不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

歌手としても女優としても

引用

海外には、歌手と女優を掛け持つことが多いものです。『ベッド・ミドラー』もその1人です。

両親はニュージャージーからホノルルに移住したユダヤ系。母親のルースは仕立て屋、父親フレッドは画家・塗装工でした。

ハワイ大学マノア校で演劇を専攻するが中退。1966年、映画『ハワイ』にエキストラで初出演。その後、舞台女優を目指しニューヨークに出る。その後、ブロードウェイの舞台に立つようになり、『屋根の上のバイオリン弾き』などに出演。1974年には『Clams on the Half Shell Revue』でトニー賞の特別賞を受賞。また、ゲイクラブなどで歌うようにもなりました。

1972年に発売されたデビュー・アルバム『アメリカが生んだ最後のシンガー / ベット・ミドラー・デビュー』は全米9位を記録し、プラチナディスクに輝きます。デビュー・シングルの「踊ろよベイビー」は全米17位を記録し、「ブギ・ウギ・ビューグル・ボーイ」はイージーリスニング・チャートの1位を記録しました。

1974年3月開催の第16回グラミー賞にて新人賞を受賞。彼女はこの時を含めて3度グラミー賞を受賞しています。

1979年の映画『ローズ』では、女優としてジャニス・ジョプリンをモデルにした主人公を演じてアカデミー賞にノミネートされ、また、同作の主題歌「ローズ」(全米3位)でグラミー賞を受賞。1992年には『The Tonight Show』でエミー賞を受賞。

1984年に結婚し、娘が一人います。

1988年の映画『フォーエヴァーフレンズ』で主演に加え、同作の主題歌「愛は翼にのって」を歌い、グラミー賞の最優秀レコード賞を受賞。また、この曲は彼女にとって初の全米1位をもたらしました。続いて発表した1990年の「フロム・ディスタンス」も全米2位を記録する大ヒットとなります。

そして、2008年に、アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスのシーザーズ・パレスで長期公演を行いました。日本では一度も来日公演が行われておらず、未だ来日していない大物アーティストの一人でした。

2017年からブロードウェイで上演されたミュージカル『ハロー・ドーリー!』で主演し、初日の売り上げがブロードウェイ記録を樹立。ミドラーはこの作品でトニー賞 ミュージカル主演女優賞を受賞しました。

現在76歳。現役バリバリです。



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もう一つのプログレ界の神‼️‼️‼️

引用

『プログレ界の神』は、『キング・クリムゾン』といいましたが、もう一つバンドがいます。『ピンク・フロイド』です。

1965年、リージェント・ストリート建築工芸学校の同級生であったロジャー・ウォーターズ、リチャード・ライト、ニック・メイスンの3名は、現代音楽に関して論争を交わしたことがきっかけで「シグマ6(Sigma 6)」というバンドを結成しました。当初はロジャーがギターを担当し、前述の3人のほかにクライヴ・メットカーフ(ベース)、キース・ノーブルとジュリエット・ゲイル(共にボーカル)がメンバーに加わっていた。その後、バンド名を「メガデス」」「アブダブス」「スクリーミング・アブダブス」「アーキテクチュラル・アブダブス」「レナーズ・ロジャース」「スペクトラム・ファイブ」などと次々に変えながら活動を続け、一旦「ティー・セット」に落ち着くが、行き詰まりから活動を休止しました。同年後半、ウォーターズ、ライト、メイスンの3人は旧友のシド・バレットとギタリストのボブ・クロースを誘い、バンド名を「ピンク・フロイド・サウンド」に改めて再出発を図ります。これは、バレットが好んだ2人のピードモント・ブルース・ミュージシャンの名前にちなんだものでした。

当初はブルースのほかにローリング・ストーンズやザ・フーの曲をコピーして演奏していたが、やがて即興演奏やリキッドライトを導入し、独自の道を歩み出します。純粋なブルースを志向していたボブ・クロースは方向性の違いから同1965年中にバンドを脱退し、代わってバレットがリード・ギターを担当することになります。この頃からバレットは精力的に曲作りを始め、オリジナル曲の演奏が次第に増えていきました。こうしてバンドはバレットの感性をグループの軸に据えるようになります。

なお、ボブが脱退した際にバンド名を「ピンク・フロイド・サウンド」から「ピンク・フロイド」へと改名した。バンド名を短くしたのは当時のマネージャーの進言によるものでした。

ピンク・フロイドは、サイケデリック・ロック全盛の時代にクラブUFOといったアンダーグラウンド・シーンで精力的にライヴ活動を展開します。バンドは徐々に認知度と評価を高め、複数のレコード会社による争奪戦の末にEMIと契約を結びます。

1967年、シド・バレット作のシングル「アーノルド・レーン」(全英20位)でデビューを果たします。歌詞が下着泥棒を示唆するものであったため、ラジオ・ロンドンでは放送禁止に指定されたが、それでもヒットとなります。続くセカンド・シングル「シー・エミリー・プレイ」は全英6位のヒットを記録しました。

同年、ファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き』(全英6位、全米131位)をリリース。このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作しており、メンバーはビートルズのレコーディングの様子を見学しました。

当初、ピンク・フロイドはバレットのワンマン・バンドでした?しかし、過度のLSD摂取によってバレットの奇行が目立ち始め、バンド活動に支障をきたし始めます。翌1968年には、彼の役割を補う形でデヴィッド・ギルモアが加入し、一時的にフロイドは5人編成となります。バレットはライヴには参加せず、曲作りに専念してもらおうとの目論見であったが、それすら不可能となるほどバレットは重症でした。同1968年の「夢に消えるジュリア」はシングルB面に収められたが、人気の一曲である。同曲はロジャー・ウォーターズの作曲です。

バレットは結局、同1968年3月にバンドを脱退した。これによりフロイドは、ウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアの4人で再スタートすることになりました。バレット脱退後、当初はシングル向けの楽曲も数曲作ったが、バンドは方針を転換してサイケデリック・ロックから脱却し、より独創性の高い音楽を目指すようになりました。また、シングルもイギリスでは1968年発表の「It Would be So Nice」(全英52位)以降はリリースしなくなります。彼らはそれまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身の強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていました。こうして発表された同1968年のセカンド・アルバム『神秘』(全英9位、全米85位)は、約12分のであるタイトル曲「神秘」を収録しています。

