GSブームのパイオニア

日本には、1960年代『ザ・ベンチャーズ』来日によりエレキブームが訪れ、それにより”グループ・サウンズ”ブーム(GSブーム)が一世を風靡します。その中でも、『ザ・スパイダース』は、ハシリのバンドです。

1961年に、スウィング・ウェストのドラムスであった田辺昭知によって結成。翌62年にかまやつひろしにらメンバー加入とメンバー探しを依頼します。

同年、井上孝之が神戸から上京、すぐに訪れた池袋のジャズ喫茶「ドラム」にてその日出演していたザ・スパイダースの演奏に感動、すぐに加入を志願し認められます。

この次に田辺が目をつけたのが、ホリプロから新人デビューしていた堺正章でした。しかしその父堺駿二の存在があった為、当初加入を持ちかけでも良い返事は貰えず、ついに田辺は堺の家に通い詰めることで加入を実現させます。

この頃にもう1人のターゲットとなったのが孝之の知り合いであり、京都で名を馳せていた大野克夫で、田辺はすぐ関西に飛びこれまで同様の情熱的な姿勢で加入を求めました。ベースの欠員が出た為、1963年に大野の前バンド時代の先輩で、音楽活動を引退し寿司職人修行を始めていた、加藤充が,田辺のスカウトで加入します。まもなく、ゲストシンガーだったかまやつひろしも正式メンバーとなりました。

1964年、スパイダースに憧れた井上順が参加。脱退した伊藤源雄の代わりに、隆之がリズム・ギターに転向する事で、後に「グループ・サウンズ(GS)」と呼ばれ、人気を博すようになるメンバー7人が揃いました。

1965年、かまや作詞・作曲の「フリフリ」でクラウンからシングルデビュー。当時としては、斬新な音楽性に加え、ミリタリ・ルックをいち早く取り入れるセンスの良さ、コミカルタッチな演出をも得意とする実力派バンドとして評価されます。

1966年、「ノー・ノー・ボーイ」、「ヘイ・ボーイ」、「サマー・ガール」とブリティッシュ・ビートの影響を大きく受けた、かまやつ作品によるシングルがリリースされましたが、芳しいセールスには繋がりませんでした。しかし、浜口庫之助作品『夕陽が泣いている』が公称120万枚を超える大ヒットとなり、一躍スターダムにのし上がります。

1967年、「太陽の翼」、再び浜口庫之助作品である「風が泣いている」(公称70万枚』と順調なセールスを続け、さらに、「あの時君は若かった」(6位)、「いつまでもいつまでも」(4位)、「ガラスの聖女」(50位)とヒットを連発。映画『夕陽が泣いている』、初主演映画『ザ・スパイダースのゴー・ゴー向こう見ず作戦』が公開されるなど順風満帆と思えましたが、ライバルの『ジャッキー吉川とブルーコメッツ』の「ブルー・シャトー」で150万枚の大ヒットを記録。さらに、『ザ・タイガース』『ザ・ガーナビーツ』『ザ・テンプターズ』『ザ・ジャガーズ』などの10代後半〜20代前半の若手グループが次々と台頭してきたことで『グループ・サウンズ(GS)』ブームが巻き起こり、ザ・スパイダース、ブルーコメッツといった、当時としては年齢層の高いグループが徐々に窮地に立たされていく展開を迎えていきます。

その後、それぞれのその活動を始動し、1970年に解散。

堺正章は、71年に「さらば恋人よ」(2位)、73年「街の灯り」(20位)とヒットを連発。

井上順も、71年に「お世話になりました」がヒット。

井上陽水孝之は、名を『井上尭之』と改めて、1979年に、「ドリーマー」、「終わりのない旅」。バンドとしては井上堯之バンドで、「太陽にほえろ」(24位)、「傷だらけの天使」(24位)とヒットを連発しました。

かまやつひろしは、70年に「どうにかなるさ」(50位)、「シンシア(よしだたくろうと共演)」(21位)、「我が良き友よ」(1位)とヒットさせます。

その後も、個々にタレント活動を展開。現在でも活躍しています。



にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村</p</p</p

コメントを残す