日本フォークの全盛期を支えた‼️‼️‼️

引用

日本のフォークは、前にも投稿したように『岡林信康』が元祖ですが、では全盛期は誰か。それはやはり、『吉田拓郎』でしょう。

父親・吉田正廣が朝鮮総督府で農林官吏として勤務したため、吉田家は戦前、朝鮮京城で暮らしました。長女は小学校1年の時、病気により朝鮮で早世。長兄一人、次女までは朝鮮で生まれ、敗戦により、1945年夏に朝鮮・京城から家族で引き揚げ、拓郎のみ次男の末っ子として鹿児島県大口町で生まれました。1952年春、鹿児島郡谷山町に転居し、谷山小学校に二年生まで在学(歌手の西郷輝彦と同期生)。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入った人物で、引き揚げ後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣。鹿児島時代は姉と同じ部屋で生活していたので、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことに、拓郎も大きな影響を受けました。拓郎自身は両親の出自については詳細はよくわからず、母方の祖母が広島の出身と話しています。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居し、小学校3年から広島県広島市南区西霞町で育ちます。同年、広島市立皆実小学校へ転校。立教大学ジャズ研出身で、後にジャズピアニストになった兄が、夏休み等に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになりました。小児喘息の持病があり、小学校から中学校にかけては出席日数が半分程度の目立たない子供だったといいます。このため家にいることが多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めました。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦。1962年、広島皆実高校に入学(後輩に奥田民生ら)。友人の通う広島商業の文化祭に誘われ、そこで同じ高校生のバンドがエレキで演奏しているのを「これだ!」と確信し、「僕もこれをやろう!」と決めました。自身もインストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当しました。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡しました。拓郎は「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる言わば『すべての始まり』であり『僕を生み出した季節』」と述べています。

1965年に広島商科大学に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにビートルズを真似た4人編成のロックバンド・ザ・ダウンタウンズを結成。ボーカルとギターを担当しました。当時はザ・ベンチャーズのコピーバンドが多く、歌えるアマチュアバンドは珍しく、ライブハウス・広島ACBに出演した際には「歌うエレキ・グループ登場!」と書かれました。同バンドは広島で最も人気があったグループ・サウンズ(GS)といわれ、1965年年秋に初コンサートを開催。R&Bが主なレパートリーだったが、ビートルズのコピーほかオリジナル曲も10~15曲程度ありました。オリジナルの一つが拓郎作詞・作曲による「たどりついたらいつも雨ふり」の原曲「好きになったよ女の娘」であります。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがGSブームも未到来の時代であり、相手にされなませんでした。天下のナベプロに断られたショックは計り知れず、「オレ、ギター一本でフォークソングやるわ」と決意するに至ります。

バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨き、ソロでもオリジナル曲を奏で歌います。1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」をボブ・ディランの写真を見て、ハーモニカホルダーを針金を使って自作し、6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱、中国大会2位、全国3位となります。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京しました。ザ・ダウンタウンズとして1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知りました。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退しました。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し、オリジナル曲「好きになったよ女の娘」を歌い、中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となります。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジ(agitation)を浴びせられました。

1969年には、カワイ楽器広島店に就職内定したが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加しました。

1970年ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売しました。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、広島のレコード店で売っていることに驚いた拓郎が買って家で聞いたら、リズムが途中で裏になっていたりし、拓郎の抗議で音源を録り直しました。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ザ・ダウンタウンズ」を解散して上京しました。

同年に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職します。エレックはまともな仕事は取ってこられず、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりしました。『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用されます。後藤はこれを機に重要なパートナーとなります。日活映画『女子学園 ヤバい卒業』(夏純子主演・沢田幸弘監督)の劇中、「青春の詩」を歌唱。1971年、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション『ユイ音楽工房』を設立。広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供。

1972年にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結びます。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げました。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知されます。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になり、画期的な“音楽シーン”を作り上げる第一歩を記されます。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込みます。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まりました。公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」(59位)を歌唱。長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えました。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げ、バックバンドだった猫をデビューさせたり、ロックやフォーク、歌謡曲、演歌歌手に楽曲プロデュースを行うなど音楽プロデューサーとしての地位も上げていきます。

1973年には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、釈放されました。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立ちます。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられました。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載しました。この金沢事件で女性ファンは一気に減ったが、デビュー直後に執拗な“帰れコール”を浴びせた男性ファンが戻ってきました。

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年に、森進一に「襟裳岬」を提供し、この「襟裳岬」は同年の第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが、当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場で平然と賞を受け取ったため物議を醸しました。

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなりました。1975年、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなります(拓郎5位、陽水7位)[90][91][92][93]

CBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社『フォーライフ・レコード』を発起しました。これを機に『吉田拓郎』と改名します。オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表します。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き”フォークの女王”に戻らせます。

静岡県掛川市・つま恋で、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」開催。

1976年に、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べています。小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなりました。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任します。浅田美代子と2度目の結婚。井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力しました。

70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられます。。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相でした。

1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』(8位)を発表しました。

1982年に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表されました。

1983年、女優・森下愛子との不倫騒動が流れ、同年10月に浅田美代子が芸能界へ復帰した際は、共に自身2度目の離婚を否定しています。しかし翌1984年、浅田との協議離婚を発表した。

1985年には、国立競技場で国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正と共に企画運営し、司会を務めて、5万人の観客を動員。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催されました。

1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。

1986年に森下愛子と3度目の結婚。

1988年に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立。

この頃からテレビ出演が多くなり、1989年にNHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用されました。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットします。

1988年、日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行います。

1989年、アルバム『ひまわり』(13位)を引っ下げて行われた全国ツアーがスタート。同年に、東京ドームでコンサートを行い、5万人を動員します。

新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”からの依頼で、1992年に「吉田町の唄」(48位)を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立されました。

1994年に参加した『日本をすくえ’94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』(4位)が20万枚以上の売り上げを記録しました。

1999年にフォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し、2000年4月にインペリアルレコードに移籍する。移籍したのは、交友のある飯田久彦がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからでした。

2003年に、肺がん手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せました。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われました。

2008年に母校の広島修道大学で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露されました。

2009年にavex traxに移籍します。生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定しました。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となります。

つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となります。

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録します。

2017年に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表されました。

歌手としても、タレントとしても一流です。



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平成時代の星①

引用

日本が、平成を迎えて新たなバンドやアーティストが誕生しては、現在でも存在したり、消えていったりしました。中でも、『Mr.Children』は平成を代表するバンドといえます。

