ハード・ロック黎明期①

引用

『ハード・ロックのお初』といえば、以前『ザ・キンクス』と紹介しましたが、黎明期に於いては、『クリーム』が代表的なバンドです。

ジンジャー・ベイカーが、ヤードバーズで注目され脱退後ホワイト・ブルースの名門ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズに在籍していたエリック・クラプトンをバンドに誘います。クラプトンは、当時マンフレッド・マンにいたジャック・ブルースをベーシストにするならば、という条件を出します。ベイカーはブルースと非常に仲が悪かったがこの条件を呑み、1966年にデビューする運びとなります。

ブルースが作曲しリード・ヴォーカルを取る曲が多いにもかかわらず、アメリカのレコード会社はクラプトンをプッシュし、クラプトンとそのバックバンドとして売り出すことを提案したが、もちろんバンド側に却下された。ライブ・アルバムを聴けばわかるように、3人は全く対等の高度な演奏力で火花を散らし、強烈なアドリブを繰り広げ、誰かがリーダーシップを取って牽引するというようなことはありませんではした。わずか2年半の活動で世界を席巻し、1968年に解散するも、後続のミュージシャンに多大な影響を与えました。

クリームのデビューアルバム『フレッシュ・クリーム』は、1966年に録音・発表され、イギリスのチャートで6位、アメリカのチャートで39位を記録しました。内容は「Four Until Late」、「Rollin’ and Tumblin’」(マディ・ウォーターズの曲)、「Spoonful」(ウィリー・ディクスン作曲、ハウリン・ウルフの録音)、「I’m So Glad」、「Cat’s Squirrel」など、主にブルースのカバーでした。その他の曲としては、ジャック・ブルース作で作詞は友人のピート ・ブラウンと共作した”I Feel Free” (全英50位、全米116位、アルバムにはアメリカ版にのみ収録) やジンジャー・ベイカー作の”Toad

クリームのデビューアルバム『フレッシュ・クリーム』は、1966年に録音・発表され、イギリスのチャートで6位、アメリカのチャートで39位を記録しました。内容は「Four Until Late」、「Rollin’ and Tumblin’」(マディ・ウォーターズの曲)、「Spoonful」(ウィリー・ディクスン作曲、ハウリン・ウルフの録音)、「I’m So Glad」、「Cat’s Squirrel」など、主にブルースのカバーでした。その他の曲としては、ジャック・ブルース作で作詞は友人のピート ・ブラウンと共作した”I Feel Free” (全英50位、全米116位、アルバムにはアメリカ版にのみ収録) やジンジャー・ベイカー作の”Toad”(ロックのドラム・ソロとしては最も初期の作品)などがありました。

初期のクリームは、多くの曲を演奏してみせるタイトなバンドでした。「N.S.U.」や「Sweet Wine」「Toad」などすべての曲は5分程度のバージョンにうまくまとめられました?しかしたった2か月後には、セットリストは短く1曲ずつがぐっと長くなります。スタジオ録音では1967年「ストレンジ・ブルー」からアメリカ人フェリックス・パパラルディをプロデューサーに招聘しアレンジや一部の演奏に携わりました。

1967年には、ブルースとサイケデリック感を強く出した、『カラフル・クリーム』を発表。全英5位、全米4位と大ヒットし、シングル「サンシャイン・ラブ」が全英25位、全米5位、「ストレンジ・ブルー」が全英17位とヒットしました。

1968年には、前作をさらに発展させ、ライブ音源を収録した2枚組アルバム『クリームの素晴らしき世界』(全英3位、全米1位)を発表。シングル「ホワイト・ルーム」は、全英28位、全米6位、「クロスロード(ライブ音源)」が全英28位とこれもヒットしました。

しかし、バンド内で方向性の違いが出てしまい、険悪な感じになります。1969年、ラストアルバム『グッバイ・クリーム』(全英1位、全米2位)を発表。ライブ音源とスタジオ音源を合わせた内容は、前作を踏襲したものとなり、大ヒットしました。

ただ、バンドは既に消滅状態にあり、クラプトンはソロで大成功をの後に収め、ベイカー、ブルースも他アーティストなどとのコラボをしました。

1970年、ライブ・アルバム『ライブ・クリーム』(全英4位、全米15位)、1971年『ライブ・クリーム・ボリュームII』(全英15位、全米27位)と発表し、完全にバンドは解散します。

