不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

大人のロック

引用

今回は、大人のロックを特集していきたいと思います。代表格はやはり『スティーリー・ダン』でしょう。

ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーはニューヨークのバード・カレッジ在学中に知り合い、共同で曲作りを始める。カレッジ卒業後(ベッカーは中退)2人は作曲家として活動するが仕事には恵まれず、ジェイ&ジ・アメリカンズのバックミュージシャンなどで糊口を凌いでいました。。この頃に作られたデモテープは、後に「ベッカー&フェイゲン」名義の作品集としてレコード、CD化されています。ようやくABCレコードのプロデューサーのゲイリー・カッツに才能を見出された2人はロサンゼルスに移住、バンドとしてレコード・デビューするために旧知のミュージシャンを呼び寄せ、スティーリー・ダンを結成した。バンド名は、ウィリアム・S・バロウズの小説『裸のランチ』に登場する男性器の張型「Steely Dan III from Yokohama」に由来します。

結成当初のメンバーは、ドナルド・フェイゲン(ボーカル、キーボード)、ウォルター・ベッカー(ベース)、デニー・ダイアス(ギター)、ジェフ・バクスター(ギター)、ジム・ホッダー(ドラム、ボーカル)、デイヴィッド・パーマー(ボーカル)。主なスタッフにゲイリー・カッツ(プロデューサー)、ロジャー・ニコルズ(エンジニア)。

1972年発表のデビュー・アルバム『キャント・バイ・ア・スリル』(全米17位、全英38位)からシングル・カットされた「ドゥ・イット・アゲイン」は全米6位の大ヒットを記録しました。

プロのミュージシャンとなればライブ活動は必要不可欠だが、本来作曲家としての活動を望んでいたベッカーとフェイゲンは肉体的にも精神的にもきついライブを嫌い、それがやがて他のメンバーとの軋轢を生みます。また作品を追うごとに理想とするサウンドとバンドの演奏力の差が明らかになると、メンバーの感情を無視して外部のスタジオ・ミュージシャンを積極的に起用するようになり、バンドとしての一体感は失われていました。73年にはセカンド・アルバムを発表しました。

1974年発表のサード・アルバム『プレッツェル・ロジック』(全米8位、全英37位)からシングルカットされた「リキの電話番号」は全米4位と、シングルとしては彼ら最大のヒットを記録しました。しかしすでにこの頃はバンド形態は崩壊寸前、同年にジェフ・バクスターとジム・ホッダーがクビにされ、ライブ活動を停止しました。(デイヴィッド・パーマーは既にクビ)。なおこの年のライブではマイケル・マクドナルド、ジェフ・ポーカロがツアーメンバーとして参加しています。76年に4枚目のアルバム『『うそつきケイティ』(英米13位)を発表。

以降はスタジオ・レコーディングのみの活動に専念、トム・スコット、ラリー・カールトン、チャック・レイニー、バーナード・パーディー、スティーヴ・ガッドら主に、クロスオーバー系の腕利きミュージシャンを大勢起用するようになります。

1977年発表のアルバム『彩(エイジャ)』は全米3位(全英5位)、200万枚を売り上げる大ヒットを記録した彼らの代表作です。同アルバムでは、東西の有名スタジオ・ミュージシャンを贅沢に起用していました。音楽評論家からも高い評価を受け、このアルバムはスティーリー・ダンの名声を決定的なものにしました。なおデニー・ダイアスが本作を最後に正式にメンバーから外れ、スティーリー・ダンは名実共にベッカーとフェイゲンの2人だけのグループとなります。

1980年発表のアルバム『ガウチョ』(全米9位、全英27位)を最後にスティーリー・ダン、すなわちベッカーとフェイゲンのコンビは翌年に活動を停止します。『ガウチョ』もヒットを記録、高い評価を獲得したが、前作の評価があまりにも高かったゆえに制作時のプレッシャーは並々ならぬものがありました。フェイゲンやプロデューサーゲイリー・カッツの完璧主義は前作を超え、演奏に寸分の狂いも許さず、一方ベッカーは麻薬に溺れレコーディングどころではなくなっていた。前作に比べ、膨大な時間(2年半)と費用(日本円で1億円以上)がかさんだり、曲がミスで消されるなどのトラブルが頻発したが、完成度の高さは頂点を極めている。スティーリー・ダンはこのアルバムを区切りに、長い休止期に入ります。