1985年(昭和60年)、関東高等学校の軽音楽部に所属していた桜井和寿と中川敬輔、桜井が野球部から軽音楽部に誘った田原健一、ドラマーと女性キーボードによる5人組バンド・Beatnikを結成。

1987年(昭和62年)、バンド名をTHE WALLSへ改名。

く1988年(昭和63年)、ソニーのコンクールのテープ審査を通過したが最終選考前にドラマーが脱退。次のドラマーを探す中で吉祥寺のライブハウスへ出演した際、田原・中川とは中学時代の同級生で当時は他のバンドにて活動していた鈴木英哉が目に留まり、バンドに誘います。桜井は当時について「とにかく決勝が迫っていたので誰でも良かった」、鈴木は「土下座して頼まれたので、仕方なく受けた」と話しています。ソニーのオーディションには落選したものの後日正式に加入、現在のメンバーとなります。

1989年(昭和64年)にバンド名を『Mr.Children』へと改名後、ライブハウス「渋谷La.mama」を中心にライブ活動を行っていた。同年8月には初の自主制作テープ「Hello, I Love You」を制作。

1990年に入り、プロデビューの話も舞い込むようになります。その後、トイズファクトリーと契約を交わしプロデューサーとして小林武史を迎え入れ、メジャーデビューに向けてレコーディングが始まります。

1992年(平成4年)5月10日:1stアルバム『EVERYTHING』(25位)でメジャーデビュー。

5月19日:メジャーデビュー後初のツアー『’92 Tour Everything』スタート。

5月25日:日清パワーステーションでデビュー後初となるワンマンライブ開催。

8月21日:アルバム『EVERYTHING』からのリカットとなる1stシングル『君がいた夏』(69位)発売。FM802の8月度ヘヴィー・ローテーションに選ばれます。

9月21日:『’92 Your Everything Tour』スタート。

12月1日:2ndシングル『抱きしめたい』(56位)、2ndアルバム『Kind of Love』(13位)同時発売。アルバムは3年に渡るロングヒットでミリオンセラーに。

12月7日:『’92-’93 Kind of Love Tour』スタート。

1993年(平成5年)7月1日:3rdシングル『Replay』(19位)発売。江崎グリコ「ポッキー」のCMソングに起用、初の本格的なタイアップ作品となります。

9月1日:3rdアルバム『Versus』(3位)発売。

9月23日:『’93 Versus tour』スタート。

11月10日:4thシングル『CROSS ROAD』(6位)発売。ロングセラーとなり、自身初のミリオンセラーとなります。

12月17日:テレビ朝日系音楽番組『MUSIC STATION』初出演(演奏曲は「CROSS ROAD」)。

1994年(平成6年)6月1日:5thシングル『innocent world』発売。バンド初のオリコンチャート1位を獲得。193万枚を売り上げ、同年の年間シングル売上1位獲得。

9月1日:4thアルバム『Atomic Heart』(1位)発売。340万枚を突破し当時の歴代アルバム最高売上を記録。

9月18日:『mr.children ’94 tour innocent world』スタート。

11月10日:6thシングル『Tomorrow never knows』(1位)発売。自身最高となる276万枚の大ヒットとなりました。

12月12日:7thシングル『everybody goes -秩序のない現代にドロップキック-』(1位)発売。

12月31日:第36回日本レコード大賞受賞(受賞曲は「innocent world」)。

1995年(平成7年)1月7日:『Mr.Children ’95 Tour Atomic Heart』スタート。

1月23日:『桑田佳祐 & Mr.Children』名義でシングル『奇跡の地球』(1位)リリース。

4月25日:書籍『【es】 Mr.Children in 370 DAYS』発売。

4月28日:桑田佳祐 & Mr.Childrenとしてのライブ・イベント『LIVE UFO ’95 “Acoustic Revolution with Orchestra” 奇跡の地球』スタート。

5月10日:8thシングル『【es】 〜Theme of es〜』(1位)発売。

6月3日:東宝配給映画『【es】 Mr.Children in FILM』公開。

7月16日:『Mr.Children STADIUM TOUR -Hounen Mansaku- 夏祭り1995 空 [ku:]』スタート。

8月10日:9thシングル『シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜』(1位)発売。同日、フジテレビ系列のバラエティー番組『笑っていいとも!』のコーナー「テレフォンショッキング」にバンドとして初出演。奥田民生の紹介で出演し、メンバーは河相我聞を紹介しました。

12月15日:ドキュメンタリー・ビデオ『【es】 Mr.Children in FILM』発売。

1996年(平成8年)2月5日:10thシングル『名もなき詩』発売。初動売上120.8万枚は当時のオリコン歴代1位の記録でした。同年の年間シングル売上では2年ぶり2度目の1位を獲得しました。

4月10日:11thシングル『花 -Mémento-Mori-』(1位)発売。

6月24日:5thアルバム『深海』(1位)発売。

8月8日:アルバム『深海』からのリカットとなる12thシングル『マシンガンをぶっ放せ -Mr.Children Bootleg-』(1位)発売。

8月24日:『Mr.Children TOUR “REGRESS OR PROGRESS” ’96〜’97』スタート。

1997年(平成9年)2月5日:13thシングル『Everything (It’s you)』(1位)発売。本作で4年連続で年間シングルTOP10入りを果たしました。

3月5日:6thアルバム『BOLERO』(1位)発売。売上328万枚を記録し、同年の年間アルバム売上2位を獲得しました。

3月23日:初のドーム公演『Mr.Children TOUR “REGRESS OR PROGRESS” ’96〜’97 FINAL』を福岡ドームで開催。ツアーファイナルとなる3月28日の東京ドーム公演をもって活動休止することを発表。

4月25日:ミュージック・ビデオ集『music clips ALIVE』発売。

9月10日:メイキング・ビデオ『regress or progress ’96-’97 DOCUMENT』発売。

10月8日:ライブ・ビデオ『regress or progress ’96-’97 tour final IN TOKYO DOME』発売。

1998年(平成10年)2月11日:活動休止中に14thシングル『ニシエヒガシエ』(1位)発売。

10月21日:15thシングル『終わりなき旅』(1位)を発売し、音楽活動を本格的に再開。シングル10作目のミリオンセラーを記録。

1999年(平成11年)1月13日:16thシングル『光の射す方へ』(1位)発売。

2月3日:7thアルバム『DISCOVERY』(1位)発売。同日、赤坂BLITZでライブを開催。

2月13日:『Mr.Children TOUR ’99 “DISCOVERY”』スタート。

5月12日:17thシングル『I’LL BE』(1位)発売。

9月8日:8thアルバム『1/42』(1位、ライブ・アルバム)を50万枚限定生産で発売。

2000年(平成12年)1月13日:18thシングル『口笛』(1位)発売。

8月9日:19thシングル『NOT FOUND』(1位)発売。

9月27日:9thアルバム『Q』(2位)発売。

10月14日:『Mr.Children Concert Tour Q』スタート。

2001年(平成13年)6月21日:ライブ・ビデオ/DVD『Mr.Children TOUR ’99 DISCOVERY』『regress or progress ’96-’97 tour final IN TOKYO DOME』DVD版を同時発売。

