不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

ニューヨーク・パンクのカリスマ

引用

アメリカは、デトロイトで隆盛した『パンク・ロック(もしくは、プロト・パンク』。それが、ニューヨークに渡り、『ニューヨーク・パンク』の誕生となりました。その始まりといえば、『ニューヨーク・ドールズ』です。

1971年、ジョニー・サンダース(リード・ヴォーカル&ギター)、アーサー・ケイン(ベース)、リック・リヴェッツ(ギター)、ビリー・マーシア(ドラム)が母体となるバンド『Actress』結成。後に『ニューヨーク・ドールズ』と改名。

1972年にギターのリックが脱退。シルヴェイン・シルヴェイン,、およびデヴィッド・ヨハンセンが加入。

フェイセズの全英ツアーのオープニング・アクトに起用され、その激しいライブや中性的なファッションが注目を集め、アンディ・ウォーホルやルー・リード、デヴィッド・ボウイらから絶賛されます。

ツアー中にドラムのビリーが死亡(ドラッグを服用後、ホテルの浴槽で溺死している所を発見される)。バンドは新たにジェリー・ノーランを加えて黄金期メンバーとなります。

1973年、デビュー・アルバム『ニューヨーク・ドールズ』(全米116位)発表(プロデューサーはトッド・ラングレン)。

1974年、2作目のアルバム『悪徳のジャングル』(全米165位)発表。後期ニューヨーク・ドールズのマネージャーは、後にセックス・ピストルズをデビューさせたマルコム・マクラーレンでした。

1975年、初来日前にジョニーとジェリーがニューヨーク・ドールズを脱退。バンドは「ドールズ」名義で活動を続けます。

1977年、正式解散。

1991年、ジョニーが死去。

1992年、ジェリーが死去。

2004年、再結成。

2004年、アーサーが白血病の合併症のため死去。

2006年、『反逆という名の伝説: ワン・デイ・イット・ウィル・プリーズ・アス・トゥ・リメンバー・イーヴン・ディス 』(全米129位、全英130位)リリース。

2009年、『Cause I Sez So』(全米159位)リリース。

2021年、シルヴェインが癌のため死去。

大変、短期間の活動でしたが、後々の『ロンドン・パンク』に大きな影響を与えました。偉大なり‼️‼️‼️

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女性バンド『デビッド・ボウイ』❣️❣️❣️

引用

『デビッド・ボウイ』を男性の『グラム・ロック』アーティストとしたら、女性はやはり、『スージー・クワトロ』でしょう。

1950年、ミュージシャンだった父アート・クアトロッチオはイタリア系であり、母ヘレン・レベルはハンガリー系でした。8歳の頃、父親が率いるグループ『アート・クアトロ・トリオ』に参加。1964年からキャリアを本格スタートし、スージー・ソウルの芸名で姉パティらとガールズバンド『プレジャー・シーカーズ』を結成(後にアーリーン、ナンシーの二人の姉も加入)。地元デトロイトを拠点に、MC5やジェファーソン・エアプレインらとアメリカ各地をツアーで回ります。この頃にまだ駆け出しのテッド・ニュージェントやボブ・シーガーといった、同郷のロックミュージシャンとも交流を深めていきます。

1969年に『クレイドル』と改名し、ベトナムなど海外ツアーも行いました。1970年にデトロイトで歌っている際、ジェフ・ベックのモータウン・スタジオでのレコーディングのために同地に来ていた音楽プロデューサーのミッキー・モストによって高い評価を受け、1971年末にモストを頼ってイギリスに渡りました。

1972年、モスト自身のレーベル・RAKレコードから、ソロ名義のファースト・シングル「Rolling Stone」を発表。フォークソング調の曲で、ポルトガルではチャート1位となったが、他国ではさほど売れませんでした。