1993年に『ロックの殿堂』入りを果たし(プレゼンターはZZトップ)、その場限りの再結成で「サンシャイン・ラヴ」と「クロスロード」「悪い星の下に」の3曲が演奏されました。

2005年にも、解散前の最後のライヴを行ったロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、再結成ライブが行われました。

2014年にブルースが71歳で、2019年にはベイカーが80歳で亡くなり、現在メンバーで生存しているのはクラプトンただ1人となりました。

『ハード・ロックの黎明期のバンド』、次回も乞うご期待下さい^_^



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アメリカン・ハード・ロックの父

引用

『アメリカン・ハード・ロック』といえば、『エアロスミス』『キッス』をイメージしがちですが、『グランド・ファンク・レイルロード』もその中の一つといえます。

1968年、「テリー・ナイト・アンド・ザ・パック)」というバンドで活動していたドン・ブリューワー (ds)とマーク・ファーナー (vo & g)、が、テリー・ナイトがバンドを去ったのを機に、メル・サッチャー (b) を誘い新バンドを結成。バンド名はアメリカの鉄道会社の社名から、「グランド・ファンク・レイルロード』と名付けられました。同年より勃興していたニューロック、又はハードロックのスタイルをいち早く取り入れ、1969年にかつての同僚であるナイトをプロデューサーに迎えたアルバム『グランド・ファンク・レイルロード登場 (On Time) 』(全米27位)でデビューします。レッド・ツェッペリンのアメリカ公演の前座を務めた際に、その歌と演奏力で聴衆を熱狂させ、ツェッペリンを食ってしまったことにより、ロックファンの間で知名度が高まりました。アルバムからシングルカットされた「ハートブレイカー」(全米72位)はハードロックの古典となっており、ザ・タイガースがコンサートのレパートリーとして取り上げられました。また、後にフォークシンガーとしてデビューする井上陽水がこの曲のコード進行を模倣して「傘がない」を書いたように、日本でも人気がありました。1971年の来日公演は後楽園球場にて激しい雷雨の中で行なわれ、その演奏はロック伝説として今も語り草になっています。また、アニマルズの曲をカバーした「孤独の叫び」(全英40位)もファンキーな人気曲となりました。

1972年の『不死鳥(Phoenix)』(全米7位)からはナイトと決別し、クレイグ・フロスト (kbd) を迎えて音楽性をポップな方向に広げ、バンド名をグランド・ファンク(Grand Funk)に変更しました。同アルバムからは「ロックンロール・ソウル」(全米29位)がシングル・カットされました。1973年、トッド・ラングレンにプロデュースを委ねたアルバム『 アメリカン・バンド(We’re an American Band) 』を発表。同名シングル曲が全米1位を獲得する大ヒットを記録、このアルバム・タイトルはそのまま彼らの代名詞となり、ボン・ジョヴィなど後に登場するアメリカのロックバンドにライブなどで何度もカバーされています。

続くアルバム『輝くグランド・ファンク (Shinin’ On) 』(全米5位)では、1962年に全米1位を獲得したジェリー・ゴーフィン & キャロル・キング作によるリトル・エヴァ の大ヒット曲「ロコモーション 」をハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ、こちらも全米1位を獲得、グランド・ファンク最大のヒットシングルとなりました。また、ロコモーションのほかに「シャイニン・オン」もシングルとして発表されています。

1975年には、『ハード・ロック野郎 (世界の女は御用心)』(全米10位)を発表。ドリフターズの原曲をブギ・ウギ調にアレンジした「オー・ワンダフル」(全米5位)と「バッド・タイム」(全米4位)の2曲のヒットを放ちました。1976年の『驚異の暴走列車(Born to Die)』(全米47位)を発表しCapitolとの契約は満了しました。同年、MCAからフランク・ザッパプロデュースの『熱い激突(Good Singin’, Good Playin’)』(全米52位)を発表するがこの1枚で解散しました。

解散後、ファーナーはソロで『Mark Farner』(1977年)、『No Frills』(1978年)の2枚のアルバムを発表。ブリューワー、サッチャー、フロストの3人はFlintを結成し『Flint』(1977年)を発表。1980年、ファーナーとブリューワーの2人によってGFRは再結成された。『グランド・ファンク復活(Grand Funk Lives)』(全米149位)と『ホワッツ・ファンク?(What’s Funk ?)』と2枚のアルバムを発表するがヒットを出すことはなく1983年に2度目の解散をしました。