7月11日:ベスト・アルバム『Mr.Children 1992-1995』(1位)『Mr.Children 1996-2000』(2位)同時発売。2作合計で420万枚の大ヒットとなります。

7月14日:『Mr.Children CONCERT TOUR POPSAURUS 2001』スタート。

8月22日:20thシングル『優しい歌』(1位)、ライブ・ビデオ/DVD『Mr.Children Concert Tour Q 2000~2001』同時発売。

11月7日:21stシングル『youthful days』(1位)発売。

11月27日:書籍『Mr.Children 詩集「優しい歌」』発売。

2002年(平成14年)1月1日:22ndシングル『君が好き』(1位)、ライブ・ビデオ/DVD『MR.CHILDREN CONCERT TOUR POPSAURUS 2001』同時発売。

5月10日:デビュー10周年記念日に10thアルバム『IT’S A WONDERFUL WORLD』(1位)発売。

7月10日:23rdシングル『Any』(1位)発売。

7月22日:桜井に小脳梗塞の疑いが生じ、更なる検査と充分な静養が必要であると診断されたため予定していたホール・アリーナツアーの開催中止、年内の活動休止を発表。

12月11日:24thシングル『HERO』(1位)発売。

12月21日:横浜アリーナにて一夜限りのライブ『MR.CHILDREN DEAR WONDERFUL WORLD IT’S A WONDERFUL WORLD ON DEC 21』開催。

2003年(平成15年)3月26日:ライブDVD『wonederful world on DEC 21』発売。

9月1日:「タガタメ」がラジオ限定でオンエア開始。

11月19日:25thシングル『掌/くるみ』(1位)発売。

2004年(平成16年)4月7日:11thアルバム『シフクノオト』(1位)発売。

5月26日:26thシングル『Sign』(1位)発売。同年の年間シングル売上2位を記録しました。

6月12日:『Mr.Children Tour 2004 シフクノオト』スタート。

12月21日:ライブDVD『Mr.Children Tour 2004 シフクノオト』発売。

12月31日:第46回日本レコード大賞受賞(10年ぶり2度目、受賞曲は「Sign」)。

2005年(平成17年)6月29日:27thシングル『四次元 Four Dimensions』(1位)発売。

7月16日 – 18日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’05』出演。

9月21日:12thアルバム『I ♥ U』(1位)発売。

11月12日:『MR.CHILDREN DOME TOUR 2005 “I ♥ U”』スタート。

2006年(平成18年)5月10日:ライブDVD『MR.CHILDREN DOME TOUR 2005 “I ♥ U” 〜FINAL IN TOKYO DOME〜』発売。

7月5日:28thシングル『箒星』(1位)発売。

7月15日 – 17日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’06』出演。

11月15日:29thシングル『しるし』(1位)発売。

2007年(平成19年)1月24日:30thシングル『フェイク』(1位)を40万枚限定生産で発売。

3月14日:13thアルバム『HOME』(1位)発売。120万枚を売り上げ、同年の年間アルバム売上1位を記録しました。

5月4日:『Mr.Children HOME TOUR 2007』スタート。

5月10日:14thアルバム『B-SIDE』(1位、カップリング集)発売。

7月16日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’07』に出演。

8月4日:『Mr.Children HOME TOUR 2007 -in the field-』スタート。

10月31日:31stシングル『旅立ちの唄』(1位)発売。

11月14日:ライブDVD『Mr.Children HOME TOUR 2007』発売。

2008年(平成20年)7月19日 – 21日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’08』出演。

7月30日:32ndシングル『GIFT』(1位)発売。

8月6日:ライブDVD『Mr.Children HOME TOUR 2007 -in the field-』発売。

9月3日:33rdシングル『HANABI』(1位)発売。

11月1日:1st配信限定シングル『花の匂い』(35位)発売。

12月10日:15thアルバム『SUPERMARKET FANTASY』(1位)発売。127万枚を売り上げ、翌年の年間アルバム売上2位。

12月31日:『第59回NHK紅白歌合戦』に初出場(演奏曲は「GIFT」)。

2009年(平成21年)2月14日:『Mr.Children Tour 2009 〜終末のコンフィデンスソングス〜』スタート。

7月18 – 20日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’09』出演。

11月11日:ライブDVD『Mr.Children Tour 2009 〜終末のコンフィデンスソングス〜』発売。

11月28日:『Mr.Children DOME TOUR 2009 SUPERMARKET FANTASY』スタート。

12月2日:2nd配信限定シングル『fanfare』(11位)発売。

2010年(平成22年)5月10日:ライブDVD『Mr.Children DOME TOUR 2009 SUPERMARKET FANTASY IN TOKYO DOME』発売。

7月17日 – 19日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’10』出演。

9月4日 – 17日:東宝配給映画『Mr.Children / Split The Difference』公開。

11月10日:ドキュメンタリーDVD『Mr.Children / Split The Difference』発売。

12月1日:16thアルバム『SENSE』(1位)発売。

2011年(平成23年)2月19日:『Mr.Children Tour 2011 SENSE』スタート。

3月12日 – 13日:東日本大震災の影響により、当日行われる予定だった大阪公演を延期。また、和歌山公演(3月20日 – 21日)、仙台公演(3月26日 – 27日)、盛岡公演(4月23日 – 24日)は開催中止となり、大阪と和歌山の振替公演を5月14日 – 15日に京セラドーム大阪で開催。

4月4日:3rd配信限定シングル『かぞえうた』(1位)発売。収益金はすべて災害復興支援プロジェクト「ap bank Fund for Japan」へ寄付し、東日本大震災の義援金や復興支援活動に充てました。

7月16日 – 18日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’11 Fund for Japan』出演。

