1960年代、世界中を席巻したバンド『ザ・ビートルズ』。
ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、そして今回の主人公が『ジョン・レノン』です。
出生名は、ジョン・ウィンストン・レノン。ビートルズの立ち上げ時のメンバー兼リーダーであり、ポールとは、『レノン=マッカートニー』としてもソングライティングチームを組み、多くの楽曲を作曲しました。
ビートルズ時代には、「抱きしめたい」(英米1位)、「シー・ラブズ・ユー」(英米1位)、フロム・ミー・トゥ・ユー」(全英1位、全米70位)、リード・ボーカルを取る「プリーズ・プリーズ・ミー」(全英2位、全米3位)、「ハード・デイズ・ナイト」(英米1位)、「エイト・デイズ・ウィーク」(全米1位)、「ヘルプ」(英米1位)、「涙の乗車券!」(英米1位)、「アイ・フィール・ファイン」(英米1位)、「イン・マイ・ライフ」、「ノルウェーの森」、「ひとりぼっちのあいつ」(全米3位)、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、「愛こそはすべて」(英米1位)、「ストロベリー・フィールズ、スゴイ・フォーエバー」(全米8位)、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」(全米56位)、「レボリューション」(全米12位)、「カム・トゥゲザー」(英米1位)、「ジョンとヨーコのバラード」(英米1位)、「ドント・レット・ミー・ダウン」(全米35位)、「アクロス・ザ・ユニバース」などがあります。
1940年、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで,アイルランド系のアルフレッド・レノンとイングランド人のジュリア・スタンリーの間に誕生します。
ジョンは1952年、グラマー・スクールのクオリー・バンク校入学。ジョンの少年時代のイギリスでは、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットし、スキッフル・ブームが起きました。さらにジョンは1956年、エルビス・プレスリーの「ハードブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け,初めてのギターとなるギャルドローン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入します。57年初めての作詞・作曲「ハロー・リトル・ガール」でした。
同年、クオリーバンク校で級友たちとスキッフル・グループ「クオリーメン」を結成。その後、バンドのライブを見にきていた、ポール・マッカートニーを紹介されます。そして、58年にポールの紹介でジョージ・ハリスンが加入します。
この頃から、リバプーだけではなく、西ドイツのハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めます。1960年、スチュワート・サトクリフがベースとして加入。バンド名をクオリーメンから、「ジョニー&ザ・ムーン・ドックス」や「ザ・シルバー・ビートルズ」と名乗るようになり、この時、ピート・ベストがドラムスとして加入。
61年、スチュアートが脱退、画家を目指します。ジョンは、ポールを説得してベーシストへ転向。この頃から、ドイツで活動していたトニー・シェリダンのバックバンドとして「マイ・ボニー」などの曲をレコーディングします。
同年に、ジョンたちは,「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結びます。1962年、『ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ』のドラムスであるリンゴ・スターを加入させ、ピート・ベストを解雇します。
その後は、ご存知の通りのヒットを連発させ、1970年の解散まで活動を続け解散します。この時、ジョンはオノ・ヨーコと出会っており、後に結婚します。
1968年、ビートルズ時代から『プラスチック・オノ・バンド』を結成し、ソロ活動を開始します(バンド名は、76年まで残ります)。
69年に、「平和を我等に」(全英2位、全米14位)、「コールド・ターキー」(全英14位、全米30位)をリリース。
70年には、ビートルズ在籍中のジョージ・ハリスンを招き、「インスタント・カーマ」(全英5位、全米3位)をリリース。その後、ビリー・プレストンを招き、正式なソロ・デビュー・アルバム『ジョンの魂』(全英8位、全米6位)をリリースし、シングル「マザー」(全米43位)がひっとします。
1971年、あるバム『イマジン』(英米1位)をリリース。シングルとなった同タイトル曲が全英6位、全米3位の大ヒットとなり、平和の象徴として現在も人気のある曲となります。同年には、2作目となる『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(全英11位、全米48位」をリリース。
1974年、セルフ・プロデュースによるアルバム『心の壁、愛の橋』(全英6位、全米1位)をリリース。シングル「真夜中を突っ走れ」がエルトン・ジョンとのコラボで、全英36位、全米1位、「夢の夢」(全英23位、全米9位)が大ヒット。ライブでも共演し、話題を呼びます。
同時期、ビートルズ時代の曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」をエルトンとコラボし、全米1位を獲得します。
1975年には、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』(全英10位、全米6位)をリリース。シングルとなったカバー曲「スタンド・バイ・ミー」(全英30位、全米20位)がヒットします。
この頃から、デビット・ボウイと知り合い、アルバム『ヤング・アメリカンズ』でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」で共演。また、シングルとして「フェイム!」(全英17位、全米1位)と大ヒットします。
その後、息子ショーン・レノン誕生日。子育ての為に、活動を5年間休止します。この頃に、デモテープなどを作成しています。
1980年、ジョンはヨーコとの共作名義で『ダブル・ファンタジー』(英米1位)をリリース。しかし、リリース直後自宅であるニューヨークのダコタハウス前で、熱狂的なファンにより射殺されて、40歳の若さで亡くなります。その後、シングル「スターティング・オーバー」(英米1位)、「ウーマン」(英米1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(全米9位)と大ヒット。アルバムも500万枚を売り上げ、グラミー賞を受賞します。
84年には、『ダブル・ファンタジー』と同じ時期にレコーディングされた未発表曲を収録した『ミルク・アンド・ハニー』(全英3位、全米11位)をリリース。
今でも、ジョンの“ラブ・アンド・ピース”の精神は生き続けています。

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