イギリスのピアノマン

前回は、『アメリカのピアノマン』ことビリー・ジョエルを紹介しましたが、イギリスにも『ピアノマン』存在意義します。

彼の名は、エルトン・ジョン。出生名は、レジナルド・ケネス・ドワイト。

RAFの飛行機隊長だった父スタンリー・ドワイトと母シェイラとの間に生まれます。彼は、母親や他の親戚の女性に育てられ、父親との時間はごく僅かでした。父と母は、彼が15歳の時に離婚。母は、その後再婚します。

4歳の頃から、彼はピアノを習い始めます。彼は神童であり、耳で聴いた曲はなんでも弾ける才能を持っており、彼の教師によるとヘンデルの曲を完璧に演奏した言われています。

11歳の時に、王立音楽院に合格。職業としての音楽に専念するために、卒業前に学校からを離れるまで6年間在学しました。初期の影響を与えた人物は、ジム・リーブスなどです。ピアニストとしては,ヨハン・セバスティアン・バッハ、フレデリック・ショパンでした。

1960年に、彼は友人とコルヴァッツというバンドを結成。このバンドから,さらに『プルーソロジー』に発展します。彼は、日中は音楽出版社への売り込みに走り,夜はロンドンのホテルで単独ギクを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかでした。

60年代半ばまでは、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイおよびパティ・ラベル&ブルーベンズのようなアメリカのソウルやR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行いました。

1966年には、バンドからはロング・ジョン・ボルドリーのサポートミュージシャンとなり、イギリスのキャバレーを回るツアーを行いっています。

彼は、リバティ・レコードのA&Rマネージャーであるレイ・ウィリアムズがニュー・ミュージカル・エキスプレス誌に載せた募集広告に応募します。この頃から名をエルトン・ジョンと改名します。

1967年に、彼とパートナーであるバニー・トーピンとの最初の共作「スケアクロウ」が書かれました。ジョンとトーピンのチームは、1968年にディック・ジェイムズDJMレコードとソングライターとして契約。その2年以上、ロジャー・クック、ルルのような様々なアーティストに曲を提供します。

同年に、「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」でメジャーデビュー。1969年デビューアルバム『エンプティ・スカイ』(全米6位)と「レディ・サマンサ」をリリース。

1970年には、プロデュースにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックスターを迎えた2ndアルバム『僕の歌は君の歌』(全英4位、全米11位)をリリース。全米では、先行シングルとなった同タイトル曲が全英7位、全米8位を記録する大ヒットとなりました。

同年には、『エルトン・ジョン3』をリリースし、全英6位、全米5位と大ヒット。ヒット曲こそ出ませんでしたが、着実に人気を獲得していきます。

1972年からは、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンを迎えて、彼の全盛期を支えるバンドが完成します。同年『ホンキー・シャトー』をリリース。彼にとって初の全米1位(全英2位)を獲得。ここから、シングルとなった同タイトル曲(全英31位、全米8位)、「ロケット・マン」(全英2位、全米6位)となる大ヒットとなりました。

1973年には、『ピアニストを撃つな!』(英米1位)をリリース。年間チャート1位を獲得。ここからも、シングル「クロコダイル・ロック」(全英5位、全米1位)、「ダニエル」(全英4位、全米2位)のこれも大ヒットとなります。

そして同年、初の2枚組アルバム『黄昏のレンガ道』(英米1位)をリリース。同タイトル(全英6位、全米2位)、「土曜の夜は僕の生きがい」(全英7位、全米12位)、「ベニーとジェッツ(やつらの演奏は最高』」(全米1位)、「風の中の火のように(孤独な歌手、ノーマ、ジ・ン)」(全英11位)とヒット曲を量産。特に、「風の中の〜」は、リメイクやライブシングルがヒットし、アルバムも最高傑作となり、全世界で2000万枚を超えるモンスターアルバムとなります。74年には、『グレイテスト・ヒッツ』(英米1位)を記録し、全世界で、3400万枚のビックセールスとなりました。

また、75年の『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートで、史上初となる初登場1位を記録します。シングルも「僕を救ったプリマドンナ」(全英22位、全米4位)とヒット。またアルバム『カリブ』(英米1位)もリリース。シングル「僕の瞳に小さな太陽」(全英16位,全米2位)、「あばずれさんのお帰り」(全英15位、全米4位)とこちらも大ヒットとなりました。

