ハワイ大学マノア校で演劇を専攻するが中退。1966年、映画『ハワイ』にエキストラで初出演。その後、舞台女優を目指しニューヨークに出る。その後、ブロードウェイの舞台に立つようになり、『屋根の上のバイオリン弾き』などに出演。1974年には『Clams on the Half Shell Revue』でトニー賞の特別賞を受賞。また、ゲイクラブなどで歌うようにもなりました。
バレットは結局、同1968年3月にバンドを脱退した。これによりフロイドは、ウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアの4人で再スタートすることになりました。バレット脱退後、当初はシングル向けの楽曲も数曲作ったが、バンドは方針を転換してサイケデリック・ロックから脱却し、より独創性の高い音楽を目指すようになりました。また、シングルもイギリスでは1968年発表の「It Would be So Nice」(全英52位)以降はリリースしなくなります。彼らはそれまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身の強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていました。こうして発表された同1968年のセカンド・アルバム『神秘』(全英9位、全米85位)は、約12分のであるタイトル曲「神秘」を収録しています。
同1971年に『おせっかい』ツアーが終了すると、バンドは次のアルバム制作に取り掛かります。制作に先立ち、ウォーターズは新作のアルバムのテーマとして「人間の内面に潜む狂気」を描くことを提案します。バンドはこのアイデアを元に組曲を作り上げ、それは翌1972年のコンサートから「A Piece for Assorted Lunatics」というタイトルで披露された。これがのちに大ヒットアルバムとなる『狂気』です。バンドは同年同月からイギリスを皮切りにコンサート・ツアーを開始、同年には2回目の来日を果たしている。こちらでも『狂気』の組曲が披露されました。
その後、同年にフランス、イギリスでコンサートツアーを行いました。新曲「Shine on You Crazy Diamond」「You’ve Gotta be Crazy」「Raving and Drooling」などが披露され、次のアルバムではこの3曲を収録することが決まりかけていたが、これらの新曲を披露したコンサートを収録した海賊盤『British Winter tour』なるアルバムが大いに売れてしまったため、「You’ve Gotta be Crazy」と「Raving and Drooling」の収録は見送られました。この2曲は、のちのアルバム『アニマルズ』にタイトルが変更されたうえで収録されています。
『アニマルズ』発表後のツアー「Pink Floyd : In The Flesh」はヨーロッパと北アメリカを跨ぎ、当時のフロイドでは最大級のコンサート・ツアーとなりました。このツアーの最終日であるカナダ・モントリオール公演で、ウォーターズは前列で大騒ぎしていた観客に激怒し、演奏途中で唾を吐き掛けるという行為に及びます。自らのこの行為が発想の引き金となって、コンサート終了後、ウォーターズは次のアルバム制作に没頭します。一方、他のメンバーはそれぞれにソロ活動を開始し、デヴィッド・ギルモアは1978年に『デヴィッド・ギルモア』(全英17位、全米29位)を発表してヒットを記録します。
『ザ・ウォール』ツアーでは、演奏途中から観客席と舞台の間に実際に巨大な壁(※鉄筋コンクリート造の白い壁になぞらえた大道具的舞台装置)を構築し、それがクロジーング・ナンバー「Outside The Wall」の直前で完全に崩れ去るという大規模な演出で話題を呼びました。ただし、あまりにも大規模で経費と手間が掛かりすぎ、実際にこの演出が行われたのは全世界で4都市のみの公演に留まりました。その一方で、アルバムのコンセプトを具現化した映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』がアラン・パーカー監督の下で製作され、1981年に公開されました。
1983年発表の『ファイナル・カット』(全英1位、全米6位)は、”A Requiem For The Post War Dream by Roger Waters”(ロジャー・ウォーターズによる戦後の夢へのレクイエム)というサブタイトルから伺えるように、ピンク・フロイド名義ではあるが実質的にはウォーターズのソロ作品でした。ウォーターズ以外のメンバーであるデヴィッド・ギルモアとニック・メイスンはレコーディング・セッションではウォーターズに乞われたときにしか動かないという状態でした。
1984年、ギルモアは『狂気のプロフィール』(全英29位、全米32位)を、ウォーターズは『ヒッチハイクの賛否両論(The Pros and Cons of Hitch Hiking)』を発表し、アルバムに伴うコンサートツアーも行いました。しかし、両者のアルバムの売り上げ並びにコンサートの観客動員は芳しいものではなく、空席の目立つ観客席を前に演奏することがありました。ギルモアのコンサートはわずかに黒字を確保したが、ウォーターズは(エリック・クラプトンという大物が居たにも拘わらず)チケットを売り切ることが全く出来ず、大幅な損失を被ってしまいます。
2003年、長年ピンク・フロイドのマネージャーを務めたスティーヴ・オラークが死亡。ウエスト・サセックスのチチェスター大聖堂で行われた葬儀の際、ギルモア、メイスン、ライトが「デブでよろよろの太陽(Fat Old Sun)」と「虚空のスキャット(The Great Gig in the Sky)」の2曲を演奏しました。
同年、「アーノルド・レーン」のプロデューサーを務めたジョー・ボイド主催のシド・バレット追悼コンサート『Madcaps Last Laugh』がロンドンで行われます。クリッシー・ハインド、ロビン・ヒッチコック、ジョン・ポール・ジョーンズらと共にウォーターズ、ギルモア、ライト、メイスンが出演します。ウォーターズはショー前半のトリでジョン・カーリンを伴い「フリッカーリング・フレイム(Flickering Flame)」を演奏。後半のトリにギルモア、ライト、メイスンの3人がカーリン、オアシスのベーシストのアンディ・ベルを伴い「アーノルド・レーン」を演奏する。最後に出演者全員で「バイク(Bike)」を演奏したがウォーターズは現れず、4人の共演は実現しませんでした。
1980年代末頃からフリップの活動も活発になり、再び再結成の機運が高まっていきます。1992年にフリップは音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、自身が管理する独立レーベル「Discipline Records (後のDiscipline Global Mobile。通称 DGM)」を設立。