意外と、ブレイクのキッカケは日本だった

日本に、ビートルズやローリング・ストーンズが根付いてから、7年余り。ツェッペリンやパープルなどのハードロックバンドが、隆盛を極めていました。

そんな中、イギリスでとある一つのバンドが産まれようとしていました。それが、『クイーン』です。

クイーンの母体となったのは、ギタリストのブライアン・メイとドラムスのロジャー・テイラーが在籍していたバンド『スマイル』でした。1969年、スマイルがシングル『Earth』(B面は「Step On Me」)をリリース。これはまったく成功せず、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。

その後任として、加入したのがスタッフェルの同級生でバンドとも知り合いだったフレディ・マーキュリーでした。1970年、「クイーン」と名乗り始める。

1971年,入れ替わりを繰り返していたベーシストがオーディションでジョン・ディーコンに固定。クイーンの英公式サイトでは、4人が揃ったこの1971年を正式なバンド結成の年としています。

1973年,アルバム『戦慄の女王』(全英24位、全米83位)デビュー。先行シングルとして『炎のロックンロール』がリリースされ、日本での発売は1974年でした。

本作リリース当時、イギリスでは「ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープル、レッド・ツェッペリンの亜流」などとメディアから酷評され、「遅れてきたグラムロックバンド」と見られることもありました。また、彼らは本作制作から発売までに2年近くももたつき、レコード契約から1年以上待機させられたため「発売時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」と後にマーキュリーが回想しています。

74年、2作目のアルバム『クイーンII』(全英5位,全米49位)リリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル曲「輝ける7つの海」(全英10位)のヒットもあり、アルバムはヒットします。

74年、3作目のアルバム『シアー・ハート・アタック』(全英2位、全米12位)をリリース。先行シングル『キラー・クイーン』が全英2位、全米12位のヒットとし,後にマーキュリーは作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞します。

75年には、4作目のアルバム『オペラ座の夜』(全英1位、全米4位)をリリース。ここから、先行シングル『ボヘミアン・ラプソディ』が全英9週連続1位の大ヒットを記録。当初「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」とレコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーに意見を求められたラジオDJのケニー・エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流した。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、マーキュリーは同曲のヒットにより2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。その結果、『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得し、クイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得ました。

その後は、76年に『華麗なるレース』(全英1位、全米5位),77年再びセルフ・プロデュースで臨んだ6作目のアルバム『世界に捧ぐ』(全英4位、全米3位)を記録し、ここから『伝説のチャンピオン/ウィ・ウィル・ロック・ユー』が大ヒット(全英2位、全米4位)します。

78年には、7作目のアルバム『ジャズ』(全英2位、全米6位)リリース。再びプロデューサーにロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開しています。「バイシクル・レース」(全英11位、全米24位)のプロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとビデオは物議を醸しました。「バイシクル・レース」の影響もあって本作の発売直後にはマスコミの批判に晒されたが、アルバムは大ヒット。

1980年には、8作目のアルバム『ザ・ゲーム』全英1位、全米1位)をリリース。プレスリーを連想させるシングル「愛という名の欲望」(全英2位、全米1位)、ディーコン作の「「地獄へ道づれ」(全英7位、全米1位)とヒットを連発。

81年には、ベスト版『グレイテスト・ヒッツ」『全英1位、全米8位)をリリース。最もイギリスで売れたアルバムとされています。 

1983年、バンドの活動を休止し、各自ソロ活動に専念しました。1984年、11作目のアルバム『ザ,ワークス』(全英2位、全米23位)で復活。この頃になるとアメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の「RADIO GA GA』が19ヵ国で1位を獲得するなど大ヒットします。

85年には、ボブ・ゲルドフ(ブームタウンラッツ、ミッジ・ユーロ(ウルトラヴォックス)主催のチャリティーライブ『ライブ・エイド』に出演し、出演アーティスト中最多の6曲を披露し、そのパフォーマンスは観客を圧倒。あまりの質の高さにロンドン会場のヘッドライナーを務めたエルトン・ジョンが舞台裏で悔しさを顕にし地団駄を踏んだとされ、その後の反響は絶大で、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇しました。

しかし、この頃からフレディはエイズに感染しており、そのことをメンバーに伝え、バンドを継続。91年に、実質的なラストアルバム『イニュエンドウ』(全英1位、全米30位)をリリース。同タイトルが、全米1位のを記録しました。

同年、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表しています。『私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。』

そして翌92年、フレディ・マーキュリーはHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされた肺炎により、45歳という若さで死去しました。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目でした。葬儀会場は世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされ、マーキュリーの死後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは『ボヘミアン・ラプソディ』がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てました。また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付されます。

1992年、バルセロナオリンピックの開会式でオペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死によりホセ・カレーラストが代役を務めまた。

95年には、正規メンバーでの最後のアルバムとなる『メイド・イン・ヘブン』(全英1位、全米58位)をリリース。

その後は、ディーコン不参加の中アダム・ランバート、ポール・ロジャースなどをボーカルに迎えながらライブを中心に活躍しています。



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意外と、ブレイクのキッカケは日本だった」への2件のフィードバック

  1. 74年のIIを最初に買って、構成、ハーモニー、HR、歌詞とすばらしかったので、最初と二回目の来日は始発で有楽町の渡辺プロに並んでチケット購入。ほとんど並んでたのが女性だったのに驚いた、武道館も同様。当時はその女性っぽさが男性に避けられたと思います。現在の人気はやはり映画のおかげですが、それ以前にWe’llRockYouのステージが2回、長期にわたってオーストラリアでのチームが来日して実施され、終わりの方にはかなりなリピーターがでるくらいでした。 アダムランバートとQueenは一度武道館でみましたが、そのフレディーRespect、歌のうまさ。。。すばらしかった。 本当の英国のグループ

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