不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

四畳半の伝道師

引用

日本で、ブレイクした『フォークブーム』。さだまさし。『グレープ』として成功を収めましたが、同時期に同じようなグループがいました。『かぐや姫(南高節とかぐや姫)』です。

1970年 – 南こうせつ、森進一郎、大島三平の3人で『南高節とかぐや姫(第1期かぐや姫)』としてデビュー。代表作は「酔いどれかぐや姫」(79位)(など。シングル『変調田原坂』からグループ名を南こうせつとかぐや姫に改名。『酔いどれかぐや姫』『変調田原坂』(100位)はオリコン100位以内に食い込みます。

なお『酔いどれかぐや姫』は準レギュラーとして出演していた『桂三枝のさかさまショー』(よみうりテレビ)の番組中またはエンディングで3人が十二単(じゅうにひとえ)姿で演奏していたものであります。よみうりテレビ『全日本歌謡選手権』にも出場し4週勝ち抜いたが次の週の挑戦を辞退。

シングル3枚とアルバム1枚を残し、1年間の活動ののち、1期メンバーでの活動は終了。森は地元で銀行員として、大島も地元でイベンターとして、南とは別の道を歩む。森は定年退職後、大島とともに『初代かぐや姫』として南とは別に活動を再開。地元の大分放送ラジオにて『フォーク十三夜~まだまだ青春~』のパーソナリティーを務めています。

1971年 – 高校の後輩だった伊勢とカレッジフォークグループ「シュリークス」を脱退したばかりの山田と共に南こうせつとかぐや姫(第2期かぐや姫)を結成。

1971年- シングル『青春』で再デビュー。

1972年 – テレビアニメ『海のトリトン』(朝日放送・TBS系)の主題歌「海のトリトン」を『須藤リカ/南こうせつとかぐや姫』名義のシングルとして発売。番組のオープニング(最初の6回まで)またはエンディング(7回以降)で、須藤リカとかぐや姫がこの曲を歌う実写映像が使われました。

1972年- アルバム『はじめまして』(45位)発売。吉田拓郎らの協力を得て制作され、5万枚を売り上げます。

1973年- シングル『神田川』(1位)を発売。深夜放送のリスナーから支持を得て、シングルカットされたこの曲は、最終的に160万枚を売り上げる自己最大のヒット曲となります。この年NHK紅白歌合戦に出場の話が来るが、歌詞に登場する「クレパス」が商標であることから、「クレヨン」への変更を要請され、出演を辞退。神田川」は後に東宝において映画化されるが、主役のイメージが歌と大きく違いすぎたと南こうせつは話しています。

その次のシングルとして南こうせつが考えていたのは「22才の別れ」か「なごり雪」であったが、すでに映画化が決まっていたためレコード会社側が一方的に決めた「赤ちょうちん」(4位)をリリース(この曲からグループ名を「かぐや姫」に変更)。その後も映画化の話が絡み「妹」(16位)がシングルになるなど、アーティストの意思が無視されることが続き、それが原因で解散が早まったといいます。

1975年- 東京神田共立講堂で行われた解散コンサートを最後に解散。南こうせつと山田パンダはソロ、伊勢正三は『風』として、音楽活動を継続する。最後の2枚組アルバム『かぐや姫フォーエバー』(1位)は、オリコンLPチャートのトップ100に186週ランクインを記録しました。

1975年- 再結成。吉田拓郎、山本コウタローらとともに、静岡県掛川市で12時間のオールナイトコンサート「つま恋コンサート」を行い、5万人(警察発表では6万人)の観客を集めます。南こうせつと山田パンダはソロ、伊勢正三は『風』としても出演。

1978年- アルバム『かぐや姫・今日』を発売し、期間限定の再結成。

1978年 – 再結成コンサートを全国で行う。パンダの誕生日(5月13日)には横浜スタジアムで行われた。この時の模様は1985年に『the KAGUYAHIME “Live “forever』としてLP化され、95年にCD化されています。

1980年-「木田高介・阿部晴彦追悼コンサート」(日比谷野外音楽堂)で再結成。

1985年-「吉田拓郎 ONE LAST NIGHT in つま恋」にて一夜限りの再結成。「人生は流行りステップ」・「僕の胸でおやすみ」・「なごり雪」を披露。

1999年-「南こうせつ サマーピクニック ドリーム」で再結成。これ以降、各自がソロ活動をしながらしばしば再結成することとなります。

1999年 – 同年のNHK紅白歌合戦に出演。「神田川」を披露。

2000年~2001年 – 再結成コンサートツアー「ベスト・ドリーミン」を全国で行います。

2000年- マキシシングル「青春の傷み」(63位)を発売。

2005年 – 戦後60年を記念して広島市で再結成コンサート「ヒロシマ60」を行います?