8月20日:『Mr.Children STADIUM TOUR 2011 SENSE -in the field-』スタート。

11月23日:ライブDVD/Blu-ray『Mr.Children Tour 2011 SENSE』発売。

2012年(平成24年)4月14日:『MR.CHILDREN TOUR POPSAURUS 2012』スタート。

4月18日:34thシングル『祈り 〜涙の軌道/End of the day/pieces』(1位)、ライブDVD/Blu-ray『Mr.Children STADIUM TOUR 2011 SENSE -in the field-』同時発売。

5月10日:ベスト・アルバム『Mr.Children 2001-2005 <micro>』(2位)『Mr.Children 2005-2010 <macro>』(1位)同時発売。2作合計で233万枚を売り上げ、同年の年間アルバム売上1位・2位を独占しました。

7月14日 – 16日、8月4日 – 5日、8月18日 – 19日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’12 Fund for Japan』出演。

8月29日:4th配信限定シングル『hypnosis』発売。

11月28日:17thアルバム『[(an imitation) blood orange]』(1位)発売。

12月15日:『Mr.Children [(an imitation) blood orange] Tour』スタート。

12月19日:ライブDVD/Blu-ray『MR.CHILDREN TOUR POPSAURUS 2012』発売。

2013年(平成25年)5月29日:5th配信限定シングル『REM』(1位)発売。同日、公式YouTubeチャンネル開設。

12月18日:ライブDVD/Blu-ray『Mr.Children [(an imitation) blood orange] Tour』発売。

2014年(平成26年)5月:烏龍舎が各事業部の分社化を実施。それに伴い、所属事務所が傘下の株式会社エンジンとなります。

5月24日:6th配信限定シングル『放たれる』(1位)発売。

11月19日:35thシングル『足音 〜Be Strong』(2位)発売。

2015年(平成27年)2月6日 – 2月27日:日活配給映画『Mr.Children REFLECTION』公開[34]

3月14日:『Mr.Children TOUR 2015 REFLECTION』スタート。

5月22日 – 6月15日:パルコミュージアムにて薮田修身写真展『BLACK BOX -Unpainted face of Mr.Children-』を開催し、その後は全国巡回開催しました。

5月30日 – 6月5日:東京・大阪・名古屋・福岡の4劇場で映画『Mr.Children REFLECTION』アンコール上映。

6月4日:18thアルバム『REFLECTION』(1位)発売。

7月18日:『Mr.Children Stadium Tour 2015 未完』スタート。

12月16日:ライブ・フィルムDVD/Blu-ray『Mr.Children REFLECTION {Live & Film}』発売。

2016年(平成28年)3月16日:ライブDVD/Blu-ray『Mr.Children Stadium Tour 2015 未完』発売。

4月15日:『Mr.Children Hall Tour 2016 虹』スタート。

7月30日 – 31日:野外音楽フェスティバル『Reborn-Art Festival × ap bank fes 2016』出演。

2017年(平成29年)1月11日:36thシングル『ヒカリノアトリエ』(1位)発売。

3月4日:『Mr.Children Hall Tour 2017 ヒカリノアトリエ』スタート。

5月10日:配信限定ベスト・アルバム『Mr.Children 1992-2002 Thanksgiving 25』(1位)『Mr.Children 2003-2015 Thanksgiving 25』(2位)同時発売(2018年5月9日までの期間限定配信)。

6月10日:『Mr.Children DOME & STADIUM TOUR 2017 Thanksgiving 25』スタート。

7月26日:37thシングル『himawari』(1位)発売。

7月28日 – 30日:野外音楽フェスティバル『Reborn-Art Festival 2017 × ap bank fes』出演。

12月20日:ライブ・ドキュメントDVD/Blu-ray『Mr.Children、ヒカリノアトリエで虹の絵を描く』発売。

2018年(平成30年)1月19日:7th配信限定シングル『here comes my love』(1位)発売。

3月21日:ライブDVD/Blu-ray『Mr.Children DOME & STADIUM TOUR 2017 Thanksgiving 25』発売。

5月10日:これまでの全シングル・アルバムのダウンロード配信およびサブスクリプション配信開始。

7月15日 – 16日:野外音楽フェスティバル『ap bank fes ’18』出演。

10月3日:19thアルバム『重力と呼吸』(1位)、全曲詩集『Your Song』同時発売。

10月6日:『Mr.Children Tour 2018-19 重力と呼吸』スタート。

2019年(平成31年・令和元年)2月1日:公式Facebookスタート。

2月2日 – 3日:『Mr.Children Tour 2018-19 重力と呼吸』台湾公演を台北アリーナで開催。初の海外単独公演となりました。

4月20日:『Mr.Children Dome Tour 2019 “Against All GRAVITY”』スタート。

6月26日:ライブDVD/Blu-ray『Mr.Children Tour 2018-19 重力と呼吸』発売。

12月25日:ライブDVD/Blu-ray『Mr.Children Dome Tour 2019 Against All GRAVITY』発売。

2020年(令和2年)3月4日:38thシングル『Birthday/君と重ねたモノローグ』(2位)発売。

9月16日:8th配信限定シングル『turn over?』(2位)発売。

11月19日:書籍『Mr.Children 道標の歌』発売。

12月2日:20thアルバム『SOUNDTRACKS』(1位)発売。

12月5日 – 20日:名古屋PARCOにて、薮田修身がMr.Childrenメンバーを捉えた写真を用いたインスタレーション『THERE WILL BE NO MIRACLES HERE』を開催し、その後は東京・大阪を巡回しました。

12月31日:『第71回NHK紅白歌合戦』に12年ぶり2度目の出場(演奏曲は「Documentary film」)。

2021年(令和3年)9月18日 – 19日:B’z主催のRock Project『B’z presents UNITE #01』に出演。バンドとして約2年3か月ぶりのライブとなりました。

10月10日 : 千葉県・KURKKU FIELDSで開催された野外音楽イベント『ap bank fes ’21 online in KURKKU FIELDS』のアーカイブ編に出演。

2022年(令和4年)3月10日:公式TwitterおよびInstagramスタート。同日、書籍『歌々の棲家 named Mr.Children』発売。

3月24日:9th配信限定シングル『永遠』(1位)発売。同日、TikTokにて全楽曲が解禁。

4月23日:約3年ぶりとなるツアー『Mr.Children 30th Anniversary Tour 半世紀へのエントランス』スタート。

5月11日:ベスト・アルバム『Mr.Children 2011-2015』『Mr.Children 2015-2021 & NOW』同時発売予定です。

正に、『平成』いや、現代を代表するバンドです。これからの活動に注目ですね^_^



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これぞ、日本を代表するバンド👍👍👍

引用

みなさんは、こんなことを考えたことはありませんか❓「日本のバンドやアーティストで、世界に誇れるのって何があるかなぁ〜❓」と。私は、『サザンオールスターズ』がその代表格ではないかと思います。

