不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

死してトップになった男

引用

『グラム・ロック』。このジャンルは、『T.レックス』『スウィート』によって、隆盛しました。しかし、ある人物なしでは、更なる発展はなかったでしょう。その男は、『デビッド・ボウイ』。

1947年、イギリスのロンドン南部ブリクストンにケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリーと、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体バーナード・ホームズで広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズの間に生まれました。本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ。一家は、ロンドン南部のブリクストンとストックウェルの境界に近い、40 Stansfield Roadに住み、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越します。

子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、プラターズ、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しみます。

ボウイは、異父兄であるテリー・バーンズの影響でモダンジャズに関心を持ち、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれました。14歳になった1961年に、母親はプラスチック製のアルト・サックスを贈り、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受けます。

1962年、ボウイは重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッドが左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になりました。結果として医師は、ボウイの視力は完全に回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認します。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性の虹彩異色症によるものでした。この一件にも関わらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作します。

1962年ボウイが15歳の時に、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、彼にとっての最初のバンド『コンラッズ』を結成しました。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式でした。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、中にボウイとガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居ました。

1964年に『ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ』名義で最初のシングル「リザ・ジェーン 」を発表。しばらくはヒットに恵まれず、『ザ・マニッシュ・ボーイズ』『ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード』などと名を変えたが、モンキーズのボーカリストであるデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから、1966年のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた『デヴィッド・ボウイ』でやっと芸名が定着することになります。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイ・ナイフから取られました。

1967年、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加しています。同年に短編映画『イメージ』(1969年、イギリス)に出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っています。

ボウイはロンドン・ダンス・センサーでのケンプのダンス・クラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドとパントマイムによってドラマティックな表現を身につけました。

1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』(全英17位、全米16位)を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」(全英1位、全米15位)をリリースしました。

1970年、ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男』(全英26位、全米105位)をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』(全英3位、全米93位)でその路線は更に深まり、歌詞にも哲学・美学の要素が強く表れるようになりましは。

ミック・ロンソンが後に加入することになるグラムロックバンドのモット・ザ・フープルは1972年3月、解散危機に直面し、ボウイはモット・ザ・フープルに「すべての若き野郎ども」を提供、同バンドの楽曲として大ヒットしました。

1972年、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』(全英5位、全米75位)をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組みました。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していました。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』(全英1位、全米17位)は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになりました。しかし、1973年のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」の終焉を宣言します。この時期、後に歌手としてデビューするチェリー・バニラが、ボウイの広報を担当していました。

「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『ピンナップス』『全英1位、全米23位)を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。ただ、ロンソンとは決別した後も、連絡を取り合う関係でした。

1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンドの犬』(全英1位、全米5位)を発表します。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「『1984年』という言葉を大々的に使用してはならない、『1984年』の舞台化も許さない」という制約で縛られることになりました。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになります。

1975年、カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』(全英2位、全米9位)を発表。全米1位(全英17位)を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」を含むこのアルバムは、フィリー・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られました。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちて来た男』がクランクインしました。

1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされます。それは、前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、コンセプト・アルバム『ステイション・トゥ・ステイション』(全英5位、全米3位)として結実しました。

ボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク」、痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になりました。インタビューでは「自分はファシズムを信じている」「ヒトラーは最初のロックスター」などの擁護発言を行ない、ファンの前でジークハイルをやった写真が掲載される騒動が起き、メディアから激しいバッシングを受け、危険人物とみなされることも多くありました。同じく1970年代後半にエリック・クラプトンが差別発言を行いました(ボウイとクラプトンの発言については、下段の「思想欄」を参照)。ツアーの終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めます。

1977年から1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーションで制作されたアルバム『ロウ』(全英2位、全米11位)、『英雄夢語り』(全英3位、全米35位)、『ロジャー』(全英4位、全米20位)は、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれることになります。ロンドン・パンク/ニュー・ウェイヴ全盛期の中で、あえてプロト・パンク/オールド・ウェイヴを前面に出しました。

1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』(全英1位、全米12位)を発表しました。初ヒット曲の「スペイス・オディティ」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」(全英1位)で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになります。

