不明 のアバター

crc1825 について

音楽、エンタメの投稿をします。 興味のある方は,是非ともご覧下さい^_^

4つ目のカリスマ

引用

『レッド・ツェッペリン』『ディープ・パープル』『ブラック・サバス』と「ハード・ロック/ヘヴィ・メタル」バンド隆盛が極めていましたが、もう一つバンドがいました。『ユーライア・ヒープ』です。

1960年代中頃、ミック・ボックス(ギター)が結成していた「ストーカーズ」にデヴィッド・バイロン(ボーカル)が加入。

1967年、ストーカーズが解散し、ミック・ボックスとデヴィッド・バイロンの二人は「スパイス」を結成。途中ポール・ニュートン(ベース)、アレックス・ネピアー(ドラムス)を迎え、活動を行います。

1969年末、スパイスを改名して新たに『ユーライア・ヒープ』として発足し、後にケン・ヘンズリーが加入。諸事情により翌1970年初頭までスパイス名義で活動し、同3月から新生グループとして本格始動する。途中ドラマーをナイジェル・オルソンに変更するも、デビューアルバム『ユーライア・ヒープ・ファースト』(全米186位)リリース。短期間だけツアーに参加したナイジェル・オルソンに変わり、キース・ベイカーがドラムを務めます。

1971年、シンフォニックな2ndアルバム『ソルズベリーヒル』(全米103位)リリース。同年ドラマーをイアン・クラークに交替させ、ブロンズ・レコードから歴代の代表作となる3rdアルバム『対自核』(全英39位、全米93位)リリース。

1972年、ドラマーにリー・カースレイク、ベーシストにマーク・クラークを迎える。ツアーから参加したクラークはわずか3ヶ月在籍しただけで次作の制作レコーディング中に脱退。後任ベーシストにニュージーランド出身のゲイリー・セインを加入して、ロジャー・ディーンをアート・ワークに起用したアルバム『悪魔と魔法使い』(全英20位、全米23位)リリース。同アルバムからは「安息の日々」が日本でスマッシュ・ヒットした。続いて、同傾向のアルバム『魔の饗宴』(全英28位、全米31位)リリース。こちらもアート・ワークをロジャー・ディーンが担当。

そして、この辺りから、ツェッペリン、パープル、サバスと共に「4大ハード・ロックバンド」と呼ばれるようになります。

1973年、日本武道館を含む初来日公演を行う(5公演)。同年、アルバム『スイート・フリーダム』(全英18位、全米33位)リリース。

1974年、初期ヒープらしさを持った最後のアルバム『夢幻劇』(全英23位、全米38位)リリース。ゲイリー・セインはコンサート中に感電事故に遭い重傷を負います。グループに復帰はするものの薬物中毒から脱却することができずにグループはセインを解雇。

1974年、キング・クリムゾンのジョン・ウィットンが、レコーディングにベーシスト兼ボーカルとして加入し、1975年にアルバム『幻想への回帰』(全英7位、全米85位)リリース。同年、ゲイリー・セインがヘロインの過剰摂取でにより死亡(27歳没)。

1977年に、新ボーカリストにジョン・ロートン、新ベーシストにトレヴァー・ボルダーを迎え、『ファイアフライ』(全米166位)リリース。1978年、ハード・ポップ色を色濃くしたアルバム『罪なきいけにえ』発表、また、アルバム『堕ちた天使』を発表。1979年に「Five Miles」セッションでアルバム1枚分のマテリアルを残すものの、リー・カースレイクとジョン・ロートンが脱退し、幻のアルバムと化します。

その後、メンバーチェンジを繰り返しながら、1991年、スタジオ・アルバム『ディファレント・ワールド』発表。18年ぶりの来日公演を行います。1995年、のスタジオ・アルバム『シー・オブ・ライト』リリース。23年ぶりにロジャー・ディーンがアートワークを手がけ、音楽的にも初期の作風に回帰した作品と評されています。バーニー・ショウが喉の手術を行ったため、一部ツアーでは代役として、ジョン・ロートンが参加。