1973年に入ってからハードロック路線へのイメージチェンジのため、作曲チームにニッキー・チンとマイク・チャップマンを迎え、芸名も『Suzie Quatro』から『Suzi Quatro』に変えました。セカンドシングルの「キャン・ザ・キャン」は、全英を含むヨーロッパ及びオーストラリアで1位を記録しました。続いてリリースされた「48クラッシュ」(1973年、全英3位)、「デイトナ・デモン」(1973年、全英14位)も大ヒットし、この年のイギリスBest Selling Artist/Female/Singleにて第1位となりました。

1974年にも「悪魔とドライブ」(全英1位)、「トゥ・ビッグ」(全英14位)、「ワイルド・ワン」(全英7位)が英国で大ヒットしました。彼女のファースト及びセカンド・アルバム『クワトロ』は、ヨーロッパとオーストラリアで大成功を収めました。日本でも1970年代の終わりまで大きく支持され、1974年から1978年まで5年連続で日本公演を行われました。1977年には、大都市だけではなく中都市も回る大規模な日本ツアーを成功させ、関連したライブアルバムも発表しています。

しかしながら母国のアメリカにおいては、1970年代中頃にアリス・クーパーと共にツアーを行うなどの努力をしたにもかかわらず、それほどヒットしませんでした。1975年以降、彼女のヘビーで妖しい魅力を伴ったスタイルは受け入れられなくなっていき、人気は1978年まで好転しませんでした。同年に「涙のヤング・ラヴ」がリリースされると、同作は全英とオーストラリアでトップ10ヒットを記録。アメリカでは引き続いて成功はしなかったが、1979年にスモーキー のクリス・ノーマンと共に「メロウな二人」をRSOレコードからリリースすると、同作は全米4位とアメリカで初の大ヒットを記録。しかしこの成功は短期間のものでした。彼女の最後の(オーストラリアでのみの)ヒットは1981年前半にリリースされた「ロック・ハード」(全英68位)でした。

1980年代に入ると女優業にも本格進出し、主にテレビドラマやミュージカルの分野で活躍した。1986年、『アニーよ銃をとれ』ロンドン公演でアニー・オークレイ役を演じました。

1987年、日本のロックバンドBOØWYのシングル曲「Marionette」のB面曲として「THE WILD ONE」を、BOØWYのボーカリスト氷室京介とデュエットしたバージョンを発表。これは同時にレコーディングしたものではなく、日本で録音したオケをイギリスに送りクアトロに歌わせ、その後日本に送り返しミキシングするという手法で制作した。

その後は音楽活動を縮小していたが、BBCのラジオパーソナリティに就いた2000年代からまた活発化した。2006年、約10年ぶりのアルバム『Back To The Drive』を、『スウィート』のギタリスト・アンディー・スコットのプロデュースでリリース。アルバムのタイトル・トラックは、往年のパートナーだったマイク・チャップマンが提供した。

2009年、BBCが選ぶ『Queens of British Pop』12人のうちのひとりに選出されました。

2010年 – 2011年、かつて姉たちと共に率いていたプレジャー・シーカーズやクレイドルのコンピレーションをリリース。

2012年4月、ウクライナ・キエフの空港で転び右膝と左手首を骨折しました。

2014年、音楽活動50周年を記念したボックスセット『The Girl from Detroit City』をリリース。同年と翌2015年に、20年ぶりの日本公演を開催。

2016年、長年の音楽に対する貢献を讃えられ、アングリア・ラスキン大学より名誉博士号を授与された。

2017年、アンディ・スコット(スウィート)、ドン・パウエル(スレイド)の元グラムロックプレイヤーと共作したアルバムを発表。

2019年、8年ぶりのソロアルバム『永劫の女王』をリリースされました。

女性版『デビッド・ボウイ』の枠を超えてますね。現在も現役で活躍中です。

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ハード・グラム・ロック

引用

『グラム・ロック』バンドにも亜種がいるように、『ハード・グラム・ロック』と言うようなジャンルのバンドがいます。それが、『スレイド』です。

『イン・ビトゥイーンズ』というで1966年結成。同年キム・フォーリーのプロデュースでシングルをリリースしているが、この時点では単発に終わります。

その後元アニマルズのチャス・チャンドラーに見出され、1969年、『アンブローズ・スレイド』名義でファースト・アルバム『ビギニングス』を発表。しかしながら、同作前後に発売されたシングルと同様に、チャートインすることはありませんでした。なお、このアルバムはスレイドのディスコグラフィでもファースト・アルバムとして扱われています。

