不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

サイケデリック・ロックの夜明け‼️‼️‼️

引用

『ザ・ビートルズ』のアルバム『リボルバー』や『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』などが、サイケデリック・ロックを生み出しましたが、そんなこのジャンルは世界でブレイクしました。今回は、そんなサイケデリック・ロックから、いくつかのバンドを紹介しましょう^_^

13thフロア・エレベーターズ

1965年、バンドは、ザ・スペーズというバンドを脱退したあとのロッキー・エリクソンが、テキサスの沿岸の街、コーパスクリスティでザ・リングズメンとして活動していたステイシー・サザーランド、ベニー・サーマン、ジョン・アイク・ウォルトンらと合流して結成されました。1966年リリースの『The Psychedelic Sounds of the 13th Floor Elevators』から、シングル「You’re Gonna Miss Me」が、全米55位を記録。代表的なバンドとなりました。

アイアン・バタフライ

1966年にサンディエゴで、ダグ・イングルと後に「ライノセロス」へ行くダニー・ウェイスを中心に結成した。ウェイスはレコード・デビュー前に抜け、ファースト・アルバム『ヘヴィ』発表後ダリル・デローチが脱退、1969年末までイングル、リー・ドーマン、ロン・ブッシー、エリック・ブランの4人で活動します。1968年の『ガダ・ダ・ヴィダ』が記録的大ヒット。同タイトル曲も大ヒット。1975年解散。

ヴァニラ・ファッジ

スタインとボガートはリック・マーティン & ザ・ショウメンという地元バンドで活動していました。2人はラスカルズのスウィンギン・サウンドとオルガンの洪水に感銘を受け、マーテルとバンドのドラマーであったジョーイ・ブレナンと共に、自身のバンドを結成することを決めました。当初彼らはバンド名をザ・ピジョンズとしたが、1966年にブレナンに代わってアピスが加入、バンド名もヴァニラ・ファッジと改名しました。『キープ・ミー・ハンギング・オン』が、全米6位とヒット。同タイトル曲が6位を獲得。現在も活躍中。

グレイトフル・デッド

バンドは1965年初めにワーロックスとしてパロアルトで活動を始めた。ワーロックスはジャグ・バンドのマザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオンの残ったメンバーにより結成されました。1970年『アメリカン・グラフィティー』が全米19位まで上昇。シングル「トラッキン」が、全米64位まで上昇しました。

他にも、色々なバンドがいます。探してみては^_^



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

AORの代表的ミュージシャン‼️

引用

1970年後半に、起きたAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック、もしくはアルバム・オリエンテッド・ロック)は、80年代中旬まで流行りましたが、その中でも1番成功したのは、『ボズ・スキャッグス』でしょう。

1944年にアメリカ合衆国オハイオ州カントンで生まれます。少年時代をオクラホマ州やテキサス州で過ごします。12歳のときにギターを始め、セント・マークス・スクールでスティーヴ・ミラーと出会います。彼にギターを習いながらヴォーカリストとしてバンド活動を始めます。2人は共にウィスコンシン大学に進み、大学時代もブルース・バンドを組みました。

1960年代前半、白人によるリズム&ブルースが盛んだったイギリスのロンドンへ渡ります。いくつかのバンドでプレイした後、ソロとしてヨーロッパを遠征中スウェーデンのポリドール・レコードの目にとまり、1965年にデビュー作『ボズ』を発表しました。

帰国後、サンフランシスコを拠点に活動し、スティーヴ・ミラー・バンドのファースト・アルバム『未来の子供達』(1968)とセカンド・アルバム『セイラー』にギタリストとして参加。いずれの作品でも、一部の曲ではリード・ボーカルも兼任しました。セカンド・アルバムはアルバム・チャートで24位まで上昇するヒット作となりました。これで評価を得たボズは、1969年にアトランティック・レコードからルーツ・ミュージック志向のアルバムを発表したが、しばらくはセールスに恵まれませんでした。