1982年にドナルド・フェイゲンはソロ・アルバム『ナイトフライ』(全米11位、全英44位)を発表。スティーリー・ダン時代のサウンドにさらに磨きをかけ、以前に劣らぬヒットと高い評価を獲得しました。3M製32トラックのデジタル・マルチトラックレコーダーを使用した音響面のクオリティの高さも絶賛され、一時期はPAエンジニアのサウンド・チェックの定番となっていたほど「音のいいアルバム」といわれていました。

一方のウォルター・ベッカーは麻薬中毒から脱するためにハワイに移住。1985年にチャイナ・クライシスのプロデューサーとして音楽界に復帰します。その後はフェイゲン、ベッカーともどもさほど目立った活動をすることはなかったが、1993年にフェイゲンのソロ・アルバム『カマキリアド』(全米10位、全英3位)をベッカーがプロデュースしたことをきっかけに2人での活動を再開します。そして同年に「スティーリー・ダン・フィーチャリング・ウォルター・ベッカー&ドナルド・フェイゲン」名義でライブツアーを開始、翌年には初来日も果たしました。このツアーの模様は公式のライブ盤として発売されています。1996年にも再び世界ツアーを行ない、同年に発表したベッカーのソロ・アルバム『11の心象』をフェイゲンがプロデュースしています。

2000年、スティーリー・ダン名義としては『ガウチョ』以来20年ぶりとなるスタジオ・レコーディング・アルバム『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』を発表。全米6位(全英11位)の大ヒットを記録し、同年のグラミー賞では最優秀アルバムをはじめ4部門を獲得しました。2001年に『ロックの殿堂』入りを果たしました。2003年には、『彩(エイジャ)』がグラミー賞殿堂入りを果たしています。

2017年、ウォルター・ベッカーの死去が、ベッカーのオフィシャルサイト上で発表されました。67歳没。当初死因等の詳細は発表されていなかったが、ベッカーの妻デリアにより、死因については急激な進行の食道癌であったことが公表されました。癌は毎年受けていた健康診断で発見され、化学療法による治療を行っていたものの、進行が早く発見から4ヶ月も経たないうちに死去したといわれています。ドナルド・フェイゲンは追悼声明で、大学時代からの長年の友人でありバンドメイトでもあったベッカーを回想するとともに、スティーリー・ダンとして作り上げてきた音楽を、自分ができうる限り続けていきたいと語りました。

ベッカー死去の翌週から、意向の通りバンド活動を継続。ベッカー亡き後初のツアーは10月13日、オクラホマ州タッカービル公演からスタートし、「ドゥービー・ブラザーズ」とのジョイントライブをイギリスで3公演開催する事を発表しました。

2019年秋、過去の名作『幻想の摩天楼』『彩(エイジャ)』『ガウチョ』『ナイトフライ』のアルバム全曲を再現する日替り企画を、秋の米東海岸ツアーにて実施。

ドナルド・フェイゲンの『ナイトフライ』名盤ですね^_^

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ギターの神様🎸

引用

ロックと言えば、ギター‼️ギターといえば、ギタリスト🎸ですよね。中で、特に秀でた存在を『髪 神』と定義することがあります。エリック・クラプトンがその存在に位置します。

クラプトンは1945年3月30日にイングランドサリー州リプリーで、16歳のパトリシア・モリー・クラプトンと25歳のエドワード・ウォルター・フライヤーの間に生まれました。父親のフライヤーはケベック州モントリオール出身の軍人で、クラプトンが生まれる前に出征し、その後カナダに帰国しました。クラプトンは祖母のローズとその2番目の夫であるジャック・クラップ(パトリシアの継父)を両親として育ちます。彼は母親のパトリシアを年の離れた姉と信じていました。姓が類似していたことで、クラプトンの本名はクラップであるという誤った説が流布します。(レジナルド・セシル・クラプトンがローズの最初の夫で、クラプトンというのは母方の祖父の姓であった。)数年後、母親のパトリシアは別のカナダ人兵士と結婚してドイツに移り住み、幼いエリックを祖父母と一緒にサリーに残しました。

1963年、クラプトンはブルースの影響を受けたロックンロールバンドであるヤードバーズに参加し、1965年まで共に活動しました。シカゴ・ブルースと、バディ・ガイ、フレディ・キング、B.B.キングなどの主要なブルースギタリストの影響を統合したクラプトンは、独特のスタイルを作り上げ、急速にイギリスの音楽シーンで最も話題のギタリストの1人になりました。バンドは最初にチェス/チェッカー/ヴィージェイのブルースナンバーを演奏し、リッチモンドのクロウダディ・クラブでローリング・ストーンズの後釜として出演するようになると、大勢の熱狂的なファンを魅了し始めました。彼らはアメリカのブルースマン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIと一緒にイギリスツアーを行います。1963年12月に録音されたライブアルバム『ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ』は1965年にリリースされました。