この頃バンドはテレビ映画などのサウンドトラックも担当していた。スタンリー・キューブリックがこの年(1968年)に発表した映画『2001年宇宙の旅』では、フロイドに音楽制作の依頼が来ていたという話が伝わっています。明くる1969年に発表された『モア』(全英9位、全米153位)は、バルベ・シュローダー監督の映画『モア』(主演:ミムジー・ファーマー)のサウンドトラックとして制作されました。映画はドラッグに溺れるヒッピーの男女の物語でした。

同1969年発表のアルバム『ウマグマ』(全英5位、全米74位)は、ライブとスタジオ・レコーディングで構成された2枚組でした。当時バンドは精力的にライブ活動を繰り広げており、そのライブ・パフォーマンスの一端が窺えています。スタジオアルバムはバンドメンバー4人のソロ作品である。当時バンドはライブで『The Man/The Journey』なる組曲を演奏しているが、この組曲は既に発表されている曲を組み合わせたものであり、『ウマグマ』収録のスタジオ・テイクの一部も組み込まれています。この年には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘 (映画)』の音楽も手がけています。

1970年には『原子心母』を発表。本作は全英1位(全米55位)を記録し、批評家筋からも絶賛されるなど音楽的・商業的に成功を収めます。タイトル曲は収録に前衛音楽家のロン・ギーシンを招き、オーケストラ(正確にはブラスアンサンブルにチェロを加えた編成)を全面的に取り入れた23分にわたるロック・シンフォニーである。本作以降、フロイドは『プログレッシヴ・ロック』を代表するバンドとして認知されるようになります。

続く1971年発表の『おせっかい』(全英3位、全米70位)は、セールス面では前作『原子心母』に及ばなかったが、バンドが音楽的に大きく飛躍するきっかけとなった作品でした。23分を超える大作「エコーズ」が収録されています。バンドはこの「エコーズ」の誕生をもって「初めてバンドがクリエイティビティを獲得した」と認識しています。同年には初来日し、音楽フェスティバル「箱根アフロディーテ」などでコンサートを披露しました。

同1971年に『おせっかい』ツアーが終了すると、バンドは次のアルバム制作に取り掛かります。制作に先立ち、ウォーターズは新作のアルバムのテーマとして「人間の内面に潜む狂気」を描くことを提案します。バンドはこのアイデアを元に組曲を作り上げ、それは翌1972年のコンサートから「A Piece for Assorted Lunatics」というタイトルで披露された。これがのちに大ヒットアルバムとなる『狂気』です。バンドは同年同月からイギリスを皮切りにコンサート・ツアーを開始、同年には2回目の来日を果たしている。こちらでも『狂気』の組曲が披露されました。

バンドは『狂気』制作と並行して、同年下旬から再びバーベッド・シュローダー監督の映画『La Vallée』のサウンドトラックも担当。フランスに赴き、約2週間で『雲の影』を完成させた。こちらは全米46位(全英6位)を記録し、ウォーターズ作の「フリー・フォア」(がシングル・カットされています。

明くる1973年3月、コンセプト・アルバム『狂気』(全英2位、全米1位)を発表。本作はウォーターズが歌詞を全面的に担当した初めての作品となった。また、フロイドのアルバムに歌詞が掲載されたのはこの『狂気』が初めてであった。発売と同時に、シングル・ヒットした「マネー」(全米13位)とともに全世界で大ヒットを記録、音楽的にも商業的にも大成功を収めます。こうして、ピンク・フロイドは一躍スターダムにのし上がりました。その後、『狂気』はビルボードアルバムTOP100に741週間(約15年間)に亘ってランクインし続けることになるが、この記録は現在(※2021年上半期時点)も破られていません。

これ以後、フロイドを取り巻く環境は一変する。コンサートの観客数は大幅に増え、客層も変わっていった。このことはバンドのメンバー、特にウォーターズを大いに苛立たせることになり、この年のコンサートツアーを終えるとバンドは長期休暇に入りました。

1974年に入り、バンドは『狂気』に続くアルバムのレコーディングを開始します。当初は、楽器を一切使わずにワイングラスや輪ゴムなどの日用品を使って演奏する組曲「Household Objects」の制作を試みたが、結局は断念しました。

その後、同年にフランス、イギリスでコンサートツアーを行いました。新曲「Shine on You Crazy Diamond」「You’ve Gotta be Crazy」「Raving and Drooling」などが披露され、次のアルバムではこの3曲を収録することが決まりかけていたが、これらの新曲を披露したコンサートを収録した海賊盤『British Winter tour』なるアルバムが大いに売れてしまったため、「You’ve Gotta be Crazy」と「Raving and Drooling」の収録は見送られました。この2曲は、のちのアルバム『アニマルズ』にタイトルが変更されたうえで収録されています。

新たなアルバム作りは困難を極めた。『狂気』の成功で注目を集めたことによる重圧、『狂気』でやりたいことをやり尽くしたという満足感、そして、メンバーの個人的問題などが原因であった。ウォーターズとメイスンがそれぞれ離婚の危機を抱えていたのでした。

1975年、難産の末の2年ぶりの新作となる『炎〜あなたがここにいてほしい』(英米1位)を発表。大ヒットアルバム『狂気』に続く作品ということで注目されたが、セールス面では伸び悩みました。これ以後、フロイドが発表するスタジオ・アルバムはいずれも大がかりなコンセプト・アルバムの体裁をとるようになります。1970年後半にはパンク・ロック勢が登場し、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、クイーンなどは「オールド・ウェーヴ」「ダイナソー(化石)・ロック」として激しく非難されました。

バンドは次第にロジャー・ウォーターズのイニシアティブが強くなってゆきます。1977年発表の『アニマルズ』(全英2位、全米3位)はコンセプトアルバムであるが、全5曲中4曲がウォーターズ単独の書き下ろしであり、ウォーターズがリード・ボーカルを担当しました。サウンド面でもそれまでの幻想的な音創りは影を潜め、分かりやすいロック・サウンドになっていた。ウォーターズは中流階級出身であるが、左派的思想の持主で、彼の歌詞には独特の社会風刺がよく表れています。『アニマルズ』の歌詞、そして、のちのアルバム『ザ・ウォール』の歌詞には、彼の思想が存分に投影されています。