1972年、松田弘が大森隆志にドラムを貸す形で2人が出会います。1974年、青山学院大学に入学した桑田佳祐と関口和之は、フォークソング・サークルで知り合い、ロックバンド「温泉あんまももひきバンド」を結成しました。翌年の1975年、青山学院大学に大森と原由子が入学し、桑田や関口と同じフォークソング・サークルに入部しました。

桑田のバンドは、「温泉あんまももひきバンド」から「ピストン桑田とシリンダーズ」に改名を行い、大森は次第に桑田のバンドに興味を持つようになり、練習現場にしばしば現れるようになります。原が桑田のバンドに参加し、バンドは「青学ドミノス」「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」と名前が変遷した後に「サザンオールスターズ」に改名しました。

桑田が望んでいた「サザンオールスターズ」は長く持続せず、メンバーが頻繁に入れ替わっていた。大森は桑田に松田を紹介するなどして、1977年に桑田、大森、原、松田、天野和平による『サザンオールスターズ』でヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」に申し込みました。しかし、予選のテープ審査の時期に天野が脱退し、入れ替わりで関口が加入します。本選では入賞を果たし、桑田がベストボーカル賞を獲得します。この直後に大森がバイト先で知り合ったセミプロの野沢秀行が大森の勧誘を受ける形でなし崩し的に加入しました。

レコード会社はビクター音楽産業に決まったものの、芸能事務所がなかなか決まらなかった。ビクターのディレクターの高垣健が「女呼んでブギ」のカセットを持って事務所周りをしていた際、当時は新興事務所のアミューズの社長大里洋吉が興味を持ち、練習スタジオを訪問する。この際に「勝手にシンドバッド」を披露し、大里が「この男をテレビに出したら面白い」と考えたことから契約が決まったと大里は話しています。アミューズは原田真二の個人事務所的な存在として1977年に設立された会社だったが、大里が解散直前のキャンディーズのプロデュースに専念し事務所の仕事から離れていた時期に、ロック志向を強めていた原田がテレビ的な売り出し方を嫌うようになり、大里が事務所の仕事に復帰した直後に移籍してしまったといいます。サザンとの出会いはこの事件の2週間後であり、もし原田が移籍してなかったらサザンオールスターズをやる余裕はなかったと大里は話しています。

一方、バーニングプロダクション社長の周防郁雄は、ビクターのディレクターである東元晃から「勝手にシンドバッド」など5曲聞かされ、気に入ったが、ホリプロ社員だった奥田義行が井上陽水と立ち上げた「りぼん・なかよしグループ」に所属することになっていたため、5000万円払って譲ってもらい、当時出資していたアミューズの社長である大里に紹介し、アミューズ所属となったと説明しています。(この経緯は大里は知らないという)。このことから、「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」までの5曲の版権はバーニングパブリッシャーズが保持しています(アミューズから音楽出版権を返すよう言われたため、それ以降の作品ではアミューズが保持している)。

デビューに向けて着々と準備が進む中、メンバー全員が他のレコード会社の契約書にサインしてしまうという事件があったが、ビクター関係者が出向いて話を収拾しました。この時期はまだ学生バンドの思い出作り的な意識があったといいます。桑田はこのころはまだサザンのリーダーではなかったが、プロダクションとの契約にあたってメンバー全員が大卒初任給をもらえるよう交渉をしました。

1978年6月25日にシングル「勝手にシンドバッド」(3位)でビクターからメジャーデビューを果たしました。同年には1枚目アルバム『熱い胸さわぎ』(16位)を発売します。また同年に音楽番組『ザ・ベストテン』のスポットライトのコーナーで初出演しました。この際に桑田が「目立ちたがり屋の芸人です」と発言し、これによりイメージの形成に拍車がかかります。後に、この発言は「台本によるもの」と明かしています。「勝手にシンドバッド」はテレビ番組で披露されたこともあり、大ヒットとなりました。当時、桑田の日本語を英語風に発音してロックに乗せるいわゆる「巻き舌唱法」は音楽ファンや関係者の間で賛否両論となります。桑田はこの歌唱法や前述の作詞および作曲法をアマチュア時代からしていたため、歌唱法が批判されたりしたことを意外に思ったといいます。「勝手にシンドバッド」の発売から5か月後に2枚目シングルとなる「気分しだいで責めないで」(10位)を発売。1978年から翌年にかけて、公式上のデビューコンサート「胸さわぎ」を行いました。

1979年に3枚目シングル「いとしのエリー」(2位)同年に2枚目アルバム『10ナンバーズ・からっと』(2位)を発売しました。特に「いとしのエリー」は、出荷枚数が125万枚を記録し、「勝手にシンドバッド」での一発屋を作品力で回避しました。『10ナンバーズ・からっと』を製作していた期間は「いとしのエリー」のヒットもあり、並行して雑誌の取材やテレビ出演、CM撮影、ライブ活動、年末にはNHK紅白歌合戦に「いとしのエリー」で初出場するなど多忙な日々を送っており、精神的にも落ち込んでいたといいます。

1980年に入った直後に「テレビ番組などに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」「5か月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」という宣言をして、FIVE ROCK SHOWと銘打った計画を開始します。その後、3枚目アルバム『タイニイ・バブルス』を発売し、自身の作品初となるオリコン週間ランキング1位を獲得しました。アルバムに収録されていた「私はピアノ」は原がボーカルを務め、特に評判となった。その評判を受けて、1981年にサザンのメンバーの中で最初に原が「I Love Youはひとりごと」(35位)でソロデビューをしました。デビューのプロデュースは桑田が担当しました。同年、サザンとしては、4枚目アルバム『ステレオ太陽族』(1位)が発売され、7枚目アルバム『人気者で行こう』(1位)までは4枚連続で毎年発売されました。

1982年に入り、14枚目シングル「チャコの海岸物語」(2位)が「いとしのエリー」以来のヒットとなり、2度目のNHK紅白歌合戦に出演しまさした。同年には5枚目アルバム『NUDE MAN』(1位)が発売され、ミリオンセラーに迫る売上枚数を記録しました。その後同年に、バラード曲を中心に収録したバラッドシリーズの第1弾『バラッド ’77〜’82』(1位)が発売されました。1983年も引き続き3度目のNHK紅白歌合戦に出演して19枚目シングル「東京シャッフル」(23位)を披露しました。

