ハード・ロック黎明期②

ハード・ロック黎明期には、たくさんのバンドはやアーティストが出ましたが、『クリーム』と並ぶバンド/アーティストといえば、『ジミ・ベンドリス・エクスペリエンス』でしょう。

1942年、ワシントン州シアトルに生まれました。(デビューアルバムの裏には「1945年生まれ」と記されている)。出生時の名前は、ジョニー・アレン・ヘンドリックスで、母ルシールによって名付けられました。父親のアルことジェームズ・アレン・ヘンドリックス は、アフリカ系の父親と、アメリカ先住民の母親との間に生まれたブラック・インディアンでした。純血のチェロキー族だった父方の祖母ノラ・ヘンドリックスから、幼少期のヘンドリックスはチェロキー族の昔話を教えられたといわれています。その影響はヘンドリックスの作る曲のそこかしこに見いだされました。母親のルシールは、17歳でヘンドリックスを産んだが、遊び好きで家庭を顧みないところがあったと言われ、まだ幼いヘンドリックスを置いて出奔したこともあるといい、早くに亡くなっています。ヘンドリックスの楽曲「Angel」は、亡き母、ルシールが夢に現れたことから作られたとされています。

1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ、9月に渡英します。チャンドラーにヘンドリックスの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズのギタリスト)の恋人だったリンダ・キースでした。当時のヘンドリックスは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド「ジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズ」を率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス1人だけでした。チャンドラーはヘンドリックスの演奏を初めて聴いた際、「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたといわれています。チャンドラーに渡英を勧められ、ヘンドリックスはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけました。そして、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストのエリック・クラプトンの名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。チャンドラーは「君の演奏を聴いたら彼(クラプトン)の方から会いに来るよ」と答えていました。

ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)と共に「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成。1966年から活動を始めます。この際に名前をジェームズ/ジミー(James/Jimmy)から、ジミ(Jimi)に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、ポリドール系のトラックレコードからデビューシングル「Hey Joe / Stone Free」が全英4位のヒットを記録しました。アルバムアルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』は、全英2位、全米5位まで上昇するひっととなりました。

1967年には、アルバム『アクシス:ボールド・アズ・ラヴ』では、サイケデリック色を全面に押し進めた作品として、全英5位、全米3位とヒットし、名バラード「リトル・ウィング」は人気の代表曲です。

ベスト盤『スマッシュ・ヒッツ』(全英4位、全米6位)をはさんで、1968年、ラストアルバムとなった『エレクトリック・レディランド』(全英6位、全米1位)を発表。シングル「ヴードゥー・チャイルド」は、全英1位を獲得。

その後、彼は解散後『バンド・オブ・ジプシーズ』を結成。1970年には、ライブアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』(全英6位、全米5位)を発表。

順調かと思われた矢先、酒と睡眠剤のオーバードーズが、原因となり死亡してしまいます。享年27歳。死後、ソロとして唯一のアルバム『ザ・クライ・オブ・ラブ』(全英2位、全米3位)を発表。ここに、歴史に終止符が打たれました。

如何だったでしょうか。『ハード・ロック黎明期』シリーズ。次回も、色々なシリーズを投稿します。よろしくお願いします。



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