ここまではビート・ロックやサイケデリック・ロックの影響下にあるサウンドを聴かせていたが、チャンドラーの指導によりイメージ改革に乗り出すこととなります。『スレイド』へ改名し、派手な衣装をまとい、ポップなメロディーに豪快かつタイトなリズムを合わせたサウンドを創出。ティーンエイジャーから厚い人気を得るようになり、1971年のシングル『だから君が好き』で全英シングルチャート1位を初めて獲得。

また、時期を同じくしてライブ・パフォーマンスに対する評価が上がり、1972年発表のライブ・アルバム『スレイド・アライブ』は全英アルバムチャート2位(全米158位)まで上昇。すかさず発表したスタジオ盤『スレイド?』は全英1位(全米68位)を獲得。以降『スレイデスト』(全英1位、全米129位)『大狂乱スレイド一座』(全英1位、全米168位)の2枚のアルバムも大ヒットしました。シングル盤『だから君が好き』(全英1位)や『恋のバック・ホーム』(全英1位、全米97位)『クレイジー・ママ』(全英1位、全米76位)『カモン!!』(全英1位、全米98位)『スクゥイーズ・ミー、プリーズ・ミー』(全英1位)『メリー・クリスマス・エヴリバディ』(全英1位」と1973年までに計6枚が大ヒット。特に『メリー・クリスマス・エヴリバディ』は、100万枚を超えるベストセラーとなります。

1974年にバンド主演の映画『スレイド・イン・フレイム』の制作を開始。映画はスレイドをはじめとしたバンドの間で起こった音楽業界での出来事に基づいた内容でした。映画のサウンドトラック盤からの先行シングルとして発売された『ファー・アウェイ』は、全英シングルチャートで最高位2位を獲得し、ノルウェーのチャートでも上位にチャートインしました。同作はホルダーのお気に入りの楽曲ともなりました。サウンドトラック盤『狂乱の炎』(全英6位、全米93位)が発売され、多くの批評家から肯定的な評価を得た一方、翌年公開された映画は芳しい成果は得られませんでした。

1975年に入ると、『T・レックス』や『デヴィッド・ボウイ』、『スウィート』、『スージー・クアトロ』などと並ぶ人気ミュージシャンになり、圧倒的な人気に乗りアメリカ進出も目論むが、芳しい成果は得られないまま終わります。イギリス国内においても、映画のテーマ曲「ハウ・ダズ・イット・フィール」が1975年にシングルとして発売されるも、シングルチャートでは最高位15位と、チャートアクションが鈍り始めました。

1977年にはポリドールとの契約も切られ、チャンドラーとも意見の相違から決別することとなりまはし。同時にスレイドのサウンドと相対する面があるパンク・ロック全盛の時代においては、しばらく低迷を味わうことになりました。

1980年にパンクのブームが終わり、『NWOBHM』の勢いが増すと、スレイド自体も徐々に人気を取り戻し、レディング・フェスティバルでの演奏も高く評価され、再びシングルがチャート上位に顔を出すようになります。

そしてスレイドの復活を決定的にしたのは、1983年にクワイエット・ライオットが「カモン!!」をカヴァーして大ヒットさせたことでした。これによりオリジナルのスレイドへの注目度が上がり、『マイ・オー・マイ』(全英2位、全米37位)『ラン・ラン・アウェイ』(全英7位、全米20位)が大ヒット。同地では1970年代を超える成功を収めました。

