ここから、始まった‼️‼️‼️

またまた、『フォーク・ソング』についてですが、前述で述べた『さだまさし』の在籍していた『グレープ』について解説していきます。

さだまさしと吉田正美の二人は1969年、当時高校2年生のときに共通の友人の紹介で知り合いました。当時さだはアマチュア・バンド『フライング・ファンタジー』のリーダーであり、吉田はアマチュア・バンド『レディ・バーズ』のリーダーでした。翌1970年の春にさだ、吉田ともうひとりのメンバー3人でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに応募するが予選落ちしています。さだと吉田はその後も他にメンバーを集めてバンド活動を行っているが、プロになることは考えていなかったという。さだは國學院高等学校を卒業後、國學院大學・法学部に入学。在学中、大学にはほとんど行かず数々のアルバイトをしながらアマチュア・バンド活動の生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに1972年初旬長崎に帰郷し大学を中退します。同年、吉田が東京から長崎にいるさだを訪ね、そのままさだ家に住むこととなりました。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て咄嗟に「おい! よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することが出来なくなったといいます。以後二人は意気投合し同年、デュオバンドを結成します。ただし、実情は「とりあえず」二人だけでやるという結成でした。コンサートの開催を考えコンサートの興業団体に掛け合うが、いずれの団体とも話はつかず、結局はファースト・コンサートを自主開催することとなりました。コンサート開催に際してグループ名が必要になったため、吉田政美が楽譜のトレードマークにしていた”Grape”でどうかとさだに提案。さだは「ああ、そうしよう」と答え、1分でグループ名が決まったといいます。のちに『グレープ』の名で全国に知られるようになるが、さだはデュオの正式表記は”Grape”であるとしています。

初めてのコンサートを前にグレープは、島原市の著名人でさだの父親の友人でもあった宮崎康平を訪ねた。その際グレープは宮崎に後、『わすれもの』に収録される歌「紫陽花の詩」を披露しています。これを聴いた宮崎は「これは面白い。このような歌は今まで聴いたことがない。」と感心し、懇意にしている長崎放送の吉田昭平と武縄潔にグレープを紹介します。また長崎新聞社の学芸部・宮川密義にも紹介します。宮川は二人を面接して歌を聴きヒット性を予見、長崎新聞のヤング欄に写真入りでグレープを紹介し、ファースト・コンサートの案内を記載しました。しかしNBCビデオホールにおける初めてのコンサートは定員304席のところ250人程度の聴衆しか集まらず、さだの弟の繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったといいます。(さだはこのことをして「キャバレー方式」と呼んだ)。宮崎康平より依頼を受けた長崎放送ラジオのディレクター吉田昭平がこのファーストコンサートに臨席したことからラジオ出演へとつながります。のちにグレープはローカル番組「テレビ・ニュータウン」のレギュラーに起用される。やがて音楽プロデューサー川又明博によってスカウトされ、1973年に「雪の朝」でワーナー・パイオニアより全国デビューしました。所属プロダクションはユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的にはザ・バードコーポレーションからの採用を受け、デビューに至ります。

デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず[5]、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったといいます。1974年に第2作目のシングル「精霊流し」(2位)を発表しますが、まだ無名のフォークデュオであったため、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサーの蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けます。これが助力となって、放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞受賞することとなりました。

1974年に3枚目の「追伸」をリリース。4枚目の「ほおずき」(1975年リリース)は二人が考えていたほどのヒットには至らず、5枚目の「朝刊」(1975年リリース)は、それまでの暗いイメージの払拭を狙ってのリリースであったが、彼らが考えていたほどのヒットにはなりませんでした。しかしクラフトのセカンド・シングルのために提供した「僕にまかせてください」(1975年)は大ヒットし、さだはソングライターとしての手腕を発揮しています。また「朝刊」の制作時に議論の末、リリース先送りになった楽曲が後にクラフトがヒットさせた「さよならコンサート」(サード・シングル。1975年リリース)である。1975年、6枚目にしてグレープ名義ではラスト・シングルとなる「無縁坂」(12位)をリリースし、「精霊流し」以来の大ヒットとなります。さらに、アルバム『コミュニケーション』(7位)に収録された「縁切寺」は収録曲の中でもとりわけ人気を博し、グレープ解散後の1976年にはバンバンがシングルとしてカヴァー・リリースし、ヒットさせています。