ルーツ・ミュージック色が濃い音楽を発表し続けていたボズだったが、1976年、ソウル、クロスオーバー志向で洗練されたサウンドの『シルク・ディグリーズ』を発表し、これが全米2位(全英20位)を記録し、500万枚以上を売り上げました。アルバムからも「ロウ・ダウン」(全米第3位)、AOR曲「ウィ・アー・オール・アローン」のヒットが生まれた(このアルバムに参加したセッション・ミュージシャンたちは、後にTOTOを結成)。次作の『ダウン・トゥー・ゼン・レフト』(全米11位、全英55位)からはブルーアイド・ソウルの曲「ハード・タイムズ」(全米58位)「ハリウッド」(全米49位)がヒット。「ハード・タイムズ」は日本での最初のヒットとなりました。80年の『ミドル・マン』(全米8位、全英52位)収録曲では「ジョジョ」(全米17位)「シモン」が話題になりました。同年、再びブルーアイド・ソウルの「ミス・サン」(全米14位)がアメリカ、日本ともにヒットしています、

その後、しばらくリリースが途絶えていたが、1988年発表のアルバム『アザー・ロード』(全米47位)の収録曲「Heart of Mine」(全米35位)が、そのミュージック・ビデオの効果もあり、翌1989年に大ヒット、カムバックを果たしました。『アザー・ロード』は日本ではオリコン洋楽チャートで1988年5月30日付から通算3週1位を獲得しました。

2003年の『バット・ビューティフル』((全米167位)以降はジャズ・スタンダードに傾倒を始め、ジャズ・セットでのツアーも行っています。

2013年、スティーヴ・ジョーダンをプロデューサーに迎え、メンフィスのロイヤル・スタジオで録音したアルバム『メンフィス』を429レコードよりリリース。全米初登場17位を記録しました。



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

サザン・ロックのエース‼️‼️‼️

引用

アメリカには、『サザン・ロック』と言うジャンルの音楽があります。中でも、『ザ・オールマン・ブラザーズ・バンド』はその代表格です。

デュアン・オールマンと弟のグレッグ・オールマンは、地元フロリダ州デイトナビーチで1963年、オールマン・ジョイズを結成し米国南東部のツアーを経験、シングル・レコードもリリースする。続いて60年代後半、2人はアワーグラスに参加するために、カリフォルニア州ロサンゼルスへ移住しました。このバンドはリバティ・レコードより2枚のアルバムをリリースしたものの、希望する音楽をプレイできないことに不満を感じたデュアンはバンドを脱退し、フロリダに戻ってしまいました。

フロリダ州ジャクソンビルで活動をするうちに、デュアンは31stオブ・フェブラリーというバンドのブッチ・トラックス(ドラムス)、またセカンドカミングのディッキー・ベッツ(ギター)とベリー・オークリー(ベース)、R&Bのドラマーとして実績のあったジェイ・ジョハンソン(ジェイモー)といった面々と出会い、セッションを重ねました。同時に、アラバマ州マッスルショールズのフェイム・スタジオを中心にセッション・ギタリストとして名を上げ、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケットなどのレコーディングに参加しました。

1969年、まだロサンゼルスに残って活動を続けていたグレッグをデュアンが呼び寄せ、前述のセッション・メンバーに合流する。これが、『ザ・オールマン・ブラザーズ・バンド』の誕生でした。

1969年、地元のキャプリコーン・レコードと契約、同レーベルのフィル・ウォルデンの薦めによりバンドの拠点をジャクソンビルからジョージア州メイコンに移す。同年、ファースト・アルバム『The Allman Brothers Band』(全米188位)をリリース。プロデュースは、ハービー・マンやクリームなどの作品でエンジニアを務めたエイドリアン・バーバーが担当しました。翌年にはデュアンと親交のあったトム・ダウドのプロデュースによる2作目『Idlewild South』(全米38位)をリリースするが、2作とも大きな成功を収めるには到りませんでした。