ヤードバーズのリズムギタリスト、クリス・ドレヤは、クラプトンがコンサート中にギターの弦を切ったときはいつでも、ステージにとどまって交換していたことを思い出します。イギリスの聴衆はいわゆる「スロー・ハンドクラップ(遅い手拍子)」をすることによってコンサートの中断を待っていた。クラプトンのニックネーム「スローハンド」は、ジョルジオ・ゴメルスキーが言った、クラプトンが弦の交換のために演奏を停止しているときに続いた観客の遅い手拍子の駄洒落に由来します。1964年、クラプトンはヤードバーズと共にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールに初登場しました。それ以来、クラプトンは同ホールで200回以上演奏し、会場での演奏は「僕の居間で演奏する」ようなものだと述べています。

1965年、ヤードバーズはソングライターのグレアム・グールドマンが書いた最初の大ヒット曲「フォー・ユア・ラヴ」(全英1位、全米6位)を発表しました。グールドマンは、ハーマンズ・ハーミッツやホリーズのヒット曲も作曲しており、後に10ccのメンバーとして成功を収めた。ヤードバーズは「フォー・ユア・ラヴ」の成功もあって、ポップ志向のサウンドに移行することを選択しました。これは、商業的な成功ではなくブルースに専念していたクラプトンの苛立ちに大きく影響することとなります。彼は「フォー・ユア・ラヴ」がリリースされた日にヤードバーズを脱退しました。バンドは最も熟練したメンバーを失うこととなりました。クラプトンは自分の代わりとしてジミー・ペイジを提案したが、ペイジはこの推薦を断り、ジェフ・ベックを推薦しました。ペイジは後にヤードバーズに加わり、ベックとしばらくの間一緒に活動したが、ベック、ペイジ、クラプトンは一緒にグループで活動することはありませんでした。彼らが初めて共にステージに上がったのは1983年にロイヤル・アルバート・ホールで行われたARMS(Action into Research for Multiple Sclerosis:多発性硬化症の研究を促す行動)チャリティーコンサートでのことでした。クラプトンは1965年4月にジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに加入したが、数か月後に脱退しました。クラプトンはペイジと共にジャムに招待され、多くの曲を録音しました。後にそれはザ・イミディエイト・オールスターズのクレジットでリリースされました。1965年の夏、彼は旧友のベン・パーマーを含むグランドと呼ばれるバンドと共にギリシャでのツアーに向かいます。ギリシャのバンド、ザ・ジュニアーズは悲劇的な自動車事故でベーシストのサーノス・ソウジオウルが死亡し、ギタリストのアレコス・カラカンタスが負傷したが、生き残ったメンバーは1965年にクラプトンと共に記念のショーを開催しました。クラプトンはブルースブレイカーズに再加入しました。1966年、ブルースブレイカーズのメンバーである間にクラプトンはジャック・ブルースやスティーヴ・ウィンウッドとサイドプロジェクトで協力し、エリック・クラプトン・アンド・ザ・パワーハウスの名前で何曲か録音しました。2度目のブルースプレイカーズでの活動期間中、クラプトンはクラブサーキットで最高のブルースギタリストとしての評判を得ました。アルバム『ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』(全英6位、全米29位)での演奏でクラプトンは世界的に有名になったが、このアルバムは彼が1966年にバンドを離れるまでリリースされませんでした。

フェンダー・テレキャスターとVox AC30アンプを1960年のギブソン・レスポール・スタンダードとマーシャルアンプに交換したクラプトンのサウンドと演奏は、有名なスローガン「Clapton is God」に大きな影響を与えました。それは1967年にイズリントン区の壁にスプレーで書かれた物で、その落書きの下で犬が壁に排尿している有名な写真で記録されます。クラプトンはそのスローガンに対して恥ずかしいという気持ちを表し、1987年のサウスバンクショーのプロフィールで、「僕は自分が世界で最も偉大なギター奏者であることを決して受け入れなかった。僕は常に世界で最も偉大なギタープレーヤーになりたいと思っていたけど、それは理想であり、理想として受け入れている。」と語っています。