1997年に行なわれたボスニア救済コンサートをきっかけにオリジナルメンバーで再々結成(『ボスニア(Bosnia)』)。途中でファーナーはソロ活動のためにバンドを離れたが、2012年現在もグランド・ファンク・レイルロードはライヴなどの活動を行っています。

当時は、あのレッド・ツェッペリンを凌ぐ勢いだったそうです。凄いバンドですね^_^



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日本での人気は、本当に凄い‼️‼️‼️

引用

アーティストやバンドには、本国よりも日本での人気が高いことが多い事がよくあります。『ボン・ジョヴィ』がその代表的なバンドです。

1983年、ヴォーカルでリーダーであるジョン・ボン・ジョヴィは、両親の影響からレコーディングスタジオでアルバイトを始め、16歳から知り合いで同い年のデヴィッド・ラッシュバウム(デヴィッド・ブライアン)らとバンドを結成し、レコーディングスタジオが使われない深夜の時間にレコーディングを行いデモを作成し、主に地元のニュージャージー州でライヴ活動を行っていた。1983年になるとアレック・ジョン・サッチが参加。彼がティコ・トーレスを連れてきてライヴ活動に参加しました。その後、『ジョン・ボン・ジョヴィ&ジ・ワイルド・ワンズ』としてのショウを観に来ていたリッチー・サンボラがデイヴ・セイボに代わってバンドに加入し、デビュー時のメンバーが揃います。

1984年、ファーストアルバム『Bon Jovi』(全米43位、全英71位)をリリース。

この年、バンドはスコーピオンズのサポートとして北米ツアーに帯同、キッスのサポートとしてヨーロッパツアーに帯同しました。

1985年、 2ndアルバム『7800° Fahrenheit』全米37位、全英28位)を発表。タイトルの「7800°」とは、岩(ロック)も溶けてしまう温度。

アルバムに収録されている「TOKYO ロード」は、日本のファンへ感謝の意を込めて作られました。なお、本作からデヴィッドはラッシュバウムからブライアンに改名しています。

バンドはアルバム発表直後に来日し、バンド初の単独公演を日本で開催しました。その後、ヨーロッパツアーを行い、イギリスのドニントン・パークで開催されたロック・フェスティバル『モンスターズ・オブ・ロック』に出演。その後、ラットのサポートとして北米ツアーに帯同します。

1986年、プロデューサーにブルース・フェアバーンを迎えて制作された3rdアルバム『Slippery When Wet』(全米1位、全英6位)を発表。その後、西ドイツのニュルンベルクで開催された『モンスターズ・オブ・ロック』に出演、38スペシャルのサポートアクトとして全米ツアーを敢行。シングル「You Give Love A Bad Name(全米1位、全英14位)、「Livin’ On A Prayer」(全米1位、全英4位)が大ヒットとなり、バンドは一躍有名になりました。

1987年は年始からワールド・ツアーを開始。8月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン3日間公演を行い、イギリスのドニントン・パークで開催された『モンスターズ・オブ・ロック』にはヘッドライナーとして出演。9月には日本公演を行いました。10月のツアー終了までにアルバム『Slippery When Wet』は全世界でおよそ1,800万枚セールスしたとされています。

1988年、4thアルバム『New Jersey』(全米英米1位)を発表。シングル「Bad Medicine」(全米1位、全英17位)と「I’ll Be There For You」(全米1位、全英18位)も大ヒット。モスクワで開催された『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』にヘッドライナーとして出演。オジー・オズボーン、モトリー・クルー、スコーピオンズ・スキッド・ロウらと共演しました。ジョンとリッチーがMTV Video Music Awards授賞式で「Livin’ On A Prayer」と「Wanted Dead Or Alive」をアコースティック・アレンジでパフォーマンス。これを機にMTVが『MTVアンプラグド』を制作し、放送が開始されました。

1990年、2年に及ぶロング・ツアーが2月に終了。合計で300を超える公演を行います。連日のハードスケジュールでメンバーが消耗しきってしまい、疲労とストレスからメンバー間の口論やトラブルも多くなり、メディアでは解散が噂される様になるります。ジョンは映画『ヤングガン2』にインスパイアされて制作したソロ・アルバム『Blaze Of Glory』(全米3位、全英2位)を発表。シングル「Blaze Of Glory」(全米1位、全英13位)。解散騒動の最中、地元ニュージャージー州のカウント・ベイシー シアターでクリスマス・チャリティー・コンサートを開き、以後この時期のチャリティー・コンサートは恒例となります。しかし、ボン・ジョヴィの本格的な活動再開にまでは至りませんでした。9月にはリッチーが1stソロ・アルバム『Stranger In This Town』(全米36位、全英20位)を発表します。そして、同年秋にメンバーがバハマ諸島でバンドについて話し合いの場を設け、数年間ツアーやアルバム制作を一旦中止し、全員で休養を取ることに合意し、そこから再度アルバム制作をすることを誓い合いました。

