『グラム・ロック』。このジャンルは、『T.レックス』『スウィート』によって、隆盛しました。しかし、ある人物なしでは、更なる発展はなかったでしょう。その男は、『デビッド・ボウイ』。
1947年、イギリスのロンドン南部ブリクストンにケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリーと、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体バーナード・ホームズで広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズの間に生まれました。本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ。一家は、ロンドン南部のブリクストンとストックウェルの境界に近い、40 Stansfield Roadに住み、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越します。
子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、プラターズ、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しみます。
ボウイは、異父兄であるテリー・バーンズの影響でモダンジャズに関心を持ち、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれました。14歳になった1961年に、母親はプラスチック製のアルト・サックスを贈り、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受けます。
1962年、ボウイは重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッドが左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になりました。結果として医師は、ボウイの視力は完全に回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認します。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性の虹彩異色症によるものでした。この一件にも関わらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作します。
1962年ボウイが15歳の時に、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、彼にとっての最初のバンド『コンラッズ』を結成しました。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式でした。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、中にボウイとガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居ました。
1964年に『ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ』名義で最初のシングル「リザ・ジェーン 」を発表。しばらくはヒットに恵まれず、『ザ・マニッシュ・ボーイズ』『ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード』などと名を変えたが、モンキーズのボーカリストであるデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから、1966年のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた『デヴィッド・ボウイ』でやっと芸名が定着することになります。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイ・ナイフから取られました。
1967年、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加しています。同年に短編映画『イメージ』(1969年、イギリス)に出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っています。
ボウイはロンドン・ダンス・センサーでのケンプのダンス・クラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドとパントマイムによってドラマティックな表現を身につけました。
1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』(全英17位、全米16位)を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」(全英1位、全米15位)をリリースしました。
1970年、ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男』(全英26位、全米105位)をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』(全英3位、全米93位)でその路線は更に深まり、歌詞にも哲学・美学の要素が強く表れるようになりましは。
ミック・ロンソンが後に加入することになるグラムロックバンドのモット・ザ・フープルは1972年3月、解散危機に直面し、ボウイはモット・ザ・フープルに「すべての若き野郎ども」を提供、同バンドの楽曲として大ヒットしました。
1972年、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』(全英5位、全米75位)をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組みました。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していました。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』(全英1位、全米17位)は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになりました。しかし、1973年のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」の終焉を宣言します。この時期、後に歌手としてデビューするチェリー・バニラが、ボウイの広報を担当していました。
「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『ピンナップス』『全英1位、全米23位)を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。ただ、ロンソンとは決別した後も、連絡を取り合う関係でした。
1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンドの犬』(全英1位、全米5位)を発表します。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「『1984年』という言葉を大々的に使用してはならない、『1984年』の舞台化も許さない」という制約で縛られることになりました。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになります。
1975年、カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』(全英2位、全米9位)を発表。全米1位(全英17位)を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」を含むこのアルバムは、フィリー・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られました。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちて来た男』がクランクインしました。