1983年には音楽業界にシンセサイザーによるデジタルの波が来たことで、同年3月発売の17枚目シングル「ボディ・スペシャルII」(10位)辺りからサザンも原がシンセサイザーを使用するようになりました。6枚目アルバム『綺麗』(1位)からシンセサイザーを本格的に使用したサウンドとなり、1984年発売の『人気者で行こう』でも同様のサウンドとなっています。1984年『人気者で行こう』の先行シングルとして発売された20枚目の「ミス・ブランニュー・デイ」(6位)は発売当時絶大な人気と評価を集めました。公式な形では自身初の年越しライブ『縁起者で行こう』を開催した。同ライブは「日本初の年越しライブ」「年越しライブの元祖」とも呼ばれています。

1985年に、自身初の2枚組となった8枚目アルバム『KAMAKURA』(1位)を発売しました。シンセサイザーをより本格的に使用したサウンドとなり、5か月間制作に打ち込んでいました。制作時期に原が産休に入り、1986年にはサザンは一年間限定で活動を一旦休止しました。桑田や松田は『KUWATA BAND』としての活動、他のメンバーもそれぞれのソロ活動に入りました。この活動休止については、桑田が「全員がソロ活動をやって、一つ一つが別個性として出てくれば理想的だね」と持ち掛けたところ、全員がそれを受け入れたことや、「あのままだとサザンはパンク寸前だった」「俯瞰で自分やサザンを見直した方がいいんじゃないか」というムードがメンバー全員にあったことが語られています。1987年はバラッド第2弾『バラッド2 ’83〜’86』(1位)が発売されました。

デビュー10周年を迎えた1988年に24枚目シングル「みんなのうた」(2位)を発売し、サザンとしての活動を再開しました。このシングルから音楽プロデューサーの小林武史がアレンジ、プロデュース業を共に行うようになります。全国の球場9か所でライブ『真夏の夜の夢 大復活祭』を開催しました。9枚目アルバムとなる『Southern All Stars』(1位)と、桑田が監督を務めた映画作品『稲村ジェーン』のサウンドトラックであり、サザンの10枚目アルバムにもなる『稲村ジェーン』(1位)の制作に入りました。1989年に発売した26枚目シングル「さよならベイビー」がオリコン週間ランキングで1位を獲得し、デビュー11年目にしてシングル初の首位獲得となりました。45万枚限定のベスト・アルバム『すいか』(1位)が発売され、こちらは予約だけで完売しました。年越しライブを開催。この頃から同年に開業した横浜アリーナで行うことが恒例になります。

1990年に入り、アルバム『Southern All Stars』を発売しました。売上は120万枚近く記録し、自身の作品としては初となるミリオンセラーとなります。直後にアルバムを引っ提げ、全国ツアー『夢で逢いまSHOW』が開催されました。上述の映画『稲村ジェーン』の主題歌で28枚目シングルとなる「真夏の果実」(4位)を発売しました。85万枚を記録するヒットとなり、自身の代表作になります。そして、9月にはアルバム『稲村ジェーン』を発売。こちらも130万枚を超えて、アルバム2作連続でミリオンセラーとなりました。年越しライブを開催。1991年前半は原がソロで活動しており、7月にサザンとして活動を始め、29枚目シングル「ネオ・ブラボー!!」(1位)を発売します。全国ツアー、年越しライブを開催。

1992年に30枚目シングル「シュラバ★ラ★バンバ」、31枚目シングル「涙のキッス」を2枚同時に発売しました。オリコン週間ランキングで2週連続1、2位を獲得し、「涙のキッス」はTBS系列ドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主題歌に使用され、初登場から7週連続1位を記録。155万枚を売り上げて、自身のシングルとしては初のミリオンセラーとなりました。中国・北京でライブを行い、初の海外公演となった[214]。直後に前述のシングル2枚を収録した11枚目アルバム『世に万葉の花が咲くなり』(1位)を発売。アルバムは180万枚に迫る売上を記録しました。1993年には、32枚目シングル「エロティカ・セブン」(1位)、33枚目シングル「素敵なバーディー (NO NO BIRDY)」(3位)を2枚同時に発売した。「エロティカ・セブン」はフジテレビ系列ドラマ『悪魔のKISS』の主題歌となり、170万枚を超えるヒットとなりました。

1993年の34枚目シングル「クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)」(3位)を最後に小林がサザン(桑田ソロ含む)との共同作業から離れました。このことについて桑田は小林のアレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価しつつも「(小林は)危ないヤツと分かった」と語っているが、これは人間性を否定しているわけではなく、サザンの正規のメンバーを差し置いて小林に過度に頼ってしまうという意味があります。これ以降の作品は自身によるプロデュースとアレンジで発売するようになりました。

年越しライブを開催し、1994年からは桑田がソロ活動を始めました。1995年に関口が休養から復帰し、5月に35枚目シングル「マンピーのG★SPOT」(4位)で活動を再開。限定販売アルバム『HAPPY!』(1位)は2日間で70万枚が完売した。7月にドラマの主題歌に使用された36枚目シングル「あなただけを 〜Summer Heartbreak〜」(1位)が発売され、「エロティカ・セブン」以来のミリオンセラーとなりました。2日間のみのライブ『ホタル・カリフォルニア』を開催。西城秀樹がゲスト出演し話題となりました。1996年に37枚目シングル「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」(1位)を発売し、155万枚のヒットを記録。7月にはクラシック・ロック・テイストを取り入れた12枚目アルバム『Young Love』(1位)が発売されました。アルバムは250万枚近くを売り上げ、オリジナルアルバムとしては最大ヒットとなりました。アルバム発売直後に全国ツアー、年越しライブを開催。