一転して1980年代はナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム『レッツ・ダンス』(全英1位、全米4位)はキャリア最大のヒット・アルバムとなり、ファン層を広げた。1983年の『シリアス・ムーンライト・ツアー』では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルト・ヒーローからメジャー・ロック・スターの座につくことになりました。ただこのころから以前のようなカルトなアーティスティックな作風からポップ・ロック路線へと作風が変化するが、迷走と模索の時期ともなりました。この頃のボウイは俳優としての出演もありました。

1989年、ボウイはゴージャスなサウンドとステージからイメージ・チェンジをはかり、シンプルなロックバンド『ティン・マシーン』を結成。スタジオ・アルバムを2枚、ライヴ・アルバムを1枚リリースします。その後、過去のベスト・ヒット・メドレー的なコンサートとしては最後と銘打って『サウンド・アンド・ビジョン』ワールド・ツアーを行い、過去の総決算を果たそうとしました。

1989年に、『ティン・マシーン』(全英3位、全米28位)1991年に『ティン・マシーンII』(全英23位、全米126位)を発表。この後、現在までティン・マシーンのアルバムはリリースされておらず、正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となります。

1993年にモデルのイマン・アブドゥルマジドと再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表、『トゥナイト』以来9年ぶりに全英1位(全米39位)を獲得します。1995年に今度はブライアン・イーノと再び組んで『アウトサイド』(全英8位、全米21位)をリリース。その後、1997年に『アースリング』(全英6位、全米39位)、1999年に『アワーズ…』(全英5位、全米47位)をリリースします。

メジャーなロック・スターに珍しく、1990年代のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入しました。


2000年代に入っても創作意欲は衰えず、2002年に『ヒーザン』(全英5位、全米14位)、2003年に『リアリティ』(全英3位、全米29位)と立て続けにアルバムを発表し、大規模なワールド・ツアーを開始します。その中で8年ぶりの来日公演も果たしました。しかし、このツアー中にハンブルクにて動脈瘤による前胸部の痛みを訴え緊急入院、残りの14公演を急遽中止しました。

この一件以来、ボウイは創作活動に消極的となり、2004年の「ネヴァー・ゲット・オールド」(『リアリティ』からのシングル・カット)以降リリースが途絶えることになりました。公の場に姿を現したのも、2006年にデヴィッド・ギルモアやアリシア・キーズのライブにゲスト出演した程度で、表立った活動はほとんど行われませんでした。

親交の深いブライアン・イーノは2010年初頭のインタビューで「ここ数年のボウイはすっかり創作活動への意欲を削がれてしまったようで、この調子だと新作は当分ないだろう」と語り、同年秋に妻のイマンが近年のボウイは自宅でアート作品の制作や執筆に勤しんでおり、その生活に満足していると語りました。イマンによれば、現在は自身が蒐集した100個以上のオブジェを撮影し、それに自身のテキストを添えた書籍『Bowie: Object』を執筆中であり、ボウイが第一線に復帰することについては「本人次第」としました。

2011年にボウイの伝記を手掛けた作家、ポール・トリンカが「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べました。

同年に、2001年にリリースを予定していたという幻のアルバム『トーイ』がインターネット上に流出するという事件が起こりました。

2013年、ボウイの66歳となる誕生日に突如、新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」と10年ぶりとなる新作『ザ・ネクスト・デイ』(全英1位、全米2位)を発売すると発表。先行シングルの「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」は全世界119か国のiTunes Storeにて一斉配信開始され、リリースから24時間で27か国のiTunesチャート1位になりました。

ボウイ重病説を信じたエコー&ザ・バニーメンのフロントマン、イアン・マッカロクは、彼は亡くなるものだと思い込み、トリビュート・ソングを作っていたため、突然のカムバックに驚かされたそうです。

2015年、自身が1976年に主演した映画『地球に落ちて来た男』が舞台化され、自身もプロデュースを担当することが発表されます。舞台化作品のために、新曲の書きおろしと、過去の楽曲がアレンジされて提供されます。