2006年- 各メンバーの故郷である福岡県飯塚市(山田)とそ(南・伊勢)で「ふるさとライブ」を行います。

2006年- 吉田拓郎の呼びかけで再結成、静岡県掛川市で「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」を行います。9時間半のコンサートに、日本各地から35,000人のファンが集まります。

2013年 – 南と伊勢の二人で「ひめ風」としてコンサートを行います。

メンバー全員70歳こえてます。燻銀ですね^_^



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

ここから、始まった‼️‼️‼️

引用

またまた、『フォーク・ソング』についてですが、前述で述べた『さだまさし』の在籍していた『グレープ』について解説していきます。

さだまさしと吉田正美の二人は1969年、当時高校2年生のときに共通の友人の紹介で知り合いました。当時さだはアマチュア・バンド『フライング・ファンタジー』のリーダーであり、吉田はアマチュア・バンド『レディ・バーズ』のリーダーでした。翌1970年の春にさだ、吉田ともうひとりのメンバー3人でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに応募するが予選落ちしています。さだと吉田はその後も他にメンバーを集めてバンド活動を行っているが、プロになることは考えていなかったという。さだは國學院高等学校を卒業後、國學院大學・法学部に入学。在学中、大学にはほとんど行かず数々のアルバイトをしながらアマチュア・バンド活動の生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに1972年初旬長崎に帰郷し大学を中退します。同年、吉田が東京から長崎にいるさだを訪ね、そのままさだ家に住むこととなりました。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て咄嗟に「おい! よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することが出来なくなったといいます。以後二人は意気投合し同年、デュオバンドを結成します。ただし、実情は「とりあえず」二人だけでやるという結成でした。コンサートの開催を考えコンサートの興業団体に掛け合うが、いずれの団体とも話はつかず、結局はファースト・コンサートを自主開催することとなりました。コンサート開催に際してグループ名が必要になったため、吉田政美が楽譜のトレードマークにしていた”Grape”でどうかとさだに提案。さだは「ああ、そうしよう」と答え、1分でグループ名が決まったといいます。のちに『グレープ』の名で全国に知られるようになるが、さだはデュオの正式表記は”Grape”であるとしています。

初めてのコンサートを前にグレープは、島原市の著名人でさだの父親の友人でもあった宮崎康平を訪ねた。その際グレープは宮崎に後、『わすれもの』に収録される歌「紫陽花の詩」を披露しています。これを聴いた宮崎は「これは面白い。このような歌は今まで聴いたことがない。」と感心し、懇意にしている長崎放送の吉田昭平と武縄潔にグレープを紹介します。また長崎新聞社の学芸部・宮川密義にも紹介します。宮川は二人を面接して歌を聴きヒット性を予見、長崎新聞のヤング欄に写真入りでグレープを紹介し、ファースト・コンサートの案内を記載しました。しかしNBCビデオホールにおける初めてのコンサートは定員304席のところ250人程度の聴衆しか集まらず、さだの弟の繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったといいます。(さだはこのことをして「キャバレー方式」と呼んだ)。宮崎康平より依頼を受けた長崎放送ラジオのディレクター吉田昭平がこのファーストコンサートに臨席したことからラジオ出演へとつながります。のちにグレープはローカル番組「テレビ・ニュータウン」のレギュラーに起用される。やがて音楽プロデューサー川又明博によってスカウトされ、1973年に「雪の朝」でワーナー・パイオニアより全国デビューしました。所属プロダクションはユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的にはザ・バードコーポレーションからの採用を受け、デビューに至ります。

デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず[5]、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったといいます。1974年に第2作目のシングル「精霊流し」(2位)を発表しますが、まだ無名のフォークデュオであったため、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサーの蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けます。これが助力となって、放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞受賞することとなりました。