1992年、新しくマネージメント会社BJM(ボン・ジョヴィ・マネージメント)を設立。プロデューサーにボブ・ロックを迎えて制作された5thアルバム『Keep The Faith』を発表。アメリカではオルタナティブ・ロックが全盛期であったが、全米5位と健闘し、全英アルバムチャートでは1位を獲得しました。

1993年のツアーでは、全2作で設定された公演数の約半分以下にし70回程度の公演数に抑えました。

1994年10月、初のベスト・アルバム『Cross Road』を発表した。これまでのヒット曲に加えて、2曲の新曲「Someday I’ll be Saturday Night」「Always」を収録。アルバムはアメリカ盤・日本盤・インターナショナル盤の3種類で発売され、アメリカ盤には「Livin’ On A Prayer」をアコースティック調にリメイクした「Prayer ’94」が、日本盤には「TOKYO Road」が、インターナショナル盤には「In These Arms」が収録された。アルバムは全米8位、全英1位を獲得し、日本では初となるオリコンチャート1位を獲得し、ミリオンセラーとなったりました。新曲「Always」は全米位4位とヒットします。ところが、『Cross Road』発売と同時期にアレックの脱退が発表される。理由は「もっと自分の生活を楽しみたい」というものであった。後任のベーシストには、メンバーの旧友であるヒュー・マクドナルドをサポート・メンバーに迎えました。

1995年5月、福岡・西宮(兵庫県)・東京で日本公演を開催し、チケット代の一部を同年に発生した阪神・淡路大震災の被災者義援金として寄付します。6thアルバム『These Days』を発表。全米9位、全英1位を獲得。ツアーはロンドンのウェンブリー・スタジアム3日間公演など大規模なコンサートを開催しました。一方、メンバー個人の活動としてジョンは俳優業を本格的にスタートしており、9月には映画デビュー作『ムーンライト&ヴァレンチノ』が公開されました。ティコは絵画・彫刻アーティストとしてニューヨークなど数か所で個展を開催します。7月のツアー終了はバンド活動を休止し、ソロ活動となります。年末にはジョンの初主演作『妻の恋人、夫の愛人』が公開されました。

1997年、ジョンはアルバム『Destination Anywhere』(全米31位、全英2位)を発表。リッチーは12月に2ndアルバム『Undiscovered Soul』全米174位、全英24位)を発表しました。デヴィッドは1994年発表の『On A Full Moon』に続く2ndアルバム制作を進めていた矢先に指に大怪我を負ってしまい、およそ2年間治療とリハビリの生活を強いられることになります。

1999年、ジョンは映画「アルマゲドン」のサウンドトラックへ楽曲を提供。チャリティの為にRolling Stonesの「It’s Only Rock N’ Roll」を多彩なアーティストが歌うレコーディングへ参加。

その後、バンド活動再開。映画『エドtv』主題歌に「Real Life」を提供(デヴィッドは不参加)。6月から本格的なレコーディングがスタートします。

2000年、およそ5年ぶりとなる7thアルバム『Crush』を発表。アルバムのプロデューサーにルーク・エヴィンを迎えました。アルバムは全米9位、全英1位を獲得。リード・トラックのシングル「It’s My Life」(全米33位、全英3位)はボン・ジョヴィの新たなアンセムとしてヒットしました。開催されたワールド・ツアーは日本からスタートし、4大ドームツアーを行いました。ウェンブリー・スタジアムで、解体前最後のコンサートを開催。

同年、初のライブ・アルバム『One Wild Night Live 1985-2001』(全米20位、全英2位)を発表。7月には地元ニュージャージーのジャイアンツ・スタジアムでツアー最終公演を行った。9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起こると、各チャリティー活動に参加。

2002年、ソルトレイクシティオリンピック閉会式でパフォーマンス。9月にはニューヨークのタイムズスクエアで開催されたイベント『NFL Kickoff Live From Times Square』にヘッドライナーとして出演。