2016年、闘病の末、肝癌により死去したことが公式Facebookにて公表されました。2日前の69歳の誕生日にアルバム『ブラックスター(★)』をリリースしたばかりでした。その収録曲「ラザルス」は、自らの死期を悟っていたボウイがプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと共に、ファンへの最後のメッセージを盛り込んだ内容となっています。トニー・ヴィスコンティは《モジョ》誌のインタビューで「彼は最後まで楽天的だった。ずいぶん弱ってきてるけど、新しい治療法を試してみるつもりだとか、新しい曲を書いてて、さらに次のアルバムのレコーディングをどうしようとか、話してた。私たちも皆そうだけど、彼もまた、もっと時間があると思ってたんだろうな」と語っています。

アルバムは、自身初の全米1位(全英1位)を獲得しました。

2017年、遺作となった作品『ブラックスター(★)』が、グラミー賞で最多の5部門を獲得しました。

悲しいことですが、彼は確かに天に召されました。しかし、彼のがこの作品は生き続けるでしょう。



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

しゃがれ声の天才シンガー

引用

みなさんは、『トム・ウェイツ』と言うアーティストは、ご存じでしょうか?アメリカ国内ではかなりメジャーなアーティストです。

1949年、カリフォルニア州ロサンゼルス郡ポモナ出身。トム本人の弁によれば、母親が病院に駆けつけるタクシーの後部座席で生まれたといいます(ただし、この逸話の後には、産声が「タイムズスクエアに繰り出すぞ!」だったという明らかなホラ話が続く)。幼い頃は、父親が歌っていたアイルランド民謡や、ラジオで聴いたジャズに親しんでいました。10歳の頃に両親が離婚し、姉2人と共に母親に引き取られてサンディエゴ郡ナショナルシティに移るが、父親とも友好的な関係を続けました。

ティーンエイジャーの頃はフォーク、ブルース、R&B、ジャズに傾倒し、当時流行していたロックには興味を示さなかった。トムは、自分に衝撃を与えた人物としてジェームス・ブラウン、ボブ・ディラン、ライトニン・ホプキンス、セロニアス・モンク等を挙げています。

16歳で高校を中退し、ピザ屋の店員として働く。この頃、ジャック・ケルアック等のビートニク文学に影響を受け、また、仕事の合間に作詞・作曲を始めます?トムのセカンド・アルバム『土曜日の夜』収録曲「ゴースト・オブ・サタデイ・ナイト」は、この頃の経験を元にした歌で、同曲のサブタイトルは「After Hours at Napoleone’s Pizza House(仕事がはねたあとナポウリオーニーズ・ピザ・ハウスで)」。

1970年代初頭にロサンゼルスに移り、クラブで歌うようになります。1971年にはハーブ・コーエン(当時フランク・ザッパ、アリス・クーパー、ティム・バックリィ等のマネージメントを担当していた)と出会い、同年、初のデモ・テープを制作。この時の音源は、1990年代にコンピレーション・アルバム『アーリー・イヤーズVol.1』(1991年)、『アーリー・イヤーズVol.2』(1993年)として世に出ることとなります。

1972年、当時はまだ新興レーベルだったアサイラム・レコードと契約し、1973年にアルバム『クロージング・タイム』でデビュー。商業的には成功しなかったが、同作収録曲「オール’55」は、1974年にイーグルスがアルバム『オン・ザ・ボーダー』(1974年)でカヴァーして話題となりました。

1976年、初のヨーロッパ・ツアーを行う。同年、アルバム『スモール・チェンジ』で初めて全米アルバム・チャートのトップ100にランク・イン(最高位89位)。同作には、大御所ジャズ・ドラマーのシェリー・マンが参加。収録曲「トム・トラバーツ・ブルース」は、後に様々なミュージシャンにカヴァーされ、また、2009年には日本のテレビドラマ『不毛地帯』のエンディング・テーマに起用されました。

1977年には初の日本ツアーを行う(10都市12公演、初日の東京・久保講堂公演)[8]。同年発表の『異国の出来事』ではベット・ミドラーと共演。同作のジャケットは、トムと恋人のリッキー・リー・ジョーンズ(当時はまだ歌手デビュー前だった)のツーショット写真。