なお、ヒプノシスがプロデュースする『アニマルズ』のアートワークについては、バタシー発電所と豚の形のゴム風船の話が欠かせません。テムズ河畔にある旧バタシー発電所のブリックゴシックの建築物は、『アニマルズ』に採り上げられたことで世界的知名度を挙げ、観光地化するだけでなく、音楽関係者ばかりではない他分野のクリエーターにイメージやロケ地という形で利用されるようになりました。後述する豚形のゴム風船の表現力と相まって『アニマルズ』のアートワークはパロディも数多く作られています。

『アニマルズ』発表後のツアー「Pink Floyd : In The Flesh」はヨーロッパと北アメリカを跨ぎ、当時のフロイドでは最大級のコンサート・ツアーとなりました。このツアーの最終日であるカナダ・モントリオール公演で、ウォーターズは前列で大騒ぎしていた観客に激怒し、演奏途中で唾を吐き掛けるという行為に及びます。自らのこの行為が発想の引き金となって、コンサート終了後、ウォーターズは次のアルバム制作に没頭します。一方、他のメンバーはそれぞれにソロ活動を開始し、デヴィッド・ギルモアは1978年に『デヴィッド・ギルモア』(全英17位、全米29位)を発表してヒットを記録します。

1979年、2枚組アルバム『ザ・ウォール』(全英3位、全米1位)を発表。シングル「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール(パート2)」(全英(英米1位)とともに大ヒットを記録しました。シングルにはディスコの影響が見られました。2枚組全26曲のうち、数曲を除きウォーターズが単独で作詞・作曲を行っている。共同プロデューサーとしてアリス・クーパーのプロデュースなどで知られるボブ・エズリンが招かれ、アルバムのレコーディングには多数のセッション・ミュージシャンが招かれています。

バンド内ではウォーターズの独裁化が進み、『ザ・ウォール』のセッション途中でウォーターズがリチャード・ライトを解雇するなど、メンバー間の亀裂は深くなる一方でした。ライトは1980年から翌1981年にかけて行われたツアーにサポート・メンバーとして参加したが、すでに正式なメンバーでなくなっていたため、同ツアーで発生した莫大な赤字に対する支払いを被らずに済みます。

『ザ・ウォール』ツアーでは、演奏途中から観客席と舞台の間に実際に巨大な壁(※鉄筋コンクリート造の白い壁になぞらえた大道具的舞台装置)を構築し、それがクロジーング・ナンバー「Outside The Wall」の直前で完全に崩れ去るという大規模な演出で話題を呼びました。ただし、あまりにも大規模で経費と手間が掛かりすぎ、実際にこの演出が行われたのは全世界で4都市のみの公演に留まりました。その一方で、アルバムのコンセプトを具現化した映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』がアラン・パーカー監督の下で製作され、1981年に公開されました。

1983年発表の『ファイナル・カット』(全英1位、全米6位)は、”A Requiem For The Post War Dream by Roger Waters”(ロジャー・ウォーターズによる戦後の夢へのレクイエム)というサブタイトルから伺えるように、ピンク・フロイド名義ではあるが実質的にはウォーターズのソロ作品でした。ウォーターズ以外のメンバーであるデヴィッド・ギルモアとニック・メイスンはレコーディング・セッションではウォーターズに乞われたときにしか動かないという状態でした。

当初『ファイナル・カット』に伴うコンサート・ツアーも行う予定であったが、ウォーターズがこれを中止させました。このためピンク・フロイドは活動停止状態となり、メンバーはそれぞれのソロ活動を行うことになります。すでに脱退していたライトもソロ・プロジェクトを立ち上げました。

1984年、ギルモアは『狂気のプロフィール』(全英29位、全米32位)を、ウォーターズは『ヒッチハイクの賛否両論(The Pros and Cons of Hitch Hiking)』を発表し、アルバムに伴うコンサートツアーも行いました。しかし、両者のアルバムの売り上げ並びにコンサートの観客動員は芳しいものではなく、空席の目立つ観客席を前に演奏することがありました。ギルモアのコンサートはわずかに黒字を確保したが、ウォーターズは(エリック・クラプトンという大物が居たにも拘わらず)チケットを売り切ることが全く出来ず、大幅な損失を被ってしまいます。

1985年、ウォーターズはマネージャーであるスティーブ・オラークとの契約を破棄しようとしました。しかし、オラークはウォーターズの意に反し、引き続きピンク・フロイドの仕事を続けたため、ウォーターズはギルモアとメイスンの同意を取り付けようとするが両者は拒否、結局ウォーターズは同年に「ピンク・フロイドは創造性を使い切った」との理由でバンドを脱退しました。ウォーターズにとっては、ピンク・フロイドはもはやその存在価値を無くしていました。ウォーターズは、リーダーである自分が脱退することでバンドの解散を意図していたが、ギルモアはフロイドの活動継続を決めました。

ウォーターズは脱退後、映画『風が吹くとき』のサウンドトラックを担当しました。これはウォーターズ自身のアルバム制作のためのヒントとなり、1984年の『ヒッチハイクの賛否両論』(全英13位、全米31位)に続くソロ・アルバムの制作につながります。ウォーターズはプロデュースをボブ・エズリンに依頼したが、エズリンはギルモア主導のピンク・フロイドの新作プロデュースのためにこのオファーを断り、ウォーターズの怒りを買います。

ギルモアはメイスンと共にピンク・フロイドの「解散」に強く反対してグループの存続を主張しており、ウォーターズの脱退を受け、自ら指揮を執って新生ピンク・フロイドを立ち上げます。ギルモアは多数の外部ミュージシャンを招聘してアルバム制作に取り掛かります。ウォーターズはこのピンク・フロイドの活動継続に激怒して訴訟を起こします。ギルモアは訴訟への対応を余儀なくされたが、『ザ・ウォール』に関する権利をウォーターズに譲ること、ステージでの「豚」のオブジェクトの使用禁止、楽曲使用に伴う収入の20パーセント強をウォーターズに支払うことなどを条件に両者は和解しました。この両者の対立はマスコミやファンの注目の的となり、「ローリング・ストーン」誌のピンク・フロイド特集号はその年の同誌の売り上げナンバー・ワンとなりました。