1992年、ホルダーがバンド内における議論や不満に嫌気が差したことにより脱退。同時にホルダーがスレイドにとって不可欠なメンバーだとしていたリーも脱退したことにより、23年間の活動を終えました。この間一度もメンバー交代を行われやせんでしたが、それから間もなくして、残ったパウエルとヒルが新メンバーを迎え、『スレイドII』を結成。

2002年にバンド名を「スレイド」にを戻し、アルバム『キープ・オン・ロッキン』を新曲を追加し、タイトルを「Cumon Let’s Party」に改題して発売されました。

2005年にスレイドII結成時からのボーカリストであるスティーヴ・ウァーリーが脱退し、入れ替わりでマル・マクナルティが加入。コンピレーション・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・スレイド』を発売し、全英アルバムチャートで最高39位を獲得。同年にはミュージック・ビデオ集も発売されました。

2006年にサルーボ・レコードよりボックス・セット『The Slade Box – Four CD box anthology 1969-91』とライブ・アルバム『スレイド・アライヴ』(全英191位)が発売されました。また、同年から2007年にかけてサルーボ・レコードよりオリジナル・アルバムのリマスター盤が発売され、日本で発売された一部のリマスター盤にボーナス・トラックが追加収録されました。

2020年、パウエルがヒルによってバンドを解雇されたことを告白。同時に公式サイト上でドンは、元メンバーのクレイグ・フェニーとともに「ドン・パウエルズ・スレイド」を結成してスレイドの楽曲を演奏することを発表しました。

『グラム・ロック』‼️奥が深い‼️‼️‼️次回も、お楽しみに^_^

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グラム・ロックの亜種

引用

『デビッド・ボウイ』『T.レックス』『スウィート』などにより誕生したジャンル『グラム・ロック』。そこに、新たなるバンドが誕生しました。それが、『モット・ザ・フープル』です。

1968年に結成された、『サイレンス』というバンドを前身とします。アイランド・レコードのプロデューサーのガイ・スティーヴンスが、ヴォーカルのスタン・ティピンズに不満を感じ、オーディションを経てイアン・ハンターがヴォーカルとして加入。スタン・ティピンズは、ロードマネージャーとしての役割を与えられ、時折レコーディングやライヴにも参加しました。その後、バンド名をウィラード・メイナスの小説から採り、『モット・ザ・フープル』と改め、アイランド・レコードと正式に契約し1969年にデビューします。

デビュー作『モット・ザ・フープル』(全英66位、全米185位)を発表。1970年『マッド・シャドウ』(全英48位)、1971年『ワイルドライフ』(全英44位、全米207位)、『ブレイン・ハリケーン』(全米208位)と、当初からライヴが好評だったが商業的に振るわず、1972年チューリッヒ公演の後、ついに解散を決定します。しかし、早くからファンだったデヴィッド・ボウイが、その話をオヴァレンド・ワッツから聞き付け、メンバーを説得、楽曲の提供とプロデュースを申し出ます。当初、ボウイから提示された曲は「サフラジェット・シティ」(『ジギー・スターダスト』収録)だったが、モット・ザ・フープル側はこれを拒否、改めてボウイは別の楽曲を提供、モット・ザ・フープル側も大変気に入ったのが、1972年の『すべての若き野郎ども』(全英21位、全米89位)がスマッシュヒット。シングル「すべての若き野郎ども 」でした。CBS移籍後に発表されたこの曲は、モット・ザ・フープル最大のヒットとなり(全英3位、全米37位)、またグラムロックを代表する曲のひとつとなります。ちなみにボウイは、「ドライブ・イン・サタディ」(『アラジン・セイン』収録)も提供しようと持ち掛けたが実現しませんでした。これは自作曲「ホナルーチ・ブギ」がヒットした事もあり、新たな曲提供は不要とモット・ザ・フープル側が断ったためです。ボウイは、もし実現していたら素晴らしい仕上がりになったであろうと回想しています。