1974年に3枚目の「追伸」をリリース。4枚目の「ほおずき」(1975年リリース)は二人が考えていたほどのヒットには至らず、5枚目の「朝刊」(1975年リリース)は、それまでの暗いイメージの払拭を狙ってのリリースであったが、彼らが考えていたほどのヒットにはなりませんでした。しかしクラフトのセカンド・シングルのために提供した「僕にまかせてください」(1975年)は大ヒットし、さだはソングライターとしての手腕を発揮しています。また「朝刊」の制作時に議論の末、リリース先送りになった楽曲が後にクラフトがヒットさせた「さよならコンサート」(サード・シングル。1975年リリース)である。1975年、6枚目にしてグレープ名義ではラスト・シングルとなる「無縁坂」(12位)をリリースし、「精霊流し」以来の大ヒットとなります。さらに、アルバム『コミュニケーション』(7位)に収録された「縁切寺」は収録曲の中でもとりわけ人気を博し、グレープ解散後の1976年にはバンバンがシングルとしてカヴァー・リリースし、ヒットさせています。

今ではフォークデュオとして記憶されているが、後にさだまさしが語るには「ロックをやりたかった」のだと言います。さだのヴァイオリンと吉田のジャズ・ギターを活かしたサウンドを目指していたといわれています。確かに無国籍な印象のあるデビュー曲「雪の朝」や「精霊流し」のB面に収録されたフレンチ・ポップス風の「哀しみの白い影」など、いわゆるフォークの枠に収まらない楽曲も多くありました。また、セカンド・アルバム『せせらぎ』(10位)収録の「ラウドネス」や『グレープ・ライブ 三年坂』(2位)に収録されている吉田の「バンコ」、さだの「第一印象」といった楽曲は明らかにフォークソングではなく、彼らが本当にやりたかった音楽の片鱗がうかがえます。

なお、さだは後年「男性二人のデュオは当たらないという当時のジンクスを自分たちが打ち破った」と語っているものの、前例として1969年デビューのビリーバンバンや、1973年デビューのあのねのねなどがあります。

1975年ごろからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られています。また世間的には「精霊流し」のヒットにより、精霊流し=暗い=グレープというイメージがつき、さらに「精霊流し」と同傾向の「無縁坂」がヒット曲となりました。さらに、雰囲気を変えるために出された「朝刊」が思うようにヒットしなかったことや、「精霊流し」・「無縁坂」と同傾向のアルバム曲「縁切寺」が好評を博したことなどが重なってしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)を感じるようになりました。このような経緯から1976年春にグレープは解散に至ります。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べています。

なお、解散時期については、1976年とする資料と、解散コンサートを長崎県で行ったとする資料があり、さだまさしの公式WEBサイトでは「3月」となっていた(現在は修正済み)が、後にさだ企画社長の佐田繁理(さだの実弟)が当時の所属事務所であるバードコーポレーションの社長から入手したグレープ時代のスケジュール表によると、1976年放送の文化放送『グレープのセイ!ヤング』最終回が、グレープとしての最後の仕事となっているとのことでした。

さだまさしは解散の後、長崎放送などへ就職活動を行ったが上手くいかず、結局解散した年の秋にシングル「線香花火」(38位)でソロ・デビューしました。その後、シンガーソングライターとして1970年代後半から80年代前半にかけて「関白宣言」(1位)、「親父の一番長い日」(1位)、「道化師のソネット」(2位)、「防人の詩」(2位)などのヒット作を連発。現在に至るまで活躍を続け、近年では小説家としても活動しています。

吉田は「吉田正美と茶坊主」などの音楽活動を経て1981年にレコードディレクター/プロデューサーに転身。名前も正美から政美へと改めます。SMSレコードで制作部に勤務した後、バップに入社し所ジョージなどのアルバム制作を担当。プロデューサー職を経て、現在は管理部門に勤務しています。

解散から15周年目の1991年には一度「レーズン」の名で再結成し、アルバムをリリースしている。なお、レーズン名義になった理由は、もう新鮮なグレープ(葡萄)ではなく、年月を経てしなびた葡萄、すなわちレーズン干し葡萄)になったというさだの洒落からである。

また、2002年には、東名阪で行われた「さだまさしデビュー30周年記念コンサート」で、グレープとしてステージに登場しました(それ以前にも、さだのデビュー10周年記念コンサートや、1991年に行なわれたさだのチャリティーコンサート「夏・長崎から’91」にグレープで出演している)。これ以降、数年間は以下のように毎年、何らかの形でグレープとしての活動を行っています。2003年グレープ生誕の地、長崎にて、「グレープ帰郷」コンサートを行います。