クラプトンは1966年にブルースブレイカーズを去り(ピーター・グリーンが代わりに加入した。)、ドラマーのジンジャー・ベイカーに誘われて、ベースのジャック・ブルース(ブルースはかつてブルースブレイカーズ、グラハム・ボンド・オーガニゼーション、マンフレッド・マンに所属していた。)と共にクリームを結成した。クリームは初期のスーパーグループの一つでした。クラプトンはクリームを結成する以前は、アメリカでは余り知られていませんでした。彼は「フォー・ユア・ラブ」がアメリカのトップ10入りする前にヤードバーズを去り、アメリカではショーに出演したことがありませんでした。クリーム在籍中、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長し始めたが、バンドのリードヴォーカルはブルースが大部分を担当し、作詞家のピート・ブラウンと一緒に曲の大半を書いていました。クリームの最初のギグは1966年7月29日にマンチェスターのツイステッド・ホイール・クラブで行われ非公式な物で、正式なデビューはその二日後、ウィンザーの『ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル』でした。クリームは大音量のブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続的な伝説を確立しました。

1967年の初めまでに、イギリスで出現したブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写し始めた。しかしクラプトンは、アシッドロックを吹き込んだギタリストであるジミ・ヘンドリックスの登場で、彼がライバルであることに気がつきます。ヘンドリックスは、フィードバック奏法とエフェクトペダルを使用して新しいサウンドを作り出します。ヘンドリックスは1966年にセントラル・ロンドン・ポリテクニックで行われたクリームのライブに出演し、その間彼は「キリング・フロアー」のダブルタイムバージョンを演奏しました。クラプトン、ピート・タウンゼント、ローリング・ストーンズやビートルズのメンバーを含むイギリスのトップスター達は、ヘンドリックスの初期のクラブパフォーマンスに熱心に参加しました。ヘンドリックスの到着は、クラプトンのキャリアの次の段階に即座に大きな影響を及ぼします。

『クリーム』や『パワーハウス』、『ブラインドフェイス』、『デレク・アンド・ザ・ドミノス』での活動を経て、ドラッグやアルコール依存症に陥ったクラプトンは、一時活動を休止します。その後、ローリング・ストーンズや元ビートルズのメンバーの助けにより復活を果たした彼は、ソロアルバム『エリック・クラプトン・ソロ』をリリース。全英14位、全米13位を記録します。

クラプトンは1974年にボイドと同居を始め(2人は1979年まで結婚しなかった。)、もはやヘロインは使用していませんでした(代わりに飲酒量が増えていった。)。彼は控えめなツアーバンドを結成し、メンバーはレイドル、マイアミのギタリストジョージ・テリー、キーボーディストのディック・シムズ(2011年死去)、ドラマーのジェイミー・オールデイカー、ヴォーカリストのイヴォンヌ・エリマンとマーシー・レヴィ(マルセラ・デトロイトとしても知られる)が含まれました。このバンドでクラプトンは『461 オーシャン・ブールヴァード』(全英3位、全米1位、1974)を録音しました。これはよりコンパクトな曲とより少ないギターソロに重点を置いたアルバムであった。「アイ・ショット・ザ・シェリフ」(全英9位、全米1位)のカバーバージョンはクラプトンの最初のナンバーワンヒットであり、レゲエとボブ・マーリーの音楽をより多くの聴衆に届けるのに貢献しました。。1975年のアルバム『安息の地を求めて』(全英15位、全米21位)もこの傾向を続けました。アルバムのオリジナルタイトルである『The World’s Greatest Guitar Player (There’s One in Every Crowd)』は、その皮肉な意図が誤解されると感じられたため、プレス前に変更されました。バンドはワールドツアーを行い、その様子は『エリック・クラプトン・ライヴ』(全英14位、全米20位)となってリリースされました。クラプトンはその後もアルバムをリリースし続け、定期的にツアーを行います。この期間のハイライトとして、『ノー・リーズン・トゥ・クライ』(全英8位、全米15位)(ボブ・ディランとザ・バンドとのコラボレーション)、『スローハンド』(全英3位、全米2位)(「ワンダフル・トゥナイト」と2度目のJ・J・ケイルのカバー「コカイン」を含む)が挙げられます。1976年、彼はマーティン・スコセッシのドキュメンタリー「ラスト・ワルツ」で撮影されたザ・バンドの解散ライブで、一連の著名なゲストの1人として出演しました。1977年頃はロニーレインと共に過ごす事が多くなり電車を貸し切り気ままなヨーロッパツアーも行います。

1981年、クラプトンはプロデューサーのマーティン・ルイスに招待され、アムネスティ・インターナショナルのチャリティーコンサートであるロンドンの「シークレット・ポリスマンズ・アザー・ボール」に出演しました。クラプトンは招待を受け入れ、ジェフ・ベックと組んで数曲をデュエットしました。伝えられるところによると、彼らの最初のステージにおけるコラボレーションでした。公演のうち3曲はショーのアルバムでリリースされ、1曲は映画に登場しました。ロンドンのドゥルリー・レーン劇場での公演は、新しい10年でクラプトンの形と卓越性への回帰を告げます。ヘロイン中毒の前に改宗した「キリスト教への深いコミットメント」など、多くの要因がクラプトンの復帰に影響を与えます。