1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされます。それは、前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、コンセプト・アルバム『ステイション・トゥ・ステイション』(全英5位、全米3位)として結実しました。
ボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク」、痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になりました。インタビューでは「自分はファシズムを信じている」「ヒトラーは最初のロックスター」などの擁護発言を行ない、ファンの前でジークハイルをやった写真が掲載される騒動が起き、メディアから激しいバッシングを受け、危険人物とみなされることも多くありました。同じく1970年代後半にエリック・クラプトンが差別発言を行いました(ボウイとクラプトンの発言については、下段の「思想欄」を参照)。ツアーの終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めます。
1977年から1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーションで制作されたアルバム『ロウ』(全英2位、全米11位)、『英雄夢語り』(全英3位、全米35位)、『ロジャー』(全英4位、全米20位)は、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれることになります。ロンドン・パンク/ニュー・ウェイヴ全盛期の中で、あえてプロト・パンク/オールド・ウェイヴを前面に出しました。
1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』(全英1位、全米12位)を発表しました。初ヒット曲の「スペイス・オディティ」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」(全英1位)で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになります。
一転して1980年代はナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム『レッツ・ダンス』(全英1位、全米4位)はキャリア最大のヒット・アルバムとなり、ファン層を広げた。1983年の『シリアス・ムーンライト・ツアー』では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルト・ヒーローからメジャー・ロック・スターの座につくことになりました。ただこのころから以前のようなカルトなアーティスティックな作風からポップ・ロック路線へと作風が変化するが、迷走と模索の時期ともなりました。この頃のボウイは俳優としての出演もありました。
1989年、ボウイはゴージャスなサウンドとステージからイメージ・チェンジをはかり、シンプルなロックバンド『ティン・マシーン』を結成。スタジオ・アルバムを2枚、ライヴ・アルバムを1枚リリースします。その後、過去のベスト・ヒット・メドレー的なコンサートとしては最後と銘打って『サウンド・アンド・ビジョン』ワールド・ツアーを行い、過去の総決算を果たそうとしました。
1989年に、『ティン・マシーン』(全英3位、全米28位)1991年に『ティン・マシーンII』(全英23位、全米126位)を発表。この後、現在までティン・マシーンのアルバムはリリースされておらず、正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となります。
1993年にモデルのイマン・アブドゥルマジドと再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表、『トゥナイト』以来9年ぶりに全英1位(全米39位)を獲得します。1995年に今度はブライアン・イーノと再び組んで『アウトサイド』(全英8位、全米21位)をリリース。その後、1997年に『アースリング』(全英6位、全米39位)、1999年に『アワーズ…』(全英5位、全米47位)をリリースします。
メジャーなロック・スターに珍しく、1990年代のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入しました。
2000年代に入っても創作意欲は衰えず、2002年に『ヒーザン』(全英5位、全米14位)、2003年に『リアリティ』(全英3位、全米29位)と立て続けにアルバムを発表し、大規模なワールド・ツアーを開始します。その中で8年ぶりの来日公演も果たしました。しかし、このツアー中にハンブルクにて動脈瘤による前胸部の痛みを訴え緊急入院、残りの14公演を急遽中止しました。
この一件以来、ボウイは創作活動に消極的となり、2004年の「ネヴァー・ゲット・オールド」(『リアリティ』からのシングル・カット)以降リリースが途絶えることになりました。公の場に姿を現したのも、2006年にデヴィッド・ギルモアやアリシア・キーズのライブにゲスト出演した程度で、表立った活動はほとんど行われませんでした。
親交の深いブライアン・イーノは2010年初頭のインタビューで「ここ数年のボウイはすっかり創作活動への意欲を削がれてしまったようで、この調子だと新作は当分ないだろう」と語り、同年秋に妻のイマンが近年のボウイは自宅でアート作品の制作や執筆に勤しんでおり、その生活に満足していると語りました。イマンによれば、現在は自身が蒐集した100個以上のオブジェを撮影し、それに自身のテキストを添えた書籍『Bowie: Object』を執筆中であり、ボウイが第一線に復帰することについては「本人次第」としました。
2011年にボウイの伝記を手掛けた作家、ポール・トリンカが「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べました。
同年に、2001年にリリースを予定していたという幻のアルバム『トーイ』がインターネット上に流出するという事件が起こりました。
2013年、ボウイの66歳となる誕生日に突如、新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」と10年ぶりとなる新作『ザ・ネクスト・デイ』(全英1位、全米2位)を発売すると発表。先行シングルの「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」は全世界119か国のiTunes Storeにて一斉配信開始され、リリースから24時間で27か国のiTunesチャート1位になりました。
ボウイ重病説を信じたエコー&ザ・バニーメンのフロントマン、イアン・マッカロクは、彼は亡くなるものだと思い込み、トリビュート・ソングを作っていたため、突然のカムバックに驚かされたそうです。
2015年、自身が1976年に主演した映画『地球に落ちて来た男』が舞台化され、自身もプロデュースを担当することが発表されます。舞台化作品のために、新曲の書きおろしと、過去の楽曲がアレンジされて提供されます。
2016年、闘病の末、肝癌により死去したことが公式Facebookにて公表されました。2日前の69歳の誕生日にアルバム『ブラックスター(★)』をリリースしたばかりでした。その収録曲「ラザルス」は、自らの死期を悟っていたボウイがプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと共に、ファンへの最後のメッセージを盛り込んだ内容となっています。トニー・ヴィスコンティは《モジョ》誌のインタビューで「彼は最後まで楽天的だった。ずいぶん弱ってきてるけど、新しい治療法を試してみるつもりだとか、新しい曲を書いてて、さらに次のアルバムのレコーディングをどうしようとか、話してた。私たちも皆そうだけど、彼もまた、もっと時間があると思ってたんだろうな」と語っています。
アルバムは、自身初の全米1位(全英1位)を獲得しました。
2017年、遺作となった作品『ブラックスター(★)』が、グラミー賞で最多の5部門を獲得しました。
悲しいことですが、彼は確かに天に召されました。しかし、彼のがこの作品は生き続けるでしょう。

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