1973年、自作曲を発表する機会が少ないことを理由にヴァーデン・アレンが脱退し、バンドは暫くの間4人編成での活動を余儀なくされる。シングル「メンフィスからの道 」(全英10位)がヒットするが『革命』(全英7位、全米35位)の発表直前にミック・ラルフス(ギター)が脱退し、ポール・ロジャースらと共にバッド・カンパニーを結成。脱退の理由についてミック・ラルフスは、「いつも思っていたんだ。俺が書いた曲はポールみたいな人に歌ってもらいたがってるなって。俺たち2人にとっては完璧な組み合わせだったよ。で、すぐに行動に移したんだ」と語っています。アレンとラルフスの後任としてモーガン・フィッシャー、ミック・ボルトン(UFO (バンド)のギタリストと同名だがまったくの別人)、ルーサー・グロヴナーが加入。ルーサー・グロヴナーは、まだアイランドとの契約が残っていたため、『アリエル・ベンダー』という名前で活動することになります。

1974年には『ロックンロール黄金時代』(全英11位、全米28位)がヒットしたが、同年にミック・ボルトンが脱退、後任としてブルー・ウィーバーが加入します。同年、ルーサー・グロヴナーが脱退。後任としてミック・ロンソンを迎え入れ、マスコミはこれを歓迎しましま。しかし同年、アメリカン・ツアーのプロモーションのためミック・ロンソンと共に渡米していたイアン・ハンターが心労により体調を崩し入院し、そのままミック・ロンソンと共にグループを脱退。モット・ザ・フープルの解散が正式に告げられました。ミック・ロンソン在籍時に録音された曲は、シングル「モット・ザ・フープル物語」と「ラウンジ・リザード」のデモ録音のみでした。

その後、残ったメンバーはレイ・メジャーを加えるが、ヴォーカリスト探しは難航し、最終的にミック・ラルフスの紹介でナイジェル・ベンジャミンが加わりバンド名を『モット』と改名するが、セールスは大きく落ち込み、さらに1977年にはヴォーカルのナイジェル・ベンジャミンが脱退し、ジョン・フィドラーに替わり『ブリティッシュ・ライオンズ』と改名し、アメリカに進出するが、レコード会社の支持を得られず、2作目のアルバムは未発表のまま翌年に解散しました。

2009年、モット・ザ・フープル結成40周年を記念してオリジナルメンバーでの再結成ライヴがモンマスでウォーミングアップギグを行い、5日間限定で、ロンドンのハマースミス・アポロにて行なわれる事が発表されました。しかし、デイル・グリフィンは体調が悪化したため一部の曲のみ参加し、プリテンダーズのマーティン・チェンバースが代役を務めます。2013年にも、同様のメンバーでイギリス・ツアーを行いました。

2016年、ドラマーのデイル・グリフィンがアルツハイマー病から生じた合併症により死去(享年67歳)。

2017年、ベーシストのオヴァレンド・ワッツが喉頭癌により死去(享年69歳)。

2018年、イアン・ハンターと、これまでの再結成に未参加だったアリエル・ベンダー(ルーサー・グロヴナー)、モーガン・フィッシャーによって再結成(サポートはイアンのバックバンド)。スペインのフェスAzkena Rock Festivalに出演、同月英フェスRamblin’ Man Fairにヘッドライナーとして出演、スウェーデンで公演しました。

2019年には同メンバーで「モット・ザ・フープル’74」プロジェクトを始動、45年ぶりとなるアメリカ・ツアー(8公演)、そしてイギリス・ツアー(6公演)を行いました。

ツアーが好評で、アメリカ・ツアー(11公演)を行う予定であったが、直前にイアンの体調不良(深刻な耳鳴り発症)によりツアー中止となりました。

正に、”亜種”と言うべき変幻自在なバンドです。

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