クラプトンはマネージャーに電話し、アルコール依存症であることを認めた後、1982年1月にミネアポリス・セントポールに飛び、ミネソタ州センターシティにあるヘーゼルデン・トリートメントセンターにチェックインしました。飛行機の中で、クラプトンは二度と飲むことができないのではないかと恐れて、たくさんの酒を飲んだ。クラプトンは自伝に次のように書いています。

退院後ヘーゼルデンの医師は、クラプトンがアルコール依存症やストレスの引き金となるような活動に参加しないように勧めます。しかし、それは起こりました。クラプトンは1987年にヘーゼルデン・トリートメントセンターに戻ることとなります。それ以来、彼は冷静さを保っています。最初のリハビリから退院してから数か月後、クラプトンは医師の指示に反して次のアルバムの制作を始めます。トム・ダウドと協力して、彼はこれまで「最も強制的な」アルバム『マネー・アンド・シガレッツ』(全英13位、全米16位)を制作します。クラプトンは、アルコール依存症からの最初のリハビリの後、「それ(金とタバコ)が自分が去ったのを見たすべてだったから」このアルバム名を選びました。

1984年にクラプトンはピンク・フロイドの元メンバーであるロジャー・ウォーターズのソロアルバム『ヒッチハイクの賛否両論』に出演し、サポートツアーに参加しました。それ以来、ウォーターズとクラプトンは密接な関係を築いてきます。2005年に彼らは津波救援基金のために共演しました。2006年、彼らはカントリーサイド・アライアンスの支援を受けて、ハイクレア・カースルで「あなたがここにいてほしい」と「コンフォタブリー・ナム」の2曲を演奏します。現在は定期的にチャリティーパフォーンスを行っているクラプトンだが、1985年にフィラデルフィアのジョン・F・ケネディ・スタジアムで開催されたライヴエイドコンサートで、フィル・コリンズ、ティム・レンウィック、クリス・ステイントン、ジェイミー・オールデイカー、マーシー・レビー、ショーン・マーフィー、ドナルド・ダック・ダンらと共演しました。視聴時間のピークに近いスロットを提供されたとき、彼は明らかに照れていたようでした。彼は1980年代もコンスタントにアルバムを発表し、1985年には「フォーエヴァー・マン」(全英51位、全米26位)と「シーズ・ウェイティング」の2つのヒット曲を含んだ『ビハインド・ザ・サン』(全英8位、全米34位)をフィル・コリンズと共に制作し、1986年の『オーガスト』(全英3位、全米37位)でもコリンズを起用しました。

その後は、元ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスンの日本公演に付き添ったり、1988年のアルバム『ジャーニーマン』(全英2位、全米16位)から「バッドラブ」(全米88位)がヒットと忙しい時期を過ごします。

1990年代はロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートで始まりました。『24ナイツ』(全英17位、全米38位)は同会場で1990年、1991年にかけて行われた演奏が収められました。1990年、ダイアー・ストレイツ、クラプトン、エルトン・ジョンがイギリスのネブワースで開催されたノードフ=ロビンズのチャリティーショーにゲスト出演しました。1990年、クラプトンと一緒にツアーを行っていたブルースギタリストのスティーヴィー・レイ・ヴォーンとそのロードクルーのメンバー3名が、コンサート後の移動で乗り込んだヘリコプターが墜落し、死亡しました。1991年、クラプトンの4歳の息子コナーが母親の友人のニューヨーク市東57丁目117番のアパートの53階の窓から転落して死亡しました。コナーの葬儀にサリー州リプリーのクラプトンの故郷の村にあるマグダラのマリア教会で行われました。1991年、クラプトンはリッチー・サンボラのアルバム『ストレンジャー・イン・ディス・タウン』の「ミスター・ブルースマン」でギターを演奏しました。この曲は彼に捧げられたものであった。彼は翌年のエルトン・ジョンのアルバム『ザ・ワン』で、エルトンとのデュエットである「ランナウェイ・トレイン」にギターとヴォーカルで参加しました。

クラプトンの悲しみは、ウィル・ジェニングスとの共作「ティアーズ・イン・ヘヴン」(全英5位、全米2位)で表され、第35回グラミー賞でクラプトンはとアルバム『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』(全英2位、全米1位)で6つのグラミー賞を受賞しました。このアルバムは1992年にバークシャーのウィンザーにあるブレイ・フィルム・スタジオで少人数の聴衆の前で行われたライブ演奏が収められたものでした。アメリカで1,000万枚以上を販売したことでRIAAからダイヤモンドの認定を受賞しました。イギリスではプラチナの認定を4回受賞。1992年、クラプトンは1992年のMTVビデオミュージックアワードで「ティアーズ・イン・ヘヴン」を演奏し、最優秀男性ビデオ賞を受賞しました。