2018年、25thアルバム『桃源郷』(全英57位)リリース。

現在でも、現役で活動中です。



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アウトローカントリーの帝王

引用

『カントリー』といえば、『ジョン・デンバー』という感じでですが、アウトローなカントリーといえば、『ジョニー・キャッシュ』が有名です。

1954年、キャッシュとリベルトはテネシー州メンフィスに移り住み、ラジオのアナウンサーになる勉強をしながら電化製品の販売で生計を立てて、夜はルーサー・パーキンス(ギター)、マーシャル・グラント(ダブルベースのちエレキベース)と共に演奏していました。パーキンスとグラントはテネシー・トゥとして知られていました。キャッシュはレコード契約を得るために、徐々にサン・レコードを訪れる勇気が湧いてきていきます。同年末にメンフィスのローカル・レーベル「サン・レコード」の「メンフィス・レコーディング・サーヴィス」でレコード作りを依頼、「製作料は4ドル」と聞かされた金欠のジョニーは驚くが当時エルヴィス・プレスリー(1954年デビュー)のプロデュースに忙しかったサン社長でプロデューサーのサム・フィリップスのオーディションを受けます。

サム・フィリップによるオーディションで主にゴスペル曲を歌ったが、フィリップスはもうゴスペル曲は採用していないと語っています。この時フィリップスは「家に帰って犯罪でもしろ。それで曲を作って持ってきたら採用してやる」と語ったという噂があったが、2002年のインタビューでキャッシュはフィリップスはそのようなことは言っていないと否定しました。キャッシュは以前のロカビリーのスタイルで新曲を披露し、契約に漕ぎ着けた。因みにカントリー歌手になった後もキャッシュはゴスペルをしばしばライブなどで歌っている。サン・レコードは他にも後にジョニーの紹介で契約するロイ・オービソンやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスといった多くの初期のロックスターを輩出していきます。

1955年6月下旬、サン・レコードからシングル「ヘイ・ポーター」をリリースし「ジョニー・キャッシュとテネシー2」としてデビュー。全米カントリーチャート14位を記録するヒットになります。同年、シングル「フォーサム・プリズン・ブルース」をリリースカントリー・チャート4位の大ヒットとなりました。エルヴィス・プレスリーはインディーのサン・レコードから、メジャーのRCAレコードに移籍した。キャッシュは低音で「やあ、私はジョニー・キャッシュです。」という舞台上の挨拶も開始します。

1956年4月、シングル「アイ・ウォーク・ザ・ライン」をリリース。初の6週連続1位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名をほしいままにします。1960年、”フルーク”の愛称で親しまれるドラマーのW.S.ホランドがバンドに加入し、バンド名は「ジョニー・キャッシュとテネシー3」になった。ホランドはカントリー界で最初期のドラマーの1人です。キャッシュの熱い創作意欲によりヒット作を連発していた。1963年、「リング・オブ・ファイア」がカントリー・チャート7週連続1位に、ポップ・チャートでトップ20以内にランクインし、クロスオーバーでヒットしました。この曲はジューン・カーターとマール・キルゴアが作曲します。この曲は元々ジューンの姉妹が演奏していたのだが、キャッシュが自分が見た夢の通りにマリアッチ・スタイルの管楽器を加えました。ヴィヴィアン・リベルトは彼女の著書『I Walked the Line: My Life with Johnny 』で異論を唱え、経済的事情により作曲者名をキャッシュがカーターに変更したのだと語っています。