1978年には、二度目の日本公演を行う[8]。同年、トムが端役で出演した映画『パラダイス・アレイ』(監督・主演:シルヴェスター・スタローン)が公開され、俳優デビューを果たします。

1970年代末期にはリッキー・リー・ジョーンズと別れ、1980年代に入るとニューヨークに移李ます。この頃、映画監督のフランシス・フォード・コッポラと出会います。1980年には、コッポラの下で脚本編集者として働いていたキャスリーン・ブレナンと結婚。キャスリーンは、ソングライティングやプロデュースの面でも、トムをサポートしていく。同年発表のアルバム『ハートアタック・アンド・ヴァイン』(全米96位)には、以後長きに渡ってトムの盟友となるベーシスト、グレッグ・コーエンが初参加。

1982年、トムが初めて音楽を担当した映画作品『ワン・フロム・ザ・ハート』(監督:フランシス・フォード・コッポラ)公開。トムは俳優としても端役(トランペット奏者役)で出演。本国アメリカでは興行的に失敗し、評論家にも酷評されるが、ヨーロッパでは好意的に評価された。クリスタル・ゲイルとの連名による同名のサウンドトラック・アルバムは、アカデミー編曲・歌曲賞にノミネートされました。

1982年、実験的な音作りの新曲がアサイラム・レコードに難色を示されたことからアイランド・レコードに移籍。翌年、移籍第一弾『ソードフィッシュトロンボーン』(全英62位、全米167位)を発表。同作収録曲「ワイルドなフランクの話」は、トムの脚本家デビューとなったミュージカル『フランクス・ワイルド・イヤーズ』(1986年6月初演)に発展していきます。

1985年のアルバム『レイン・ドッグ』(全英29位、全米188位)にはキース・リチャーズ等がゲスト参加。同作収録曲「ダウンタウン・トレイン」は、後にロッド・スチュワートによるカヴァーが大ヒットを記録し、トムの代表曲の一つとなる。その後トムは、ローリング・ストーンズのアルバム『ダーティ・ワーク』(1986年)にゲスト参加。また、1986年にはトムの初主演映画『ダウン・バイ・ロー』(監督・脚本:ジム・ジャームッシュ)公開。

1987年、ロイ・オービソンのロサンゼルス公演で、ブルース・スプリングスティーン、エルヴィス・コステロ、ジャクソン・ブラウン、ボニー・レイット等と共にロイのバック・バンドに参加。この時のステージは、1989年にライブ・アルバム『ブラック・アンド・ホワイト・ナイト』(全英51位、全米123位)としてCD化されました。また、1987年には、アルバム『フランクス・ワイルド・イヤーズ』(全英20位、全米115位)に伴うツアーの模様は録音・録画され、ライブ・アルバム『ビッグ・タイム』(全英84位、全米152位)及び同名ドキュメンタリー映画として発表されました。なお、同ツアーで重要な役割を果たしたマーク・リボー(ギター)とマイケル・ブレア(パーカッション、ドラムス)は、トムからの影響を公言する日本のシンガーソングライター、SIONのアルバム『春夏秋冬』(1987年)に参加しているのに加え、エルヴィス・コステロにも気に入られ、コステロのアルバム『スパイク』(1989年)にも参加する運びとなりました。

1990年、トムが音楽を担当したミュージカル『ブラック・ライダー』(ロバート・ウィルソン演出、ウィリアム・S・バロウズ脚本)がハンブルクで初演。1993年には、同作の楽曲を用いたアルバムが発表され、2004年には英語版(主演はマリアンヌ・フェイスフル)がロンドンで初演されました。また、プライマスのメジャー・デビュー・アルバム『セイリング・ザ・シーズ・オブ・チーズ』(1991年)にゲスト参加。その後、プライマスのベーシストのレス・クレイプールは、度々トムのレコーディングに参加することとなります。

