1993年にはプロデューサーにブレンダン・オブライエンを迎え、再びスタジオ入りしてニュー・アルバムのレコーディング・セッションを始めます。セカンド・アルバムとなる『Vs.』をリリースし、アルバムは全米チャートで初登場1位(全英2位)を獲得してその後5週間に渡ってその位置を保ち続ける成功を収めました。アルバムはアメリカ国内での発売後1週間に95万枚を売り上げるが、この記録は2000年にリンプ・ビズキットに破られるまでは、全米における歴代最高の数字でした。

翌1994年にはサード・アルバムの『Vitalogy』をリリース。アメリカでのイニシャル・プレス枚数が350万枚で当時の史上最高を記録し、全米チャートでは堂々の初登場1位(全英4位)を獲得します。発売後1週間の売り上げ枚数は87万7000枚に達し、前作『Vs.』に続いて当時歴代2位の売り上げ枚数を記録しました。アナログ・レコード盤はCDに先駆けて限定5万枚がプレスされ、全米アルバム・チャートでは55位を記録するという快挙も達成しています。1996年にはこのアルバムに収録されている「Spin the Black Circle」がグラミーで「ベスト・ハード・ロック・パフォーマンス賞」を受賞しました。

1998年には、ファン・クラブ向けのクリスマス・ソング「Last Kiss」(J・フランク・ウィルソンのカバー曲)がビルボードのシングル・チャートで2位に入り、異例のスマッシュ・ヒットを記録した。また6作目『Binaural』(全米2位、全英5位)では、バイノーラル録音にも挑んでいます。

2020年、新作アルバム『ギガトン』が、全米5位、全英6位と現在でもヒットを量産中です。

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サイケデリック・フォークの代表格

引用

1960年代初め、キャス・エリオットが所属していたフォークバンド「ビッグ・スリー」と、デニー・ドハーティが所属していたバンド「ハリファックス・スリー」のメンバーが合流し、「マグワンプス」が結成されました。このバンドはアルバム発表も出来ないまま解散し(一部のメンバーはラヴィン・スプーンフルを結成)、エリオットはカリフォルニア州でジャズ・シンガーとしての活動を始め、ドハーティはジョンとミッシェルのフィリップス夫妻が所属するフォークバンド「ニュージャーニーメン」に参加しました。このニュージャーニーメンはやがてフォークロックへと姿勢を変換し、カリフォルニアに活動の場を動かしました。そこで再びエリオットと合流し、1965年に『ママス&パパス』は結成されます。

1965年、『青空を探せ』でデビュー。同年フィリップス夫妻によって書かれた「夢のカリフォルニア」を発表。同曲は全米4位、全英9位の大ヒットとなりました。3枚目のシングル「マンデー・マンデー」は全米1位、全英3位にまで昇り、ファースト・アルバム『夢のカリフォルニア』(全米1位、全英3位)もロング・ヒット。

だが、絶頂の最中に、ミシェル・フィリップスとデニー・ドハーティの不倫が発覚し、1966年、ミシェルは夫のジョンに追い出される形でグループを脱退します。しかし、適当な代役が見つからなかったため、ミシェルは結局すぐに復帰して、ジョンと寄りを戻しました。その後は、1966年発売のシングル「アイ・ソー・ハー・アゲイン」が全米5位、全英11位。この曲を収録したセカンド・アルバム『The Mamas & The Papas』も全米4位、全英24位まで昇りました。

1967年発売のサード・アルバム『Deliver』が全米2位、全英4位を記録。このアルバムからは「愛する君に」が全米全英共に2位と大ヒット、「クリーク・アリー」も全米最高5位の記録を収めました。同年から3日間開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。ジョンはフェスティバルのテーマソング的役割を果たす「花のサンフランシスコ」を書き上げ、「ジャーニーメン」時代の同僚のスコット・マッケンジーが歌ったシングルは全米4位を記録しました。

同年、「朝日をもとめて」「悲しみを幸せに」などがヒット。しかしジョンとミシェルの夫婦仲は再び亀裂が生じ始めていました。そして1968年になると、グループは完全に崩壊し、各メンバーはそれぞれ個人的な活動を始めた。契約上制作しなければならなかった最後のアルバム『People Like Us』は、メンバーが各自で収録した曲をまとめて発売されました。

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