その後、8thアルバム『Bounce』(英米2位)を発売。2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件の影響を受けたアルバムとなりました。

アルバム『Bounce』発表当日の2002年にZEPP東京で行われた招待客のみのスペシャル・ライヴを行います。これは日本のファンに小さな箱で必ずライヴをする、と約束していたからで、敢えてアメリカ同時多発テロから1年のこの日に行われます。このライヴはアルバム『Bounce』を予約すると応募券が付いており、その応募で当選した人のみのスペシャルライヴでした。他に札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡にて衛星生中継されました。因みにこの衛星生中継は、アルバムBOUNCE予約者の中から抽選で各地300名が招待されました。

2003年、『第37回スーパーボウル』にてパフォーマンス。6月にはアイルランド共和国ダブリンで開催された『第11回スペシャルオリンピックス夏季大会』開会式に出席してパフォーマンス。ロンドンではハイド・パーク公演を開催しました。ワールド・ツアーは、8月のジャイアンツ・スタジアム公演で終了します。これまでの曲をアレンジしたアルバム『This Left Feels Right』(全米15位、全英4位)を発表。横浜公演のライヴ音源をボーナス・トラックに収録しています。

2004年、デビュー20周年とトータルセールス1億枚突破を記念して、デモ音源や未発表音源を多数収録した4枚組ボックス・セット『100,000,000 Bon Jovi Fans Cant Be Wrong』(全米53位)を発表。リッチーやデヴィッド、ティコがメインボーカルとなっている曲も収録されています。

2005年7月、世界同時に行われたチャリティー・コンサート『LIVE 8』にフィラデルフィアから出演。9月には、プロデューサーにジョン・シャンクスを迎えて制作した9thアルバム『Have A Nice Day』(英米2位)を発表。 アメリカではジェニファー・ネトルズとデュエットしてカントリー・ミュージック調にアレンジした「Who Says You Can’t Go Home」がロック・アーティストとしては初めて全米Hot Country Songsチャートで1位を獲得しました。

2007年、第49回グラミー賞において「Who Says You Can’t Go Home」(Bon Jovi & Jennifer Nettles)が「最優秀カントリー・コラボレーション賞」を受賞しました。10thアルバム『Lost Highway』(全米1位、全英2位)を発表し、ロンドンではO2アリーナのこけら落し公演を行いました。その後日本にて神戸・東京でのスペシャル・ライヴに参加しました。全米でも『New Jersey』以来19年ぶりに1位を獲得。地元ニュージャージーにオープンしたプルデンシャル・センターで10日間のこけら落し公演を皮切りにワールド・ツアーを開始。

7月、地球温暖化防止活動のためのチャリティー・コンサート『ライブ・アース』にジャイアンツ・スタジアムから出演。ニューヨークのセントラル・パークではニューヨーク市やMLB、多数の企業の協賛による大規模なフリー・コンサートを開催します。ワールド・ツアーは7月末に終了し、『Lost Highway Tour』はビルボード誌による2008年に開催されたすべてのアーティストの中で最高の興行収益をあげたコンサートになりました。

同年に、開催された『トライベッカ映画祭』に『Lost Highway Tour』の模様を追ったドキュメンタリー映画『When We Were Beautiful』が出品されます。10月にはデヴィッドが音楽・作詞を手掛けたブロードウェイ・ミュージカル『メンフィス』(Memphis)が上演開始となりました。11月には11thアルバム『The Circle』(全米1位、全英2位)を発表。

2010年から、ワールド・ツアー開始。ジャイアンツ・スタジアムの老朽化に伴って新築されたニュー・メドウランズ・スタジアム(メットライフ・スタジアム)公演を行いました。6月にはO2アリーナで12日間公演を行います。なお、公演のみデヴィッドは不参加となりました(第64回トニー賞授賞式出席のため)。11月には『Cross Road』からおよそ16年ぶりとなるベスト・アルバム『Greatest Hits』(全米5位、全英2位)を発表。CDでは2枚組となる『Greatest Hits –The Ultimate Collection』を発表、さらにアメリカ盤・インターナショナル盤・日本盤で収録曲が異なる内容になっている。『The Circle Tour』はビルボード誌による「Top 25 Tours of 2010」第1位となりました。

2011年、東日本大震災の復興支援を目的としたチャリティー・アルバム『Songs For Japan』に参加。4月にはリッチーがアルコール依存症治療のためツアー不参加となり、代役としてフィルXが参加した。ツアーは7月末のポルトガルリスボン公演で終了した。