キャッシュは囚人に対して大きな慈悲を感じていました。1950年代終盤から刑務所でのコンサート活動を始めます。1958年、サン・クエンティン州立刑務所でのコンサートが最初でした。これらのコンサートによりライヴ・アルバム『アット・フォーサム・プリズン 』(1968年)、『アット・サン・クエンティン』(1969年)が大ヒットしました。『アット・フォーサム・プリズン』はカントリー・チャートに92週、ポップ・チャートに122週もランクしつづける大ヒットとなります。

コロムビアとの契約が終了した後、1987年から1991年、マーキュリー・レコードと短期間契約したが、ヒットしなかった。

1990年代、伝統的なカントリーのファン以外からも注目されるようになり、再び脚光を浴びるようになった。1991年、クリスチャン・パンクバンドのワン・バッド・ピンクのアルバム『I Scream Sunday』で『メン・イン・ブラック』を歌いました。1993年、アイルランド出身のロック・バンドU2アルバム『ズーロッパ』中の『ワンダラー』にゲスト参加。これ以上メジャーなレコード会社を探すことはせず、ラップやハード・ロックで有名な気鋭プロデューサー、リック・ルービンのアメリカン・レコーディングスからオファーを受け本格的にソロ活動を再開。ちなみにルービンは元はラップのプロデューサーで『RUN-D.M.C.』のプロデュースによりエアロスミス復活にも貢献した人物だが自身のレーベル「アメリカン」を創始後はトム・ペティーらと契約するのを革きりにドノヴァンらルーツ・ミュージックのアーティストの復活に貢献しました。リック・ルービンは、その後も2007年度グラミー賞でベスト・プロデューサー・オブ・イヤーを受賞しています。

1997年、神経変性疾患による多系統萎縮症と診断されます。この診断は後に糖尿病と関連する自律神経失調症と変更されます。これによりコンサート・ツアーは中止となった。1998年、重度の肺炎で入院。2000年、アルバム『アメリカンIII』、2002年、アルバム『アメリカンIV 』を発表します。病気の影響で、アメリカン・レコーディングスでの最初の2枚に比べて暗いイメージになっています。。『American IV 』から、キャッシュの過去の視点や後悔を表すナイン・インチ・ネイルズのカヴァー曲『ハーツ』を発表。この曲のプロモーションビデオは高評価を得ており、一般的に墓碑銘と考えられています。2003年に、MTV・ビデオ・ミュージック・アウォードの最優秀撮影賞を獲得。ナイン・インチ・ネイルズのフロントマンであるトレント・レズナーは、このPVについて「涙が出た。背中を押された気持ちになった」とコメントし、当時のスランプからの脱出の契機の1つになったとしています。

2003年5月15日、妻ジューン・カーター・キャッシュが73歳で死去。ジューンは生前、キャッシュに仕事を続けるよう語ったため、キャッシュはレコーディングを続けてその後の4か月間で60曲以上を完成させ、バージニア州ブリストル郊外にあるカーター・ファミリー・フォールドに2回サプライズ出演した。2003年7月5日、彼の最後のコンサートで『Ring of Fire 』の前に、舞台に上がる直前に書いた亡き妻への思いを読み上げます。

その後、ナッシュビルのバプティスト病院に入院中、妻が亡くなってから4か月に満たない2003年、糖尿病による合併症で亡くなりました。享年71歳。2006年7月4日、ルービンとの最後のコラボレート・アルバム『アメリカンV 』がキャッシュの没後に発表された、全米のアルバム・チャートで初登場第1位を獲得しました。2010年2月23日、キャッシュの78歳の誕生日の3日前、キャッシュ家、ルービン、ロスト・ハイウェイ・レコードはキャッシュ没後2枚目のアルバム『アメリカンVI 』を発表しました。

アウトロー・カントリーの帝王。世界的な人気は今尚も続いています。



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日本のフォークの神様

引用

アメリカで確立され、世界的なブームとなった『フォーク・ミュージック』。ボブ・ディラン・ジョーン・バエズなどを排出しました。日本にも、その波を受けたひとりのアーティストがいました。それが『岡林信康』です。