1992年、クラプトンは英国作曲家賞、作曲家賞、作曲家賞、生涯功労賞を含む4つのアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞しました。1992年にはボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートに出演しています。コンサートはニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで録音され、二枚組のアルバム『30~トリビュート・コンサート』としてリリースされました。多くの有名人が古くからのディランの曲を演奏し、その様子が収められた。クラプトンは「天国への扉」(全英38位)でリードギターを担当し、同曲はコンサートのフィナーレの一部でした。クラプトンはアコースティックギターによる『アンプラグド』の成功の後、1994年のアルバム『フロム・ザ・クレイドル』(英米1位)では、古いブルーススタンダードをエレキギターでカバーしました。1995年、クラプトンはクリッシー・ハインド、シェール、ネナ・チェリーと共演したシングル「Love Can Build a Bridge」を、チャリティー番組「コミックリリーフ」の支援としてリリースした。同シングルはクラプトンが出演したシングルで初めて全英1位となりました。

1996年、クラプトンはニューヨーク市のレキシントン・アーモリーで行われたアルマーニのパーティーにグレッグ・フィリンゲインズ、ネイザン・イースト、スティーヴ・ガッドらと共に出演しました。シェリル・クロウは「ティアリング・アス・アパート」を歌ったが、『オーガスト』からのこの曲は1986年のプリンス・トラスト・オールスター・ロックショーでティナ・ターナーが最初に演じた曲であった。ハイドパークで開かれた野外コンサートに続いて行われたこのショーは、その年のクラプトンの唯一のアメリカにおけるショーでした。1996年にウェイン・カークパトリック/ゴードン・ケネディ/トミー・シムズらと録音した「チェンジ・ザ・ワールド」(全英18位、全米5位、映画「フェノミナン」のサウンドトラック)は、1997年にグラミー賞のソング・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。同年彼は『Retail Therapy』(サイモン・クライミーが所属するTDFのアルバム)のレコーディングにも参加した。1997年、クラプトンはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催されたモントセラト島救済コンサートに出演、「いとしのレイラ」と「セイム・オールド・ブルース」を演奏した後、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、フィル・コリンズ、マーク・ノップラー、スティングらとともに「ヘイ・ジュード」を演奏しました。その秋、クラプトンはアルバム『ピルグリム』(全英6位、全米4位)をリリースしました。

1996年にクラプトンはシンガーソングライターのシェリル・クロウと関係を持っていた。彼らは友達のままで、クラプトンはクロウのセントラル・パークでのコンサートにゲストとして出演した。2人はクリームのヒット曲「ホワイト・ルーム」を演奏し、その後クラプトンとクロウは、2007年6月のクロスロード・ギター・フェスティバルで他のギターレジェンドらと共に「タルサ・タイム」を演奏し、2008年8月にロンドンのハイド・パークでジョン・メイヤーとロバート・ランドルフと共にロバート・ジョンソンのブルースクラシック「クロスロード」を演奏しました。

1999年2月24日、第41回グラミー賞でクラプトンは「マイ・ファーザーズ・アイズ」(全英33位)で3度目のグラミー賞最優秀男性ポップボーカルパフォーマンスを受賞しました。1999年、コンピレーションアルバム『ベスト・オブ』(全英6位、全米20位)がリリースされました。このアルバムには映画「プリティ・ブライド」の劇中曲「ブルー・アイズ・ブルー」(全英94位)が収められました。20世紀はカルロス・サンタナ、B.B.キングとのコラボレーションで終えることとなります。クラプトンはキングを尊敬し、常に彼と一緒にアルバムを作りたいと思っていました。キングはクラプトンについて「私はその男を尊敬している。彼はギタリストとしてロックンロールでナンバー1、そして素晴らしい人物としてナンバー1だと思う。」と語っています。