1992年発表の『ボーン・マシーン』(全英26位、全米176位)では、再びキース・リチャーズと共演。同作はグラミー賞の最優秀オルタナティヴ・レコード賞を獲得。トムにとって初のグラミー賞受賞となりました。それと前後して、盟友ジム・ジャームッシュの監督映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』の音楽を担当し、更に年末には、再びロバート・ウィルソン演出のミュージカル『アリス』の音楽を担当。同作の楽曲は、後に再レコーディングされ、2002年には、アルバム『アリス』(全英20位、全米33位))として発表された。

1993年、現代音楽の作曲家ギャヴィン・ブライアーズのアルバム『Jesus’ Blood Never Failed Me Yet』(1971年に作曲された同名楽曲の再録)に、トムがゲスト参加。1994年には、ジョニー・キャッシュ『American Recordings』に、書き下ろしの新曲「Down There by the Train」提供。トムも後に『オーファンズ』(全英49位、全米99位)でセルフカヴァーした。1995年、ティム・ロビンス監督映画『デッドマン・ウォーキング』のサウンドトラック・アルバムに、書き下ろしの新曲「ザ・フォール・オブ・トロイ」「ウォーク・アウェイ」提供(アルバムのみ収録で、劇中では使われていない)。

2000年11月、トムと妻キャスリーンが音楽を担当したミュージカル『ヴォイツェック』(ゲオルク・ビューヒナーの戯曲が原作)がデンマークで初演された。

1999年、エピタフ・レコード傘下のアンタイ・レコード(Anti-)に移籍。同年、アルバム『ミュール・ヴァリエイションズ』(全英9位、全米30位)で、初めて全米トップ40入りを果たし、ノルウェーのアルバム・チャートでは1位を獲得しました。同作はグラミー賞のベスト・コンテンポラリー・フォーク・アルバム部門を受賞。また、ジャック・ケルアックのトリビュート・アルバム『Reads on the Road』(1999年)で、ジャックが生前残していた散文に、プライマスと共に音楽をつける形で参加[12]。旧友チャック・E・ワイスのアルバム『エクストリームリー・クール』(1999年)にも、ボーカルやプロデュースで参加しました。

2002年には、アルバム『ブラッド・マネー』と『アリス』の2枚(両方とも、トムとキャスリーンが関わったミュージカルの楽曲を再録音したもの)を同日に発売。デンマークでは、これら2作がアルバム・チャートの2位と3位を独占しました。また、デブラ・ウィンガーの出演映画『Big Bad Love』に新曲を2曲提供し、そのうち「ロング・ウェイ・ホーム」は、ノラ・ジョーンズがアルバム『フィールズ・ライク・ホーム』(2004年)でカヴァー。更に、ソロモン・バークのアルバム『ドント・ギヴ・アップ・オン・ミー』にも、キャスリーンとの共作による書き下ろしの新曲「ダイアモンド・イン・ユア・マインド」を提供しました。

2003年、ラモーンズのトリビュート・アルバム『ウィー・アー・ア・ハッピー・ファミリー〜ラモーンズ・トリビュート』にトムも参加し、「ジャッキー・アンド・ジュディー」を歌う。また、同年9月21日、リチャード・ギアが主催したチベットの僧を救うためのベネフィット・コンサートに、グレッグ・コーエンと共に参加し、クロノス・クァルテットと共演。この時の演奏は、2007年にオムニバス・ライヴ・アルバム『Healing the Divide』として発表されました。

2004年のアルバム『リアル・ゴーン』(全英16位、全米28位)では、ピアノを一切使わないという新境地を見せた。また、ロス・ロボス『ザ・ライド』(2004年)収録曲「Kitate」にゲスト参加。2005年にはイールズ『ブリンギング・ライツ・アンド・アザー・レヴェレイションズ』にも参加しました。

2006年、アルバム未収録だった楽曲と新曲を合計54曲収録した3枚組CD『オーファンズ』(全英49位、全米74位)発表。同作の日本盤CDのブックレットには、オダギリジョーと勝手にしやがれの武藤昭平(2人ともトムのファンとして知られる)がコメントを寄せています。