2012年9月、リッチーが3rdソロ・アルバム『Aftermath Of The Lowdown』(全米149位、全英35位)を発表。この時点でボン・ジョヴィのニュー・アルバムはほぼ完成していたが、バンドとしては2013年から活動再開することになりました。

2013年1月、「Because We Can」を全世界に音楽配信。『Because We Can: The Tour』を開始。12thアルバム『What About Now』(全米1位、全英2位)を発表。ところが、リッチーがカナダカルガリー公演から不参加となり、フィルXが代役として再び参加しました。ティコの入院により南米ツアーが延期され、一部が中止となりました。代役には地元ニュージャージー出身のリッチ・スキャネラが参加していたが、カリフォルニア州フレズノ公演から復帰しました。このツアーは、ポールスター誌による2013年に開催されたすべてのアーティストの中で最高の興行収益をあげたコンサートになりました。

2014年、デビュー30周年。ニューヨークの名称となってから350年を記念して、町に縁のあるアーティストのライヴを上映する『NY LIVE!』の第4弾として、ボン・ジョヴィ『インサイド・アウト』が日本国内の劇場で公開されました。また、ボン・ジョヴィ初となる“デラックス・エディション”シリーズとして、4thアルバム『New Jersey』のデラックス・エディションを発売。アルバム制作当時、バンド側は2枚組でのアルバム発売を構想していたが、レコード会社の指示で1枚になったといわれています。今回のデラックス・エディションには、『Sons Of Beaches』(サンズ・オブ・ビーチズ)として制作されていたデモ音源や未発表曲が収録されています。

なお、リッチーについてジョンはショービズ411によるインタービューで「もうやめたんだよ。リッチーはもういないんだ。でも、悪い感情は全然ないよ。バンドをやるのには、なにも終身の義務じゃなくてもいいってことだよ。」と述べているが、正式発表はありませんでした。

2015年、新曲と未発表曲で構成されたアルバム『Burning Bridges』(全米13位、全英3位)を発表。

2016年10月、リッチーなしでは初となる完全新作アルバム『This House Is Not for Sale』(全米1位、全英5位)を発表。このアルバム以降、長らくサポートメンバーを務めていた、ヒューとフィルを正式メンバーとして発表しました。

2017年には2018年度の『ロックの殿堂』入りが決まり、式典は2018年に行われた。ジョン、デヴィッド、ティコ、ヒューと元メンバーのリッチー、アレックの六人が殿堂入りし、プレゼンテーターはアメリカのラジオパーソナリティーハワード・スターンが務めた。パフォーマンスでは「You Give Love a Bad Name」、「Livin’ On a Prayer」、「It’s My Life」、「When We Were Us」の四曲をリッチー、アレックと共にパフォーマンスした。 またバンドの故郷であるニュージャージー州の知事であるフィル・マーフィーは式典当日を「ボン・ジョヴィの日(Bon Jovi Day)」としましま。

2020年10月、コロナパンデミックに影響を受けた曲を含んだ『2020』(全米19位、全英5位)を発表しまし。

ジョン・ポン・ジョヴィ現在60歳。これからの活動に注目です。



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初めて、”メタル”と呼ばれたバンド

引用

『ブラック・サバス』『ディープ・パープル』『レッド・ツェッペリン』など、ハード・ロック/ヘヴィ・メタルバンドはいますが、”メタル”と言うジャンルが語られたバンドは『ブルー・オイスター・カルト』です。

1967年、サンディ・パールマンが、自作の詩「The Soft Doctrines Of Imaginos(イマジノスの柔らかな経典)」(#イマジノス参照)の世界観を、ロックによって表現するというコンセプトで、協力者アルバート・ブーチャード(B)とともにミュージシャンを集め、ニューヨーク市のロングアイランドで結成された。結成当初のバンド名は「Soft White Underbelly」でした。パールマンはマネージメントを担当し、ライブのブッキングやレコード契約を速やかにまとめて、彼らを表舞台に送り出したのであるが、バンドに与えたパールマンの影響はそれに留まらず、自作の詩をバンドのオリジナル曲の歌詞の素材として提供し、バンドが生み出した世界観にも決定的な影響を与えました。