彼らの存在を不動のものとしたのは、続いてリリースした1971年のライヴ盤『At Fillmore East』(全米13位)でした。デュアンの豪快なスライド・ギターをフィーチャーしたブラインド・ウィリー・マクテルのカバー「Statesboro Blues」、20分以上に渡るジャムが展開される「Whipping Post」などの演奏を収録したライブ盤の金字塔として知られるようになりました。また、インストの「In Memory of Elizabeth Reed」にはこんなエピソードも。この曲はディッキー・ベッツが、よく行っていた川沿いの墓地でデートをしているときに作ったそうだが、その女性の名前をつける訳にはいかなかったので、ある墓碑銘に刻まれたIn Memory of Elizabeth Reedをそのまま拝借した。後日、このエピソードをデュアンがローリング・ストーン誌に暴露したそうです。

『At Fillmore East』の成功から間もない1971年デュアン・オールマンがメイコンにてオートバイでトラックに追突し、24歳で死去します。バンドは、後任ギタリストを補充せず、レコーディング途中だったアルバム『Eat A Peach』(全米4位)をベッツが中心となって完成させた。以後、ベッツがデュアンに変わってバンドのリーダーを務めるようになりました。

1972年には、キーボードにチャック・リーヴェルが新たに加入する。しかし、1972年、デュアンに続きベリー・オークリーもオートバイ事故により亡くなってしまいます。デュアンの事故現場から僅か3ブロックしか離れていないところでの事故でした。

度重なるメンバーの死にも関わらず、残ったメンバーはバンド活動を続行する。オークリーの後任にはラマー・ウィリアムズが加入し、翌1973年、『Brothers And Sisters』をリリース。全米1位の大ヒットを記録し、アメリカの国民的バンドとしての地位を確立しました。またシングルカットされた 「Ramblin’ Man」もポップ・チャート2位を記録しました。

これに先立つ同年、ザ・バンド、グレイトフル・デッドとともにニューヨーク州ワトキンズ・グレンのワトキンズ・グレン・レース・サーキットにおけるライブ (サマー・ジャム)に参加。このイベントは、60万人もの観客が訪れました。

1975年、アルバム『Win, Lose or Draw』を発表し、全米5位を記録。同年、バンドはアメリカ民主党ジミー・カーターの大統領選挙キャンペーンを支援するコンサートに参加し、カーターの支持母体サザン・バプティスト教会の支援を受けます。カーターの当選は南部のロック・バンドが最初に政治に深く関わった歴史的な一面も持ちます。

だがメンバー間の音楽的な意見の相違と個人的対立が徐々に大きくなり、バンドの結束は徐々に崩れてしまいます。そして1976年、バンドは解散します。グレッグとベッツはソロ活動に転じ、リーヴェル、ジェイモー、ウィリアムズはシー・レヴェルというバンドを結成するに到ります。

2年後の1978年、グレッグがベッツに和解を呼びかける形でバンドを再結成します。リーヴェルとウィリアムズはシー・レヴェルでの活動を続けたため再結成には加わらず、新たにデヴィッド・ゴールドフライズ(ベース)、ダン・トーラー(ギター)が加入した。1979年にはアルバム『Enlightened Rouges』(全米9位)をリリースし存在感をアピールするものの、この後、デビュー当時から所属していたキャプリコーン・レコードが倒産してしまいます。バンドはアリスタに移籍し、更に2枚のアルバムをリリース。1981年の『Brothers Of The Road』(全米44位)からのシングル「Straight From The Heart」はポップ・チャートの39位を記録し、まずまずの成功を収めるが、バンドは1982年に再度解散するに到ります。

1989年、ディッキー・ベッツ・バンドにいたギタリスト、ウォーレン・ヘインズとベーシストのアレン・ウッディ、それにジョニー・ニール(キーボード、ハーモニカ)を加え、バンドが再結成される。エピックと契約し、翌1990年、『Seven Turns』(全米53位)をリリース。1991年にはスパイロ・ジャイラなどで活動していたパーカッショニストのマーク・キニョーネスが加入。

1994年に『Where It All Begins』(全米45位)をリリースし、同年Woodstock ’94に出演。1995年には『ロックの殿堂』入り、さらに翌年には「Jessica」で第38回グラミー賞ベスト・ロック・インスト賞を受賞するなど、注目を集めていきます。