同75年には、『ロック・オブ・ザ・ウェステーズ』(全英5位、全米1位)をリリース。ここからも、シングル「アイランド・ガール」(全14位、全米1位)、「今夜は怖いぜ!(国共の町酒場)」(全米14位)がヒット。シングル単体としては、「フィラデルフィア・フリーダム」(全英12位、全米1位)をリリース。

他のアーティストとのコラボレーションも盛んに行い、ニール・セダカ共演の「バッド・ブラッド」(全米1位)、ジョン・レノンとの共演による「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」(全英10位、全米1位)をそれぞれ記録。

74年には、ザ・フーの『ロックオペラ“トミー”』を映画化。ピンボールのチャンピオン役を演じ、大ヒット。76年には、キキ・ディディとのデュエット曲「恋のデュエット」が初の全英1位(全米1位)を獲得。全盛期を迎えます。

しかし、『ロック・オブ・ザ・ウェステーズ』は成功したものの、評論家からは酷評され、そのプレッシャーから心に迷いが生じたのか、76年の『蒼い肖像』(英米3位)リリース後、一度引退を宣言(シングル「悲しみのバラード」(英米3位)もヒット)。

約2年の活動休止期間を経て,78年には『シングル・マン』をリリース。(英米8位)シングル「パート・タイム・ラブ」(全英15位、全米21位)」、「ソング・フォー・ガイ」(全英4位)とヒット。

しかし、79年の『恋に捧げて〜ヴィクテム・オブ・ラブ』(全英41位、全米20位)は当時流行していたディスコサウンドを取り入れますが、セールス的には成功しませんでした。

1980ねんにはいると、トーピンとの狭窄が復活。『21at33』(全英12位、全米21位)は、シングル「リトル・ジニー」(全英33位、全米3位)がヒットします

83年には、『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』(全英7位、全米25位)、84年『ブレイキング・パーツ』(全英2位、全米20位)、『アイス・オン・ファイアー』(全英3位、全米48位)とヒットアルバムを連発。『トゥー・ロウ〜』からは、「ブルースはお好き?」が全英5位、全米4位の大ヒットを記録します。

しかし,長期公演が影響して喉を悪化させてしまい、整体手術を受け、これによりヴォーカルスタイル歌声が変化します。89年には、『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』(全英1位、全米24位)をリリース。シングル「サクリファイズ/ヒーリング・ハンズ」(全英1位、全米18位)がヒットするも、70年代の全盛期と比べられ事が原因となり、過食症とアルコール依存症に陥り、活動を一時中止します。

1990年治療のため入院。更生施設への入居を経てがバック後、ジョージ・マイケルとのライブシングル「僕の瞳に小さな太陽」が英米1位を獲得。92年にアルバム『ザ・ワン』(全英2位、全米8位)をリリース。エリック・クラプトンとの共演曲「ランナウェイ・トレイン」(全英31位)、「ザ・ワン」(全英10位、全米9位)と話題を呼びます。

94年には、ディズニー映画『ライオン・キング』のサウンドトラックを担当。シングル「愛を感じて」(全英14位、全米4位)、「サークル・オブ・ライフ」(全英11位、全米18位)と大ヒットを記録。アカデミー賞、グラミー賞を受賞。

95年には、『メイド・イン・イングランド』(全英1位、全米13位)をリリース。シングルとしても、同タイトル曲(全英18位、全米52位)、「ビリーブ」(全英15位、全米13位)がヒットします。

1997年には,ダイアナ元皇太子妃の追悼歌「キャンドル・イン・ザ・ウィンドウ’97」(英米1位)をリリース。これが全世界で爆発的な大ヒットを記録。これは、『黄昏のレンガ道』の収録曲「風の中の火のように」を、歌詞を変えてリメイクし、3700万枚の世界記録となり、カップリング曲「ユー・ルック・トゥナイト」が収録されていたアルバム『ザ・ビッグ・ピクチャー』(全英3位、全米8位)も相乗効果デビットを記録します。

その後も、色々なアーティストとコラボレーションをしたり、2010年には、レオン・ラッセルとの共作『ザ・ユニオン』(全英12位、全米3位)をリリース。2016年には、『ワンダフル・クレイジー・ナイト』(全英6位、全米8位)をリリースしています。

2019年には,自伝映画『ロケット・マン』のエンディング曲で、エルトン役のタロン・エガートンとの共演曲「(アイム・ゴナ)ラブ・ミー・アゲイン」をリリース。アカデミー賞を受賞するなど、現在でも現役で、活躍中です。



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