1968年、エレクトラ・レコード向けにアルバムを制作するが、エレクトラの反応は悪く、アルバムの発売は中止されます。一方バンドはシンガーを交替させ、エリック・ブルーム(Vo/G)を迎え入れます。1969年、バンドはフィルモア・イーストの舞台に立つが、ステージの評判は今ひとつであった。パールマンはバンド名の変更を決定。「オアハカ」「ストーク・フォレスト・グループ」など短期間にバンド名を入れ替えます。結局バンド名が『ブルー・オイスター・カルト』に落ち着いたのは1970年のことでした。この間に、またいくつかの楽曲をレコーディングしているが、エレクトラはサンプル盤としてシングルを300枚プレスしたに留まりました。

1972年、「コロムビア・レコード」より『Blue Öyster Cult』(全米172位)でデビュー。変形十字のシンボルマークもこの時から使用が開始されてます。アルバムはビルボード200にチャートインし、バーズやアリス・クーパー、マハヴィシュヌ・オーケストラらと盛んにツアーを行って知名度を上げていった。レーベルは彼らをアメリカ版ブラック・サバスとして売り出そうと試み、『Tyranny and Mutation』(全米122位、1973)、『Secret Treaties』(全米53位、1974)とコンスタントにアルバムをリリースします。

ライブ・アルバム『On your feet or on your knees』(全米22位、1975)の好調なセールスにより広く知られるようになりました。なお、このアルバム題名となっている’On your feet or on your knees!’を冒頭でMCとして叫んでいるのはニューヨーク・パンクの礎の一人でもあるパティ・スミスです。当時としてはLP盤2枚組の高価なセットであったが、N.Y.でのアンダーグラウンド系ロックの記録として未だに評価が高い録音であり、スタジオ録音のB.O.Cとは趣が異なる演奏が聴ける名作です。次いで代表作ともいえる『Agents of Fortune』(全米29位、全英26位、1976)をリリースします。『Agents of Fortune』からのシングルで、リードギターのバック・ダーマが曲を作り歌も担当した「(Don’t Fear) The Reaper」が全米12位まで上昇し、アルバムはゴールド・ディスクを獲得する。ダーマのボーカルはソフトで、そのバックもソフトロックサウンドであり、ハードロックサウンドは曲中の展開部の一部のインスト部に限られたもの。ともあれ、1980年代のハード・ロック・ブーム以前にこの数字を出したハード・ロック・バンドはさほど多くありません。

『Spectres』(全米43位、全英60位、1977)では、ゴジラをテーマにしたシングル「Godzilla」が、エリック・ブルームによる日本語ナレーションを挿入したこともあり、ハード・ロック通の間でネタとして評判になるも、前作ほどの成功は収められませんでした。翌年、ライブ・アルバム『Some Enchanted Evening』(全米44位、全英18位、1978)をリリース。プラチナ・アルバムを獲得します。コンサートにおいては、レーザー・システムを導入するなど、派手なパフォーマンスでも注目を浴びます。1979年には初来日を果たます。

1979年、バンドはそれまでの全てのアルバムをプロデュースしていたサンディ・パールマンに代わり、トム・ワーマンを迎えて『Mirrors』(全米44位、全英46位、1979)をリリースする。しかし完成したアルバムは重さに欠けるとして不評を買います。続いて、マーティン・バーチをプロデューサーに起用してアルバム『Cultösaurus Erectus』(全米34位、全英12位、1980)をリリース。マーティン・バーチの起用は、当時ブラック・サバスのマネージメントをも請け負っていたパールマンの引きによるものでありました。つまりパールマンはブラック・サバスの『ヘヴン&ヘル』(1980)のサウンドをブルー・オイスター・カルトに持ち込もうとしたのです。この試みは一定の成果を挙げ、アルバムはイギリスにおいてもヒットします。

同じくマーティン・バーチのプロデュースした『Fire of Unknown Origin』(全米24位、全英29位、1981)では、シングル「Burnin’ For You」が全米トップ40入りするヒットとなります。この曲は当初”バック・ダーマ” ローザー(Vo/G)のソロ・プロジェクト用に書かれたものであったが(ブルー・オイスター・カルトには合わないと判断された)、パールマンの指示でアルバムに収録されることとなりました。また、本作収録の「Veteran of the Psychic Wars」の歌詞はマイケル・ムアコックが書いたことで知られています。このアルバムに伴うツアーの最中、アルバート・ブーチャード(Ds)が失踪するという事件も発生。この時に代役となったのは、バンドのライティング担当技師だったリック・ダウニー(Ds)でした。このツアー音源を元に、ライブ・アルバム『Extraterrestrial Live』(全米29位、全英39位、1982)をリリース。アルバート・ブーチャードがドラムを叩いているのは2曲だけで、残りはリック・ダウニーのプレイである。ダウニーはその後正式なドラマーとしてバンドに加入。この頃アルバート・ブーチャードは、バンド結成の発端であり、後述するパールマンの創作企画「イマジノス」の実現に取り組んでいました。