クラプトンは2001年にアルバム『レプタイル』(全英7位、全米5位)をリリース。同時多発テロの1か月後、クラプトンはバディ・ガイと共演してニューヨークシティ・コンサートに出演しました。2002年にエリザベス2世即位50周年記念イベントで、クラプトンはバッキンガム宮殿の敷地内で行われたパレス・コンサートで「いとしのレイラ」と「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を演奏しました。2002年1、コンサート・フォー・ジョージがロイヤル・アルバート・ホールで開催されました。これは前年に肺がんで死去したジョージ・ハリスンへのオマージュでありました。クラプトンはパフォーマーであり、音楽監督も担当しました。コンサートにはポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ジェフ・リン、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、ラヴィ・シャンカル、ゲイリー・ブルッカー、ビリー・プレストン、ジョー・ブラウン、ダーニ・ハリスンらが出演しました。2004年、クラプトンはロバート・ジョンソンのカバーを収録した2枚のアルバム、『ミー&Mr.ジョンソン』(全英10位、全米6位)と『セッションズ・フォー・ロバート・J』(全米172位)をリリース。アルバムにはドイル・ブラムホール2世が参加し、彼は2004年のクラプトンのツアーにも参加しました。この年ローリング・ストーン誌はクラプトンを「史上最高のアーティスト100人」のリストで53位にランク付けしました。その他のメディア出演には、トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズのグラミー賞受賞アルバム『トゥルー・ラヴ』への参加があり、「プレッシャー・ドロップ」でギターを演奏しています。

その後も、ソロアルバムやベスト盤を発表し、高い評価を得ています。2016年5月20日、クラプトンは23枚目のスタジオアルバム『アイ・スティル・ドゥ』(英米6位)をリリースしました。2016年にはライブアルバム『ライヴ・イン・サン・ディエゴ with スペシャル・ゲスト J.J.ケイル』(全英60位、全米47位)がリリースされました。2018年、クラプトンはクリスマスソングをブルースの解釈で構成した24枚目のスタジオアルバム『ハッピー・クリスマス』(全英97位、全米84位)をレコーディングし、リリースしました。

“神と呼ばれた男”エリック・クラプトン。77歳、現在も精力的に活躍しています。

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シンガーソングライター

引用

アメリカでは、70年代にシンガーソングライターブームが巻き起こります。そんなブームを、牽引したアーティストをご紹介しましょう。

ジャクソン・ブラウン

1948年西ドイツ・ハイデルベルク生まれ。1972年のデビューアルバム収録の「ドクター・マイ・アイズ」が全米8位を記録。1982年には、『初体験/リッジモンドハイ』の主題歌「誰かが彼女を見つめてる」が全米7位を記録し、過去最高のセールスをなりました。2004年、『ロックの殿堂』入り。73歳現在も、現役バリバリです。

ジェームス・テイラー

1948年アメリカ・ボストン生まれ。1971年、キャロル・キングのアルバム『つづれおり』収録曲「君の友達」を、カバーし全米1位を獲得。「カントリー・ロード」(全米37位)、「ファイア・アンド・レイン」(全米3位)などヒット曲を量産。2000年に『ロックの殿堂』入りを果たしました。

リンダ・ロンシュタット

1946年アメリカ・ツーソン生まれ。長い下積みさ時代を経て、1974年にアルバム『悪いあなた』から同タイトル曲が全米1位を記録。キャロル・キングと共に女性シンガーのブームを牽引。2014年『ロックの殿堂』入りを果たしました。

カーリー・サイモン

1945年アメリカ・ニューヨーク生まれ。1972年にミック・ジャガーをバックボーカルに迎えたシングル「うつろな愛」とアルバム『ノー・シークレッツ』が共に全米1位を記録。その後も、サウンドトラックの主題歌のヒットなどを生み出した、1994年『ソングライターの殿堂』入りを果たしました。

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カナダにもいますよ^_^

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ロック/ポップスと言えば、アメリカ、イギリスというイメージがあると思いますが、”甘い甘い“‼️‼️‼️カナダにもいますよ。『ブライアン・アダムス』がいます。

1959年、カナダオンタリオ州キングストン出身。

10代から音楽活動を始め、19歳でA&Mレコードとソングライターとして契約。すぐにシンガーとしても契約を結びました。

1980年、デビュー・アルバム『ギヴ・ミー・ユア・ラヴ』、1981年に2作目のアルバム『ジェラシー』(全米118位、全英78位)を発表。1983年に発表された3作目のアルバム『カッツ・ライク・ア・ナイフ』が全米アルバムチャート8位(全英21位)となり、「フロム・ザ・ハート」が全米チャート10位(全英51位)、「カッツ・ライク・ア・ナイフ」が全米チャート15位(カナダ12位)、「ディス・タイム」が全米チャート24位(カナダ32位、全英41位)と、3作のリカット・シングルがヒットしましま。