新生ピンク・フロイドは1987年に『鬱』(英米3位)を発表、大掛かりなツアーを敢行してピンク・フロイドの復活を印象付けました。ウォーターズも同年にソロアルバムアルバム『RADIO K.A.O.S.』(全英25位、全米50位)を発表しました。ウォーターズは『鬱』並びに新生フロイドを「フロイドの真似事をしただけのニセモノ」と手厳しく非難しました。両者は同時期にアルバムを発売し、アメリカ・ツアーではいくつかの都市で両者がバッティングすることもあったが、観客動員や注目度ではフロイドの圧勝に終わっています。

フロイドのコンサートは各地でソールド・アウトを記録して多数の追加公演が組まれ、1989年まで続く長丁場となります。1988年には3度目の来日公演も果たしています。

ウォーターズは、1990年にベルリンの壁が崩壊したのを受けて『ザ・ウォール』の再現コンサートをベルリンで行うことになりました。こちらにも多数のミュージシャンが集まっての一大イベントとなった。これは評判を呼び、『ザ・ウォール〜ライブ・イン・ベルリン』(全英27位、全米56位)としてライブ盤とビデオが発売されています。

1992年、ウォーターズはソロアルバム『死滅遊戯』(全英8位、全米21位)を発表します。これはウォーターズ得意のコンセプト・アルバムであり、批評家からも高い評価を受けたもののセールス面ではゴールド・ディスクにとどまりました。当時「200万枚売れたらツアーをやる」と公言していたが、結局このときは実現しませんでした。

ピンク・フロイドは1993年秋頃に再始動し、1994年に『対/TSUI』(英米1位)を発表。収録曲「孤立」はグラミー賞ベスト・ロック・インストゥルメンタル部門を受賞。そして再び大規模なコンサート・ツアーに出ます。全112公演で、ツアーの総費用は2億ドルに及びました。このツアーでは『狂気』組曲を1975年以来19年ぶりに演奏し、このライブの模様を収めた『P.U.L.S.E』(全英(英米1位)もリリースしたが再び沈黙に入ります。

ピンク・フロイド側とロジャー・ウォーターズ側は決定的に対立し、インタビューでウォーターズとギルモアが互いを非難しあうことがありました。しかし1990年代末より、両者の間の距離は少しずつではあるが縮まり始めていきます。

2000年になって、1979年発表の『ザ・ウォール』に伴うツアーの模様を収録したライブ・アルバム『ザ・ウォール・ライヴ:アールズ・コート1980-1981』(全英15位、全米19位)を発売。

2001年にはベスト・アルバム『エコーズ〜啓示』(英米2位)をリリース。ウォーターズを含めた4人で選曲が行われ、ピンク・フロイドにとって初と言ってもいいベスト盤となりました。メンバーの和解による再結成の期待が高まったが、再びバンドとしての活動が無い時期が続きます。

2003年、長年ピンク・フロイドのマネージャーを務めたスティーヴ・オラークが死亡。ウエスト・サセックスのチチェスター大聖堂で行われた葬儀の際、ギルモア、メイスン、ライトが「デブでよろよろの太陽(Fat Old Sun)」と「虚空のスキャット(The Great Gig in the Sky)」の2曲を演奏しました。

2005年に行われたアフリカ貧困撲滅チャリティーイベント「LIVE 8」において、ウォーターズを含めた4人によるラインナップで再結成を果たし、復活ライブを披露すると、同イベントに参加したミュージシャンのなかでも屈指の反響を得えました。この一時的な再結成の後には1億ポンド(約200億円)で全米ツアーを行わないかというオファーもあったが、ギルモアがこれを断ったことにより、実現しませんでした。

同年、『イギリスの音楽の殿堂』の第2回が発表され、ピンク・フロイドが、ザ・フー、ザ・キンクス、ニュー・オーダーとともに受賞したことが発表されました。ロンドンのアレクサンドラ・パレスで執り行われた授賞式にはギルモアとメイスンが参加し、ウォーターズは滞在先のローマから衛星中継で参加するも、ライトは目の手術のために参加できませんでした。

2006年、かつてのリーダーであったシド・バレットが死去します。メンバーからは追悼のコメントが寄せられた。バレット死去に際して再結成の噂も聞かれたが、こちらも実現しませんでした。

同年、ギルモアの新作発売に伴うソロ・ツアーにライトが参加しました。また、ウォーターズのツアーにメイスンが数回参加した。ギルモアのロンドン公演にメイスンがゲスト出演しました。この時、ギルモアからウォーターズにもゲスト参加の要請があったが、ウォーターズは自身のツアー・リハーサルに専念するとの理由で参加しませんでした。

同じく2006年、『P.U.L.S.E』のDVD化(『驚異』という邦題が付けられた)に伴い、ギルモア、ライト、メイスンの3人が揃って発売記念イベントに参加しました。

2007年、ロンドンのアビー・ロード・スタジオで行われたストーム・ソーガソンの本の出版記念パーティーにギルモア、ライト、メイソンの3人が駆けつけます。

同年、「アーノルド・レーン」のプロデューサーを務めたジョー・ボイド主催のシド・バレット追悼コンサート『Madcaps Last Laugh』がロンドンで行われます。クリッシー・ハインド、ロビン・ヒッチコック、ジョン・ポール・ジョーンズらと共にウォーターズ、ギルモア、ライト、メイスンが出演します。ウォーターズはショー前半のトリでジョン・カーリンを伴い「フリッカーリング・フレイム(Flickering Flame)」を演奏。後半のトリにギルモア、ライト、メイスンの3人がカーリン、オアシスのベーシストのアンディ・ベルを伴い「アーノルド・レーン」を演奏する。最後に出演者全員で「バイク(Bike)」を演奏したがウォーターズは現れず、4人の共演は実現しませんでした。

2008年、ポーラー音楽賞を受賞する。スウェーデンのストックホルムで行われた授賞式にウォーターズ、メイソンの2人が参加。2人はカール16世グスタフ国王から盾と花束を渡され、賞金100万クローナが贈られました。メイソンは、賞金について「メンバー間で分けて、それぞれ寄付する」とコメント。