1997年、ヘインズとウッディがガヴァメント・ミュールの活動に専念するためにバンドから脱退します。後任にジャック・ピアソン(ギター)、オテイル・バーブリッジ(ベース)が加入しました。1999年には、ピアソンに替わり、ブッチ・トラックスの甥にあたるデレク・トラックスが迎え入れられます。

2000年には、デレク加入後としては初のライヴ盤『Peakin’ at the Beacon』を録音するが、同年、メンバーとの対立からオリジナル・メンバーのベッツがグループから追い出される形で脱退。一時的にジミー・ヘリングが後任として加入した後、翌2001年にはウォーレン・ヘインズを再度迎え入れ、その後はニューヨークのビーコン・シアターでの恒例ライヴ、2003年に9年ぶりのスタジオ録音アルバム『ヒッティン・ザ・ノート』(全米37位)を発表、またジャムバンド・ミュージックの祭典ボナルー・フェスティバル(2003年、2005年)への出演など精力的に活動しました。

2014年、ウォーレン・ヘインズとデレク・トラックスが同年中の公演を最後にバンドから脱退することを表明。デレクは自身のバンド、テデスキ・トラックス・バンドの活動に専念するために脱退したのでした。同年にビーコン・シアターで、ウォーレンとデレクをメンバーとした最後の公演が行われました。

2014年現在、バンドとしての活動予定は発表されていない。

2017年、オリジナルメンバーの1人、ブッチ・トラックスが死去。69歳没。マイアミ・ヘラルド紙によると、ブッチはフロリダ州ウェストパームビーチにある自宅のマンションで拳銃で頭を撃ち自殺したという事です。

2017年、オールマン兄弟の1人、グレッグ・オールマンがジョージア州サバンナの自宅で肝臓ガンの合併症により69歳で死去。

伝説のバンドの波瀾万丈なストーリー。しかし、作品は今でも生き続けます。



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p

もう一つのウエスト・コースト・ロック

引用

以前、『ウエスト・コースト・ロック』の、バンドは『イーグルス』と投稿しましたが、もう一つバンドがいました。それは、『ザ・ドゥービー・ブラザーズ』です。

1970年、Pudなるバンドで活動していたトム・ジョンストン(G,Vo)、ジョン・ハートマン(Ds)に、パトリック・シモンズ(G,Vo)、デイヴ・ショグレン(B)が合流し結成されます。グループ名の「ドゥービー」はスラングで「マリファナ煙草」の意味です。

1971年、解散までドゥービーズのアルバムを手がけることになるテッド・テンプルマンのプロデュースにより、ワーナー・ブラザース・レコードからデビュー・アルバム『ドゥービー・ブラザース』(全米58位)をリリース。レザー・ジャケットにジーンズという典型的なバイカー・ファッションに身を包んだスナップをあしらったアルバム・ジャケットに象徴されるハードなロックと、アコースティック・ギターによるフォーク、カントリー色の強い楽曲を配置したが、商業的には成功しませんでした。

デビュー・アルバムのリリース後間もなく、グループに2人目のドラマー、マイケル・ホサックが加入。この後永きにわたってグループのトレードマークとなるツイン・ギター、ツイン・ドラムスの5人編成が完成します。セカンド・アルバムのレコーディング中にデイヴ・ショグレンが脱退、後任にタイラン・ポーターが加入し、1970年代前半の黄金期を支えるメンバーが揃います。

1972年、セカンド・アルバム『トゥールーズ・ストリート』(全米21位)をリリース。同作からシングル・カットされた「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」が全米11位まで上昇するヒットとなり、グループは一躍全米規模の人気バンドとなります?