今ではフォークデュオとして記憶されているが、後にさだまさしが語るには「ロックをやりたかった」のだと言います。さだのヴァイオリンと吉田のジャズ・ギターを活かしたサウンドを目指していたといわれています。確かに無国籍な印象のあるデビュー曲「雪の朝」や「精霊流し」のB面に収録されたフレンチ・ポップス風の「哀しみの白い影」など、いわゆるフォークの枠に収まらない楽曲も多くありました。また、セカンド・アルバム『せせらぎ』(10位)収録の「ラウドネス」や『グレープ・ライブ 三年坂』(2位)に収録されている吉田の「バンコ」、さだの「第一印象」といった楽曲は明らかにフォークソングではなく、彼らが本当にやりたかった音楽の片鱗がうかがえます。

なお、さだは後年「男性二人のデュオは当たらないという当時のジンクスを自分たちが打ち破った」と語っているものの、前例として1969年デビューのビリーバンバンや、1973年デビューのあのねのねなどがあります。

1975年ごろからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られています。また世間的には「精霊流し」のヒットにより、精霊流し=暗い=グレープというイメージがつき、さらに「精霊流し」と同傾向の「無縁坂」がヒット曲となりました。さらに、雰囲気を変えるために出された「朝刊」が思うようにヒットしなかったことや、「精霊流し」・「無縁坂」と同傾向のアルバム曲「縁切寺」が好評を博したことなどが重なってしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)を感じるようになりました。このような経緯から1976年春にグレープは解散に至ります。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べています。

なお、解散時期については、1976年とする資料と、解散コンサートを長崎県で行ったとする資料があり、さだまさしの公式WEBサイトでは「3月」となっていた(現在は修正済み)が、後にさだ企画社長の佐田繁理(さだの実弟)が当時の所属事務所であるバードコーポレーションの社長から入手したグレープ時代のスケジュール表によると、1976年放送の文化放送『グレープのセイ!ヤング』最終回が、グレープとしての最後の仕事となっているとのことでした。

さだまさしは解散の後、長崎放送などへ就職活動を行ったが上手くいかず、結局解散した年の秋にシングル「線香花火」(38位)でソロ・デビューしました。その後、シンガーソングライターとして1970年代後半から80年代前半にかけて「関白宣言」(1位)、「親父の一番長い日」(1位)、「道化師のソネット」(2位)、「防人の詩」(2位)などのヒット作を連発。現在に至るまで活躍を続け、近年では小説家としても活動しています。

吉田は「吉田正美と茶坊主」などの音楽活動を経て1981年にレコードディレクター/プロデューサーに転身。名前も正美から政美へと改めます。SMSレコードで制作部に勤務した後、バップに入社し所ジョージなどのアルバム制作を担当。プロデューサー職を経て、現在は管理部門に勤務しています。

解散から15周年目の1991年には一度「レーズン」の名で再結成し、アルバムをリリースしている。なお、レーズン名義になった理由は、もう新鮮なグレープ(葡萄)ではなく、年月を経てしなびた葡萄、すなわちレーズン干し葡萄)になったというさだの洒落からである。

また、2002年には、東名阪で行われた「さだまさしデビュー30周年記念コンサート」で、グレープとしてステージに登場しました(それ以前にも、さだのデビュー10周年記念コンサートや、1991年に行なわれたさだのチャリティーコンサート「夏・長崎から’91」にグレープで出演している)。これ以降、数年間は以下のように毎年、何らかの形でグレープとしての活動を行っています。2003年グレープ生誕の地、長崎にて、「グレープ帰郷」コンサートを行います。

2004年 さだのアルバム『恋文』(18位)のうちの2曲に吉田が参加。

2005年日本武道館で行われた、さだの3333回記念コンサートに吉田が出演。

2006年 ファンクラブ向けアリーナコンサートおよび『夏・長崎から ファイナル』へ吉田が出演。NHK番組『長崎から突然生放送! 真夏の夜もさだまさし』では、4曲をグレープで生演奏。9月リリースのさだのアルバム『美しき日本の面影』に吉田が参加。

グレープ時代の楽曲は基本的にさだまさしが作詞・作曲しているが、数曲吉田の作品もあります。なお、グレープ時代は作者がヴォーカルを務める、というシステムをとっており、吉田作品はヴォーカルも吉田です。シングル曲はすべてさだが歌っているが、レーズンとして再結成した際にリリースした「糸電話」は主部を吉田が歌いサビをさだが歌っています。当初二人ともヴォーカルを嫌がり、どちらが歌うかをジャンケンで決めることにしたところ、さだが負けたためにさだがヴォーカルに決まったといいます。

デュオとしても、ソロとしても成功をおさめてるところが凄いですね。



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