同年、リチャード・ライトが65歳で死去。タイムズによるとライトは2007年に癌と診断されていました。

2010年、チャリティー・イベントでウォーターズとギルモアが共演。さらに、チャリティー・イベントでの再結成も予定されていたが、会場の問題でキャンセルされたと報じられました。

2011年ロンドンのO2アリーナでのウォーターズのツアー「The Wall Live」のステージにギルモアとメイソンが出演し、久々に3人揃っての演奏が実現しました。

同年、ピンク・フロイドと契約を更新したEMIが「Why Pink Floyd…?」と題された世界的なリリース・キャンペーンを行うと発表。リリースを皮切りに、3回に分けた大々的なリリースを展開する。各アルバムのリマスター盤、ボックスセット、ベスト・アルバム、コレクターズボックスなどの様々な形態で発売されます。

2014年、スタジオ録音としては20年ぶりとなるアルバムを秋に発表すると、バンドのオフィシャル・サイトで公式発表し、アルバム『永遠/TOWA』(全英1位、全米3位)をリリースされました。これは、亡くなったリチャード・ライトを追悼した作品であり、生前に録音しながらもお蔵入りしていた未発表音源でもありました。ギルモアは「これがピンク・フロイドのラストアルバムになる」と明言します。

2015年、ギルモアはウォーターズを含む再結成を改めて否定し、「ピンク・フロイドは自然消滅した。リック・ライトなしでは、ピンク・フロイドの看板で演奏することはない」と、バンドの終結を示唆しました。ウォーターズも「正しい判断」とギルモアの意向を支持しています。

2016年、オフィシャル・フェイスブックに「ピンク・フロイドは、女性ガザ自由船団を支援するために再び団結します」というタイトルで投稿。メディアは再結成と解釈して誤報されました。

2018年、メイスンがガイ・プラットらとソーサーフル・オブ・シークレッツを結成。ピンク・フロイドの初期の楽曲をライブ演奏するというコンセプトのプロジェクト・バンドで、現在も活動を続けています。

ウォーターズとギルモアも、ソロのライブではピンク・フロイドの楽曲を演奏し続けています。

2022年、ロシアのウクライナ侵攻により被害を受けた人々の人道支援のため、28年ぶりの新曲「Hey, Hey, Rise Up!」(全英49位)をシングルとして発表した。ウクライナのバンド「ブームボックス」のボーカリスト、アンドリーイ・クリヴニュークがにInstagramに投稿した映像から、クリヴニュークが歌った「ああ、草原の赤きガマズミよ」の声が使用されています。演奏者はギルモア、メイスン、ガイ・プラット(ベース)、ニティン・ソーニー(キーボード)の4人。ミュージック・ビデオも同日、配信されました。ビデオの監督はマット・ホワイトクロスが務めました。

正に、『神』‼️‼️‼️解散とは、なんとも悲しいですが、楽曲は今尚も生き続けます。



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ビートルズ以前は、トップバンドだった‼️‼️‼️

引用

ロックと言えば、『ザ・ビートルズ』が代表的ですが、それ以前にデビューして売れていたバンドがいます。『ザ・ビーチ・ボーイズ』です。

ブライアン、デニス、カールのウィルソン兄弟はサーフィンで知り合ったジョン・マース(後のザ・ウォーカー・ブラザースのジョン・ウォーカー)よりギターの手ほどきを受け、いとこのマイク・ラヴ、高校の友人アル・ジャーディンと共に1961年にグループを結成します。グループの前途に不安を感じ一時脱退したアル・ジャーディンの代わりとしてデヴィッド・マークスが1962年から1963年まで在籍しました。

彼らは最初ペンデルトーンズ(それはマイク・ラヴが当時流行していたシャツから取った名)と名乗り、ウィルソン兄弟の父親マレーによってマネジメントされました。マレーの友人ハイト・モーガンが経営していた小レーベル、CANDIXと契約しデビューシングル「サーフィン」をリリースしたが、そのレーベルには彼らの知らない「ザ・ビーチ・ボーイズ」という名前がクレジットされていました。デビューシングルは全米75位止まりだったものの、マレーは大手のキャピトル・レコードとの契約を成功させます。

キャピトル・レコードに移籍後の第一弾シングル「サーフィン・サファリ」は全米14位のヒットとなった。彼らの初期の曲のテーマはカリフォルニアの青年のライフスタイル(例えば「オール・サマー・ロング」「ファン・ファン・ファン」)、自動車(「リトル・デュース・クーペ」)そしてサーフィン(「サーフィン」「サーフィン・サファリ」)から取られたものでした。これらは主にデニスの趣味でした。リーダーで、ヒット曲の多くを書いたブライアン・ウィルソンには、サーフィンの趣味はありません。

1962年末にデビューアルバムとなる『サーフィン・サファリ』(全米32位)を発表してから1966年の『ペット・サウンズ』の前まで、彼らは3年間で10枚のアルバムを発表しています。うち、ライブアルバムが1枚、企画アルバムが2枚で、オリジナルアルバムは7枚となるが、クリスマスアルバム用にもオリジナル曲を用意しています。CDの普及により、アルバム1枚あたりの曲数が増えた現在と単純な比較はできないし、曲の重複もあるが、1年にオリジナルアルバムを2枚以上出していたことになります。また、2作目まではベテランのA&Rマンであったニック・ヴェネにプロデュースを任せたものの、1963年のオリジナルアルバム3作目『サーファー・ガール』(全米7位、全英13位)からはブライアン本人がプロデュースまでつとめるようになりました。このとき、ブライアンはまだ21歳でした。

その後、ブライアンは敬愛するフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドや、効果音を取り入れたアレンジを見事に消化し才能を開花させた。この時期に、演奏技術に優れたスタジオ・ミュージシャンをバックに初期のポップで商業主義的な『オール・サマー・ロング』(全米4位)『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥディ』(全米4位、全英6位)『サマー・デイズ』(全米2位、全英4位)が立て続けに発表されます。しかし、順調に見えたビーチボーイズの前途にその後ずっと付きまとう影が現れたす。

