1965年、バンドは、ザ・スペーズというバンドを脱退したあとのロッキー・エリクソンが、テキサスの沿岸の街、コーパスクリスティでザ・リングズメンとして活動していたステイシー・サザーランド、ベニー・サーマン、ジョン・アイク・ウォルトンらと合流して結成されました。1966年リリースの『The Psychedelic Sounds of the 13th Floor Elevators』から、シングル「You’re Gonna Miss Me」が、全米55位を記録。代表的なバンドとなりました。
その後、しばらくリリースが途絶えていたが、1988年発表のアルバム『アザー・ロード』(全米47位)の収録曲「Heart of Mine」(全米35位)が、そのミュージック・ビデオの効果もあり、翌1989年に大ヒット、カムバックを果たしました。『アザー・ロード』は日本ではオリコン洋楽チャートで1988年5月30日付から通算3週1位を獲得しました。
彼らの存在を不動のものとしたのは、続いてリリースした1971年のライヴ盤『At Fillmore East』(全米13位)でした。デュアンの豪快なスライド・ギターをフィーチャーしたブラインド・ウィリー・マクテルのカバー「Statesboro Blues」、20分以上に渡るジャムが展開される「Whipping Post」などの演奏を収録したライブ盤の金字塔として知られるようになりました。また、インストの「In Memory of Elizabeth Reed」にはこんなエピソードも。この曲はディッキー・ベッツが、よく行っていた川沿いの墓地でデートをしているときに作ったそうだが、その女性の名前をつける訳にはいかなかったので、ある墓碑銘に刻まれたIn Memory of Elizabeth Reedをそのまま拝借した。後日、このエピソードをデュアンがローリング・ストーン誌に暴露したそうです。
『At Fillmore East』の成功から間もない1971年デュアン・オールマンがメイコンにてオートバイでトラックに追突し、24歳で死去します。バンドは、後任ギタリストを補充せず、レコーディング途中だったアルバム『Eat A Peach』(全米4位)をベッツが中心となって完成させた。以後、ベッツがデュアンに変わってバンドのリーダーを務めるようになりました。
度重なるメンバーの死にも関わらず、残ったメンバーはバンド活動を続行する。オークリーの後任にはラマー・ウィリアムズが加入し、翌1973年、『Brothers And Sisters』をリリース。全米1位の大ヒットを記録し、アメリカの国民的バンドとしての地位を確立しました。またシングルカットされた 「Ramblin’ Man」もポップ・チャート2位を記録しました。
1975年、アルバム『Win, Lose or Draw』を発表し、全米5位を記録。同年、バンドはアメリカ民主党ジミー・カーターの大統領選挙キャンペーンを支援するコンサートに参加し、カーターの支持母体サザン・バプティスト教会の支援を受けます。カーターの当選は南部のロック・バンドが最初に政治に深く関わった歴史的な一面も持ちます。
2年後の1978年、グレッグがベッツに和解を呼びかける形でバンドを再結成します。リーヴェルとウィリアムズはシー・レヴェルでの活動を続けたため再結成には加わらず、新たにデヴィッド・ゴールドフライズ(ベース)、ダン・トーラー(ギター)が加入した。1979年にはアルバム『Enlightened Rouges』(全米9位)をリリースし存在感をアピールするものの、この後、デビュー当時から所属していたキャプリコーン・レコードが倒産してしまいます。バンドはアリスタに移籍し、更に2枚のアルバムをリリース。1981年の『Brothers Of The Road』(全米44位)からのシングル「Straight From The Heart」はポップ・チャートの39位を記録し、まずまずの成功を収めるが、バンドは1982年に再度解散するに到ります。
2000年には、デレク加入後としては初のライヴ盤『Peakin’ at the Beacon』を録音するが、同年、メンバーとの対立からオリジナル・メンバーのベッツがグループから追い出される形で脱退。一時的にジミー・ヘリングが後任として加入した後、翌2001年にはウォーレン・ヘインズを再度迎え入れ、その後はニューヨークのビーコン・シアターでの恒例ライヴ、2003年に9年ぶりのスタジオ録音アルバム『ヒッティン・ザ・ノート』(全米37位)を発表、またジャムバンド・ミュージックの祭典ボナルー・フェスティバル(2003年、2005年)への出演など精力的に活動しました。