1997年には直ぐに13枚目アルバム『さくら』(1位)の製作に着手し、当時のデジタルのロックの融合にトライ、現代的な要素を盛り込んだ作品となりました。また、同年に39枚目シングル「01MESSENGER 〜電子狂の詩〜」(5位)、40枚目シングル「BLUE HEAVEN」(5位)を発売。年越しライブを開催しました。1998年に入り、41枚目シングル「LOVE AFFAIR 〜秘密のデート」(4位)を発売し、デビュー20周年を迎えた6月25日にはベストアルバム『海のYeah!!』(1位)を発売しました。アルバムの売上が480万枚を記録するヒットとなり、自身最大売上作品となりました。アルバムを引っ提げ2日間のみのライブ『スーパーライブ in 渚園 “モロ出し祭り”』を開催。アルバム『さくら』を発売し、120万枚を記録しました。1999年に43枚目シングル「イエローマン 〜星の王子様〜」(10位)を発売し、初のアリーナ・ドームツアー『Se O no Luja na Quites 〜素敵な春の逢瀬〜』を開催。シークレットライブ『’99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町』、年越しライブを開催しました。

2000年に44枚目シングル「TSUNAMI」(1位)を発売。この楽曲は当時放送されていたTBS系列バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとして使用され、300万枚近くを売り上げて「エロティカ・セブン」で記録した最高売上を更新しました。また、当時のオリコン歴代シングルランキングで3位にランクインし、この年の第42回日本レコード大賞で大賞を受賞しました。桑田の地元である茅ヶ崎市の地元住民の署名運動によって、2日間の野外ライブ『サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ』を開催しました。ライブに合わせて製作された45枚目シングル「HOTEL PACIFIC」(2位)を発売し、80万枚を超えるヒットとなります。46枚目シングル「この青い空、みどり 〜BLUE IN GREEN〜」(3位)とベストアルバム『バラッド3 〜the album of LOVE〜』(1位)が発売され、アルバムは290万枚を売り上げ、バラッドシリーズでは最高売上を記録しました。その直後、大森が休養を発表し開催された年越しライブを欠席。2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退しました。同年から2002年まで桑田を始めとしたメンバー5人は今後のバンドのステップアップを目標にソロ活動を行いました。

2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」を発売し、25年越しにオリコン週間ランキングで1位を獲得しました。同年に47枚目シングル「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」(1位)を発売、直後に大規模な野外・スタジアムツアーを開催し、サザンでの活動が本格的に始まります。2004年には、シングル3作を発売して全てオリコン1位を獲得するなどヒットし、12月には年越しライブを開催しました。2005年にデビューシングル「勝手にシンドバッド」から「TSUNAMI」までのシングル44作を12cmCD化して再発売されました。同年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバムで14枚目アルバムとなる『キラーストリート』(1位)を発売し、110万枚以上の売り上げを記録。発売後に2度目のドームツアーが開催されました。

2006年に52枚目シングル「DIRTY OLD MAN 〜さらば夏よ〜」(1位)を発売し、サザンとして『THE 夢人島 Fes.』に出演しました。2007年は桑田はシングル発売やツアーの開催、原は映画主題歌を書き下ろすなど、メンバーが個人で活動しました。同年にビクターとアミューズがサザンやソロの楽曲管理・配信などを行う合弁会社「タイシタレーベルミュージック」を設立しました。

2008年にメンバーは「サザンという看板に頼らないで、サザンの活動だけをあてにしないで視野を広げていこう」という方針を決め、30周年に伴う53枚目シングル「I AM YOUR SINGER」(1位)の発売やライブなどの活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべくサザンオールスターズとしての活動を無期限休止にすることを発表しまさした。この活動休止については、発表の当日にNHKの『おはよう日本』が報じたほか、民放各局でも報道や特集が大々的になされ、発表後には所属するアミューズの株価が大幅下落し、「サザンショック」と言われました。また、発表直前の2008年の東京スポーツ紙上で「サザン解散か」などといった誤った報道がなされ、ファンおよび世間に動揺を与えることになりました。桑田はそのことへの反省の弁を自身のラジオで述べ、活動休止の理由をつまびらかに語り、この騒ぎに対する謝罪や無期限休止への理解を求める発言をすると共に「(サザンの)解散は絶対にない」と断言しました。

2009年から各自がソロ活動を行う。2012年に、桑田とスタッフの間で35周年を迎えるにあたっての話が持ち上がったことがきっかけで、「ファンをはじめとした多くの人たちと、楽しめるときに大いに楽しもうじゃないか」とサザンの活動を再開をすることにメンバー5人の気持ちが合致しました。この活動休止期間は、2010年に桑田の食道がんによる休養と闘病、2011年に東日本大震災の復興支援のための「チーム・アミューズ!!」結成や桑田の「宮城ライブ」の開催などがあり、「これまでにない濃密な5年間」と振り返っています。

デビュー35周年の2013年6月25日に活動再開を発表。同年に54枚目シングル「ピースとハイライト」を発売し、オリコンで首位獲得したことでシングルとして1980年代〜2010年代の4年代で首位獲得、国内グループとしては史上初の快挙となりました。同年にかけて全国ツアー『灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!』を開始した。ツアーを映像化した作品を発売し、映像作品としても史上初の4年代首位獲得を記録しました。

2014年には55枚目シングル「東京VICTORY」(1位)を発売しました。サザンの楽曲266曲がiTunes Storeでの配信を解禁され、日本を含む111カ国で配信を開始しました。同時にmoraでも配信が開始されました。年末には年越しライブを開催。並行して31年ぶりで4度目となるNHK紅白歌合戦にシークレットゲストとして中継出演し、「ピースとハイライト」「東京VICTORY」を披露しました。

2015年には『キラーストリート』以来約10年振りとなる15枚目アルバム『葡萄』を発売、アルバムでも4年代首位を達成しました。同年にかけて全国ライブツアー『おいしい葡萄の旅』を開催。2017年には自身が初めてコマーシャルに出演した、アサヒ飲料『三ツ矢サイダー』にメンバー全員で再び出演しました。

2018年に入り、アルバム『葡萄』以来の新曲「闘う戦士たちへ愛を込めて」(1位)が自身初の配信シングルとして発売され、続けて2作目の配信シングル「壮年JUMP」(4位)も発売されました。『海のYeah!!』の続編ベスト・アルバム『海のOh, Yeah!!』が発売されました。このアルバムがオリコン週間ランキングで首位獲得したことにより、国内グループでデビュー40年を超えての首位獲得は史上初の快挙となりました。同年に5度目となるNHK紅白歌合戦に特別枠として「究極の大トリ」で出演、「希望の轍」「勝手にシンドバッド」を披露し、平成最後の紅白歌合戦を締め括りました。歌手別瞬間最高視聴率が45.3%を記録し、出場歌手の中で最も高い視聴率を獲得しました。