1964年末のツアーに向かう飛行機の中で、ブライアンは感情の抑制がきかなくなってライブを欠席します。そしてこれをきっかけに、コンサート活動への参加を止め、スタジオでの音楽作りに専念することを宣言してしまいます。このツアーではブライアンの代わりをグレン・キャンベルが務めました。その後、この役目を担うためにブルース・ジョンストンが参加し、結局そのまま6人目のビーチボーイとして以降の音楽生活を送ることになります。

ブライアンはビートルズのアルバム『ラバー・ソウル』に衝撃を受け、対抗心を燃やした。そして、当時ポップ・ミュージックとしては珍しい完全なコンセプト・アルバムを作ることを考えた。これが『ペット・サウンズ』(全米10位、全英2位)です。しかし、それまでの彼らのイメージとはかけ離れていた作品であるため、契約していたキャピトル・レコードから敬遠され、保守的な米国のファンにもなかなか受け入れられませんでした。

早々に50万枚を売り上げたが、それまでの作品に比べて売上の伸びない状況に不満を感じたキャピトル・レコードは、ペット・サウンズの発売後すぐに、それまでのヒット曲を集めたアルバム『ベスト・オブ・ザ・ビーチボーイズ』(全米8位、全英2位)を発表しました。ベスト盤は瞬く間に100万枚を売上げ、ペット・サウンズよりもヒットしてしまう結果となった。この事実にブライアンは酷く傷つき、その傷はその後長くブライアンを蝕むことになります。

しかしイギリスでは米国の反応と異なり好評であり、シングルがヒットチャート上位にランクインする結果となりました。また、元ビートルズのポール・マッカートニーや、ザ・フーのピート・タウンゼント、エリック・クラプトンが好きなアルバムとして挙げるなど、一部には理解者がいたが、このアルバムが見直されるには、かなりの時間が必要でした。

スタジオでの完全主義ゆえに彼は『ペット・サウンズ』以上の作品を作り出さなければならないという強迫観念に駆られ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音と期間が重複していた『スマイル』の制作中にノイローゼになりました。

一日の大半をドラッグとアルコールに依存するようになったブライアンは、アルバム内の曲「エレメンツ」録音時にスタジオ内で消防士の格好をしたり、キャピトルの重役夫人を悪魔呼ばわりしてその重役のスタジオ入りを拒否したり、奇行が見られるようになりました。また、スタジオでのエフェクトに凝り始めたブライアンと、グループの持ち味であるボーカル・ハーモニー路線を支持したマイクを始めとする他メンバーとの方向性に対する対立も深まります。モジュラー・レコーディングといういくつかの(実際には、中間部が異なる各曲数十テイクに及ぶ)テイクの断片を組み合わす方式は、編集段階でもさらに精神的混乱を巻き起こします。

『スマイル』はキャピトル・レコードの再三のリリース要求にもかかわらず結局完成せず、1967年5月にキャピトルはこのアルバム発売をキャンセルした。キャピトル・レコードは、アルバムをリリースさせるために、レコーディングの途中にもかかわらずジャケットを印刷してプレッシャーを与えようとしていたが、大半が破棄されました。

『スマイル』用の曲のうちのいくつかは『スマイリー・スマイル』(全米41位、全英9位)に収録されたが、そのバージョンは厳密には『スマイル』録音時のテイクではなく、ブライアンがドロップアウトした後に他のメンバーが手早くでっち上げた断片や残骸とでもいうべきものでありました。当然、40年後にアウトテイクも含んだ形で発表されたボックスセット『グッド・バイブレーションズ・ボックス』に収録された同名楽曲の完成度とは比べものにならない代物で、「英雄と悪漢」(全米12位、全英8位)、「グッド・ヴァイブレーション」(英米1位)といった傑作曲が収録されたものの、『スマイリー・スマイル』の評価は惨憺たるものでした。ブライアンが『スマイル』を放棄した後に、残りのメンバーが作り上げた『スマイリー・スマイル』が、彼らが嫌ったサイケデリック色の強いアルバムとなったのは皮肉な結果でした。

ブライアンの精神状態の悪化や事実上のドロップアウトにもかかわらず、バンドはさらに活発に活動を続けました。。『ワイルド・ハニー』(全米24位、全英7位)『フレンズ』(全米13位、全英126位)『20/20』(全米68位、全英3位)までの作品をキャピトル・レコードで発表しました。

ただし、ブライアン以外のメンバーも平穏な生活を送っていたわけではありません。この時期デニスは、後に女優シャロン・テート惨殺事件を起こすチャールズ・マンソンと共同生活を送った上に、楽曲の共作まで行っている。これは事件後スキャンダルとなりました。

1970年の『サンフラワー』(全米151位、全英29位)でキャピトルレコードを離れ、ワーナーブラザース傘下のリプリーズに移籍。また、本格的に自分たちのレーベルであるブラザーレコード名義で作品を発表するようになります。続いて1971年の『サーフズ・アップ』(全米29位、全英15位)がリリースされました。そのタイトル・トラック「サーフズ・アップ」は才能あるシンガー・ソング・ライターのヴァン・ダイク・パークスとの共作で、元々は『スマイル』に収録される曲であったが、ブライアンの思った通りのボーカルが録音できず、カールが代わってリードボーカルを務めました。このように『スマイル』が頓挫してから以後に発表されたほとんどのアルバムには、分散する形で『スマイル』収録予定曲の別バージョンが収録されています。

1970年代を通してブライアンの活動は低調で、1973年の『オランダ』(全米36位、全英20位)も複雑な評価を得ました。ブライアンは1976年にツアーに復帰したが、彼の精神疾患は1990年代まで問題のままでした。ただし、ブライアン不在の中、他のメンバーは精力的にツアーを続け、ライブバンドとしての地位を確立していきます。また、ブライアンの穴を埋めるために、メンバーが作った楽曲の中には佳作もあり、ビーチボーイズが決してブライアン一人の才能によって成り立っていたわけではないことを示す結果となりました。

しかし、1983年にウィルソン三兄弟の次男であるデニスが事故死。泥酔状態でクルーザーから水中に飛び込み、溺死でした。当時、それぞれがソロアルバムを出すなど、すでに分裂の危機にあった彼らは、デニスの死をきっかけとして一時的に以前の結束を取り戻すかのように見えました。