2004年 さだのアルバム『恋文』(18位)のうちの2曲に吉田が参加。

2005年日本武道館で行われた、さだの3333回記念コンサートに吉田が出演。

2006年 ファンクラブ向けアリーナコンサートおよび『夏・長崎から ファイナル』へ吉田が出演。NHK番組『長崎から突然生放送! 真夏の夜もさだまさし』では、4曲をグレープで生演奏。9月リリースのさだのアルバム『美しき日本の面影』に吉田が参加。

グレープ時代の楽曲は基本的にさだまさしが作詞・作曲しているが、数曲吉田の作品もあります。なお、グレープ時代は作者がヴォーカルを務める、というシステムをとっており、吉田作品はヴォーカルも吉田です。シングル曲はすべてさだが歌っているが、レーズンとして再結成した際にリリースした「糸電話」は主部を吉田が歌いサビをさだが歌っています。当初二人ともヴォーカルを嫌がり、どちらが歌うかをジャンケンで決めることにしたところ、さだが負けたためにさだがヴォーカルに決まったといいます。

デュオとしても、ソロとしても成功をおさめてるところが凄いですね。



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

関白宣言の人

引用

日本のフォークブームにおいて、この人は外せないでしょう。その人の名は『さだまさし』。

父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、1952年、長崎県長崎市で生まれます。

佐田家の本家は島根県那賀郡三隅町にあり、本家の二男だった祖父・繁治は中国大陸や極東ロシアに渡り諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主でした。その繁治と結婚した祖母エムもまたソ連のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在でした。父・雅人は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子と結婚し、その結果、雅志が誕生したのでした。

雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった(ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる)。

3歳よりヴァイオリンを習い始めます。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していました。中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごしました。

最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたといわれています。中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになります。駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで京成本線高架や市川橋の下に行っていたという(なお、当時はNHK連続テレビ小説『おはなはん』にはまって38日間連続して遅刻といった調子の生活をしていたという)。

上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまいます。家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現します。

國學院大學法学部に進学する。ペンキ屋(塗装工員)など、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷します。1972年、高校時代からの友人吉田正美が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなります。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったといいます。以後二人は意気投合し同年、バンド『グレープ』を結成、音楽活動を開始する。NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったといわれています(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニアより全国デビューしました。所属事務所(プロダクション)はユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的には赤い鳥の事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、デビューに至ります。

デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー・蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けました。これが助力となって、同番組の放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の作詩賞を受賞することとなった。

1975年11月にリリースした「無縁坂」(12位)もヒット曲となりました。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られています。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散しましま。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べていました。

1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始めます。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。

1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となりました。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなりました。その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」(15位)などがヒットします。

1978年に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」(9位)をリリースしました。同年にリリースした「関白宣言」(1位)は150万枚を超える大ヒットとなります。以後「親父の一番長い日」(1位)「道化師のソネット」(2位)「防人の詩」(2位)「驛舎」(9位)など、数々のヒット曲を放ちます。

1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当。一方、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年に公開され映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだはました。映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり)さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金(負債)が残ってしまいました。大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意します。

1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となります。

1985年、ソロ・コンサート通算1,000回(東京厚生年金会館)を達成します。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしています。。ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型です。

1987年、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催しました。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなりました。

1993年、ソロ・コンサート通算2,000回(大阪フェスティバルホール)を達成しました。

1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始します。(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。

1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞しました。

2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱しました。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行います。(女性は1994年の髙橋真梨子が初)。

2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされました。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説「精霊流し」の世界』を発売しました。

児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞します。

2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。

2004年12月、長編小説『眉山』発表。

2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選サッカー日本代表対イランの試合にて「君が代」を独唱。「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』(8位)発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。

2006年、未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送されます。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いています。

2006年、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」(49位)をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。

2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行います。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言します。

2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞されます。

2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。

2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われました。

2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行いました。

2010年、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。

2012年に本門佛立宗横浜の妙深寺、法深寺主催。パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。

2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート( – 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容でした。

2013年、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。

2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。公式インスタグラム開設と「PPAP〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表。

2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社をJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに移籍することが決定。同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。5月27日、第85回日本ダービーで国歌「君が代」を独唱。