1984年にリリースされた4作目のアルバム『レックレス』(全米1位、全英7位)が世界でヒットし、年間チャートでもブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』に次ぐ2位を記録した。シングル・カットされた「ヘヴン」が、自身初のシングルチャート全米1位となりました(カナダ11位、全英38位)。その他、「ラン・トゥ・ユー」(全米6位、全英11位)「サムバディ」(全米10位、35位)「想い出のサマー」「イッツ・オンリー・ラヴ」(全米15位、全英25位)のリカット・シングルもヒットしました。

1987年に、5作目のアルバム『イントゥ・ザ・ファイヤー』をリリース。前作ほどではないものの全米7位、全英10位と好調なセールスを記録しました。

1989年に、クリント・イーストウッド主演の映画『ピンク・キャデラック』で劇中曲の作詞を担当。これが縁で、イーストウッド演じる主人公がリノに向かう途中に寄るガソリンスタンドの従業員の役でカメオ出演しました。

1991年に4年ぶりのアルバムとなる『ウェイキング・アップ・ザ・ネイバーズ』を発売、全米チャート6位、全英では初の1位を獲得し、初めてイギリスでのチャート順位がアメリカを上回り、前作を超えるセールスを記録。先行シングル「アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー」は、映画『ロビン・フッド』のテーマ曲となり、全米チャート7週連続で1位、年間ランキングのトップとなった。全英では1位を16週連続で獲得してギネスブックに最長連続1位として登録され、スウェーデンとオランダで11週連続、カナダでは39週連続で1位を記録したほか、ドイツ、ベルギー、オーストリア、スイス、フィンランド、ノルウェー、デンマークのチャートも制覇しました。

1993年、ロッド・スチュワート、スティングとの3人で「オール・フォー・ラヴ」をリリース。これは、映画『三銃士』のテーマ曲となったことにちなんで、3人で「三銃士」を結成したもので、全米チャート1位(全英2位)となっりました。同年、ベスト・アルバム『ソー・ファー・ソー・グッド』を発売。全米6位、全英1位。

1996年、5年ぶりとなるアルバム『18 TIL I DIE』をリリース。本作は、全米では以前ほどの大ヒットに至らず最高31位に甘んじたが、全英では1位を獲得しました。シングル・カットされた『ドンファン』の主題歌「リアリー・ラヴド・ア・ウーマン」(全米4位、全英1位)がヒット。

1997年には、MTVの人気番組「MTVアンプラグド」に出演、指揮者のマイケル・ケイメンとの初共演で、自身の持ち歌を大胆にリアレンジした意欲作となりました。後に、ライヴ・アルバム『MTV アンプラグド』(全米88位、19位)としてリリース。

1998年、アルバム『デイ・ライク・トゥデイ』発表、全英では11位と健闘するものの、全米では103位とこれまでになく低迷し、以後本人もイギリスをマーケットの中心に据えるようになります。リカット・シングル「ウエン・ユア・ゴーン」は、スパイス・ガールズのメラニーCとのデュエット曲で、全英チャート3位を記録しました。

英米での人気の逆転傾向を顕著に示したのが、1999年発表のベスト・アルバム『ベスト・オブ・ミー/ブライアン・アダムス・ベスト2』で、この作品は欧州と日本では同年に発売され、全英で12位を記録するものの、アメリカでの正式な発売は3年後の2002年でした。これは、本作に合わせたワールド・ツアー、アメリカ・ツアー開始に合わせたものです。

2002年にはドリームワークスのアニメ『スピリット』のサウンドトラックを発表。映画の興行的な不振もあってさほどの話題にはならなかったが、本作は彼が初めて手がけたサウンドトラックで全米40位、全英8位を記録しました。

2004年には、6年ぶりとなるアルバム『ルーム・サービス』をリリース。これは、長いワールド・ツアー中に制作され、すべての楽曲が世界各国のホテルの室内で録音されているユニークなアルバムです。また、プライベートでも仲が良く、前年に急逝したマイケル・ケイメンへの追悼の意も込められている。全英4位、全欧州で1位を記録しています。

デビュー25周年の2005年は、総括的ベスト・アルバム『アンソロジー』(2枚組)をリリース。全米65位、全英30位となっています。

2008年には11作目のアルバム『11』をリリース。全11曲(日本盤は1曲ボーナストラックあり)、欧州11都市でプロモーションツアー11公演、と「11」尽くしの作品となった。カナダ、スイスで1位を獲得。

2010年、バンクーバーオリンピック開会式にネリー・ファータドとともに登場し、「Bang the Drum」をデュエットしました。

2015年には、『ゲット・アップ』をリリース。全米99位、全英2位を記録してます。

やはり、『ロビン・フッド』の主題歌が好きですね(投稿者談)。



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