1985年に行なわれた『ライヴ・エイド』に出演します。亡くなったデニス以外のメンバー5人(ブルース、カール、マイク、アル、ブライアン)がフィラデルフィア・JFKスタジアムに集結し、「カリフォルニア・ガールズ」「ヘルプ・ミー・ロンダ」「素敵じゃないか」「グッド・ヴァイブレーション」「サーフィンU.S.A.」を披露しました。これにより残された5人での活動に大きな期待が寄せられたが、同年リリースされたアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ』以後、ブライアンはマイクとの共作をやめ、精神面での主治医ユージン・ランディの誘導により、ソロ活動に重きを置くようになっていきます。

活動停止やソロ活動を経て、バンド活動は継続され、1988年、亡くなったデニスをはじめとして、マイク、カールもソロアルバムを発表済みだったが、とうとうブライアンがソロアルバム『ブライアン・ウィルソン』を発表します。このアルバムは精神分析医ユージン・ランディの強い影響下で作られたものでした。ブライアンの才能が発揮された佳作で、一部で熱狂的に迎えられたものの、一般に大きな反響をもたらすものではありませんでした。皮肉なことに、同年ブライアン以外のメンバーがビーチ・ボーイズ名義で発表した映画『カクテル』の主題歌「ココモ」が22年ぶりの全米1位(全英25位)を獲得する大ヒットとなります。

2012年、新作アルバム『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ〜神の創りしラジオ〜』をリリース(全米3位、全英15位)、来日公演(千葉・名古屋・大阪)を行いました。

同年以降はマイクとブルースが再びブライアンらと袂を分かち、前年までのバンドを率いてツアーを再開。一方ブライアンとアルはリユニオンの継続を希望したものの受け入れられませんでした。その代わり、ブライアンのバンドにアルが息子のマット・ジャーディンと共に合流し二者でのアルバム製作やライヴ活動を行うようになったため、現状では二分裂の状態となっています。2016年頃からはかつて1971-73年の間メンバーだったブロンディ・チャップリンもブライアンのバンドに参加しています。



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プログレ界の神‼️‼️‼️

引用

イギリスで、一世風靡しな『プログレッシヴ・ロック』。その中でも、特に突き詰めて作品を出し続けたバンドがいます。『キング・クリムゾン』です。

1968年、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズ、ピーター・ジャイルズ)とロバート・フリップの3人によるバンド『ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ』から発展。同年6月にマルチプレイヤーのイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカルのジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンヴェンション)が加わってのスターティングメンバーで開始します。しかし翌7月にダイブルが抜け、同11月にフリップの古くからの友人であったボーカリスト兼ベーシストのグレッグ・レイクが参加。同12月にはピーター・ジャイルズが脱退し、残った5人(フリップ、Mジャイルズ、マクドナルド、シンフィールド、レイク)が正規メンバーとなり陣容が正式に固まりました。

翌1969年初頭、バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿」から採られ、「キング・クリムゾン」に決定。シンフィールドは、メンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えています。本格化した活動が始まり、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作を並行しました。

同年、デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』(全英5位、全米28位)を発表。それは今後のロック・ミュージックを左右する雛形が詰まったと言える作品で、業界からも非常に高い評価を得ます。当時から雑誌のレコード・レビューなどで「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で紹介されてしまう都市伝説も生まれました。

このファースト・アルバム制作当初、「ムーディー・ブルース」のプロデューサー トニー・クラークがプロデュースを担当する繋がりで、同バンドのレーベル「スレッショルド」からリリースする話もあったが、結局はクラークと制作面の相違で決裂。最終的にバンド側がセルフプロデュースして「アイランド・レコード」からのリリースとなりました。また、現在はフリップがバンドリーダーを務めているが、この当時の作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン)、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされています。

1stアルバム発表後、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは同年末で脱退し、ロック・デュオ「マクドナルド・アンド・ジャイルズ」結成に向かいます。これによりオリジナル・ラインナップは早くも崩壊し、アルバム僅か一枚の短命で終わります。

バンドは崩壊後も契約消化のため、アルバム・リリースを継続せねばならなかった。1970年からの新アルバム制作にサックス及びフルート奏者 メル・コリンズが正規加入、脱退していたジャイルズ兄弟らの協力やゲストプレイヤーを招いて、セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』(全英4位、全米31位)を完成させました。ただし、グレッグ・レイクがレコーディングに来なくなり、そのまま脱退。「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」結成に動き出していました。そのためライブツアーは実施されていません。その後、ボーカリスト兼ベーシスト ゴードン・ハスケルとドラマー アンディ・マカロックを正規メンバーに迎えた上に、ゲストプレイヤーの協力も仰いで、サード・アルバム『リザード』(全英26位、全米113位)を制作して同年末リリース。ライブツアーを実施しようとしたが、リハーサル段階でハスケルとマカロックが脱退したので頓挫しました。

1971年初頭、残った正規メンバー フリップ、コリンズ、シンフィールドは、ライブ活動ができる状態を模索します。まずボーカリストのボズ・バレルとドラマー イアン・ウォーレスを獲得。そしてベーシストは適任者探しが難航した末、バレルが兼任するという形に決まり、フリップがベースギターの素人であったバレルに奏法を教授しました。新作アルバムの制作に入る前に、4月からドイツや英国ツアーで1年以上ぶりのライブ活動を行います。

同年夏、新作アルバムの制作に着手し、並行して英国ツアーを継続。11月からは北米ツアーに入る。この間メンバー同士の確執が浮き彫りになります。特にフリップとシンフィールドの、ブレーン両名の険悪化は致命的であった。そんな中の同年末、4thアルバム『アイランズ』(全英30位、全米76位)を発表。そしてシンフィールドは解雇された。さらに翌1972年早々のリハーサル段階でもフリップと残りのメンバーとの間の意見統一ができず、結局フリップはバンドの解散を決意。マネジメント側は既に北米ツアーの向こう2ヶ月のスケジュールを組んでいたため、4人は渋々同意して渡米し、ツアーが終了した同4月頭に解散しました。