プロデューサーにブルース・フェアバーンをむかえ、『The Revölution by Night』(全米93位、全英95位、1983)をリリース。バンドはアルバムの出来に満足していたが、セールス的には前スタジオ作に届きませんでした。このアルバムに伴うツアーを終えてリック・ダウニーは脱退。

1985年、バンドは2週間の西海岸ツアーをブッキングされるがドラマーが不在のままだったため、急遽アルバート・ブーチャードを呼び戻してツアーは行われました。ツアー終了とともにアルバート・ブーチャードは再び離脱。続いてアラン・レイニア(Key)も脱退してしまいます。レーベルとの契約消化のため、バンドは不本意ながらの作品『Club Ninja』(全米63位、1986)をリリース。新メンバーにジミー・ウィルコックス(Ds)とトミー・ズヴォンチェク(Key)が加入。スタジアム・ロック的でもあるこのアルバムは、そこそこのセールスをあげたものの、以前のブルー・オイスター・カルトを知るファンからの評価は下がります。

1987年、加入したウィルコックスとズヴォンチェク(Key)が短期間で脱退。オリジナル・メンバーのエリック・ブルームと”バック・ダーマ” ローザーの2人だけとなり、バンドは空中分解します。

1988年、コンセプト・アルバム『Imaginos』(全米122位)が突如リリースされます。このアルバムの企画は、サンディ・パールマンが、ブルー・オイスター・カルトが結成される前から構想していたもので、そのコンセプトはハワード・フィリップス・ラヴクラフトのクトゥルフ神話をベースにしていたものでした。3rdアルバム『Secret Treaties』に収録された「Astronomy」と「Subhuman」も、実はこのコンセプトに基づき書いた曲でした。

アルバート・ブーチャードは、その後も曲を書き溜めており、バンドを脱退した1982年にこの作業に本格的に取り組み、レコーディングを行います。しかし「コロムビア・レコード」は、アルバート・ブーチャードのソロ・アルバムとしては、この企画に興味を示さなかったため、パールマンは、エリック・ブルームと”バック・ダーマ” ローザーに協力を仰ぎ、新たなボーカルと演奏を加え、ゲストプレイヤーにジョー・サトリアーニやロビー・クリーガーらを迎えて、ブルー・オイスター・カルト名義のアルバムとしてリリースされました。

同時に発表されたスティーヴン・キングのナレーションが入ったミュージック・ビデオとともに、コンセプト・アルバムとしての評価を得たものの売り上げは芳しくなく、バンドはレーベルのプロモーションがない状態でツアーせざるを得ませんでした。「コロムビア・レコード」がソニーに売却される際、バンドは契約を失ってしまいます。

コンセプト・アルバム『Imaginos』以降、バンドは散発的な動きしかみせなかったが、1990年代後半に「CMCレコード」と契約してからは、活動がまた活発になります。

1998年、10年ぶりのアルバム『Heaven Forbid』をリリース。サイバーパンク系SF作家のジョン・シャーリーのコンセプト、および歌詞提供が話題となった。1999年、20年ぶり2度目の来日を果たします。

2001年、アルバム『Curse Of The Hidden Mirror』をリリース。

2013年、創設メンバーの一人 アラン・レイニア(Key/G)が他界。残されたエリック・ブルームとバック・ダーマの2人を中心にメンバーチェンジを繰り返しながら、主に全盛期の曲をメインとしたライブ活動を行います。

2019年、イタリアのフロンティアーズ・レコードと契約し、2020年にはオリジナルアルバムとしては19年ぶりとなる『The Symbol Remains』をリリース。32年ぶりにビルボード200チャートイン(192位)を果たします。

その他、1991年にリリースされたライブビデオからの音源で製作された『Live 1976』(1994)。2002年にリリースされたライブDVDからの音源で製作された『A Long Day’s Night』(2004)などのライブアルバムがリリースされています。

メタルバンドとして初めて認識された彼ら。これからも華々しい活躍をすることでしょう。



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