2019年、6大ドームを含む全11か所22公演の全国ツアー『“キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!”だと!? ふざけるな!!』を開催しました。ライブでは新曲「愛はスローにちょっとずつ」(3位)が披露され、3作目の配信シングルとして発売されました。サザンの楽曲やソロ5人の楽曲も含め、全972曲のサブスクリプション型サービスによるストリーミング配信が解禁されました。

2020年に新型コロナウイルス感染症が流行して、芸能イベントや音楽ライブが中止となり大打撃を受けました。その関係でスタッフ達の仕事が無くなったことを知った桑田は何か音楽で出来ることを考え、サザンとしては「Keep Smilin’〜“出来ることから”ちょっとずつ〜」をスローガンに掲げた特別企画を開始させ、デビュー42周年を迎えた6月25日には無観客配信ライブ『Keep Smilin’〜皆さん、ありがとうございます!!〜』を開催します。このライブは“感謝”がテーマとなっており、ファンや400人のスタッフだけでなく、新型コロナウイルス感染症を治療する医療機関への感謝を込めたライブになっています。横浜アリーナで通常のライブと同様に大規模なステージを作り、ライブが行われました。リハーサルスタジオおよび横浜アリーナ内ではアクリル板が配置され、メンバーや演者・スタッフの検温、消毒、マスク着用、ソーシャルディスタンス、前述した桑田と女性ダンサーとの接触を行わないといった感染拡大防止対策を徹底しました。スタッフはマスクやフェイスシールドを着用しました。チケットはライブ当日まで販売しており、チケット購入人数は18万人、推定視聴者数は50万人ほどであり、ライブの収益の一部はアミューズ募金を通じて、新型コロナウイルス感染症の治療や研究開発にあたる医療機関に役立てられました。同年の大晦日に横浜アリーナで無観客年越しライブ『Keep Smilin’〜皆さん、お疲れ様でした!! 嵐を呼ぶマンピー!!〜』が開催され、前回とは違い、メンバーやスタッフの新型コロナウイルス感染症の防止や同年8月に松田が右肩の手術を受け、復帰初のライブであることから事前に収録したものが配信されました。

やはり、『サザンオールスターズ』は、日本の宝ですね。これからも、名曲をたくさんリリースしてくれる事でしょう^_^

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ホンキートンクの英雄

引用

アメリカといえば、カントリーミュージック。中でも『ハンク・ウィリアムス』カントリーの派生ジャンル『ホンキートンク』の代表格です。

1923年アメリカマウントオリーヴ生まれ。ハンクの父イロンゾ・ウィリアムズは、鉄道会社に勤め、しばしば異動があり、一家はアラバマ州南部の数カ所を転居しましま。父イロンゾが病気で8年間入院することになり、その間に残された家族は自活を余儀なくされた。幼いハンクは、二分脊椎症のために健康を害していたが、母と姉の手伝いをした。アラバマ州ジョージアナに住んでいたときに、ハンクはルーファス・”ティー=トット”・ペインという黒人の路上演奏者に出会い、食事の提供と交換にギターを習った。ペインはハンクの後の音楽のスタイルに大きな影響を与えた。この頃、ハンクは、非公式にだが名前をハイラムからハンクへと改めた。その方がカントリー音楽らしいと思ったのでした。

アラバマ州モンゴメリーに住んでいたとき、ティーンエイジになっていたハンクは、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で、ギターを弾きながら歌っていることがよくありました。首尾よくWSFAのプロデューサーたちの関心を引くことができたハンクは、1937年から、15分番組で歌と司会を務めるようになります。バックを務めるバンドとして結成したザ・ドリフティング・カウボーイズは、ハンクの母リリーがマネジメントを引き受けます。ハンクは学校を辞め、全ての時間を使って音楽の仕事に打ち込みます。

1941年、第二次世界大戦に合衆国が参戦すると、バンドのメンバーの数人が徴兵されてしまいます。二分脊椎症のために徴兵されなかったハンクは、代わりのメンバー探しに手こずります。このことと、健康の問題に自分なりに対処しようとして飲み始めた酒の問題が大きくなり、やがてWSFAはハンクを解雇しました。1943年、ハンクはオードリー・シェパードと結婚し、彼女はステージでハンクとデュエットで歌うとともに、マネージャー役を果たすようになりました。スターリング・レコードから「Never Again」と「Honky Tonkin’」を出した後、ハンクはMGMレコードと契約を結びます。1948年、ハンクは「Move it on Over」をリリースし、ヒットとなります。この年、ハンクは、当時ラジオ番組だった『ルイジアナ・ヘイライド』に出演するようになった。1949年には「Lovesick Blues」をリリースし、これによって音楽界の主流の仲間入りを果たします。やがて、最初は断られた『グランド・オール・オプリ』への出演も実現した。1948年から1953年までの間に、ハンクは11曲を(全米のカントリー&ウェスタン・チャートの)1位に送り出したが、楽譜の読み書きはほとんどできませんでした。ハンクのヒット曲には、このほか、「Your Cheatin’ Heart」、「Hey Good Lookin’」、「I’m So Lonesome I Could Cry」などがあります。

ハンクは、思わしくない背中の状態に由来する痛みを和らげるため、アルコールやモルヒネをはじめ、様々な鎮痛剤を服用していたが、1952年には、それが私生活でも、職業生活においても問題を引き起こすようになっていました。ハンクは、何度も深酒で酩酊し、そのために離婚し、『グランド・オール・オプリ』から解雇された。1953年コンサートへ赴く途中、ハンクは医師にビタミンB12とモルヒネの混合液を注射してもらったが、既にアルコールと抱水クロラールを摂取していたこともあって、致命的な心臓発作に見舞われ死亡しました。まだ29歳と短い人生ではあったが、ハンク・ウィリアムズはカントリー音楽に多大な影響を残しました?

ハンク・ウィリアムズの曲は、他の数多くの歌手たちによっても録音され、ポップ、ゴスペル、ブルース、ロックなど様々なスタイルでヒットした曲も多いものでした。ハンクの曲をカバーした歌手たちの例としては、ウィリー・ネルソン、タウンズ・ヴァン・ザント、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ケイク、ケニー・ランキン、ベック・ハンセン、ジョニー・キャッシュ、トニー・ベネット、ザ・レジデンツ、パッツィ・クライン、レイ・チャールズ、ルイ・アームストロング、トム・ウェイツなどが挙げられる。ハンク・ウィリアムズは多数の栄誉に輝いており、『ロックの殿堂』入りも果たしています。

若くして亡くなった天才。もし生きていたら、どのような作品を作っていたのでしょうか?

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