ツアー終了後フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は遠征先で意気投合したアレクシス・コーナーとバンド「スネイプ」を結成。その後バレルは、ポール・ロジャースのバンド「バッド・カンパニー」のベーシストとして参加。シンフィールドはグレッグ・レイクの呼びかけに応じて「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」に作詞で協力し、ソロ・アルバム『スティル』を制作した。後年にフリップは、この時期のバンド解消を「彼らとではアイデア(後の『太陽と戦慄』路線)を具体化できなかったから」と説明している。

同年6月、初のライブ・アルバム『アースバウンド』を廉価版にてリリース。これは北米ツアーの音源でカセットテープによって収録された劣悪な音質でありながら、対立が深まるメンバー同士の爆発寸前の驚異的な演奏であり、後々まで批評を受けました。

解散が決定した1972年初頭からの北米ツアーの期間中フリップは、既に次期クリムゾン再開に向けての青写真を描いていました?同年夏、ドラマーのビル・ブルーフォードを「イエス」から獲得。「ファミリー」のベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットン、デレク・ベイリーが主宰しクリムゾンが影響を受けた即興集団「カンパニー」のパーカッショニスト ジェイミー・ミューア、そして新鋭のキーボード兼ヴァイオリニスト デヴィッド・クロスが集結し、同年10月から再始動。即興演奏(インプロビゼーション)を主体に、新たな楽曲を生み出す技巧派集団に生まれ変わります。

ここで再びバンドとしてのピークを迎え、5th『太陽と戦慄』(全英20位、全米61位)6th『暗黒の世界』(全英28位、全米64位)7th『レッド』(全英45位、全米66位)の3枚のアルバムをメンバー変遷を経ながらもリリースし、ライブ・ツアーも精力的にこなしました。

しかし、ミューアは『太陽と戦慄』発表前に早々に脱退。1974年にはデヴィッド・クロスとヘヴィ志向のウェットンとの間で音楽的衝突が浮き彫りになり、クロスを一方的に解雇し、アルバム『レッド』制作の頃は正規メンバーがフリップ、ウェットン、ブルーフォードの3人に減少していました。

ウェットンの呼び掛けにより、数名の旧メンバーがゲスト参加してアルバムを完成させたが、リリース直後にフリップは解散を宣言。直前まではメディアに、ゲストで参加したかつての創設メンバー イアン・マクドナルドを再度迎えてのバンド継続も匂わせていたが、フリップは自身だけでも脱退するつもりでいた。実際の裏側では、スティーヴ・ハケット(ジェネシス)を自分の後任候補に据えての存続をフリップは提案していたが、マネジメント側に却下されていた事実が後年に明かされています。

解散後の1975年に、北米ツアーのライブを収録したアルバム『USA』(全米125位)をリリース。元音源にはヴァイオリン兼キーボード(主にメロトロン)担当のデヴィッド・クロスが参加していたが、数曲が編集段階でエディ・ジョブソンの演奏に差し替えられています(またこの頃、「太陽と戦慄 パート2」(5thアルバム『太陽と戦慄』収録)に酷似した曲が映画「エマニエル夫人」で使用され、フリップの訴えによる裁判が行なわれている。裁判後に和解)。

解散から7年後の1981年、フリップは、かつてのメンバーであるビル・ブルーフォードと共同で、「ディシプリン」という名のプロジェクトを開始した。アメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィンが加入。2人目のギタリスト兼ボーカリストに、アメリカ人のエイドリアン・ブリューが参加した。この4人からなる新グループは、契約しているレーベルの商業的意向もあって再び「キング・クリムゾン」の名義で活動を再開します。

しかし1970年代までのスタイルからは打って変わり、管弦楽器を廃してギター・ロックに徹し、ポリリズムや当時ムーブメントになっていたニュー・ウェイヴの要素を取り入れるなど、音楽性が劇的に変化していました。(演奏については、2本のギターとスティックによる複雑なアルペジオの絡みが特徴的であった)。このような形での再結成に批判が高まり、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ化した」という批判も一部から出ました(旧メンバー ジョン・ウェットンも当時、「英国人以外が参加しているこのラインナップを、クリムゾンとして認めていない」旨の発言をしている)。

同1981年9月、当初のバンド名をセルフタイトルとした8thアルバム『ディシプリン』(全英41位、全米45位)リリース。同1981年(昭和56年)12月に初来日し、渋谷公会堂、浅草国際劇場を始めとする全国ツアーを行ないます。

1982年、9thアルバム『ビート』(全英39位、全米52位)を発表。元々『ディシプリン』のみのプロジェクトであったため新素材がほぼ皆無で、準備不足のなか創作に苦労したエピソードを明かしています。

1984年リリースの10thアルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』(全英30位、全米58位)に至っては、メンバーのモチベーションはもはや低下した中で制作された。同年春に再来日し、北米ツアー後の7月に解散を決定します。フリップは「レーベルとの契約は、アルバム3枚リリースが条件であった。本来意図したアイデアは『ディシプリン』で完結している」と後年に明かしています。

1980年代末頃からフリップの活動も活発になり、再び再結成の機運が高まっていきます。1992年にフリップは音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、自身が管理する独立レーベル「Discipline Records (後のDiscipline Global Mobile。通称 DGM)」を設立。

さらに、デヴィッド・シルヴィアンとの共作などで手応えを感じたフリップは、1994年から遂にバンドを再始動させます。1980年代のメンバーから更に増員して6人編成となり、3人二組のユニットを配置するスタイルを構築(通称 ダブルトリオ)。サウンド面では、1974年作『レッド』で片鱗をみせたヘヴィ路線を継承し、プログレッシブ・メタルを推進しました。

このラインナップでEP『ヴルーム』を制作。慣らし運転も兼ねた南米ツアーを開催し、翌1995年に11年ぶりの11thアルバム『スラック』(全英58位、全米83位)を発表。そしてフリップは、キング・クリムゾンが実践するヘヴィサウンドを「ヌーヴォメタル (Nuovo Metal)」と名付けました。アルバムに伴うワールドツアーを開始し、数多くのライブ音源をアーカイブ化していきます。

その後は、メンバー変更やメンバーの死などを乗り越えますが、2022年メンバーのイアン・マクドナルドの死去により、バンドの活動は終焉へと向かいました。

ついに、終焉。寂しいけど、それが現実。ラストまで見ていきましょう。



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