2011年、新録音のスタジオ・アルバムとしては7年振りの作品『バッド・アズ・ミー』(全英10位、全米6位)を発表。同作には、『ボーン・マシーン』(1992年)以来の共演となるキース・リチャーズに加えて、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー等が参加しました。そして、トムは同作でデビュー以来初の全米トップ10入りを果たし、ノルウェーでは自身にとって2度目のアルバム・チャート1位獲得を果たしました。

こちらも、孤高のの天才アーティストですね。

にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

バンドマンからソロシンガーへ

引用

『バンドマン』から『ソロシンガー』に転向して、成功を収めたアーティストはかずおおきいたす。『ヴァン・モリスン』もその1人です。

1945年、ベルファスト出身。音楽好きの家庭に育ち、15歳でMonarchsというバンドに加入し音楽活動を始める[5]。1964年に『ゼム』を結成し、デビュー。「グロリア」などのヒットを飛ばし、当時イギリスで隆盛したブルー・アイド・ソウルのシンガーとして人気を博す。

1966年のアメリカ・ツアー終了後、モリソンはゼムを脱退し、一旦は帰国するもののバート・バーンズの誘いに応じてアメリカに渡りソロに転向。1967年にはバング・レコードから発売されたシングル「ブラウン・アイド・ガール」が全米10位のヒットとなるが、プロデューサーのバート・バーンズはモリソンの意向を無視してソロ・アルバム『ブロウイン・ユア・マインド』(全米182位)を発売し、同年末にバーンズが死去して、モリソンはバング・レコードを離れました。

1968年に発売されたワーナー・ブラザース・レコード移籍第1弾アルバム『アストラル・ウィークス』は、リリース当時は1万5千枚ほどしか売れなかったが、後にポップ・ミュージック史を代表する名盤として評価を受け、2001年にはアメリカ国内の売り上げが50万枚を突破しました。続く『ムーンダンス』は全米29位のヒットとなりました。1970年11月に『ストリート・クワイア』(全英18位、全米32位)を発表。

1971年4月にモリソンは妻のジャネット・プラネットを連れてニューヨークからカリフォルニア州マリン郡に移住。移住する前にモリソンはにニューヨーク州アルスター郡のベアズヴィル・サウンド・スタジオに行き、ザ・バンドを訪ねるが、そこでロビー・ロバートソンとともに「4% パントマイム」を書き上げました。モリソンとリチャード・マニュエルがボーカルを分け合って歌う「4% パントマイム」はザ・バンドの4番目のアルバム『Cahoots』に収録されました。

同年、サンフランシスコで録音した『テュペロ・ハニー』を発表(全米27位])。R&Bやジャズ、フォーク、ブリティッシュ・トラッド、ケルト音楽などの要素が濃い音楽性は、高い評価を受けた。1973年にベルファストへ戻り、翌1974年にアルバム『ヴィードン・フリース』(全英41位、全米53位)をリリースした後は活動を停止するが、1977年に復帰作『安息への旅』(全英23位、全米43位)をリリースしました。さ。1979年のアルバム『イントゥ・ザ・ミュージック』(全英21位、全米43位)以降は、ジャズやニューエイジの要素を取り入れた瞑想的な作風のアルバムを多数リリースしていきます。

1988年のアルバム『アイリッシュ・ハートビート』(全英18位、全米102位)ではチーフタンズと共演。1989年のアルバム『アヴァロン・サンセット』(全英13位、全米91位)収録曲「ハヴ・アイ・トールド・ユー・レイトリー」(全英74位)は、ロッド・スチュワートによるカヴァーが1993年にヒットしたことでも知られ、1995年にはチーフタンズとの共演による同曲のセルフ・カヴァーを録音しグラミー賞最優秀ポップ・コラボレーション・ウィズ・ボーカル賞を受賞しました。また、ジョン・リー・フッカーのアルバム『ドント・ルック・バック』(1997年)のプロデュースを担当する等、幅広いジャンルのミュージシャンと共演。