サザン・ロック色の濃い音楽性に加え、二人のドラマーに黒人のベーシストを加えた、力強いファンキーなリズムセクションは評判を呼び、1973年のアルバム『キャプテン・アンド・ミー』(全米7位)からは「ロング・トレイン・ランニン」(全米8位、全英7位)、「チャイナ・グローヴ」(全米15位)がヒット。 1974年のアルバム『ドゥービー天国』からは「ブラック・ウォーター」が初の全米1位となり、イーグルスと並びアメリカン・ロックを代表する人気バンドのひとつとなりました。

『ドゥービー天国』レコーディング直後にマイケル・ホサックが脱退し、キース・ヌードセンが後任に加入、同時期に、これまでも度々ゲスト参加していた元スティーリー・ダンのジェフ・バクスターが正式加入し、トリプル・ギター編成となります。1975年、このラインナップによる5thアルバム『スタンピード』をリリース。全米4位まで上昇するヒットとなり、RIAA認定のゴールドディスクを獲得。

しかしこの頃から、バンドの顔でありヒット作を数多く作曲していたジョンストンの健康状態が悪化し、バンドを一時脱退してしまう。間近に控えたツアーのため、ジョンストンの代役としてバクスターの紹介により、スティーリー・ダンのツアーメンバーだったマイケル・マクドナルドが正式加入する。卓越した歌唱力に加え、スティーリー・ダンで培った作曲能力を持ったマクドナルドの存在は大きく、バンドの音楽性はトム・ジョンストン期の野性味あふれる快活なギターロックから、R&Bの影響を受け洗練されたAOR色の強いものへと変化していきます。

こうした音楽性の変化に対しては大きく賛否が分かれたが、1978年のアルバム『ミニット・バイ・ミニット』と、マクドナルドがケニー・ロギンスと共作したシングル「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」はともに全米1位を獲得。アルバムタイトル曲はグラミー賞の最優秀ポップ・ボーカル(デュオ、グループまたはコーラス部門)賞、「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」は最優秀楽曲に輝き、高い人気と評価を確立しました。

音楽性の変化に伴いメンバーの変化もあったものの、ジョン・マクフィーやコーネリアス・バンパスといった優れたミュージシャンに支えられ、また、脱退しソロ活動を行っていたトム・ジョンストンの客演や、初期のレパートリーにも抜群のサポートぶりを発揮するマクドナルドの活躍などにより、新旧のファン層に支えられ順調に活躍するも、80年代に入ると各人のソロ活動が活発化し、この時点で唯一のオリジナル・メンバーとなったリーダーのパトリック・シモンズは活動休止を提案、それに添う形で1982年に初期のメンバーも参加して「フェアウェル・ツアー」と銘打った大規模なライブを行なった後、解散しました。

1987年にチャリティーコンサートのために一時再結成したドゥービーズは、1989年、オリジナル・メンバーのジョンストン、シモンズ、ハートマンに、初期黄金期を支えたマイケル・ホサック、タイラン・ポーター、『ミニット・バイ・ミニット』のレコーディングやフェアウェル・ツアーでもグループを支えたボビー・ラカインドの6人編成で正式に再結成、復活アルバム『サイクルズ』をリリースし活動を再開します。初期を髣髴とさせる力強いロック・サウンドをフィーチャーした本作は全米17位まで上昇、シングルカットされた「ザ・ドクター」も全米9位まで上昇するスマッシュ・ヒットとなり、健在振りをアピールしました。

再結成から正式メンバーとなったラカインドが末期ガンのため引退し、5人編成に戻って制作された次作『ブラザーフッド』は82位と奮わなかったが、シングル・カットされた「デンジャラス」はビルボード・メインストリーム・ロック・チャートの2位まで上昇しました。その後もメンバー・チェンジを繰り返しながら活動を続け、2010年には13枚目のスタジオ・アルバム『ワールド・ゴーン・クレイジー』(全米39位)をリリース、このアルバムには1971年のデビュー・シングル「ノーバディ(Nobody)」の再録バージョンが収録されました。

2005年にドラマーのキース・ヌードセンが死去するなど、かつてのメンバー中5人(ボビー・ラカインド、デイヴ・ショグレン、コーネリアス・バンパス、キース・ヌードセン、マイケル・ホサック)が相次いで鬼籍に入るという悲劇を乗り越え、現在でも地道な活動を続けています。

正に、伝説のバンドと言うべきですね。次回も、乞うご期待下さい^_^



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p</p</p</p</p