『アメリカン・ハード・ロック』といえば、『エアロスミス』『キッス』をイメージしがちですが、『グランド・ファンク・レイルロード』もその中の一つといえます。
1968年、「テリー・ナイト・アンド・ザ・パック)」というバンドで活動していたドン・ブリューワー (ds)とマーク・ファーナー (vo & g)、が、テリー・ナイトがバンドを去ったのを機に、メル・サッチャー (b) を誘い新バンドを結成。バンド名はアメリカの鉄道会社の社名から、「グランド・ファンク・レイルロード』と名付けられました。同年より勃興していたニューロック、又はハードロックのスタイルをいち早く取り入れ、1969年にかつての同僚であるナイトをプロデューサーに迎えたアルバム『グランド・ファンク・レイルロード登場 (On Time) 』(全米27位)でデビューします。レッド・ツェッペリンのアメリカ公演の前座を務めた際に、その歌と演奏力で聴衆を熱狂させ、ツェッペリンを食ってしまったことにより、ロックファンの間で知名度が高まりました。アルバムからシングルカットされた「ハートブレイカー」(全米72位)はハードロックの古典となっており、ザ・タイガースがコンサートのレパートリーとして取り上げられました。また、後にフォークシンガーとしてデビューする井上陽水がこの曲のコード進行を模倣して「傘がない」を書いたように、日本でも人気がありました。1971年の来日公演は後楽園球場にて激しい雷雨の中で行なわれ、その演奏はロック伝説として今も語り草になっています。また、アニマルズの曲をカバーした「孤独の叫び」(全英40位)もファンキーな人気曲となりました。
1972年の『不死鳥(Phoenix)』(全米7位)からはナイトと決別し、クレイグ・フロスト (kbd) を迎えて音楽性をポップな方向に広げ、バンド名をグランド・ファンク(Grand Funk)に変更しました。同アルバムからは「ロックンロール・ソウル」(全米29位)がシングル・カットされました。1973年、トッド・ラングレンにプロデュースを委ねたアルバム『 アメリカン・バンド(We’re an American Band) 』を発表。同名シングル曲が全米1位を獲得する大ヒットを記録、このアルバム・タイトルはそのまま彼らの代名詞となり、ボン・ジョヴィなど後に登場するアメリカのロックバンドにライブなどで何度もカバーされています。
続くアルバム『輝くグランド・ファンク (Shinin’ On) 』(全米5位)では、1962年に全米1位を獲得したジェリー・ゴーフィン & キャロル・キング作によるリトル・エヴァ の大ヒット曲「ロコモーション 」をハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ、こちらも全米1位を獲得、グランド・ファンク最大のヒットシングルとなりました。また、ロコモーションのほかに「シャイニン・オン」もシングルとして発表されています。
1975年には、『ハード・ロック野郎 (世界の女は御用心)』(全米10位)を発表。ドリフターズの原曲をブギ・ウギ調にアレンジした「オー・ワンダフル」(全米5位)と「バッド・タイム」(全米4位)の2曲のヒットを放ちました。1976年の『驚異の暴走列車(Born to Die)』(全米47位)を発表しCapitolとの契約は満了しました。同年、MCAからフランク・ザッパプロデュースの『熱い激突(Good Singin’, Good Playin’)』(全米52位)を発表するがこの1枚で解散しました。
解散後、ファーナーはソロで『Mark Farner』(1977年)、『No Frills』(1978年)の2枚のアルバムを発表。ブリューワー、サッチャー、フロストの3人はFlintを結成し『Flint』(1977年)を発表。1980年、ファーナーとブリューワーの2人によってGFRは再結成された。『グランド・ファンク復活(Grand Funk Lives)』(全米149位)と『ホワッツ・ファンク?(What’s Funk ?)』と2枚のアルバムを発表するがヒットを出すことはなく1983年に2度目の解散をしました。
1997年に行なわれたボスニア救済コンサートをきっかけにオリジナルメンバーで再々結成(『ボスニア(Bosnia)』)。途中でファーナーはソロ活動のためにバンドを離れたが、2012年現在もグランド・ファンク・レイルロードはライヴなどの活動を行っています。
当時は、あのレッド・ツェッペリンを凌ぐ勢いだったそうです。凄いバンドですね^_^

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ツェッペリンより目立ったらイケマセン。。
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