2006年には、カヴァー曲を中心としたキャリア初の本格的なカントリー・アルバム『ペイ・ザ・デヴィル』(全英8位、全米26位)を発表しました。2008年のアルバム『キープ・イット・シンプル』(英米10位)は、ソロ・デビューから41年目にして自身初の全米トップ10アルバムとなりました?2018年4月にはジョーイ・デフランセスコとのコラボーレーション・アルバム『ユーアー・ドライヴィング・ミー・クレイジー』(全英20位、全米76位)を発表し、同年リリースのアルバム『ザ・プロフェット・スピークス』(全英40位、全米110位)でも、引き続きデフランセスコ率いるカルテットを起用しました。

モリソンは2020年、新型コロナウイルス感染症の流行に対するロックダウン政策を批判し、ロックダウンにより困窮したミュージシャンを支援するためのチャリティ・シングルに「Born to Be Free」、「As I Walked Out」、「No More Lockdown」といったプロテスト・ソングを発表したました。北アイルランドの保健大臣ロビン・スワンは、一連の曲のリリースに先がけて、『ローリング・ストーン』誌のインタビューで「問題提起の域を超えています。彼は『ファシストによるいじめ』について歌い、政府が人々を騙して奴隷にしようとしていると主張している」と批判したました?しかし、同年には、反ロックダウンのチャリティ・シングル第4弾「Stand and Deliver」(作詞・作曲はモリソン、パフォーマーは趣旨に賛同したエリック・クラプトン)がリリースされました。

孤高のアーティストという感じですね。

モリソンは2020年、新型コロナウイルス感染症の流行に対するロックダウン政策を批判し、ロックダウンにより困窮したミュージシャンを支援するためのチャリティ・シングルとして9月25日に「Born to Be Free」、10月9日に「As I Walked Out」、10月23日に「No More Lockdown」といったプロテスト・ソングを発表した[16]。北アイルランドの保健大臣ロビン・スワン(英語版)は、一連の曲のリリースに先がけて、『ローリング・ストーン』誌のインタビューで「問題提起の域を超えている。彼は『ファシストによるいじめ』について歌い、政府が人々を騙して奴隷にしようとしていると主張している」と批判した[17]。しかし、同年12月4日には、反ロックダウンのチャリティ・シングル第4弾「Stand and Deliver」(作詞・作曲はモリソン、パフォーマーは趣旨に賛同したエリック・クラプトン)がリリースされた。 モリソンは2020年、新型コロナウイルス感染症の流行に対するロックダウン政策を批判し、ロックダウンにより困窮したミュージシャンを支援するためのチャリティ・シングルとして9月25日に「Born to Be Free」、10月9日に「As I Walked Out」、10月23日に「No More Lockdown」といったプロテスト・ソングを発表した[16]。北アイルランドの保健大臣ロビン・スワン(英語版)は、一連の曲のリリースに先がけて、『ローリング・ストーン』誌のインタビューで「問題提起の域を超えている。彼は『ファシストによるいじめ』について歌い、政府が人々を騙して奴隷にしようとしていると主張している」と批判した[17]。しかし、同年12月4日には、反ロックダウンのチャリティ・シングル第4弾「Stand and Deliver」(作詞・作曲はモリソン、パフォーマーは趣旨に賛同したエリック・クラプトン)がリリースされた。

にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

日本のピンク・フロイド‼️‼️‼️

引用

『プログレッシブ・ロック』といえば、『ピンク・フロイド』『キング・クリムゾン』ですが、日本にもそのようなバンドがいました。『PYG(ピッグ)』です。

1970年、グループ・サウンズブームの時期に最高の人気を誇っていたザ・タイガースの解散が発表された。つづいて、タイガースと人気を二分したザ・テンプターズの解散公演が東京・大手町のサンケイ・ビル内の小ホールで行われました。また、同じくブームの火付け役ともいえるザ・スパイダースも、同月、解散を発表しました。

その直後の1971年、東京・四谷の料亭に元テンプターズの萩原と大口広司、元スパイダースの井上堯之と大野克夫、それにタイガースの岸部修三(岸部一徳)と沢田研二が集結。沢田を除く5人は1970年末から、その頃既に台頭していたニュー・ロック(日本では、アート・ロックやサイケデリック・ロックに影響を受けたロックをまとめて「ニュー・ロック」と呼んでいた)のバンドを結成する計画を話し合ってきています。