苦労を重ね、今でも活躍中です。



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

悲しい最後

引用

イギリスには、70年代にLSDやコカインの応酬により、ロック界は疲弊しながらも新たなるバンドが出てきていました。そんな中、『ジョイ・ディヴィジョン』が表れます。

1976年6月4日の金曜日、かねてからの友人同士であったバーナード・アルブレヒトとピーター・フックは、マンチェスターのフリー・トレード・ホールで行われたセックス・ピストルズのライブを観に行いました。ピストルズのパフォーマンスに衝撃を受けた二人は、すぐに自分たちもバンドを結成することを決意。アルブレヒトがギター、フックがベースを担当することになり、ボーカリストには以前にライヴ会場で顔を合わせたことがあったイアン・カーティスが加入。その後ドラマーを見つけるのに苦労したが、1977年にスティーヴン・モリスがバンドに加わったことでメンバーが固まりました。

当初、バンド名はバズコックスのマネージャーの命名によりスティフ・キトゥンズ(Stiff Kittens)としていたが、すぐにデヴィッド・ボウイのアルバム『ロウ』収録曲からとった「ワルシャワ (Warsaw)」という名称に変更。その後、類似する名前のバンドが存在することが判明したため、バーナード・サムナーの発案およびバンド内での協議により1978年から「ジョイ・ディヴィジョン」と名乗るようになった。この名前はナチス・ドイツの強制収容所内に設けられた慰安所に由来するもので、イェヒエル・デ・ヌールの小説『ダニエラの日記』の一節からとられました。

1978年、ジョイ・ディヴィジョンはファクトリー・レコードのオーナーであり、地元の音楽シーンの顔役であったトニー・ウィルソンが司会を務めるテレビ番組に出演。ほどなくしてファクトリーとレコード契約を締結します。バンドは次第に知名度を高め、1979年にはイアン・カーティスが音楽誌NMEの表紙を飾ります。

1979年4月からは1stアルバム『アンノウン・プレジャーズ』のレコーディングに入ります。当時の彼らの演奏は荒削りでパンク・ロックの影響を引きずっていたが、プロデューサーのマーティン・ハネットの手により劇的な変化が加えられ、張りつめた空気と陰鬱さを併せ持つポストパンクのサウンドが構築されました。これにはイアンの書く絶望や孤独を歌った歌詞も大きく貢献している。アルバムは発売直後から賛辞をもって受け入れられ、全英アルバムチャートでは最高71位だったものの、インディーチャートでは初登場2位を記録し最終的に首位を獲得しました。

アルバム発売後の10月からはバズコックスをサポートする全英ツアーに出ることになり、音楽で生計を立てることが可能になったメンバーはそれまで続けていた仕事を辞めてバンド活動に専念することになりました。

バンドは1980年にヨーロッパを回るツアーを行った後、2月からは全英ツアーを展開。さらに次作『クローサー』のレコーディングのため、再びハネットとスタジオ入りします。バンドが順調に成功への階段を上る一方で、過密したスケジュールは次第にイアン・カーティスの心身を蝕んでいった。持病のてんかんとうつ病、さらに女性関係の問題も抱え精神的に不安定な状態になったイアンは、ツアーの最中の4月7日にフェノバルビタールを服用して自殺を図ります。この時は一命を取り留めたものの、一部のライヴをキャンセルした後にツアーが続行されたため、イアンの健康状態は悪化しました。

1980年、全米ツアーへの出発を前日に控えた月曜日の早朝にイアンは自宅で首を吊り自殺。彼の遺体は同日の昼に帰宅した妻デボラにより発見されました。突然の悲劇によりヴォーカリストを失ったジョイ・ディヴィジョンは活動を停止し、全米ツアーもキャンセルされます。

遺作となったシングル「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」は5月に全英シングルチャート13位を記録。二枚目の(同時に最後の)アルバム『クローサー』がリリースされ、全英アルバムチャート6位まで上昇。年末にはNME誌の特集で年間最優秀アルバムに選出されました。

残されたメンバーは話し合いの末、音楽活動を継続することを決定。イアンの生前に結ばれた「メンバーが一人でも欠けたらジョイ・ディヴィジョンの名前でバンド活動は行わない」という約束に基づき、バンド名はニュー・オーダーに改められ、ボーカルはギタリストのバーナードが兼任することになった。1980年9月には延期されていた全米ツアーを敢行しています。

後年、ニュー・オーダーはイアン・カーティスの自殺が伝えられた時の心境を曲にした「ブルー・マンデー」を発表。同シングルは世界的なヒットを記録しました。

にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p