1946年に滋賀県近江八幡市に誕生します。父親は新潟県出身で30歳まで新潟で農業をしていました。しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し、滋賀県の紡績工場に就職します。その時期に宣教師のウィリアム・メレル・ヴォーリズ出会い、牧師となるため大阪の神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を建てました。

その後、社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始めます。1968年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」(65位)でビクターよりレコードデビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」(81位)、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となります。当時、岡林とともに高石友也、高田渡、加川良、五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなります。中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様と言われたが、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発しました。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」でした。

1970年、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話しました。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始めます。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一妻制を唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰まります。

1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボー」を最後に、再び表舞台から姿を消します。

1973年にソニーへ移籍し、活動を再開。松本隆をプロデューサーに迎え制作されたロック路線のアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。いかに今まで無理してきたかを普通の表現法では無理だったため、ディラン風の暗喩を多用した「あの娘と遠くまで」、「26番目の秋」などの曲などを発表するが、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かっだそうです。

1975年には、岡林本人もコロンビアに移籍し、演歌路線のアルバム『うつし絵』(25位)をコロムビアより発表。美空ひばりの後押しも受け、12月に中野サンプラザで久しぶりのワンマンコンサートも行いました。コロムビアでは他に、新録の2枚組ベスト・アルバム『岡林信康』、私小説的弾き語りの『ラブソングス』を発表。また、この頃、サザンオールスターズがブレイクする前のアミューズに所属していました。

古巣のビクターに再び移籍し、さらに『街はステキなカーニバル』(39位)、『ストーム』、『グラフィティ』を発表し路線を深めていきます。ミッドナイト・トレイン」、「Good-bye My Darling」、「山辺に向いて」などがこの時代の代表曲です。

2009年の九段会館のコンサートで「越後獅子の唄」をカバーしたことをきっかけに、翌2010年、EMIから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行いました。

2011年、「岡林信康コンサートツア-2011」を行い、東名阪のZEEPでライブを行います。2012年、14年ぶりに作詞作曲をした自主制作シングル「さよならひとつ」を発表します。2016年にはフリー・ジャズの山下洋輔とも共演しました。

2021年、「風詩」以来23年ぶりのオリジナル・アルバム『復活の朝』を発売しました。

現在、75歳。盛んに活動中です。



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ヘヴィ・メタルの開祖

引用

1980年代に隆盛を極めた『ヘヴィ・メタル』。このジャンルには、開祖がいます。『ブラック・サバス』です。

1968年に、イギリス・バーミンガムで結成。ボーカルのオジー・オズボーンが、新聞に新バンド結成のためのメンバー募集の公告を出したことが契機でした。

バンド名は当初「Earth」と名乗っていましたが、ベースのギーザ・バトラーが、1964年に公開されたホラー映画『BLACK SABBATH』(邦題『ブラック・サバス/恐怖!三つの顔』)から取って改名します。デビュー・アルバム『黒い安息日』(全英8位、全米23位)は、1970年の「13日の金曜日」という曰くつきの日に発売されます。

同年リリースの2ndアルバム『パラノイド』(全英1位、全米12位)からシングルカットしたタイトルナンバー「Paranoid」がスマッシュヒット。その後、1975年発表の6thアルバム『サボタージュ』(全英7位、全米28位)まで、全英・全米ともにアルバムチャート上位にランクイン。特に5thアルバム『血まみれの安息日』(全英4位、全米11位)まで、全英・全米ともにアルバムチャート上位にランクイン。までの作品が、いずれも全米で100万枚以上の売り上げを記録します。