一方1969年秋頃から、タイガースが所属していた渡辺プロダクションは、沢田を将来的にソロ・シンガー/タレントとして活動させることを目論み、バンド内であからさまに沢田を優遇し、他のメンバーを「バック・バンド」として冷遇したが、当の沢田はソロになることを頑なに拒否し、タイガースの解散にも最後まで反対しました。沢田はあくまでバンドとしての活動に執着したが、この姿勢は、後々まで専属バンドと共に活動するという沢田のポリシーになっていきます。

そんな沢田を、岸部が前述の「ニュー・ロック・バンド構想」に誘います。沢田も「サリー(岸部)がいてくれるなら」と加入を決意。渡辺プロも、沢田をプロダクションに残すことが最重要事項だったため、新バンドを渡辺プロに所属させるという条件でこれを認め、新バンドやメンバーのマネージメントを行う子会社「渡辺企画」を設立します。

1971年、日本武道館においてタイガースは解散コンサートを開き、GSの雄であった彼らの解散によって“グループ・サウンズ”の歴史も幕を下ろしました。各々のグループを解消した6人はリハーサルを開始。バンド名を『PYGと』しデビュー。井上堯之をリーダーに据え、本格的なロック・バンドを目指しました。

1971年3月に京都大学西部講堂で行われたロック・フェスティバル「第1回 MOJO WEST」でのデビュー・ステージ・アクトでは、聴衆から猛烈な罵声を浴び会場は大混乱(内田裕也が聴衆を説得し、収拾した)。4月に日比谷野外音楽堂で開催された 日比谷ロック・フェスティバルでも、「帰れ」コールを浴びせられ、ステージに物が投げられるなどの騒ぎとなります。このような、まさに暗中模索ともいえる船出の中、ファースト・シングル『花・太陽・雨』(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之)、ファースト・アルバム『PYG!』を発売。アルバムは、オリコンアルバムチャートで10位となりました。日本のロックはモップス、頭脳警察からPYGを経て、カルメンマキ&OZ、クリエーション、紫、コンディション・グリーンら引き継がれていきます。

1971年9月、ドラムスが大口広司から「ミッキーカーチス&サムライ」のメンバーだった原田祐臣へ交替。萩原も活動の舞台をテレビや映画に移すようになり、テンプターズ時代からのファンは徐々に姿を消し始め、1972年には客席のほとんどが沢田のファンで占められるようになります。

1971年、『萩原健一+PYG』のクレジットでサード・シングル『もどらない日々』(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之、ファースト・アルバムからのシングルカット)の発売日に、沢田も初のソロ・シングル『君をのせて』(23位、作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、演奏はケニー・ウッド・オーケストラ)を発売。さらに12月にはセカンド・アルバム『JULIE II IN LONDON』(13位)を発売します。

1972年萩原主演のテレビドラマ『太陽にほえろ!』がヒットし、萩原の俳優としての評価が徐々に高まると、萩原が参加できるときは『PYG』として、参加できないときには『沢田研二と井上堯之バンド』(または井上堯之グループ)として活動するようになっていきます。また、のちに井上堯之バンドの代表曲と言えるほど有名になった『太陽にほえろ!メインテーマ』や同ドラマのサウンドトラックも、レコーディング時は「PYG」としてレコーディングされ、マスターテープのラベルやトラックシートには「PYG」と明記されています。

沢田研二のセカンド・シングル『許されない愛』(4位、1972年、作詞:山上路夫、作曲:加瀬邦彦)がヒットし、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、PYGの存在感も希薄になっていきます。結局、1972年発売のラスト・シングル『初めての涙』(作詞:大橋一枝、作曲:大野克夫)を最後にPYGは自然消滅の形で終焉を迎えました。

ヒットは少ないですが、”スーパーバンド”ですね。萩原健一は亡くなりましたから、再結成は無理ですね。日本に、この時代にこんなバンドがいたとは‼️‼️‼️



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p