1976年、この時期から新たな音楽の波「パンク/ニュー・ウェイヴ」のムーブメントが到来し、既存のロック・ミュージックは徐々に終息していきます、らそれは当バンドも例外ではなく方向性の相違もあり、メンバー間にも不協和音が漂い始める。特にオジーが重度のアルコール問題を抱えていました。1977年に、遂にオジーを解雇。後任にデイヴ・ウォーカーを起用したが上手くいかず、翌年に呼び戻されて復帰。しかし制作した8thアルバム『ネヴァー・セイ・ダイ』(全英12位、全米69位)が酷評されて芳しくありませんでした。そして結局アルコール問題が改善されなかったオジーは、再度解雇されます。

1979年、オジーの後任として「レインボー」を脱退したばかりのロニー・ジェイムス・ディオが加入。そのレインボーのサウンドと融合し、新たな様式美スタイルを展開した9thアルバム『ヘブン&ヘル』(全英9位、全米28位)を翌年に発表。業界からも高い評価を受けます。

1980年、オリジナル・ドラマーのビル・ワードが脱退。その後、ワードは、短期の復帰を繰り返している。アルバム『悪魔の掟』(全英12位、全米29位)を発表するも、中途半端にオジー時代の音楽性に回帰した作品で、前作で顕著だったロニーのボーカルの持ち味が活かされておらず、不評でした。

1982年、ロニーがリーダーバンド「ディオ」結成に向けて脱退。後任に元「ディープ・パープル」のイアン・ギランが加入するが、こちらもディープ・パープル再結成参加のため、1984年脱退。ロン・キールが一時加入するがすぐ解雇。その後、オーディションでデヴィッド・ドナートが加入しますが、ドナートもすぐに解雇され、ボーカリスト不在のまま活動は停滞しきます。

1985年、、この年に世界規模の大型チャリティー・コンサート『ライブ・エイド』が開催。バンドはオリジナル・メンバーによる、一度きりのラインナップ復活として参加します。

オリジナル・メンバー、ギーザー・バトラーが脱退。トニー・アイオミは、これを機にバンドを活動停止し、ソロ・アルバムの制作に着手する。翌年にレーベルからの強い要請により、完成したアルバム『セブン・スター』(全英27位、全米78位)をブラック・サバス名義でリリース。ゲストに招いていたグレン・ヒューズ等が、そのままツアーのバンド・メンバーとなった。グレンはそのままバンドとしてのブラック・サバスの正式メンバーになり活動する予定だったが、アルコール、ドラッグによる体調不安や負傷でツアー直前に解雇される。その後、サポートにレイ・ギランが加入。しかしアルバム『エターナル・アイドル』のレコーディング途中で解雇されてしまいます。

1997年、正式にオリジナル・メンバーでの再結成を果たす。以降、当ラインナップ以外でブラック・サバスとは名乗らないと宣言。1998年にはライブ・アルバム『リユニオン』(全英41位、全米11位)をリリースし、数年間にわたってツアー活動を行うが、新しいスタジオ・アルバムは制作しませんでした。2000年、楽曲「Iron Man」にグラミー賞受賞。2006年『ロックの殿堂』入り。この年でリユニオン体制の活動が停止。

2007年、トニー・アイオミが、10thアルバム『悪魔の掟』時代のメンバー編成でツアーを行うと発表。ブラック・サバスとして事実上の変名『ヘヴン・アンド・ヘル』でツアーを行うと発表。名義で活動しますが、2010年、ロニーが他界し、ヘヴン・アンド・ヘルの活動が停止。

2013年、18年ぶりのスタジオ・アルバム『13』をリリース。デビューから43年目にして、初めて全米チャート1位(全英1位)を獲得。各国でも軒並み1位ないし上位にランクインします。2014年、楽曲「God Is Dead?」で『グラミー賞』受賞。2016年、バンドの最後となるワールドツアー「THE END」を開始。2017年、バンド発祥の地・バーミンガムで最後を飾るラスト・ライブを開催。約50年に渡る活動の幕を閉じる。後日、トニー・アイオミは、将来復活する可能性に含みを残しました。

オジーは、『メタルのゴッドファーザー』として崇拝され、現在でも影響を与えています。



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